2022.10.01

タイトル: ペテロの投獄 その救出

聖 書:使徒12・1~17

 

1.ヘロデ王の政治とペテロの投獄(1~4)

1そのころ、ヘロデ王は、教会の中のある人々を苦しめようとして、その手を伸ばし、

ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺した。

 

この章に登場するヘロデ王とはヘロデ・アグリッパ王のことであり、ヘロデ大王の孫にあたります。

そのヘロデ大王もその孫も、ユダヤ人から見れば外国系の人種であり、孫のアグリッパは さらにローマで教育を受

け、ローマ皇帝の勢力を背景にしユダヤ・サマリヤを支配する王となり、その地位を維持していた。

 中央のローマ皇帝からその地方の統治者としての守ることは;

・中央に向け反乱を起こさぬよう統治すること

・そして、税金をちゃんと納めること

であります。従ってヘロデ王は懸命にユダヤ民衆の人気を獲得すことを心掛けていた→そのような王でありました。 

一方、エルサレム教会は、ステパノの殉教を契機とするユダヤ民衆などの迫害のために、使徒である指導者だけが教

会にとどまっているだけで、一般のキリスト者の大半は外地に追われるように逃げて行った。従ってエルサレム教会

の勢力は著しく小さくなっていました。

 その民衆は明らかに、エルサレム教会とその指導者である使徒たちに対しても、敵意と反感を抱いていました。

ヘロデ王の政は、こうした民衆のキリスト教会に対する反感を見て取り、民衆の人気取り政策でありました。

 

そのヘロデ王は教会の中のある人々を苦しめようとし、その手を伸ばし→第1に、ヘロデはゼベダイの子ヤコブを殺しました。 

皆さん、いつの時代でもそこの王・藩主は同じようなことをしますね、日本の場合も→一つの例を見てみましょう;

 

〔北海道松前藩のキリシタン処刑〕…その一例です

豊臣秀吉の天正禁令に始まる日本のキリシタン迫害史は、そのまま徳川幕府に引き継がれ、3代将軍家光の時代に苛烈さを増します;

・取り締まりと処刑が→本州各地で引き起こされてゆきました

 →天草、島原、そして長崎五島列島、とキリシタン弾圧は苛烈化します

  →また、徳川幕府の弾圧に追われ信者たちは、砂金採取に湧く松前では多くの鉱夫が求められているのを知り、   津軽海峡を越えて蝦夷の地・松前の地へと渡って行きました。そこでキリスト信者は鉱夫となり、松前の地で

      穏やかな信仰生活をしていました

・「松前は日本ではない」と蝦夷地の特殊性を自任していた七世松前藩主「公広(きんひろ)」でしたが

 →時の徳川幕府の命により寛永16年(1639年)松前藩は信者106人を斬首しました…

  →松前の殉教者106人は大千軒岳など3か所で斬首されました

 →さらにこの人たちへの伝道のために、金掘りを装って潜入した外国人宣教師二人もまた, 仙台と江戸で処刑

 されました 

松前藩の処刑は人気取り政策ではありませんが→地方藩主は、時の幕府からの命令には従わざるを得なかったの

 

3 それがユダヤ人の気に入ったのを見て、次にはペテロをも捕らえにかかった。それは、種なしのパンの祝いの時期

  であった。

4 ヘロデはペテロを捕らえて牢に入れ、四人一組の兵士四組に引きわたして監視させた。それは、過ぎ越しの祭りの後に、民の前に引き出す考えであったからである。

 ヘロデはヤコブに次いで、次に、今や異邦人と接触を持ち始めたエルサレム教会の指導者である→ペテロを第2の標的としました→それは種なしのパンの祝いの時期でありました;

 ・ヘロデ王は、民衆に対して、最も効果的な時期を狙っていました。それは祭りの時であり、その時には人々はエルサレムに集まっており、もっとも宣伝しやすかった→この祭りは過越しの祭りであり七日間にわたり祝われました

 ・ペテロのその時は皮肉にも、ユダヤ人にとっては過越しの祭りの時に逮捕されたのです

→過ぎ越しの祭り…エジプトの奴隷からの救出を記念するユダヤ人にとっては重要な祝祭日でありました

ペテロは捕らえられ、牢に入れられました。このペテロへの警戒も厳重を極めました:

→「四人一組の兵士四組に」引きわたして監視させました

→ペテロの裁判と刑の執行は祭りが終わってから行われることになっていました

 

このように、ヘロデ王の政は、こうした民衆のキリスト教会に対する反感を見て取り、民衆の人気取り政策であり;

ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺し→次いで使徒ペテロの投獄へとエスカレートします。

 

2.   ペテロの救出(5~17

2.1 祈る教会(5)

 教会はこの時、祈りに祈った。この時教会では→祈るしかなかった、祈ることしか出来なかったのです。

教会には、ペトロを救い出す具体的な手だてを施す力はありませんでしたし、実力行使でペトロを救い出す力もありませんでした。教会は、祈るしかなかったのです。

 教会は祈った。そしてこの時、すでに神様は働いてくださっていたのです:

・そしてペトロは天使によるという、まことに不思議なやり方で助け出されました

・祈った結果こうなった、というのではないのです。祈っている時に、すでに神様は働いてくださっていた、ので 

あります 

 教会はこのような「祈るしかない」「祈ることしか出来ない」そういう状況を経験していく中で…

→「祈ることが出来る」「祈りがある」という認識、信仰の認識を与えられていったのです

祈りが自分たちに与えられている最大の武具であると知っていったのです

 

皆さん、

主イエスはこう言われた。(ルカ1946

「『わたしの家は祈りの家でなければならない』と書いてある、それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にした。」、と

→私たちも“祈りが自分たちに与えられている最大の武具である”

「わたしの家は祈りの家でなければならない」がここで成就した

これをしっかりと肝に銘じたいと思います、ネ アーメン?

