2023.3.4

主 題: 罪人を招く 主イエス

聖書箇所:ルカ5章27~32節

 

1.  レビを招くイエス

 ガリラヤ湖周辺を東や西へと忙しくされている主イエスですが、その日もカペナウムに戻られる頃となりました、その途上に

収税所がありました。

収税所→このカペナウムは二つの地方領域の境であり、そこには現代で言う「税関」がありました。そこには取税人が一日中座って、その街道を行く人々を、じっと監視していて→そして、税金を払わせる。その収税所にレビと言う男が座っていました。このレビは取税人でありました。 

27節「収税所に座っているレビという取税人に目を留めて・・・」と書かれています。

私は思います:

 ・イエスはこの取税所の前をそれまでに何度も通っていたと思うのです

 ・そこに座っている取税人をいつも目を留めて見ていたと思います

 ・そして、その名前がレビとか、そのレビのこころの中の思いを知っていったと思います、ネ 

この日主イエスは収税所に座っていた取税人レビに特に目を留めていました。このレビという名前は言うまでもなく、十二部族の中のレビ族と同じ名です。しかもこのレビ族というのは祭司の一族です。ですからこの取税人は、間違いなく神の民イスラエルの一員だったと言えます、ネ。

しかし、彼は取税人となったが故に、神の民たちから税金を取り立て“ローマ帝国の手先メ”とさげすまされている腹いせに過剰な税金を取りたたている悪い奴メ→とあざけられていました。

主イエスは、この失われていた神の民の一人に「目を留めて」と書かれていますが、主イエスのこの取税人に対しての関わり、思いというもの→“まなざし”はどのようなものだったのかと思いますネ:

・神のあわれみを宿した、深いまなざしだったと思います…そして

・取税人を責めるのではなく、あなたはそこで何をしているのですか

・あなたは神の愛を受けている者ではないか→さあ、私と一緒に新しく生きましょう

→そんな憐れみをたたえた“まなざし”ではなかったかと思います

 

そして、ついに言われたのです→「わたしについて来なさい」、と。彼はこの主イエスのまなざしにとらえられました:

・レビは「立ち上がってイエスに従った」、と書かれています

・何もかも捨てて、いやすべてのしがらみから開放されて「立ち上がって従った」のです


 これと同じ記事が、マタイとマルコにも記されています。特にマタイでは、この取税人の名前がマタイとなっています。

そう、マタイによる福音書を記したマタイです。この記事は、このマタイに証言、「自分が主イエスに出会い、弟子とされたのはこういうことだったよ、あの時主イエスは私に目を留めて見つめられた。そして、私に従ってきなさいと言われた。私は喜び、驚き、全てを捨てて従った。」というような、生き生きとした証言を元にして記されているのです。

マタイは、その生涯の中で何度も何度もこの事を語ったに違いない、と思うのです。取税人だった自分が主イエスに招かれ、このように新しく生きる者にされた。その喜びの証言がここにはあるのです。 

 しかし皆さん、十二弟子の一人であり、後にマタイによる福音書を記したマタイ、その彼の元の職業が取税人だった。これは、小さなことではありませんネー:

キリストの教会は、その出発において、当時社会では受け入れられることのなかった人が加えられていたのです

 ・キリストの教会は、その出発の時から、いわゆる善男善女の集まりではなかったと言えるのですョー

 パリサイ派の人々や、律法学者の人々は、これにつまずいたのです。これを受け入れることが出来なかったのですネー

 

2.食事の交わりをするイエス(29~30)

29 そこでレビは、自分の家でイエスのために大ぶるまいをしたが、取税人たちや、ほかに大ぜいの人たちが食卓に着いていた。

30 すると、パリサイ人やその派の律法学者たちが、イエスの弟子たちに向かって、つぶやいて言った。「なぜ、あなたがたは、取税人や罪人どもといっしょに飲み食いするのですか。」

 

ここで取税人レビは、主イエスの招きに応えて何もかも捨てて、主イエスに従ったのです。悔い改めたのです。生きる方向を180度転換したのです。ここに、キリストの弟子としての新しい人間が誕生しました。

