2022.4.2

主 題:「 十字架への道を歩く主イエス 」  

聖書箇所:ルカ23章26~38節

 

( はじめに ) 

   

判決を受けた主イエスは 十字架への歩みを始められました。総督ピラトの元からエルサレム郊外の処刑場

→ギリシャ語で“ゴルゴタの丘”、ラテン語で“カルバリの丘”、日本語で“どくろ”と呼ばれる所への歩みです。

この石畳の曲がりくねった坂の道、あの大きな十字架を背負ってのこの石畳の坂の道を主イエスは、歩み出さなければならなかったのです。

 

私はイスラエル旅行に行ってその道を歩いてきましたが、この写真のような上り下りする石畳の道、曲がりくねった道を歩む姿を想像するだけで、なんという苦難の道…悲しみの道か、と思わされました→事実、いばらの冠をかぶらされ、自分の十字架を背負って歩む“悲しみの道”(ヴィア・ドロローサでした。

そして、曲がり角のところどころに、写真のようにその十字架に倒れ うずくまり苦しむ主イエスの姿が刻まれています。

 

1.   ドロローサの道をたどるイエス(26~31)

1.1 クレネ人シモンの働き(26)

26 彼らは、イエスを引いて行く途中、いなかから出て来たシモンというクレネ人をつかまえ、この人に十字架を負わせてイエスの後ろから運ばせた。 

主イエスが担い切れなかった十字架はキレネ人シモンに背負わされました→ここには、主イエスの弟子である者の姿が指し示されていると思わされます、ネ。 

しかし→実際は、この時主イエスの弟子たちは皆逃げてしまっていました。

主イエスは言われていました:

自分の十字架を負って私について来ない者は、

わたしの弟子になることはできません。」(ルカ1427

この主イエスの御言葉通りに、主イエスが十字架への歩みを為された時

に十字架を背負って歩んだのが、このキレネ人シモンだったのです。

隠れていた主イエスの弟子たちはここに自分たちの本来あるべき姿を見ていたのではないか…と思いますネ。

 

ここには、主イエスの弟子となるということがどういうことなのか、主イエスの弟子として生きるとはどういうことなのかが

示されているのでしょう。自分から進んで、喜んでするのではなくても:

・主イエスの十字架を背負う

・自分の十字架として背負う

→ここにキリスト者としての道があるということを示していると思います。

ところで皆さん、自分の十字架とは?

× 日本語でも使われるような、自分の苦しさ、困難、逃れることの出来ないしんどさ、それらを指しているのではありません

自分の十字架とは、主イエスが背負う十字架を→自分の十字架として

  背負うということです

→主イエスと関わりない所で自分がつらく苦しくても、それが自分の十字架というわけではありませんョ。

 

ここには、

・主イエスの弟子となるということがどういうことなのか

・主イエスの弟子として生きるとはどういうことなのかが示されていると思います。

自分から喜んでするのではなくても、主イエスの十字架を背負う、自分の十字架として背負う。ここにキリスト者としての道

があるということなのです。

私はあの旅行で、このドロドーサの道を実際に十字架を背負って歩く旅人→これが巡礼だという旅人もあると言われました

→私たちにはそのような巡礼の旅という習慣はありませんネー

でも皆さん、このクレネ人シモンの道を巡りなおすということは、エルサレムに行かなくともできることではないでしょうか?

即ち、教会はクレネ人シモンの後を、また自分なりに追って行く群れと言っても良いと思います:

・「主と十字架の道行きをする」とはどうすることなのか

自分の十字架を背負って歩くとはどうすることなのか [i]

をひとり一人が、自分にふさわしい仕方で問い直す必要があるのではないでしょうか。

 

.2 悔い改めの求めと 主イエスの招き (27~31)

27 大ぜいの民衆やイエスのことを嘆き悲しむ女たちの群れが、イエスのあとについて行った。

28 しかしイエスは、女たちのほうに向いて、こう言われた。「エルサレムの娘たち。わたしのことで泣いてはいけない。

  むしろ自分自身と、自分の子どもたちのことのために泣きなさい。

 

この時主が歩まれた道は、その道は“悲しみの道”(ヴィア・ドロローサ)であります。十字架への道を歩く主イエスに従った民衆、

特にイエスのことを嘆き悲しむ女たちに向かって、語りかけられたものです。

ここに書かれている「嘆き悲しむ女たち」です:

・主イエスを慕う婦人たち、はっきり言えば主イエスの女性の弟子たち

・ただの野次馬で処刑される人に同情しているだけの女性

もいたことでしょう→この女性たちに主イエスが語られました。主イエスは言われます:

28 しかしイエスは、女たちのほうに向いて、こう言われた。「エルサレムの娘たち。わたしのことで泣いてはいけない。

  むしろ自分自身と、自分の子どもたちのことのために泣きなさい。

 

主イエスはここで、「わたしに同情はいらない。わたしが求めるのは悔い改めの涙なのだ。」そう言われたのだと思います

→なぜでしょうか。

29 なぜなら人々が、『不妊の女、子を産んだことのない胎、飲ませたことのない乳房は、幸いだ』と言う日が来るのですから。

 

主イエスはここで、旧約聖書のホセア書の預言(10章8節)を引用して、エルサレムの滅びを語るのです。

30 そのとき、人々は山に向かって、『われわれの上に倒れかかってくれ』と言い、丘に向かって、『われわれをおおってくれ』

と言い始めます。

 

→人々がもう死んだ方がましだ、そう言わざるを得ない悲惨な状況に至る時が来るということでありましょう。

31 彼らが生木にこのようなことをするのなら、枯れ木には、いったい、何が起こるでしょう。」

 

ここで「生木」とは→主イエス御自身、あるいはイスラエルを指す

枯れ木」とは→私たちあるいは異邦人と指すと考えられます

つまり、主イエスさえ十字架にかかるのだから、罪人であるあなたたちは一体どうなるだろうか、あるいは神の民イスラエルでさえこうなるのならば、異邦人は一体どうなるのか と言われます。

 

まとめてもう一度言うと

→あなたがたは、自分は安全な所にいると思っている。だから、わたしに向かって同情し、わたしの為に嘆いている。

しかし、そうではないのだ。本当に嘆かなければならないのは、神の裁きの剣が振り下ろされるあなたがた自身であり、あなたがたの子なのだ。だから、自分の為に嘆きなさい。

そして、

それに気付いたなら悔い改めなさい”→そう告げられたのです。

 

2.    十字架に着けられた主イエス(32~38)

.1 主イエスは十字架につけられた(32~38)

 

33 「どくろ」と呼ばれている所に来ると、そこで彼らは、イエスと犯罪人とを十字架につけた。犯罪人のひとりは右に、

  ひとりは左に。

35 民衆はそばに立ってながめていた。指導者たちもあざ笑って言った。

  「あれは他人を救った。もし、神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ってみろ。」

36 兵士たちもイエスをあざけり、そばに寄って来て、酸いぶどう酒を差し出し、

37 「ユダヤ人の王なら、自分を救え」と言った。

 

「そこで彼らは、イエス…を十字架につけた。」当時の人々にとって「十字架につけられた」ということは処刑された

ということです:

 ・重罪人として殺され、この世から取り去らされることです

 ・パウロは、イエスは呪われて死んだ、と書きました

ルカは、

  イエスの十字架を巡って、人々が何よりも彼をあざけった、と:

35節には民衆や、指導者もが登場します

36節には兵士も登場する

39節では十字架にかけられた犯罪人の一人が…

→イエスをあざけった

→このように誰からも尊重されずにイエスは死んだ、と 

  彼らはこうあざけります:

・あなたはキリストだ ・あなたはユダヤ人の王だ

→それなのに、自分を救うことができないのか、と

→他人を救うという救い主が、自分を救うことができないのか?

→自分が殺されようとしているのに、自分を救えないような救い主が

真の救い主として通用するのか?と

  ローマの兵隊が言います:

  ・あなたがユダヤ人の王なら自分を救うがよい

  ・兵士にとって、自分を救えない、そのまま死んでしまう王など王の名

に値しない、と

 

彼らからは⇒このように、イエスの死は軽んじられました

しかし、私たちクリスチャンはこう考えます:

 ×キリストであるにも拘わらず→十字架につけられた

 キリストであるからこそ→十字架につけられ、殺されたのだ、と

 

35「…もし、神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ってみろ。」に対し

  イザヤ書421

「見よ、わたしのささえるわたしのしもべ。わたしの心の喜ぶわたしが選んだ者。・・・」

預言の如く…イエスは、神に選ばれた者です。

 

神はそのような王を自由に選ぶ。選びは神の自由です:

  ・私たちが自分で決めるのではない

  ・人間が誰かを王に祭り上げるのではない

  神が選んで与えてくださる

→イエスは、神に選ばれた者です。そして、今十字架にかけられているのです

 

.2 父よ彼らをおゆるし下さい(34)

34 そのとき、イエスはこう言われた。

父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。

この「赦す・ゆるす」のことばは「解き放す」ことです:

・私たちを重荷から解き放すのです。私たちにからみつく罪からの解放が起こるのです→自由が与えられるのです

 ・重荷からの自由?→主イエスを十字架につけてしまう重荷からの自由です

 

主は、私たちが…十字架につけ処刑する→という大罪を指し示しながら、その“からみつく罪からの解放”を祈っていてくださることは明らかです。

皆さん、

私たちはこう言われて歩んできたのではないでしょうか?→「「人生は重荷を負って歩むがごとし

何の重荷でしょうか?