 

2.2 ペテロの救出(6~11)

この時、牢に入れられたペトロを助け出すために天使が遣わされました。ペトロを引き出そうとしていた日の前夜、ペトロは  

二本の鎖でつながれ、二人の兵士の間で眠ており、戸口には番兵たちが牢を監視していた…とあります

ヘロデがペトロを牢から引き出そうとしていた前夜です。牢から引き出されれば、きっとペトロは殺されることになったでしょう。その前夜です。ペトロは二人の兵士の間で二本の鎖でつながれていましたが→寝ていたのです 

 

そこへ天使がペトロの所にやって来て;

・わき腹をつついて起こします

・そして、「急いで起き上がりなさい。」と告げたのです

・すると、鎖はペトロの両手から外れて落ちました

・天使はペトロに、「帯を締め、履物を履きなさい。」「上着を着て、ついて来なさい。」と告げます

 

ペトロは天使が言われるまま、天使について行きました。ペトロは何が起きているのか分かりません

→「幻を見ているのだと思った」と;

 ・牢を出て、第一衛(兵)所の前を通り、第二衛所の前を通ります

・兵士は誰も気付きません そして、

・ついに町に出る門まで来ると、門がひとりでに開きました

 ペトロは町に出て、進んで行きました。すると突然、天使はペトロから離れました。もう大丈夫ということだったのでしょう。皆さん、

祈りに応える神のみ業“神にとって不可能なことは一つもありません”、ですね、アーメン

 

2.3 ロダの知らせ(12~16)

 さて、ペトロは天使によって牢から脱出することが出来ました。そこで彼が向かった先は、マルコと呼ばれていたヨハネの母マリアの家でした。

12後半「そこには、大勢の人が集まって祈っていた。」

 とありますから、多分、この家が家庭集会の場であり、また礼拝堂の役割を果たしていたのではないかと思います。

この家は、門構えがあって、その先に母屋があるといった、かなり大きな家、まさに邸宅と言って良いような家であったと思います。
ロダという女中がまず出て来ました。ペテロの声だと分かると、彼女は喜びのあまり門も開けずに家に駆け込み→ペテロが来ている、とそう告げました

この時家の中にいた人々、彼らはキリスト者であり、ペテロが解放されることを願い祈っていた人たちです。

15彼らは、「あなたは気が狂っているのだ」と言ったが、彼女は、本当だと言い張った。そこで彼らは、「それは彼の御使い

 だ」と言っていた。

 彼らは、女中ロダが、ペテロが来ている、と言うのをまるで信用しないのです。そして、「ペテロを守る天使だろう。」とまで言い出す。これは多分、ペテロが死んで、天使がペテロの死を知らせに来たのだろう、という意味です→まるで信じていない。

 

彼らは祈っていたけれど、本当にペテロが助けられるとは思っていなかったのです→不信仰ですネー。しかし、この不信仰が、ペテロが天使によって助けられたという出来事によって→信仰へと変えられていったのでありましょう

 

皆さん、私達の信仰の歩み、教会の歩みとはそういうものなのではないでしょうか!;

不信仰というべきか、主が生きて働いてくださるということが信じ切れない者が→祈って、神の出来事に出会って喜びの中で、主が今も生きて働いてくださっていることを信じる者へと変えられていくのではないでしょうか

 

(高木の札幌市大丸デパート前での癒しの証詞)

 

2.4 ペテロの宣教の旅

17しかし彼は、手ぶりで彼らを静かにさせ、主がどのようにして牢から救い出してくださったかを、彼らに話して聞かせた。それから、「このことをヤコブと兄弟たちに知らせてください」と言って、ほかの所へ出て行った。

 

“ほかの所へ出て行った…”ペトロは、この後どうしたのでしょうか?

 使徒の働きは、この後13章からはパウロの伝道について述べていくことになって、ペトロについてはこれで終わ

ってしまいます;

・多分、ペトロはこの時からエルサレムにいることが出来なくなり

・エルサレムの教会は主の兄弟ヤコブ(主イエスの弟のヤコブのことです)を中心としたものになっていったと考えられます

・ペトロはこの後、各地を回って伝道したに違いありません

・そして、紀元後64年に、ローマにおいて皇帝ネロによって殉教するのです

→それまでの20年間、ペトロは各地を巡って主の福音を伝え、ついにはローマにまで行ったのではないかと考えられています。

ここまでにします。

 

 

 


2022.10.15

主 題:パウロの第一回伝道旅行のはじまり

聖書箇所:使徒13・1~52  

 

1.アンテオケ教会の国外伝道(13:1~12)

.1 アンテオケ教会はどんな教会?

