絵手紙クラブ


絵手紙を書いてみたい!と思ったことはありませんか?

身近なものを題材に絵手紙が書けたら素敵ですよね。絵手紙クラブに参加して作ってみませんか。絵心がなくても大丈夫!

子供さんから大人まで、だれでも簡単に書ける絵手紙の基本的な作り方についてご紹介します。

現在は子供向けの「絵の教室」を開いています。

 👉下記「お知らせ」から

  絵手紙教室について・イベント・写生会・申し込みなど知ることができます。

作品紹介




















ゼカリヤは燭台と2本のオリーブの木の幻を見た。その意味は何ですかという質問に対する、神の答え。

すなわち、来るべきメシア(救世主)的な指導者は、武力や権力ではなく平和の霊をもって治めるお方です、の意味です。

 


山つつじの花さじき  2023.5.1葛城山にて
山つつじの花さじき  2023.5.1葛城山にて

大池遊園の満開の桜   2023.3.28


札幌北海道大学の農園での風景











2022.8.17

もし鉄が鈍くなったとき、

その刃をとがないと、もっと力がいる。

しかし、

知恵は人を成功させるのに益になる。

伝道者の書10・10

 

私は農家の出身ですから、このことばの意味はよくわかります。

稲刈りするとき、カマを研ぐのは稲刈りの邪魔になるのではなく

、それは必要なことです。

切れ味の悪くなったカマでは、かえって能率が上がらず、疲れます。

 

多忙な生活をしている私たちが、聖書を読んだり、教会へ行ったり、

礼拝に出席することは 勉強や商売の邪魔になるように考える方が

あるかもしれません。

が、一度実行してみてください。聖書を読んだり、祈りをしたり、また

先人の経験を聞くことにより、勉強や仕事への集中力を上げ、能率を

上げると自分で経験することになるでしょう。 

 

 


2022.8.11 私の召命のみことば

あなた方の上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。

  そして、エルサレムばかりでなくユダヤとサマリヤの全土で、

  また、地の果に至るまで私の証人となる。

  (使徒1・8)

 

高度成長期に企業戦士の私が、あの塩屋聖会で生まれて初めて出会った聖書のみことばの感動のゆえに私は洗礼を受けました。

洗礼を受けるのを待っていたかのように、その2ヶ月後に49歳の私は子会社に役員として出向しました。私は、日々起こる問題課題に相談相手もなく苦しみました。

苦しんだ末に私はクリスチャン故に、主に祈ることができることに気付き、主にその正しい解決を祈り求めました。その都度主は祈りにこたえ正しい解決をして下さいました。この子会社での貴い9年の経験から、62歳で定年退職した私が、第二の人生の選択を求めて祈っている時に与えられたのが上記の召命のみことばでした。そして、私は神学校の受験→卒業して、牧師としての歩みをしています。

まさに私たちに聖霊が望まれると、私たちには可能とは思えないことが成るのです→できてしまうのです。実に、人知では考えられないことができてしまうのです。聖霊により頼む信仰生活こそ、私たち「人生の幸い」→「主にある平安」のもといであることを証しします。

 

 

 


2022.6.7

 

イザヤ40・6~8

6すべての人は草。

  その栄光は、

みな野の草のようだ。

 

7 主のいぶきがその上に吹くと、

 草は枯れ、花はしぼむ。

 まことに、民は草だ。

 

8 草は枯れ、花はしぼむ。

 だが、私たちの神のことばは

永遠に立つ。

 

聖書の中で、人間が草のはかなさ、弱さにたとえられている箇所は多く見られます。

“いぶき”は「息」であると共に、「風」の意味もあります。砂漠の熱風が東から吹いてくると草は

たちまちに枯れてしまいます。

草のようにはかない人間の生命に対比されるのは、神ご自身ではなく、神のことばであります。

  神はご自身を隠しておられ、だれも近づくことはできません。

  しかし、  みことばでご自身を啓示しておられますので、人は神のことばにすべてをかけることができます。

 


2022.5.9

 

詩編103・15~17

15 人の日は、草のよう。野の花のように咲く。

16 風がそこを過ぎると、それは、もはやない。

  その場所すら、それを、 知らない。

17 しかし、主の恵みは、とこしえから、とこしえまで、

  主を恐れる者の上にある。

 

あれ、あの人はもういないのか、とその訃報の都度人は悲しみます.

人とは 野の草のように、そして野の花のようなものなのであろうか?