私たちにからみつく罪です→罪の思いです:

 人を押しのけてもしようとする思い→欲望、すなわち

 ・金銭欲 ・名誉欲 ・地位や立場への欲 ・目立ちたがる欲

  これらにもとずく自分中心の思いから

→人を批判する、裁く、悪口を言う→喧嘩する、ののしる、のろう

神の思いと反対のことをしてしまう思い…私たちにからみつく罪です

 

最後です皆さん

何の罪もない主イエスが、裁かれ、鞭うたれ、いばらの冠をかぶせられ、

・あの重い自分の十字架を背負って

・あの石段の曲がりくねった道をたどり行き

・あの十字架にかけられたその姿をみていたときに

父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。

のことばを聞いた時に、

・私たちは心打たれないでしょうか

・「神のキリストなら、自分を救ってみろ」と言うでしょうか?…

 

イエスさま、心から悔い改めます。あなたの身代わりのご愛を心から感謝します。イエスさまの十字架は私の罪の身代わりでした、と告白します。助けて下さいと切に祈ります。イエス・キリストの御名により祈ります。アーメン

 



[i] 「自分の十字架」を背負って生きるということ:

私たちが神のために、主イエスのために、隣り人のために、労苦をいとわず、一銭にもならないことのために、喜んでささげている姿。それこそがこの世が本当に求めている塩→世の塩と言えるでしょう。

この世の塩こそ、実に主イエスの愛であり、福音であり、自分の十字架を背負って生きる者の姿といえると思います。

 


2022..9 

主 題:「 十字架上で死なれた主イエス 」  

聖書箇所:ルカ23章39~54節

 

( はじめに ) 

ルカの福音書は19章から、いよいよ覚悟を決めた主イエスが エルサレム入城し、受難の週に入りました。宮きよめから、始まりましたが、23章に入りますと、ピラトの裁判ではユダヤ教の指導者や民衆の「十字架につけろ」の声に、ローマから与えられた総督ピラトの立場保身のために、主イエスは十字架刑を宣告されました。

ムチ打たれ、いばらの冠をかぶせられた主イエスは あの曲がりくねった石畳の中を、自分の十字架を背負って“ドロローサの道”(悲しみの道)を歩かされました。途中クレネ人シモンが十字架を負うことになりましたが、そのカルバリ山で、その十字架につけられました。今日の聖書箇所は その主イエスの十字架上での裁きの場面です。主イエスが十字架上で語られた“ことば”を中心に読んでまいりましょう。

 

1.   十字架の上で(39~46)

1.1 十字架上で救いを与えられた主 (43)

43「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともに パラダイスにいます。」

 

 

主イエスの右と左には、犯罪人が同じように十字架につけられていました:

犯罪人A→「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え。」と

犯罪人B→41「我々は、自分のしたことの報いを受けているのだから当たり前だ。だがこの方は、

               悪いことは何もしなかったのだ。」と

このBは、主イエスに向かって

42「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになる時には、わたしを思い出してください。」と主イエスを頼ったのです

   →これは悔い改めの言葉です

主イエスはこの言葉を受けて、

43「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともに パラダイスにいます。」

と告げられたのです。

 

皆さん、ここで大切なことは、この主イエスの救いの約束は、これから死ぬわけですから、良い業など何一つすることが出来ない、そういう者に向かって告げられたということです

主イエスが自らの十字架をもって私たちに与えて下さった福音は、ただ主イエスを信頼し、主イエスに頼りさえすれば救われる

  ということです

 →Aは主イエスをののしり、は主イエスに頼りました。このことだけが、この二人を分けることになったのです

 

私は、この十字架の死の最後に主イエスを頼ったという犯罪人は、主イエスの言葉34節「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分では分からないのです。」を聞いたのではないかと思うのです。