彼は、そのことを喜んで、主イエスを招き、大勢の友人達との宴会を催したのです。


 キリストと出会い、新しい歩みが始まったことへの喜びに満ちた神の家族の親しいお交わり、これが教会の交わりなのです。その中心には、主イエス
がおられる。

聖書では、大切な場面において必ずと言って良い程に食事が出てきます。

これは、食事の席というものが最も親しい、楽しい交わりを示しているからなのでしょう、ネ. 老いも若きも、男も女も、幼子までも、一つ所に集まり、楽しく食事をして喜び祝う→本当に楽しい。私は、礼拝後の愛餐会又は茶菓の交わり会は楽しい、親しい交わりの中に、神の家族としての良き交わりがあると思います、ネー

 これに対し、パリサイ人やその派の律法学者たちが、イエスの弟子たちに向かって、つぶやいて言った→「なぜ、あなたがたは、取税人や罪人どもといっしょに飲み食いするのですか。」、と

 

3.罪人を招くイエス(31~32)

31 そこで、イエスは答えて言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。

32 わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです。」

 

 では、どうして主イエスはこの取税人を招かれたのでしょうか。主イエスはこう言われています:

3132節「医者を必要とするのは、丈夫な者ではなく、病人である。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、

悔い改めさせるためである。」、と

即ち、主イエスが来られた目的は:

・罪人を招いて悔い改めさせ→罪人を救いに与らせるため

・また失われている神の民を見出すために来られた、と

そして、神の救いは:

・正しいと思っている人ではなく、

・まさに罪人を招き 悔い改めるために→開かれている

そのことを示すために、主イエスはこの取税人を招かれたのであります。

 

そのことは、キリストの教会が建ち続ける限り変わることのない、神の救いの御心であります。私たちは誰一人として、神の救いに与る権利や、良き所があった訳ではありません、ネー  第一、私たちは皆、異邦人であります。まことの神を知らず、それ故に偶像を拝んで育った者です。パリサイ派の人々や律法学者の人々から見れば、決して神の救いに与れるはずのない者達でした。しかし、神は私たちを招き、一切の罪を赦し、神の民の一員として加えて下さいました。まことにありがたいことであります。 

神の選民イスラエルと彼らは言うが、エジプトの奴隷だったのです。イスラエルが優れていて、神さまに選ばれるに相応しい民であったから選ばれたのではありません→イスラエルは、このことを「過ぎ越の祭り」たびごとに思い起こしました。このことを思い起こし続けることによって、神の民は神の民であり続けたのです。

 

私たちもそうです。クリスチャンとなった私たちもこのことを忘れてはなりません→クリスチャンは罪赦された罪人に過ぎません。そうでないといつの間にか、自分達が取税人と同じく罪人であったことを忘れ、パリサイ派の人々と同じように考えたり、口走ったりしてしまうことになりかねないからです…

→そうなりますと、この時パリサイ派の人々が、主イエスの招きにつまずいた様に、私たちもつまずいてしまうということになりかねないのです、ネ

皆さん、主イエスの招きには、一切の差別が入りようがないのであります:

・社会的な地位も立場も、

・人間的な性格も富も、一切関係ないのです

そこには、主イエスが私を招かれたという、絶対的な神の救いの御心と御業だけが支配するのであります。

 この神の絶対的な御心と御業とは:

・罪人をも招き、赦し、生かし、用いるというものです

・何度も罪を犯した神の選民イスラエルを赦し続けられました

・救われた私たち→救われた罪人に過ぎません…罪を犯したら悔い改めを忘れてはいけません

この神さまの御心が具体的な形となって現れたのが、主イエス・キリストというお方です。この神の罪人を救わないではおかないという絶対的な救いの御心と救いの御業との前に、私たちはただ感謝をもってぬかずくしかありません→ここにキリストの教会という神の民が生まれたのです。

「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔

  い改めさせるためである。」

 

もう一度、主イエスの来られた目的は:

・罪人を招いて悔い改めさせるために、罪人を救いに与らせるために、失われている神の民を見出すために来られた

・そして神の救いは、まさに罪人に向かって開かれている

そのことを示すために、主イエスはこの取税人を招かれたのであります。

最後に黙示録3・20の御ことばを読んで、メッセージの〆とします

(黙示録3:20

「見よ。わたしは戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、

わたしは彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしと共に食事をする。」 

                                        了   


2023.3.18

主 題:  主イエス の約束

聖書箇所:ルカ6章20~26節

(はじめに)