使徒11章でアンテオケ教会ができた次第を知りました:

・エルサレム教会から迫害により散らされて行ったアンテオケの街で、その人々は主イエスキリストの福音を語り

  伝え、そこにアンテオケ教会が立てられました

・そのアンテオケで救われた人たちは 口をひらけば「キリストは…」「キリストが…」と語り、そこからクリスチ

  ャンと呼ばれるようになった

こうして、アンテオケ教会は異邦人宣教の拠点教会となって行きました。

 

そのアンテオケ教会は;
1)多様な5人もの預言者・教師を擁する教会となってゆきます;

・「バルナバ」:エルサレムからアンテオケに遣わされたギリシャ語を話すユダヤ人で、出身はキプロス島です(使徒436

・「ニゲルと呼ばれるシメオン」:ニゲルはアフリカ出身で、シメオンはユダヤ的名です→アフリカ出身でユダヤ教に改宗し、さらにキリスト教に改宗した人

・「キレネ人ルキオ」:キレネも北アフリカの地方出身のローマ人ですから→異邦人からの改宗者と思われます

・「領主ヘロデと一緒に育ったマナエン」:このヘロデとは、ヘロデ・アンティパスと言われます→彼は幼少期をロ

    ーマで養育されました。マナエンはその時にそのヘロデと一緒に育った人です

・「サウロ」: 彼はユダヤ人の中のユダヤ人で キリスト教徒を迫害していた人でした、後にパウロと命名される

 

このように見てくると→実に5人とも、出身地も、肌の色も、育った文化も宗教も違っていた人々であることが分かりますが、このような多様な文化出身の預言者・教師を擁した教会となっていました。

 

2)祈る教会であった

2「主を礼拝し、断食していると」とあります

「断食していると」→「断食して祈っていると」という意味です

3「彼らは断食して祈り」とあります…

実にこの教会はよく祈った教会でした。そして祈って示されたのが、“バルナバとサウロを伝道のために遣わ

す”ということだったのです

 

実に、彼らアンテオケ教会の人たちは、この聖霊が告げたことに従って、バルナバとサウロを遣わしたのです;

バルナバとパウロ:この二人はアンテオケ教会の基礎を築いた伝道者です。この二人によって導かれ、信仰を与えられた者も少なくなかったでしょう

・そんな二人を遣わすということが、アンテオケの教会にとっては大きな痛手であり、損失であったと思いますネ

 

しかし、アンテオケ教会は二人を遣わしたのです。最も有能な二人を、ただ神が選ばれた故に、伝道のために遣わしたのです→祈って神に示された道だったからです! ハレルヤ―

 

.2 国外伝道の開始→パウロ第一回伝道旅行のはじまり

もう一度、

2彼らが断食して祈っていると聖霊はこう告げたのです

「バルナバとサウロをわたしのために聖別して、わたしが召した任務につかせなさい。」

教会はこの主のご命令に従ったのです→アンテオケの教会の主は=神であったということです、ネ

さあ、その伝道旅行の行く先々を地図で見てみましょう;

.3 キプロスでの伝道

バルナバとパウロは、まずキプロス島に行きました。このキプロス島はバルナバの出身地でしたから、バルナバの土地勘のある所、人のつながりのある所を選んだということだったのかもしれません、ネ 

5「サラミスに着くと、ユダヤ人の諸会堂で神の言葉を告げ知らせた。」とあります。まず彼らは、ユダヤ人の会堂に行って、ユダヤ人に対して伝道したのです。
このキプロス伝道において出会ったのが魔術師でした。

6節「にせ預言者で、名をバルイエスというユダヤ人の魔術師に出会った。」とあり、この魔術師は地方総督の信頼を受けていたのです。けれども、この総督がパウロとバルナバの話を聞こうとすると、ふたりに反対して、その総督を信仰の道から遠ざけようとしたのです。


そこでパウロはこの魔術師と対決することになりました;

9 しかし、サウロ、別名でパウロは、聖霊に満たされ、彼をにらみつけて、

10言った。「ああ、あらゆる偽りとよこしまに満ちた者、悪魔の子、すべての正義の敵、おまえは、主のまっすぐな道を曲げることをやめないのか。

11見よ。主の御手が今、お前の上にある。お前は盲目になって、しばらくの間、日の光を見ることができなくなる」と言っ

  た。

するとたちまち、かすみとやみが彼をおおったので、彼は手を引いてくれる人を捜しまわった。この出来事を見た12「総督

は、主の教えに驚嘆して信仰に入った」

 

このキプロスのユダヤ人会堂における伝道の成果は何も告げられておらずただ、総督の回心だけがここに記されています:

→このキプロス伝道での成果は、この総督の回心ということだけだったのかもしれません

それでも、総督の回心という出来事は、その後の多数の信仰者の誕生というものを予想させることではあります、ネ

→このキプロス伝道は“聖霊なる神さまによってなされたこと”このことを私達が心に留めなければならないことであります、ネ

 

2.ピシデヤ・アンテオケでの伝道 

.1 ピシデヤのアンテオケへ(13~15)

彼らはキプロス島から小アジア(現在のトルコ)に渡り、そこからピシデヤ州のアンテオケに行きました。

この旅の途中で、パウロとバルナバと一緒にいた“ヨハネがエルサレムに帰ってしまうという出来事”が起きました.

このヨハネは、別の名前で私達に知られています→それは“マルコ”です

このマルコの母の家は…使徒の働き1212節に

こうわかったので、ペテロは、マルコと呼ばれているヨハネの母マリアの家へ行った。

 そこには、大せいの人が集まって、祈っていた。」  と出てきます。

 

“マルコの母”は

・多分、エルサレムにおける最初の信徒であり、人々がその人の家で集会をするような人でした

・またマルコはまだ若かったのでしょう。バルナバとサウロ(後のパウロ)は、マルコの母から「マルコをよろし

  く」と頼まれていたと思われますネ

そんな事情もあり、バルナバとパウロは エルサレムからアンテオケの教会に戻るときに、マルコを連れてきました。そして、マルコはパウロとバルナバが伝道の旅に出るという時に、助手としてお手伝いをするということでついて行ったのです。

ところが、一番最初のキプロス島での伝道が終わり、次の所へ行く時には帰ってしまった。しかも、自分を送り出してくれたアンテオケにではなく、自分の家のあるエルサレムに帰ってしまったのです。