そして、この方に頼ってみよう、信じてみよう、そう思ったのだと思うのです→ですから、ただただ主イエスを信頼し、頼るしかなかった→信仰によって救われるとは、そういうことでしょう

 

 この犯罪人は、あと何時間かすれば十字架の上で死んでしまう。そういう時になって主イエスと出会い、主イエスを信頼した。

そして主イエスは、それを受けとめ、救いの約束をして下さった。

このことは、私は2つのことを示していると思います:

  私たちが悔い改めて主イエスへの信仰を持つのに、遅すぎることはないということ

  救われるということは、

×「この世においていい目をみる」というようなこと

神の備えてくださってる神の国に入り、復活し、永遠のいのちに

 与るということだからですネー

 

1.    2 父よ。わが霊を御手にゆだねます46)

 

46イエスは大声で叫んで、言われた。父よ。わが霊を御手に委ねます。」こう言って、息を引き取られた。

 

主イエスは、十字架の上で息を引き取られる時にこう叫ばれたのです。「わが霊を御手にゆだねます。」何という言葉でしょうか。主イエスは何も悪いことをしていないのです。十字架につけられて殺されなければならないようなことは、何もしていないのです。

それにもかかわらず、彼らに対し主イエスの口からは、恨み言一つ出て来ない:

・自分を十字架につけた祭司長、律法学者たち、

・更に自分を十字架刑に決定した総督ピラト

・自分を十字架につけよと叫んだ群衆

・自分が十字架につけられたのを見て「神からのメシアなら、自分を救ってみろ。十字架から降りてみろ。」とあざ笑った者たち

・あるいは自分を見捨てて逃げてしまった弟子たち

 

主イエスはこの十字架の上で、その誰に対しても恨み言一つ言われなかったのです。こんな人がいるでしょうか。

また、主イエスは、この十字架の死が、神の御心から出たものであることを受け取っておりました。

 

そして、朝9時~午後3時の実に6時間に及ぶ死の苦しみの中においても:

・主イエスの神への信頼は少しも揺るがなかったのです

・父なる神と子なる神との永遠の愛の交わりは、この十字架の苦しみをもってしても、破られることはなかったのです

 

ここに一切の罪の力は敗れます。神の御子の間の愛と信頼を破壊しようとした、一切のサタンの業は退けられたのです

“ここに神の愛が勝利したのです”ハレルヤー

 

.本当に正しい人(44~47)

44 そのときすでに十二時ごろになっていたが、全地が暗くなって、三時まで続いた。

45 太陽が光を失っていた。また、神殿の幕は真っ二つに裂けた。

 

主イエスが十字架におかかりになった時、「神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた。」と聖書は記します。この神殿の幕とは、エルサレム神殿の中にあった、年に一度大祭司だけが入れる至聖所と聖所を仕切る為に設けられていた幕のことです。

この幕は、人間と神との間にある、決して超えることの出来ない、罪という隔ての垣根を意味していました。

この神と人との間にある仕切りの幕、隔ての中垣が真っ二つに裂けたということは、この主イエスの十字架の出来事によって、私た

ちと神との間の罪という仕切りが裂かれたことを意味します

→そして、神と私たちとの交わりが、仕切りなしに為されるようになったのであります:

・私たちが神に向かって、親しく「アバ、父よ」と呼べるようになった

・そして神も、私たちを「我が子よ」と呼んで下さるようになった

ということであります。

 

 

47 この出来事を見た百人隊長は、神をほめたたえ、「ほんとうに、この人は正しい方であった」と言った。

48 また、この光景を見に集まっていた群衆もみな、こういういろいろの出来事を見たので、胸をたたいて悲しみながら帰った。

 

この主イエスの十字架を最初から最後まで見ている者がいました→百人隊長です:

・彼はローマ人であり、ユダヤ人ではありません

・彼はまことの神を知らず、メシアも知りませんでした 

しかし彼は職務上、今まで何人もの十字架にかけられて死ぬ犯罪人を見てきていたことでしょう。この日も、彼は職務上、主イエスが十字架を担いで総督ピラトの所からカルバリの丘まで来て、十字架にかけられ息を引き取るまで、彼はじっと主イエスの姿を見続けていました。

そして、主イエスが十字架の上で息を引き取った時に彼の口から出たのは、「本当に、この人は正しい人だった。」という言葉だったのです。

 彼は、主イエスの十字架での死を始めから最後まで見続けることにより、これ程までに神を信頼し、神と深く結び合わされている人がいるのか、これ程までに人を恨んだり憎んだりする、誰もが持っている悪しき心から自由にされている人がいるのかと、驚いたに違いないのです。