今日の聖書箇所は他の福音書にも記されておりますが、そのタイトルは()(ふく) とも言われるところです。神の祝福を受けた者の恵みの状態→「幸いとなること」です。ですから今日の主題は「“幸いとなる”という主イエスの約束」と言っても良いと思います。

ところで皆さん、「祝福とは?」と聞かれると一言でこたえがむつかしいです。しかし、主イエスから“祝福のことば”を受けたらどうでしょうか。しかもそのことばを告げた方は、今自分たちの前で 多くの人をいやし、力ある方であることがはっきりしている→とすれば、この時この主イエスのことばを受けた人々は、

→「ああ、自分は本当に幸いな者なのだ。もう大丈夫だ。」

そう思えたのではないでしょうか。

なぜでしょうか

祝福を受ける。それは、祝福を与えるお方に力があり“その祝福のことば 出来事となる”からです

  例えば、主イエスがことばを語られると→病が癒される(出来事となる)からです。

 死んで4日もたちますからもう臭いですと言われる者が→主イエスが語られると直ちに生き返る(出来事となる)からです。

 皆さん、主なる神の祝福を受けると、その人は幸いとなります、ネ その故に→「至福」と言われたのです。さあそれでは、今日のその「主イエスの約束」に入ってまいりましょう。

 

1.  幸いな者(20~23)

 

ガリラヤ湖湖畔の平地で主イエスは弟子達にこう語り始めました:

貧しい者は幸いです。神の国はあなたがたのものだから。

  いま飢えている者は幸いです。やがてあなたがたは満ち足りるからです。

いま泣く者は幸いです。やがてあなたがたは笑うから。 

 不思議な言葉です。私たちが聖書を開いて、この言葉に最初に出会った時、なる程その通りだと思った人はいるカナ?と思いますねー 

しかし、この言葉を主イエスの口から聞いた人々は、きっと、「ああ、自分は幸いな者だ。」そう感じることが出来たのではないか。そう思うのであります。


 主イエスのこの言葉を聞いた人々は、20節を見ますと、「イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。」とありますから、第一に主イエスの弟子達であったことは明らかです。

しかしそれだけではなく、その周りにいた、主イエスにいやしを求めに来た人々も、この主イエスのことばを聞いたに違いないと思います。その人々は、実際に貧しい人々であり、飢えている人々であり、泣いている人々だったのではないかと思うのです。 

その人々を前にして、そういう人々に向かって、主イエスは、「貧しい人々は幸いである。今飢えている人々は幸いである。今泣いている人々は幸いである。」そう告げられたのですネーそして、それを聞いた人々は、「ああ、私は幸いな者だ。もう大丈夫だ。」そう思ったに違いないのです。なぜか?→それは、この“ことば”は主イエスによる「祝福のことば」だったからです。 

Q なぜでしょうか

祝福を受ける。それは、祝福を与える者に力があり“その祝福のことばは出来事となる”からです

  即ち、主イエスが語られると→病が癒されるからです.

 主イエスが→生まれながらの盲人に「見えるようになれ」と命じられると見えるようになるからです。

そのように、やがてあなた方は、神の国に住まうものとなるのですよなるからです「主イエスの約束」は必ずなるから…ですネ 

2.不幸な者(24~26)

 

         

 さて、主イエスは四つの「不幸である」という言葉を告げておられます:

・富んでいる人、・食べ飽きている人、・笑っている人、・人にほめられる人

であります。この四つは、前の幸いを告げられた人々と正反対の人々です。この不幸だと言われている人々とは、私たちの普通の感覚で言えば、これこそ幸いな人と言うべき人々です。しかし、主イエスは不幸だと言われた。

ところで、皆さん。私たちはこのようなことばに出会うと、富んではいけない、満腹してはいけない、笑ってはいけない、人にほめられてはいけない。そんな風に考えかねない→いや考えてしまうところが私たちにはあります、ネ 