   →風がそこを過ぎると、それはもうしぼんでしまい、なくなってしまう たとえ

   どんなに有名な人でも必ず忘れられて行きます

   →人の一生は唯々そんなにはかないものなのでしょうか?

 

   しかし、主を信じ主のことばを生きる者には、主の恵みは、とこしえまでも

 生き 続けると、聖書はそう語ります:

  その私たちの一生をはかないもので終わらせないために、私たちの身代

  わ りとして十字架上でいのちを捨てて下さり、私たちを救い、永遠に生か

  してくださるお方がおられます。そして、その主なるお方を信じ 主のことば

    桜の木の小枝に咲く花                    を生き者には、 主は永遠のいのちに生きる約束をしてくださっています。

                                

 そのようにそのように私たちを造り、愛し、導いてくださる主なるお方は私たちを 永遠に忘れることはありません。

 むしろ、私たちを知り、見守り、必要の一切をもって養うと約束してくださ います。この主の約束いじょうに大きな恵                   

 みがあるでしょうか 

 


 

2022.4.8

 

主がみ顔をあなたに向け、

あなたに平安を与えられますように。

民数記6・26

 

私たちの人生には苦難がつきものです。

色々な問題や課題にそうぐうしますが、

未経験の判断にはいつも不安がともない苦しみます。

しかし、その正しい解決の道を主にたずね求め祈るとき、

主はその祈りにこたえ祝福し私たちを守って下さいます。

そしてふさわしい時に、ふさわしい解決の道を開いて

くださいます。

 

 

この主の祝福にあづかり、主の助けを信じ歩むとき、

信じる者たちには平安のうちに過ごすことができます。

 

 


2022.3.23

三つよりの糸

 

ひとりよりもふたりが良い。

共に労苦すれば、その報いは良い。

倒れれば、

ひとりがその友を助け起こす。

倒れても

起こしてくれる友のない人は不幸だ。

……

ひとりが攻められれば、

ふたりでこれに対する。

三つよりの糸は切れにくい。

 

 

このみことばは、単に人が力を合わせれば一人より強く、敗北からも立ち上がることができると言っているだけではありません。

とくに「三つよりの糸」に注目してください。もし二人を夫婦に例えれば、それに全知全能の愛なる神を入れて、三つよりにし

より合わせればどんな苦難に直面しても決して切れずに、倒されることがないということです。

 

私はこの“みことば絵手紙”を結婚するお二人に記念として差し上げています。例えば、

二人の間にも時として口論したり、けんかになってしまうこともあることでしょう→そんな時:

夫が「夫たちよ。妻を愛しなさい。つらくあたってはいけません。」を

又は、

妻が「妻たちよ。主にある者にふさわしく、夫に従いなさい。」を

信仰者ゆえにみことば(コロサイ318,19)を思い出し、謝ることができるなら、必ずこちらこそと言ってお互いに謝りに導かれ、和解することができますね。

 

 


2022..10

 

主があなたを祝福し、

  あなたを守られますように。

主が御顔をあなたに照らし、

  あなたを恵まれますように。

主が御顔をあなたに向け、

  あなたに平安を与えられますように。

民数記6・24~26

 

祝福は 神が人に与えてくださるものです。

主なる神を信じ従う者には、神は聖霊をおくって下さいます。

この祝福は聖霊のお働きによるもので、

・すべてのことからあなたを守って下さいます

・あなたを恵んでくださいます

・それゆえ、あなたは主にある平安の中で安らぐことができます

 

 

  

 


2022.2.17

 

 いつまでも残るものは

 信仰と希望と愛です。

 その中で一番すぐれているのは愛です。

 Ⅰコリント13・13

 

私たちはいまコロナ感染による死の恐怖の中に生きてます。

しかし、あのエルサレム入場の時の主イエスの思い→それは

自分は百パーセント死ぬところに向かって預言の通りに子ロ

バにまたがり進みゆくのです

→すべての人のすべての罪の身代わりとなって十字架刑死ぬ

ところへ向かって進みゆかれるのです→これ以上愛はありま

せん。

その愛に突き進まれる主イエスを信じる信仰のゆえに、信じる

者に与えてくださる永遠のいのちの希望が与えられて、私たち

は終末の時を恐れることなく平安のうちに生き続けることがで

きる幸いを 感謝せずにはいられません…

 →その中で一番すぐれているのは愛です

 

 

 

 

 


2022.2.3

見よ。やみが地をおおい、

暗やみが諸国の民をおおっている。

しかし、

あなたの上には光が輝き、

その栄光があなたの上にあらわれる。

     イザヤ60・2

 