この十字架に、十字架にかかられた主イエスというお方を見て、実にこの主イエスというお方の存在そのものが奇跡であることに気付いたのではないでしょうか。彼は驚き、神を知らぬはずの彼の口から、神への賛美が生まれたのです。

 

.墓に納められたイエス(47~53)

50 …ここに、ヨセフという、議員のひとりで、りっぱな、正しい人がいた。

51 この人は議員たちの計画や行動には同意しなかった。彼は、アリマタヤというユダヤ人の町の人で、神の国を待ち望んでいた。

52この人が、ピラトのところに行って、イエスのからだの下げ渡しを願った。

53 それから、イエスを取り降ろして、亜麻布で包み、そして、まだだれをも葬ったことのない、岩に掘られた墓にイエスを納めた。

主イエスは、十字架の上で息を引き取られました。午後3時のことです。この日は金曜日でしたから、当時のユダヤの一日の数え方では、日没から、安息日である土曜日に入ります→もう仕事をしてもいいという時間がありません。

しかしこの時、アリマタヤ出身のヨセフという人が登場します。彼は議員の一人でした。この人は、ヨハネによる福音書によりますと、このアリマタヤのヨセフという人は、金持ちで、議員の一人であり、公にはしていなかったけれど主イエスの弟子の一人であったということであります。

 

彼は議員でしたが議会では反対らしい反対も出来ずに→主イエスの十字架にまで来てしまっていました→皆さん、あのペテロはじめ弟子たちでさえ逃げて隠れてしまっていたのです。そして、神はそのようなアリマタヤのヨセフにも、為すべきことを与え、御業のために用いられました。

 

彼は総督ピラトの所に行きます:

・そして主イエスの遺体を引き取らせてくれるよう願い出るのです

・そして、主イエスの遺体を自分のために用意しておいた墓に葬ったので

 

総督ピラトに、十字架で処刑された者の引き取りを願い出る。これは普通に考えて、最高法院の議員であるという立場でなかったら出来なかっただろうと思います:

→彼はこの申し出によって、今まで隠していた主イエスの弟子であるということを公にしたのです。彼は主イエスの十字架を見て、自分が主イエスの弟子であるということを、もう隠しておくことが出来なかったのでしょう。この方のために出来ること

  は何でもしたい。そう思ったのだと思うのです

 →そして、自分のための墓を主イエスのために献げたのです。主イエスが死んでしまった後で、もう彼に出来ることはこれだけで

   した

 

しかし皆さん、このアリマタヤのヨセフのように、私たちはしばしば後になって気が付くのではないでしょうか。

どうでしょうか皆さん。主イエスに対しては、もう手遅れだ、もう遅い、そんなことはないのですネー

→このアリマタヤのヨセフの「主イエスに対する信仰」が公にされる

→墓という主イエスへの献げ物がささげられる

 

それは全て主イエスが死んだ後でした。しかし、それは少しも手遅れではなかったのです。主イエスは、神は、このアリマタヤのヨセフの信仰を受け取り、献げ物を受け取り、これを用いて、主イエスの栄光の復活の場として下さったのです。

主イエスへの信仰、主イエスへの献げ物に、遅すぎるということはありませんネ。ハレルヤー、アーメン

 

 

  


2022.4.16

主 題:Happy Easterあたらしい いのち

聖書箇所:ルカ24章(朗読箇所:28~43)

 

(はじめに)

皆さん イースターおめでとうございます

今日の聖書箇所はルカの福音書の最終章24章全体です。朗読箇所は2843節と限定させていただきました。 

今日のイースターをともにお祝いし 喜ぶために 特に今日の聖書箇所(ルカ24:5~6):

「あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中でさがすのですか。

ここにはおられません。よみがえられたのです。」

…のイエスさまのよみがえり(復活)のドラマを 目に見える形として皆で見てまいりたいと考え用意しました。

→最後にはみんなで

“イースター おめでとうございます!”といえるようになればとできるだけ絵をくわえ用意しました。

 

1.十字架で死なれたイエスさま

  

アリマタヤのヨセフが、ピラトのところに行ってイエスのからだの下げわたしを願った。

それからイエスを取り降ろして、まだだれも葬ったことのない岩に掘られた墓にイエスを納めた 

 

2.イエスさまは(はか)にほうむられました

 