そして、クリスチャンは、浮かぬ顔をして、やせていて、貧しくなければというようなイメージを作りかねないのです。そして、そのイメージの第一の標的になるのがたいてい牧師ですネ:

・私ごとでいえば、例えば自動車を持つときに、たまたま高級車ベンツをくれるという人があったとしても、イヤー私の身に

  は似合わないかラーと言って断ると思うのですよー

 ・ある神学校の舎監の先生のはいてるくつは→革靴ですが、ぼろぼろのをはいているのを見たことがありますョ

→人は「牧師とは不便なものだね。」という言葉は、どこか心に引っかかっています。牧師となるとどこかで、変な牧師イメ 

ージに縛られている所があるのではないかと思うことがありますネー

しかし、主の祝福に生きるということは、この主の祝福の中で自由になるということです。欠けのある私が、貧しさの中、嘆きの中にある私が、すでに主の幸いを受けている。

この喜びの中に生きる時、私たちは今の自分の状態というものに振り回されず、主の与える幸いの中に、感謝と喜びの中に生きるようになるということではないかとおもいますよ、いかがですか。 

それでは、この主イエスの四つの「不幸だ」という言葉は、どう受け取るべきなのでしょうか?

素直な解釈で良いと思います

×このことも、前の祝福と同じ様に、富んでいるから不幸だ、満腹しているから不幸だ、という風に読むべきではないと思

 います、即ち富んでいること、満腹していることは不幸の条件ではないのです

そうではなくて、

〇この人々が不幸だと言われているのは、富んでおり、満腹しており、笑っており、人にほめられている故に

→すでに今の自分の状態に満足してしまい

主イエスを求めないし、主イエスのもとに来ないからです

 主イエスのもとに来ない。それ故、その人には確かにこの地上での幸いはすでに与えられているだろうけれど、それは一時的なものであり、やがてそれを失うことになります。だから、そのような目に見える幸いだけを求めている者は不幸だ。神の国の豊かさに与ることが出来ないから。そう、主イエスは言われたのでありましょう。

ここで、

私たちの本当の幸いはどこにあるのか

神の国にある。そして、それを与えるために私は来た→そういう、主イエスの宣言を私たちは聞くのです

主イエスは言われました:

「神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、全てのものは与えられる。」(マタイ633) 

まさに、私たちの目標が:

・この神の国と神の義とに向けられているかどうか

・主イエスにそれを求めて、請い、願い、祈っているか

ということが問われているのであります。

そして、主の家に帰り、生涯、そこにとどまろうとしているか、ということなのであります:

 ・主イエスのもとに来ること→これだけが、主の祝福を受け取る、唯一の条件なのです

・そして、主イエスのもとに来た者は、たとえその人がまだ気付いていないとしても、すでに主の祝福の中に生き始めている

 のです

・さらに、礼拝の中で、祝福を受け、聖霊の満たしをいただき恵まれ、大いなる力をいただきこの世の旅路に向かうことにな

 るのです

教会とは、礼拝とは、そういう所なのです。この場に身を置くこと。そのことによって、私たちはすでに、主の揺らぐことのない祝福の中に生きる者とされているのです。 

たとえ、気付かなくてもです。そして、その人もやがて気付くでしょう。自分が嘆きの中にあった時、すでに主の祝福が自分を包み、一切の悪しき力から守られていたことを。

そして、それに気付いた時、主を高らかにほめたたえる者となるのです。この礼拝で歌われている讃美の曲の一言、一言が、これは自分の歌だ、自分のことが歌われていることを知るのです。ハレルヤー!! ここまでとします。

 

 

 


2023.3.25

主 題:  カペナウムの百人隊長

聖書箇所:ルカ7章1~10節

 

(はじめに)

 主イエスの公生涯における宣教の拠点は、神の宮のあるエルサレムではなく、エルサレムから遠く離れたガリラヤ湖湖畔のカペナウムでした。そこで宣教するにあたって、最初にされたのは弟子達をつくることでありました。律法に詳しい学者など ではなくガリラヤ湖畔の漁師たちはじめ、仕事に懸命な12名を弟子にし、その弟子たちとともに神の国の福音を宣べ伝える旅をはじめられました。 