そんな事情からか→マルコのその反省もあり、四つの福音書のうち最も早くに記されたと言われる、「マルコの福音書」を記したのではないかとも言われています。

 

.2 パウロの説教(16~41)

16~41節の “みことば”は使徒パウロがした説教です。このパウロが語ったこと、それは二千年間キリストの教会が語ってきたことと同じことですが、3つのポイントに絞ります;

1.パウロはここでイスラエルの歴史を語りました(1622

2.パウロは主イエス・キリストの十字架と復活を語ります(2331

3.主イエス・キリストによって罪の赦しと解放が与えられる(義とされる)3241


パウロの説教;3839節→ここがポイントです

38ですから、兄弟たち。あなたがたに罪の赦しが宣べれられているのは この方によるということを、よく知っておいてください。

39モーセの律法では解放されることのできなかったすべての点について、信じる者はみな、この方によって、解放されるのです(義とされるのです)

 

なぜ、主イエスが十字架で殺されることによって、私達の罪が赦され(解放されるのか→)義とされるのか

→それは、身代わり(贖う)ということです

・私達すべての者の、すべての罪に代わって、主イエス・キリストが私達の上に下されるはずの罪の裁きを、その身に負ってくださったのです

・それが主イエスの十字架の死なのです

これは実に驚くべきことです→ここに真の愛があります! 神の私への、いや私達への愛が、どれほど並外れたものものであるか、私達はこの主イエス・キリストの十字架によって真の愛を知りました →皆さん,アーメンですか?

 

.3 ユダヤ人の嫉妬で 世界宣教の道へ(42~52)
42ふたりが会堂を出るとき、人々は、次の安息日にも同じことを話してくれようにと頼んだ。

43会堂の集会が終わってからも、多くのユダヤ人と神を敬う改宗者たちが、パウロとバルナバに ついて来たので、ふたりは彼らと話し合って、いつまでも神の恵みにとどまっているように勧めた。

 

多分、パウロたちは安息日が終わっても、求められるままに主イエスの福音を語り続けたのだと思います。それがまた評判を呼んだのでしょう

44次の安息日には、ほとんど町中の人が神のことばを聞きに集まって来た。

大変な人だかりが出来たのは間違いないでしょうか。しかし、ここで問題が起きました。ユダヤ人たちがパウロの話すことに反対したのです→それは、45節に「ねたみに燃え」のためであったと聖書は告げております。どうしてでしょうか?

1.いつもの安息日礼拝には全く来ないような人たち、そのほとんどは異邦人だったと思いますが、そういう人たちが大勢パウロの話を聞きに来たので、ねたんだのでは

2.しかし、もっと大きな理由は、パウロが語る福音の内容をねたんだ、  

ということではないかと思います:

パウロが語る主イエスの福音は

×律法を守ることによって救われる

〇ただ、主イエス・キリストを信じるならば救われる→ので

これは、律法を守ることによってのみ救われると考えていたユダヤ人にしてみれば、とんでもない内容だったの

です

・自分たちはユダヤ人である。自分たちは律法を守っている→だから救われる。そう考えていたユダヤ人にしてみ

  れば、パウロの語る福音は、自分たちの誇り根本から砕いてしまう、そういう内容だったのです

 →だから彼らは「パウロの話すことに反対した」のだと思うのです

 

46そこでパウロとバルナバは、はっきりとこう宣言した。「神のことばは、まずあなたがたに語られなければならなかったのです。しかし、あなたがたはそれを拒んで、自分自身を永遠のいのちにふさわしくない者と決めたのです。見なさい。私たちは、これからは異邦人の方へ向かいます。

47なぜなら、主は私たちにこう命じておられるからです。「わたしはあなたを立てて、異邦人の光とした。あなたが地の果てまでも救いをもたらすためである。」

 

これを聞いた異邦人たちは→喜び主のみことばを賛美し;

・その人々はみな→信仰に入った と記され

・こうして、主のみことばは、この地方全体に広まったと記されています

50 ところが、ユダヤ人たちは、…パウロとバルナバを迫害させ、ふたりをその地方から追い出した。

51 ふたりは、彼らに対して足のちりを払い落として、イコニオムへ行った。

皆さん、

ユダヤ人のパウロとバルナバへの迫害ゆえに、足のちりを払ったパウロたちの宣教旅行の行く先は全世界に向けられることになりましたネー

そして、やがてアンテオケとは真反対の日本にも伝わって来て…その何世代かの後に、私たちにまで主の福音が伝わってきたことを思うとき

主のなさることは時にかなって美しい! と心から賛美いたします。

 

 

 


2022.10.22

主    題:パウロ第一次伝道旅行のまとめ

聖書箇所:使徒14・1~28  

 

(はじめに)

今日の14章ではイコニオム→ルステラ→デルべと伝道旅行の後半が語られてゆきます。ゆく先々で伝道者たちは迫害によってその町から去って行きます。がしかし、その町には主イエスに触れられたキリストの弟子たちが残されています。

皆さん、その町に残されたキリスト者はどのようにしてその信仰を守ったのでしょうか…?