主の栄光は、世界をおおうすべての闇の中に輝き渡ります

やみは和歌山の地にも、

 いや日本全国~地の果に至るまで広がりおおっています

このコロナは、私たち人間のあくなき欲望の果の結果であり、

またあくなき動物地域に侵入しその動物たちからの感染の

結果によるものであろう気づ きはじめています

しかし、私たち人間がそのことに気付き、これまでの生き方を反省し

方向転換するならば、

この地を照らす光は、そのやみを打ち砕き、この世界に祝福をもたらしてくだ

さると 語られているように思わされます

 

    暗やみの中 龍門山からの希望の光

 


2022.1.21

あなたのみことばは

私の足のともしび

私の道の光です

(詩編119・105)

 

私の企業生活は 責任ある立場が与えられていたゆえに 問題や課題に

毎日のように出会い遭遇しました。  

幸い49歳で洗礼を受けていたことを思い出し その問題課題の解決に

向けみことばをむさぼり読み 主に助けを求めて祈りました。

私の愛の無さや 欠けをみことばにより 教え助けられ また祈りにより

主の助けにより その一つ一つの問題を正しく解決することができました。

主は最善の方法で私の人生をただしくみちびいてくださことを思い返す

とき 感謝に溢れます。  

 

 


2021.12.12

 

13 すると、たちまち、

その御使いといっしょに、

多くの天の軍勢が現れて、

神を賛美していった。

 

14 いと高き所に、

栄光が、神にあるように。

地の上に、平和が、

御心にかなう人々にあるように。

 

(ルカ2章13~14節)

 

 

 

 

 

 この場面は、御使いたちが「きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主キリストがお生まれになりました」

(ルカ2:11)と宣言した後の場面です。御使いは、神のみ心を次のように伝えています;

「いと高き所に、栄光が、神にあるように。」

→いつも仕えている自分たちの神の栄光をそのように褒めたたえ…

御心にかなう人々に平和があるように」…→神が好意をもって、善意をもって丁寧に対応する人々のことですから…すべて

の人々のことです→すべての人々に平和があるようにと歌っています

 

クリスマス“キリストご降誕をお祝いする祭り”です。キリストが生まれてくださって、キリストご自身が、十字架上で私たちの全ての人のすべての罪の身代わりとなって 私たちに救いの道を開いてくださいました。すなわち私たちの熱病のような罪を打ち破って、地には平和を→すべての人々に平和があるようにと歌っています。 

 

 

 


2021.11.30

 

12あなたがたは神に選ばれ、聖なるものとさ   

  れ、 愛されているのですから…

13互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、

   赦しあいなさ い…

14これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。

  愛は、すべてを完成させるきずなです。 

 

 

かつて私は“その隣人を愛していますか” と問われたとき ハタと迷いました。そのとき今は106歳で亡くなられた日野原重明先生は、愛するとはどのようにすることですか の質問にこう答えていました:

  あなたはその隣人のためにどれほど時間をかけましたか、その架けた時間の長さがあなたの愛のきずなの程度ですと…

   →あーそうかと納得し 反省しました

 

当時私は 離れて病の中にある友の癒しのためにどれ程時間をかけていただろうかと考えてみました→どれほど祈っているか、どれほどの手紙を書いているか、またどれほど電話でやり取りしているかを考えてみるとき、口先だけでない、心から愛しているかを思わされ→なるほど愛のきずなの程度が希薄だなーと考えさせらました。あなたならどう考えますか…

 


2021.11.14

 

あなたの庭で過ごす一日は

千日にまさる恵みです

詩編84・11

 

企業戦士であった私は49歳で救いに与りました。救われるのを待っていたかのように→その2ヶ月後に子会社に出向となりました。工場長としての働きでした。

当時子会社の人たちの親会社に対する被害者意識により私に対する思いは良くありませんでした。そんな中でも会社ではクレームやトラブルが毎日おこります。が相談する相手もなく適切な決断のために、苦悩する日々でした。

そんな時クリスチャンとなっているゆえに祈りができる特権を思い出し、問題の都度その正しい解決を祈り求め、また聖書をむさぼり読みして 正しい解決を祈り求めました…

→神は祈りにこたえて都度正しい判断を導いてくださいました。

このことのゆえに従業員の私に対する見方も変わり、共に汗して語らくことができるようにまりました。このようなことが毎日毎日、毎月毎月、毎年毎年続きました。3、4年も経過するとどんな問題でも、いつ出て来ても主が正しく導いて下さることが確信できるようになりました。