その主イエスの時代、イスラエルの人々の信仰の在り方は、パリサイ人に代表される律法主義でした。すなわち、自らの良いわざによって神の救いに与ろうとするものでした。主イエスは、この信仰の根本的 間違いをいろいろな所で指摘されてゆきます。ここに登場する百人隊長は、病気で死にかけているしもべに気づき→思い煩いの末にとった 主イエスに助けを求める行動と、そのしもべへの思いの言葉を聴かれて、主イエスはこれほどの信仰はイスラエル人の中にもない、りっぱな信仰だとほめられた。

この「カペナウムの百人隊長」の物語は広く代々語りつがれて4つの福音書にも記されている、有名な物語となっています。さあそれでは、その主イエスにほめられた信仰とはどのようなものでしょうか、読んで私たちも学ばせていただきましょう。

 

1.百人隊長の人となり(2~5節)

2「ところが、ある百人隊長に重んじられているひとりのしもべが、病気で死にかけていた。」と、ここに百人隊長が登場します。 

この百人隊長は、当時の軍隊の階級の名であり→その名の通り百人ぐらいの兵隊の隊長という人です。ガリラヤ湖の周辺のこの地域を、その当時はヘロデ・アンティパスという領主が→ローマ政府の委託を受け支配していました。その領主が兵隊→いわゆる傭兵です、を雇ってその地を統治していました。この百人隊長も ヘロデ・アンティパスに雇われていた兵隊たちの中の百人隊長の一人です。しかし、百人ぐらいの部下の兵隊の長ですから、将軍というわけではありません。まあ、下級将校といったところです。 

私は日本の軍隊経験はありません。が、そこで最も威張っていたのはこのような下級将校、あるいはもう少し位の低い下士官であったと言われています:

・軍隊は命令で何でも動きます ・命令できる権威は、天皇の名で神聖化されていましたから、上官の命令は絶対でした

この上官の命令は絶対ということを知った私の経験を話します…

実は、

私と家内和子は数年前に中国・大連に言った折に→日露戦争で有名な203高地に行ってきました;

・当時日露戦争のときで、あの旅順港は湾への入口が狭い→天蓋の良い軍港でした

・その軍港を落そうと、日本軍は色々作戦し敢行しますがその湾内に入ることができません

・そこでその旅順港を眼下にする→203高地から大砲攻撃する作戦に変えました

・ロシヤ軍が山の頂上から機関銃で乱射する中に、指揮官である将軍乃木希輔は突撃命令を繰り返し1万7千人の軍人を死なせました→上官の命令は絶対であります

が、そこで私はその突撃の光景を思う時に、たまらなくなり→そこで立っていられませんでしたネー→上官の命令は絶対なんだー 

本文に戻りますが、この百人隊長はその言動から想像しますと、そのような威張った軍人ではないようです;

・出来事の発端は、この百人隊長が重んじていた部下、信頼していた部下の病気です→重い病気で、死に瀕していました。どうしていいかわからなかった

・その前に、イエスという名のお方のことを聞いて知っていたようで(例618節)このイエスというお方にお願いしたら、病気は何とかなる→癒していただけると思ったのです

会堂の長老たちは、この百人隊長の願いを聞いて、ためらわずにイエスの所に来て、「是非あの人の願いを聞いて下さい」とお願いしました。長老たちはこう言うのです。

5節「この人は、私たちの国民を愛し、私たちのために会堂を建ててくれた人です。」→なかなか言える言葉ではありません…真実の心からでしょう 

この百人隊長の思いは→ユダヤの人々に対する愛情でしょう それが一体どこからといえば→神に対する深い思いがあったと言えるでしょう;

・神を礼拝する

・神の教えを聞く

・その神の民たちが共に集うところ

そのために必要な会堂を喜んで自分の財産を出して建てていました。この百人隊長は、私たちが知っている…権威に生きたり、威張った人間ではなかったのです。

 

2.百人隊長の信仰 (6~10節)

6 イエスは、彼らといっしょに行かれた。そして、百人隊長の家からあまり遠くない所に来られたとき、百人隊長は友人たちに使いに出して、イエスに伝えた。「主よ。わざわざおいでくださいませんように。あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。