「わたしは 三日目に よみがえります」とイエスさまが言われたことばを誰も信じていませんでした 

神さまのひとり子 イエスさまが死なれたのは すべての人のいのちをすくうためでした。

わたしたちへの神さまの愛は なんて大きいのでしょう 

 

3.死んで三日目になりました(

 

 2石が墓からわきにころがしてありました

 天国から天使がおりてきて、イエスさまのお墓をふさいでいた おおきな石をころがしていました

 

4.あさはやく (はか)にかけつけてみると(5)

 

 

マリヤたちが、ほうむられたイエスさまのからだに 香油をぬるためにおはかに来てみると…

入り口が開いていて お墓の石の上にふたりの天使がいました

 

5.よみがえられました

 6天使は言いました

おそれることはありません。イエスさまはここにはおられません。よみがえられたのです[1]! 

 さあ! イエスさまの弟子たちに知らせなさい。

 

6.弟子たちは信じられません(9~11)

 女たちは、このことを使徒たちに話しました。が使徒たちはこの話はたわごとと思われ、そのことを信用しま

 せんでした

皆さん、よみがえられましたと言われても

 →私たち人間には理解することは出来ません

→私たちは見なければ…信じることもできませんネー

 

7.     弟子のペテロとヨハネは(12)

 

エスさまの弟子のペテロ(とヨハネは)いそいで墓に走って行きました。ほんとうに 

イエスさまの身体はありません。

 弟子たちは みんな希望をうしない 心はまっくらな恐れで いっぱいになっていました。

 イスラエルの王様に なられると信じて従ってきたイエスさまが いなくなってしまったのです。

 

8,二人の弟子たちがエマオへの道を歩いていると(13~18)

二人の弟子がエルサレムを離れて、エマオの村へ行く途中のことです。

いまエルサレムでおこったあの十字架刑の一部始終→について熱心に話し合っていると

ある人がちかづいてきてふたりといっしょに歩き始めました。

 しかし、二人の目はさえぎられていて、その人がイエスだとはわかりません。

 

.エマオの村でパンをさくと(30~31) 

   

 夕方、エマオの村に着くと、ふたりはもっと話を聞きたくて一緒に泊まって下さいとたのみました。

 食事の時、その人はお祈りをしてから パンを裂いて二人に渡しました。

するとその時、ふたりの心が開かれて この方こそすくいぬし、よみがえられた 

イエスさまだ”とわかったのです

 

10.エルサレムでその話をしていると(33~39)

 

 二人はすぐにエルサレムへかえりました。そしてエマオで起きたことを仲間たちに話していると、

その真ん中にイエスさまが立たれました。

39「わたしにの手やわたしの足を見なさい。私にさわってよく見なさい。

     霊ならこんな肉や骨はありません。わたしは持っています。」

 

弟子たちはみんな、よみがえられたイエスさまを見て大よろこび

「いまあなたがたには、えいえんにつづく喜びがあたえられたのです。」

イエスさまは 弟子たちに 息を吹きかけられて、「聖霊を受けなさい」とおっしゃいました。

 

11.魚を食べるイエスさま(41~43)

 

41 イエスは、「ここに何か食べるものはありますか」と言われた

42 それで、焼いた魚を一切れ差し上げると

43 イエスは、彼らの前で、それを取って召しあがった。

 

このようにしてよみがえられたイエスさまは5百人以上の人々の前に姿をあらわし生きているお姿を見せました。

  

12.さあ、わたしは天国へ (44~49)

 

12・1 わたしは聖書の預言を全部実現しましたよ(44

イエスはいわれた。

「わたしについて、聖書に書いてあることは必ず全部成就することでした。」

“わたしはすべての人の、すべての罪の身代わりとして、十字架上で殺される”ことです

  →これがすべて成就しましたよ 

 

12・2 そしてさらに、イエスさまはこう言われた

1)イエスさまは(46)

・ 私たちすべての人の、すべての罪の身代わりになって→十字架上で死にましたよ

 

2)イエスさまは死んで終わりでなく(46)

復活(ふっかつ)されて(よみがえられて) 今も生きて はたらいているよ

 

3)イエスさまを信じる者は(47)

→悔い改めが起こされ、救われますょ

 

  4)あなた方救われた者が私の証人となり(47~48)

    →全世界に宣べ伝えられます

 

5) ひとりひとりに聖霊を送りましょう(49)

 その約束のものを あなたがたに送りますから、

それまでは都エルサレムにとどまっていなさい

 

12・3 わたしは天国で 見ていますよー(50~51)

そして、イエスさまは ベタニヤの村へ 弟子たちを連れて行き手を上げて祝福された。

 そして、彼らから離れて行かれた

 

皆さん、この良き知らせをともに喜び、賛美しましょう

 イースターおめでとう!