神に救われる前には、ただ自分の知識と経験により決断しなければならず、その故にいつも緊張しており、顔の表情にもよく出ており、また決断したことでも結果が出るまでは不安でした。 

それに比べ、救われてからは、神の大庭に住んだように安心して過ごすことができました。まさに千日にまさる平安であり恵みであり 感謝です

 


2021.11.11

 

神のなさることは、すべて時にかなって美しい。

神はまた、人の心に永遠を与えられた。

(聖書・伝道者の書3章11節)

 

人生は短くその上苦しみが多いのです。それでその先などどうでもよいなどと考えがちです。しかし、そのように言っている人でもその先のこと、永遠のことを考えずにおれなくなるのが人間ではないでしょうか。

子供が成長してくると、自分はこの先この子や孫たちといつまで暮らせるかナなどつい思ってしまいます。

人生は短くその上苦しみが多いのです。けれどもこの短い人生のうちにキリストを見出すことができた人は、なんと幸いな人でしょうか→その短い人生も永遠いいのちにつながる価値ある人生に代わるのです。

それはキリストが十字架上であなたの罪の身代わりとなって下さり、それを信じる信仰によってあなたの罪が赦され、永遠のいのちに結び付けてくださるからです。

「永遠を思う心」それが正しく呼びさまされ、その心にキリストが受け入れられるとき、キリストはあなたの人生をも、たえなる音楽に満ちたものとしてくださいます。

 

 


【 求めなさ い 】 2021.10.16

 

求めなさい。そうすれば与えられます。

 捜しなさい。そうすれば見つかります。

 たたきなさい。そうすれば開かれます。 

だれであれ、

  求める者は 受け、捜す者は 見つけ出し、

 たたく者には 開かれます。

(マタイの福音書7章7~8節)

 

三種類の祈り

シンプソン師はこのみことばの解釈で、祈りには次の3つの種類

があると語っています…

→1.求める祈り 2.捜す祈り 3.門をたたく祈り:

1 1.求める祈り

 ある種の問題は単純に祈り求めるだけで解決されます

  2.捜す祈り

 心の中を深く探り、注意深く神のみことばを学んではじめ

 て、その方向が示されるといった問題もあります

                                                                                             

 3.門をたたく祈り 

時として固く閉ざされたドアか、壁の前に立たされているうに感じられ、祈っても祈っても、どうにもならないよ                       

うな問題にも出会います。そんなときこそ、執ように門をたたき続けることが要求されるのです 

  それぞれの祈りの重要性は 聖書のなかの事例から学ぶことができます。

 


【日々新たにされる】2021.9.1

 

だから、わたしたちは落胆しません。たとえ

わたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、

わたしたちの「内なる人」は

日々新たにされていきます。

(Ⅱコリント4・16)

 

私たち人には、内と外の二面の生活があります。それは「内心は嬉しい」とか「外面をつくろう」といった内外ではありません。人間には心と体の外に、神と交わるための機能である霊があります。この霊のいのちのことを「内なる人」、心と体のいのちを「外なる人」といいます。

 

人間はだれも、年とともに「外なる人」は衰えて行きます。しかし、キリストを信じて罪の赦しを得た人は、神との交わりを回復して霊の生活「内なる人」が生き生きしてきます。このような人は、いつもキリストと共に生活しますので、寂しい孤独感から解放され、自分の肉体の衰えや余生の短いことなど気にしなくなります。

 

そればかりではなく、みことばと祈りによって、日ごとに内なる人が新しくされますので、やがてこの世を去るとき、栄光に輝く神の国で永遠に生きる希望に胸おどらせるのです。

 


【地の塩 世の光】2021.8.1

 

13あなたがたは、地の塩です。

  もし塩が塩気をなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。

  もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。

14あなたがたは、世の光です。

  山の上にある町は隠れることが出来ません。

 

  地の塩とは何でしょうか。地それはこの大地です。大地にあって生を営むのがこの世ですね。この世の生活の中に、塩としてはたらくものは、姿を隠しています…たとえば料理の中に塩が入っているようでは塩からくてたべられません→塩は自分の姿を隠します…その食べ物の味を生かすためです。

光はそれとは反対に輝かなければなりません。その存在を明らかにしていなければなりません。しかし、光は何のためにあるかと言えば…暗い所に光を投げかけてあげなければなりません→照らしてあげるのです。

 

教会の働きはまさに「地の塩、世の光となることです」…ここに教会があることによって、ご近所の方々が生き生きと生かされるようになることです。神はそのようにしてこの上岩出教会に連なる者にこのように聖書のことばを与えて下さっています。