7ですから、私の方から伺うことさえ失礼と存じました。ただ、おことばをいただかせてください。そうすれば、私のしもべは必ずいやされます。

主イエスは、この言葉を聴いて百人隊長を称賛されたのです;

・隊長ですから権威がある。命令をする。部下はそれに従う→当然です

・軍隊における命令は、それに従う部下の命に係わる→これも当然です

 

しかし、この隊長はそれを当然と思っていません。驚いています→畏れています。感謝していると言えるかもしれません:

→自分のような者でも人の上に立つことができる

→自分のような者でも権威をもつことができる

部下が自分の命令に従うことを、当たり前とは思っていないようですネ。

→これは権威に対する誠実な姿勢です、ネ

 この権威に対する畏れが、この百人隊長の心に絶えずあり、その人の日常生活の中でいつも流れていた思いであったように思われます。また;

8節「と申しますのは、私も権威の下にある者ですが、私の下にも兵士がいまして、そのひとりに、『行け』と言えば行きますし、別の者に『来い』といえば来ます。また、しもべに『これをせよ』と言えば、その通りにいたします。」

 自分は部下に権威をふるうだけではなく、自分もまた権威のもとに生き、その権威のもとに生かされている者である…と言うのです。この場合の権威とは?;

・領主のことであるかもしれません

・自分よりもっと上の隊長のことであるかもしれません

しかし、どうもそればかりではないようです;

・隊長は部下の病気のために悩み、途方に暮れていたようです

・その様子にユダヤ人の長老たちが同情し→主イエスのもとに来て、熱心にとりなししたのです

 

もう一度になりますが(ここがポイントです)、

7節「ですから、私の方から伺うことさえ失礼と存じました。ただ、おことばをいただかせてください。そうすれば、私のしもべは必ずいやされます。 

皆さん、おことばに対する、揺るぎのない信仰が分かります、ネ…

主イエスはこの言葉(68節)を聴いて、百人隊長を称賛されました。そして、いやされました:

10「使いに来た人たちが家に帰ってみると、しもべは良くなっていた。」

 

3.私たちの信仰は

9節「…このような立派な信仰は、イスラエルの中にも見たことがありません。

→これこそ本物の信仰だと、イエスが大変感心されました。そして神の選民であるイスラエルの中にも見たことがない、と。 

 振り返って私の信仰、私たちの信仰について、主イエスがこんなに感心してくださるだろうか、と;

・自分自身の信仰についても心を探られました

・と同時に…信仰をもつ人ならば誰でも慕い求めるのは…そのような信仰ではないでしょうか

そして、主イエスに褒められるような「真実の信仰とは一体何か」ということです、ネ。

私はここを読んで、これは昔話ではない、現代の私たちが心を注いで良く聴かなければならない物語がここにあるのだ、と。現代もまた随所にあるのではないでしょうか;

・小さくは家庭において ・夫々の職場で ・また教会ではどうでしょうか ・大きくは各地方自治体で→国会では

実にたくさんの人々が権威を欲しがり、しかも一度手に入れれば、その権威の上にあぐらをかいて傲慢になります;

・自分には知識経験がある→だから自分の思いには権威がある、と

・あるいは、自分の権威を示すために→神のことばを用いて、相手を黙らすことはないでしょうか?

・あるいは、自分に権威がある。神に命令をする。自分の思い通りに…あるいは自分が命令したとおりに動かない神は捨てる…とそんなことはないでしょうか?

 現代は民主主義の時代であると言い、あらゆる権威から自由になっているように言うことがありますが→それで良いのでしょうか?権威について、真実に謙遜に、正しく健康に生きることが求められているのではないでしょうか。

 家庭において、職場において、教会において、政治の世界においても、私たち一人一人の世界においてもそのことを真剣に祈りことが求められていると思います

→つまり、「主イエスに褒められるような真実の信仰とは一体どうすることか

 →いかなるところでも、いかなる状況でも、いかなる問題の時でも主にあわれみを祈り求める信仰=叫び求める信仰こそが求

  められているのだ 

 

 私たちはこの百人隊長の物語を、はっきりと、正しく、聞き続けていきたいと思わされます。アーメン