イースター!…→ハレルヤ!


[1] あの方はよみがえられて→今も生きておられます

 

 

 


2022.4.30 

主 題:神の国の回復 待ち望み

聖書箇所:使 徒1・3~2・

 

(はじめに)

今日から読んで行こうとする“使徒の働き”は、 “ルカの福音書”と同じ医者ルカが著者であります。私たちはこれまで、ルカの福音書を通読してまいりましたが、そのルカの福音書の第24章を通して、主イエスの復活の祭り→イースター(新しいいのち)礼拝の中でお祝いをし、新たな恵みをいただいてまいりました。

 

その復活された主イエスが、弟子たちに語った24章47~49節がこういうことばで閉じられています:

47 その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。

48 あなたがたは、これらのことの証人です。

49 さあ、わたしは、わたしの父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられ るまでは、都にとどまっていなさい。」と 

つまり、

神の国の福音は エルサレムだけでなく、あらゆる国のあらゆる人々に宣べ伝えらえますが、あなたがたはその証人ですよ。しかし、そのために、父なる神の約束したものをあなたがたに送りますから、その力が降るまでは都エルサレムにとどまっていなさい、と

→これが、ルカの福音書の聖霊降誕の約束でした。そして、この約束のことばでルカの福音書は閉じられていますネ。

それにつづくのが使徒の働きです。ですから、

“使徒の働き”は、神の国の福音を、エルサレムのユダヤ人をはじめとし、全世界に宣べ伝える使徒や弟子たちの足跡です…というか、父なる神の約束のもの(聖霊)による→“聖霊の働き”の足跡をしるす物語でもあります→ここから別名“聖霊行伝”とも言われています。

さあ、それでは私たちもその「使徒の働き」をしっかりと読んで その世界宣教の一端を担う者として進んでまいりましょう。

 

1.神の国の回復(6~11)

 3 イエスは苦しみを受けた後、四十日の間、彼らに現れて、神の国のことを語り、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに示された。

4 彼らといっしょにいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。」

→ここのところは先ほどのルカの24章と同じことですネ。

 

ところで皆さん、イエスさまはこの地上へ人のかたちをとって→神の子としてこられましたが、その主イエスの地上での目的は何でしたか

でしょうか?→次の2つのみことばから考えてみましょう:

 ル カ81イエスは神の国を説き、その福音を宣べ伝えながら、町や村を次から次に旅をしておられた

 マルコ115 時が満ち、神の国が近くなった。悔いあらためて福音を信じなさい

 →そうです、神の国に生きる幸いと平安を知り、そのことを伝える神の子イエスを信じ救われなさい…これをすべての人にお伝えすることですね

 →しかし、そのために選ばれた12弟子ですが、その弟子たちの期待にはずれ、主イエスは十字架で殺されてしまいましたですネー 

5 ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。」

6 そこで、彼らは、いっしょに集まったとき、イエスにこう尋ねた。「主よ。今こそ、イスラエルのために国を再考してくださるのですか。」

 →その弟子たちに、復活されたイエスがこのような(3~6)のことを語ったわけです…

 

弟子たちは40日の間 復活されたキリストにより教えられましたが、彼らは依然として「神の国の回復」に疑いを持っていました。

そしてその彼らは、約束された聖霊の賜物が与えられるのをエルサレムで待たなければなりませんでした。

 

復活されたキリストは「神の国の回復」についての弟子たちのその疑問に対して、2つの答えを出します:

 7その時や時期は、あなたがたの知るところではない。

 8 しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります

 

主イエスが復活された後 弟子たちが集まって来たときに、彼らは「神の国の回復」を待ち望んでいましたが、同時に疑問・疑いを持つ者のように行動しました:

 ・彼らは復活で何が起こったかは知っていましたし→神の国の回復は、彼らの希望と憧れの源でした

 ・その彼らは、キリストが神の国の約束を実現し、その完成を望んでいましたし、彼らは、それがいつなのかを尋ねていました

  →彼らは主のおしえを受けた者として、キリストの死と復活の証人として、キリストが決定的な戦いに勝利したことを知ってい

     ます

  →が、神の国の約束を実現は未だなのです…ことは未完了なのです

弟子たちは空手で待っているのではありませんでした。

彼らは:

・彼らの主、キリストが天に上げられたこと(1.2

・キリストが神の右にあげられたこと(233

このことを知っている者として、希望を抱いて待っていたのです

さあ皆さん、キリストが昇天して以降…主イエスの約束のものを待っている期間は:

→この期間は、弟子たちの果たすべきしごとと、それをなす力が与えられる時でありました。

→復活した日と神の国の回復の 間の時は、証人たちにとっては恵みに満ちた時間とも言えるでしょうー

 

11 そして、こう言った。「ガリラヤの人たち。なぜ天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります。」

この使徒の働きの出だしのところで、「ガリラヤの人たち。なぜ天を見上げて立っているのですか…と言う天使のことばで幕を閉

じることになります。

この期間 教会は:

・弟子たちから劇的に取り去らえれたイエスが、同じ様に彼らのもとに戻って来るという約束を確信しながら

・新しい任務・使命につかねばならない時でありました。

 

2.神の国への待望と祈り(12~14)

12 そこで、彼らはオリーブという山からエルサレムに帰った。この山はエルサレムの近くにあって、安息日の道のりほどの距離であった。

13 彼らは町に入ると、泊まっている屋上の間に上がった。この人々は、ペテロとヨハネとヤコブとアンデレ、ピリポとトマス、バルトロマイとマタイ、アルパヨの子ヤコブと熱心党員シモンとヤコブの子ユダであった。

14 この人たちは、婦人たちやイエスの母マリヤ、およびイエスの兄弟たちとともに、みな心を合わせ、祈りに専念していた。

 

この教えと約束に対する弟子たちの行動は、どうだったでしょう?

彼らは祈るために集まったのです

 ・現代のような、何か行動せないかん→行動や活動に走りがちになことが期待されていたかもしれません

 ・しかしから彼らは「地の果に至るまで」証人となることと聞かされていた(使徒1・8)ので

   →彼らが始めたことは主に祈ることでした

 そんな中で

 教会に求められていたものは→忙しく行動することや人間の精力的な努力ではどうしようもないものでした

 ・弟子たちはとを聞かされました

  →弟子たちのまじめな奮闘努力以上のものが要求されていたのです

 

弟子たちには、これまでに主イエスからみことばを与えられていました:

「求めなさい。そうすれば与えられる…」(ルカ11・9~13)

 天の父は求める者に聖霊を与えてくださる→力が与えられることを祈り求めなさい、と

「気を落とさずに絶えず祈らなければならないこと」(ルカ18・1)を知っているので→約束された神の国を祈り求めたのですねー

 こうして、信仰深い教会の2本柱⇒・待ち望むこと

                ・祈るために集まること…

となったのですネー→みことばの成就です→イザヤ40

31 しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、

鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。

 すべてがインスタントの時代、コンピューター化の進んだ気短な現代に生きる私たちにとってはこの待望は、大変取り組みにくい課題ですが

→それは教会の厳粛な任務と言えるでしょう、いや厳粛な任務です

この世において我々がなすべき使命を、我々の努力や計画、そしてリバイバル運動だけで達成することは、われわれの能力をはるかに超えていることを意味していると思います

→何か我々以外の他の力が与えられることが必要なのです

→即ち、

教会は ①待望し ②また祈る…

 →この賜物は祈りのうちにたえずあらたに探し求めなければならないものなのですネー

→イエスについてすべてを知っていることも、イエス自身の教えを40日間にわたって受けたことさえ、教会の使命を達成するた

めには不十分なのです

即ち、この難題の解決は、イエスについて、語るのたる知識を持つことにあるのではありません

→むしろ、イエスの証人としてとしてのイエスのわざを引き継いで行うことのできる力が与えられ、任務が委ねられることにあり

 ます

イエスの弟子たちが、その力を経験するまでは、エルサレムにとどまって待ち、祈ったことは適切なことでありましたネー

 

3.主イエスの昇天(3~5)

ルカはイエスの昇天を2つの異なった方法で報告している:

1)復活した日の晩に起こった(ルカ24・51)

2)苦難から40日を経て起こったか(使徒1・9)

 

1)ルカ24章での昇天は、イエスの地上での宣教の劇的な終わりであり、結論を構成しているピラトや、カイアファが葬り去ろうとした人物は、栄光のうちにあげられてゆく→死に打ち勝つ「復活」のしるしでした 

2)使徒1章では、昇天は教会ができた最初の基盤なのです→神の右に座り、力を与えられた「昇天」のしるし

 

これら2つのことばは使徒2章の5旬節において結びつくことになります。

きょうはここまでとします、アーメン