さあ、そのような中で、ここにはたくましく生きたキリスト者の姿と、それを支えたパウロ達伝道者の苦闘する姿が描かれています。このパウロ達の伝道旅行の後半を読んでまいりましょう

 

1.      パウロの第1次伝道旅行の後半(1~28)

 1.   1イコニウムでの伝道1~7)

ピシデヤのアンテオケから出た次の町は→イコニウムでした。このイコニウムの町はエペソおよびローマに通ずる要路に当たっていたので古くから栄え、繁栄を極めていました。  

パウロとバルナバは、この町の伝道でもアンテオケの時と同じように、まずユダヤ人の会堂に行き、そこで主イエスの福音を語りました。

そこでもユダヤ人は、二人の説くキリストの教えに対して;

・それを受け入れる者  ・それに反対する者

に分かれました。そして、賛成と反対のそれぞれに異邦人が加わり分裂が起きました。

3それでも、ふたりは長らく滞在し、主によって大胆に語った。主は、彼らの手にしるしと不思議なわざを行わせ、御恵みのことばの証明をされた。

  イコニウムの町は、彼らの伝道の結果、決定的に2分されました。そして反対派が石打にしようと→暴徒化するほどに激しものとなってしまいました。そのような中、ふたりは事前に反対派の動きを知って、イコニウムの町を脱出し→ルステラへと難を避けることができました。

 

.2 ルステラの町-足のきかない人のいやし(8~18)

8 …ある足のきかない人が座っていた。彼は生まれつき足のなえた人で、歩いたことがなかった。

9この人がパウロの話すことに耳を傾けていた。パウロは彼に目を留め、いやされる信仰があるのを見て、

10大声で「自分の足で、まっすぐに立ちなさい。」と言った。すると彼は飛び上がって、歩き出した。

 

ルステラの町は、アウグスト帝によってローマの征服植民地になっていた。このルステラの町でのパウロと」

バルナバの伝道で特筆される出来事は、「足のきかない人のいやし」です;

9この人がパウロの話すことに耳を傾けていた。パウロは彼に目を留め、いやされる信仰があるのを見て:

・おそらくこの男は、パウロの語る主イエスの福音にかなり長い間聞き入っていたと思われます、つまり

・すでに彼には、その語られたことばを通して、イエスを神の子と信じる信仰の種子がまかれていたと思われますネー

パウロはこの熱心に耳を傾ける男の中に、信仰の純粋さと真実さを見て取ったのでありましょう、大声で「自分の足

で、まっすぐに立ちなさい。」と言ったすると

・この足なえは癒された=肉体の癒しがなされました

・神への純粋な信仰があるとき、神の御力とあわれみのゆえに肉体の癒しが与えられました

→彼はパウロの命令を素直に受け入れ、従った結果、彼は飛び上がって、歩き続けた

 

皆さん、この足のきかない人のいやしは、使徒3章にある「ペテロによる足なえの癒し」とよく似ています、ね。

8 …彼は生まれつき足のなえた人で、歩いたことがなかった」というところも→全く神による奇跡によるもので

あることを裏づけています

→神様がパウロを用いて、いやしの業をしてくださったのです

→いやされる信仰があるのを見て祈るとき…主の癒しがなされる

 

この奇跡とも思われる癒しは、現代でも起きているのです;

〔高木の証:癌が癒された証〕

 

1. 3 石打の刑より立ち上がるパウロ(19~20)

19ところが、アンテオケとイコニオムからユダヤ人が来て、群衆を抱きみパウロを石打ちにし、死んだものと思って、町の外に引きずりだした。 

さてこのルステラにも、アンテオケとイコニウムからパウロとバルナバを排斥するユダヤ人たちがやって来ました。そして、群衆を抱き込み、パウロを殺そうと石打にし、そのパウロを町の外に引きずり出し、捨てられました;

この時パウロは本当に死んでしまったのでしょうか、死んだでしょう

 ………

 ・しかしパウロは、弟子たちが来ると起き上がりました

 

主なる神の守りとしか言いようがありません;

・生ける神の不思議な守りと力は、生まれつき足の不自由な人の上にだけあったのでは

 ありません

・パウロ自身をも、このように守ったのです

 

そのパウロは何と、再びルステラの町の中へと入って行ったのです。驚くべきことです→自分を石で打ち殺そうとした人たちの所に行ったのです。

パウロを石で打ち殺したと思っていた人々、あるいはその話を聞いていた人々は、このパウロの姿を見てどう思ったでしょうか;

・驚き恐れたに違いありません

・そしてその驚きと恐れは…

→主イエス・キリストを死人の中から復活させられた、生けるまことの神への畏れとなったのではないでしょう か…

皆さん、生けるまことの神はどこにおられるのでしょうか?;

 ・死んで4日もたち、もう臭いです…と言われたラザロを生き返らせた主イエスの御業を思い出させます

  (ヨハネ1139

 ・石打ちし、捨てられたパウロが起き上がり…自分を石で打ち殺そうとした人たちの   所に行った、という

→それは、この生けるまことの神を信じる者と共におられるのです

 

そしてこのことは、単に聖書に書かれてあることだけでなく、この現代に生きる私達自身にも起こされていることに→目を覚ますことを主は求めておられると思いますネー アーメンでしょうか…

 

2.来た道を戻る伝道者の道 

.1 来た道を戻るパウロ達(21~22)

この第一回伝道旅行の最後の町デルベからシリアのアンテオケに戻るには、来た道を戻るよりは、そのまま前に進んで東へ向かった方がずっと近いのですネ  船に乗って帰るための港に着くまでに、シリアのアンテオケに戻れてしまいます。途中には、パウロの郷里であるタルソスの町もありました。

しかし、彼らはそのような道を選ばず、来た道を戻るようにして、わざわざ遠回りをして戻ったのです;

・ルステラでは石うちにも遭いました

・イコニオンでもアンテオケでも、追い出されるようにしてそれらの町を後にした彼らです

戻れば、また同じような目に遭うかもしれない、私たちにはそう考えるのが普通でしょう。しかし、彼らはあえてその道を選んで、シリアのアンテオケの教会へと戻って行ったのです。どうしてでしょうか…?

 

1)それは、彼らにはやるべきことがあったからです

彼らの旅は伝道旅行です。キリストの福音を宣べ伝え、キリストの弟子をつくるための

旅です。確かに彼らに対しての排斥運動も起きました。しかし、それぞれの町にはキリ

ストを信じる者たちが起こされたのです。

→パウロ達は、その人たちを放っておくことは出来なかったのです

 

また、彼らの伝道は…主イエス・キリストの福音を宣べ伝えることであり、キリスト者

を起こすことでした。しかしキリスト者が起こされるそのことだけで目的が達成された

とは考えなかったのです…

→キリストを信じた者がその伝えられた福音に留まり続ける、そこまでの責任を思い、

 なすすべきことがあると考えたのです 

このことは、私たちの教会の言葉で言えば、伝道はしても牧会の働きがなければ信仰者は去ってしまう→羊飼いがいなければ、羊は迷い出て行ってしまうことになります、ネー

2) 伝道者の務め

また、伝道者にとって決定的に重要なことは、「語ったように生きる」ということではないでしょうか! 語っていることと、やっていることとが違っていれば、語った言葉に力はありませんし、誰も信用してくれないでしょう。

 

22「わたしたちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なくてはならない。」

とパウロ達は語りました→彼らは、この言葉に自ら忠実に生きたのです。だから、デルベから東へ進んでシリアのアンテオケに戻るのではなく、来た道を戻った

 ・自分たちに対して排斥運動を起こした町々を通って、そこで再び出会うかもしれない苦しみ

  をも覚悟の上で 苦しみを避けるのではなく

・その苦しみが神の国へとつながることを信じて、生まれたばかりのキリスト者たちを励ましつつ→帰路についたのです

 

.2 長老を立てる(23)

パウロたちは、キリスト者になったばかりの、しかも困難な中で信仰を守らねばならない者たちを慰め、励ましました。しかし、彼らがいつまでもその町に留まることは出来ません。そのために彼らは具体的な一つのことをしたのです、それが→「長老を立てる」ということでした。 

神の民には、旧約以来神の民を指導し、導くために“長 老”が立てられておりました。パウロたちは、新しく生まれたばかりのキリスト者の群れを、新しい神の民としてそこに立てていったのであります。

ここでの長老とは、今で言えば、牧師と長老と執事を兼ねているようなものだったと思いますけれど、その目的ははっきりしています。

この生まれたばかりのキリスト者たちの信仰がなくならないように、信仰に踏みとどまることが出来るように、励まし指導するためでした。

 

.3 伝道報告(27~28)

さて、パウロたちは自分たちを送り出してくれたシリアのアンテオケの教会に戻ると、報告会を開きました。この長い旅の間に起きた様々なことを語ったことでしょう。しかし、その様々なことを通して明らかにされたのは、大きく言えば二つのことでした;

   伝道旅行中、神が自分たちと共にいてくださったこと

   異邦人でも信じる者は救われる→異邦人に信仰の門が開かれたこと
パウロたちは、この困難に満ちた伝道の旅において、改めて「 神が自分たちと共にいてくださる 」ということを味わい知ったと思います;

     ・命の危険さえありました→・しかし、守られました

 

 振り返って、私たちのJEBの諸教会を考えてみましょう→私たちは、主の御用にお仕えする時、主が共にいてくださるということを本当に知らされるのだと思うのです。

主のみ業にお仕えする時、私たちは様々な困難に出会います:

・何事もなくというわけにはいかない→そこで祈らざるを得ません

・その祈りにこたえてくださる主によって→道を拓かれるという経験をし、積んで行きます

 

そして何よりも、そんな中から→古くも新しくも主イエスを信じる者が起こされるという出来事を目の当たりにして、そのことを思い知るのです:

・私の伝道の働きが素晴らしかったから、力があったから、キリストを信じる者が起こされた

 →そんな風に考える伝道者はおりません

・自分の無力を思わされるなか、しかし、キリストを信じる者が起こされるという出来事を目の当たりにして、主が共におられるということを思い知らされていく

 

それが伝道者であり、伝道する教会なのではないでしょうか。この上岩出キリスト教会の私たちには何もない:

・力もない。知恵もない。金もない。

・しかし、新しい会堂がある、主が共にいてくださる

この主にすべてを期待し→任せるならば、私たちは自分の思いをはるかに超えた、主なる神の大

いなる救いのみ業を目の当たりにすることが出来ると信じてやっています。

 この地に住む多くの人々に、主イエス・キリストを信じる信仰の門が開かれていきますよう祈りつつ→関わりを続けていきたいと願っています。

 

 


2022.10.29

主  題 :「 エルサレム会議 」

 聖書箇所:使徒15・1~21

              

(はじめに)

パウロたちによる第1次伝道旅行→初めての異邦人への伝道旅行も無事終えて、アンテオケの教会に戻るとすぐに報告会を開きました。長い旅の間に起きた様々なことを語りました。その様々なことを通して明らかにされたことは、大きく言えば二つのことでした;

  神が自分たちと共にいてくださったこと

パウロたちは、この伝道の旅で困難に出会うたびごとに、いつも助けられ導かれ「神が自分たちと共にいてくださる」ことを味わい知りました

  異邦人にもキリスト信仰の門が開かれたこと…でした

 ところが、このように喜びと平安で終わった第1次の異邦人伝道の記事は、この15章に入ると「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ…」という唐突な挿入で物語は転換してまいります。

 

1. ユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者の対立

事の発端はこういうことでした…

1さて、ある人々がユダヤから下って来て、兄弟たちに、「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」と教えていた。

2そしてパウロやバルナバと彼らとの間に激しい対立と論争が生じた…

 

 この「ある人々」というのは、5節にある「パリサイ派から信者になった人」ではないかと思われます。ともあれ、とても重大なことゆえ→この件について使徒たちや長老たちと話し合いするために、パウロとバルナバ、そのほか数名の者がエルサレムへ上ることに決まった。」とあります。

アンテオケの教会は、パウロとバルナバを伝道へと送り出した教会ですが、その構成メンバーの多くは、異邦人でありました。この教会から遣わされたパウロとバルナバがおこなったいわゆる第1次伝道旅行も、結果的には“異邦人伝道旅行”ということでした→ここに;

・ユダヤ教からの改宗者、つまりユダヤ人キリスト者を中心とするエルサレム教会と

・異邦人キリスト者を多数とするアンテオケ教会

→という二つの教会が生まれたのです

 

そのユダヤ人キリスト者を中心とするエルサレム教会の中には;

・主イエスを信じるだけでは救われない、モーセの律法も守らなければ救われない、そう主張する人たちがいたの

 です

・これは、割礼という儀式を行うかどうか→異邦人でキリストを信じた者も割礼を受けなければならないという主張に、端的に表れてきました

 

一方、パウロやバルナバを中心とするアンテオケ教会は;

・割礼は必要ない、イエス・キリストを信じる信仰によってのみ救われるのであって律法を守ることは救いの条件

  ではない

・異邦人は割礼を受けてユダヤ人にならなくても主イエスを信じる信仰だけで神の民に加えられる→そういう主張をしました

 

聖書は、この二つの立場の対立が相当激しいものであったことを、「激しい対立と論争が生じた」と記しています。生まれたばかりのキリストの教会における、最初の最も大きな危機であったと言って良いでしょう。このままなら教会が分裂していってしまう、そういう状況が生じたのです。

 

2. 分水嶺としてのエルサレム会議

さて、この教会を二分する、放っておいたら分裂してしまうかもしれない、この状況の中で教会はどうしたかといいますと→会議を開いたのです…エルサレム会議です;

・そこに集まったのは、もちろん使徒たち、そして教会の責任を与えられていた長老たちでした、まだ生まれたばかりの教会です→それほど多くの人数ではなかったと思います

・教会が右へ行くか左へ行くか、それを決めるのに会議を開いたのです

→これは、その後の教会の歴史においても受け継がれてくることになりま
 ここで、異邦人にも割礼を受けさせるべきだと考えた人々の意見も少し考えてみましょう→「異邦人の改宗者がキリスト者になるためには、
割礼を受けてユダヤ教徒になるべき」と主張します

がしかし、彼等は異邦人宣教に反対してはおりません;

・彼らイスラエルの契約には「地上のすべての氏族への祝福が含まれていることを知っています」(創世記12・3)

・その契約のしるしが→「割礼」であります。そしてイエスさまも受けられました(ルカ2:21)

  ですから、彼らの関心は:

  ×ユダヤ人以外を排除する

  〇ユダヤ人の契約に入れること→ここが主張のポイントです

 

そこでバルナバやパウロはじめアンテオケの指導者たちは→エルサレムの指導者たちと共に協議の必要を考え、エルサレム会議をもつことが大切と考えました。

ですから→エルサレム会議の検討課題は:「異邦人の救いと割礼の必要性の有無」,

であります 

結論を申しますと、パウロやバルナバを中心とする「信仰のみ」の立場が教会の公の見解として採用されることとなりました。もし、この時パウロたちの立場が退けられたなら、キリスト教はユダヤ教の中の一つの教派にとどまり、世界中に広がっていくことはなかっただろうと思います、ネ

 

 しかし、割礼は必要ないという主張が通ることによって、キリスト教はその後、民族の枠を超えて全世界へと広がっていくことが出来ました。実に、このエルサレム会議は、その後二千年のキリスト教の歴史を決定付ける、重大な出来事だったと言って良いと思います。

ある人は、このエルサレム会議は“キリスト教会の最初の分水嶺であった”と言います。確かに、その後のキリスト教会のあり方を決定付けたということで、そういう言い方も出来るかと思います。

教会の歴史には、この時の決断・決定によってその後のキリスト教会の歩み、キリスト教の歴史が決まってしまう、そういう出来事があります。

 

3. ペテロの演説(15:7~11)

15:7~11…ここを書きそして読む

 

7~21節にはこの会議における4人の人の発言がここに記されています。会議ですから、この4人だけが発言したとは考えられませんけれど、この4人の人たちの主張がこの会議を決定付けるものとなったので、このように記されているのでしょう。
第一の発言者はペトロでした。

彼は、自分が使徒として選ばれたのは、異邦人が自分の口から福音を聞いて信じるためであったと告げます。しかし;

・ペトロは主イエスに弟子として召された時も、復活の主イエスによって召されたときも、この様に考えてはいなかったでしょう

・そんな中10章に記されておりました異邦人コルネリウスとの出会い、神が与えられた大きな風呂敷の幻、そういう出来事を通して、8節以下にありますように、「異邦人にも聖霊が与え」られる、神は異邦人を受け入れたということを知らされ、このように理解に至ったと思われます

・そして、神は信仰によってユダヤ人である自分と異邦人とを何ら差別されなかった→神が差別しないのにどうして私たちがするのか、と告げたのです

このペトロの発言における決定的な宣言は、11節です;

  11私たちが主イエスの恵みによって救われたことを私たちは信じますが、あの人たちもそうなのです。

そうペトロは告げたのです。即ち:

・自分たちが救われたのはただ主イエスの恵みによる、自分の良き業によってではない

…これは、主イエスが十字架に架かる時に、三度知らないと言って主イエスを否定したペトロ、それにもかかわらず復活された主イエスが自分を再び召してくださったという出来事によって→今があるペトロにとって、これだけはどうしても譲れない点でありました 

・自分の中には何もない。ただ、主イエスの恵み、主イエスの憐れみが、私を救い、私をキリストの使徒として立たせてい

  る。この主イエスの恵みによって救われるというのは、異邦人も自分も全く同じだ 

 ・自分は割礼があるから救われたのではない。律法を守ったから救われたのではない。もし、そういうことならば、自分は決して救われることはなかった。それが、ペトロが語ったことでした

 

 これはペトロの信仰の原点に関わることであり、自分の存在を賭けた言葉でした。だから力があったのでしょう。彼は、自分が救われた原点にいつも立っていたのです→私たちも見習いたいと思わされます、ネ  アーメン? 

 

ペテロは使徒で、教会の第一人者です。しかし、「わたしたちは、主イエスの恵みによって救われると信じている。これは異邦人も同じことです。」

と告げたのです。ただ、キリストの恵みの証人としてだけ立とうとするペトロ。ここに私たちの、私たちの教会の、あるべき姿があります、ネー


12
「すると、全会衆は沈黙してしまった。」…

とありますこの教会会議に集められた人々は、このペトロの言葉に心を打たれた、それで静かになりました。

私もそうだ、ただ主イエスの恵みによって救われた自分だった。この会議に出席していた全ての人たちが、このことに気付かされたのです。

そして、パウロとバルナバが、伝道旅行で会った異邦人たちが主イエスを信じて救われていく様を語りました。

→もうここで会議の方向は決まったのだと思います。

 

教会の会議は、私はこう考える、こう思うという主張がぶつかり合うだけの場ではないのです、ネ。 神の御前に開かれる会議であり、そこで告げられ、そこで聞き取られることは、神が何をなさってくださったのか、だから自分たちはどう歩んでいけば良いのか、そのようなことだと信じています。

 

4. ヤコブによる総括(15:13~21)

最後にヤコブが語ります。ここに出てくるヤコブは、十二使徒の中のヤコブとは別の、主イエスの弟のヤコブです。特にユダヤ人キリスト者から大変信頼されておりました。異邦人にも割礼を求める人々は、彼を頼みにしていたと思います。                             

4.1彼の主張もペトロやパウロ・バルナバたちと同じものでした     

1618節)…これを示す 

彼は、1618節においてアモス書(9・11)からの言葉を引用して、異邦人が救われるのは旧約の預言者たちも語っており、異邦人の救いは神の御計画なのだ、御心にかなうことなのだと宣言したのです。

そして、割礼は必要ないとし、律法を守らなければ救われないという主張はここに退けられたのです。

.2 福音の真理の確認(19~21)

ヤコブの思いは次の2つ:

1)異邦人からの回心者に、割礼やユダヤ教にまつわる律法を課そうとす

る試みは排除すべきであり、神の恵みによる信仰に立ち返る人は、異邦人もユダヤ人もみな平等である、と

→福音の自由に基づくあり方を異邦人キリスト者に示しました

 

2)一方でヤコブは自由であるべき規定を、律法と同じように取り扱うような提案もするのです

20ただ、偶像に備えて汚れた物と不品行と絞め殺した物と血とを避けるように書き送るべきだと思います

偶像に備えて汚れた物絞め殺した物と…

・この三つのことは、何を食べ、何を食べてはいけないかということです

→これはユダヤ人にとっては大変な問題でした

 旧約以来、ユダヤ人は血抜きのされていない肉を食べることは禁じられていました。

→当時のキリスト教会には異邦人もユダヤ人もいるのです。そして、礼拝ごとに愛餐がなされていたと思われます。そして、野菜や肉がささげられて愛餐がなされていたと思われます。

つまり食物規定を守らないと、一つの教会でユダヤ人と異邦人が一緒に食事をすることができないそのような状況ができてしまうことが想定されます

→このことが原因で、ユダヤ人と異邦人が一つの食卓に与ることができなければ、それは事実上分裂してしまうことになるでしょう

 

そこでヤコブは、配慮として、このような注意書きを与えたということでありましょう。

神殿に捧げられた肉も同じです

→なんの肉を食べるかで救われるか、救われないかが決まるようなことではないのです。しかし、だからと言ってその行為が教会の中に分裂を起こす…とするならば→それは控えるべきであるとヤコブは考えたのです

 

不品行:キリスト者となったならば、性的不品行は行わないことです。

→これは十戒の第6戒(姦淫してはならない)であり当然のことでしょう

しかし、当時のローマ社会にあっては、このことを敢えて言わなければならないほどに、性的な乱れが普通にあったことなのでしょう

 

そこで、これらのことが決まったら書面にして→町に、教会に送るべきでありまして…→律法のように守らせることが必要としたのです。

さあ、まとめます

 

エルサレム会議の結果は次の大きく2つに要約されます;

 ・教会は公に異邦人伝道を容認した

 ・アンテオケ教会の異邦人伝道及び国外伝道も ユダヤ人キリスト者とその教会から公認された

 

→このエルサレム会議のゆえに…この異邦の国日本に、そして、この岩出の地に教会が立てられ→上岩出キリスト教会がたてられました。

 

そして、私たち救われた者達がこの上岩出キリスト教会で安息日礼拝をし、恵みを与えられている…このことを心から感謝し賛美する者であります。アーメン