2023.11.11

主 題:「 ザアカイ。急いでおりて来なさい。」

聖書箇所:ルカ19章1~10節

( はじめに )

イエスの公生涯は…主イエスがまず弟子つくりから始めました。その12名の弟子たちと共に神の国を説き、町や村々で福音

宣教の旅をつづけました。その3年半の旅も最終段階に入りました。

そして18章では神の国に入り、神の国に生きるための大切な2つのことを語って下さいました:

1)主を信じる信仰のために→「主は祈りを聞かれるよ」

2)神の国に生きるため→「永遠のいのちに至る道」 

そして、ご自分の最後の時が来たことを悟り、18章31節では

「12弟子たちを呼び、これからエルサレムに向かって行きます。人の子について預言者たちが書いているすべてのことが実現されるのです。」

と語り、エルサレムに向かって歩み始めました。 

今日の聖書箇所は、そのエリコの町で 取税人ザアカイとの出会いの場面へとすすみ、イエスと出合ったザアカイの物語へと入って行きます。 

1.イエスをぜひとも見たい取税人ザアカイ(1~4)

ザアカイは世界最古の町エリコの住人で「取税人のかしら」でありました。今でいう税務署長です。エリコの町はエルサレムに入る入り口にもあたり、交通の要衝となっていました。おそらく、ザアカイはこの交通の要衝の関税所の役人の頭でありました。当時世界を支配していたローマ帝国は、取税事務を希望者に請け負わせていました。

取税人:当時パレスチナを支配していたローマ帝国のために、税金の徴収を請け負った者たちです。そこのユダヤ人はローマ人たちを「異邦人」とよび、できるだけ接触を避けました。こともあろうに、取税人はその異邦のローマ帝国の手先となって税を取り立てるのですから、ユダヤ人からは大変に嫌われました。 

その取税人たちは、同胞のユダヤ人からは差別され、軽蔑されていたことを良く知っていました。それだけに、彼らはしばしば立場を利用して私服を肥やしましたから、ますます許しがたい存在でした。

「金持ちのザアカイ」:

そのような取税人の頭だったのです、そのザアカイは

・イエスが、取税人仲間のレビを自分の12人の弟子のひとりにした(マタイ)というニュースもいち早く知っていました 

もうひとつ、このザアカイが「背が低かった」と、わざわざ書かれていることです。ですから、相当に低かった→背が低かったことにより軽蔑されたり、いじめられたりしたことでしょう。ザアカイはそのことで、どれほど劣等感というか、悩みを持っていたことでしょう。

逆に、「よし、それなら、権力に近いところに立ち、取税人となって見返してやろう」と言う思いが、このザアカイの職業選択の、決定的な条件になっているのではないかと考えられます、ネ 

いずれにせよ、このザアカイの心の中にあるもの、それはおよそ→ザアカイ:「正しい人」という名には程遠いものであったことでしょう。

ザアカイ自身はといえば;

・お金だけは面白いように入ったことでしょう、が

・かえって人々からさげすまれ、非難され

・心の中は孤独であり、寂しい孤独な生活をしていました→しかし、自分ではどうすることもできなかったのです 

さあそのザアカイに、“イエスが来たー” のニュースが突然に入った:

・あのイエスが来た!そら一大事だ、何としても見てみなくては…

・あのイエスが→取税人仲間のレビを弟子したイエスが来た、とー

ザアカイは是非にもイエスを見たい 会いたい と思い、仕事を放り出して飛び出しました。

しかし、沿道は既に黒山の人だかり。背が低いザアカイは見ることもできません:

・例えば、高齢の腰の曲がった人が来て、 「私もイエスを見たい」から「前に出させてください」と頼めば、人々はサアど

  うぞと親切にしてくれたことでしょう

・けれども、嫌われ者のザアカイのこと、妨害されこそすれ、中に入れてくれる人なぞいません

だが、会って見て見たいザアカイは、あきらめません…

4それで、イエスを見るために、前方に走り出て、いちじく桑の木に登った。ちょうど主がそこを通り過ぎようとしておられたからである。 

何とかしてあのイエスを見てみたい、会ってみたい…というその熱心のゆえに、先回りして道に張り出したいちじく桑の木に登り、イエスの来るのを待つことにしました。

2.見事に変わったザアカイ(5~8)

やがて大勢の人に囲まれながらイエスがやって来ました。ザアカイはドキドキしながら、いちじく桑の木から身を乗り出して、イエスの姿を探しました・・・「アッ、あの人や!」と、思ったその瞬間、イエスと目と目が合いました。そして驚くべき“ことば”が彼の耳に届いたのです。

 

(5節)イエスのことば;ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。』、と 

それはなんとも“愛に満ちたことば”であり“まなざし”でした。自分が受け入れられていることが分る温かさがありました・自分のことを知っていてくれた

・自分にことばをかけてくれた、そればかりか

・自分の家に来て、その上泊まってくれる…とは

ザアカイにはお金はありましたが、友は誰一人いませんでした;

・誰も心を開いてくれません、受け入れてくれませんでした

・だから、自分も心を開きませんでした

そんな孤独な中にある彼への…主イエスのことば

『ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。』

の呼びかけに→冷え切ったザアカイの心は“とかされ”ました。

彼の心に不思議な喜びが湧き上がってきました;

 ・背が小さく、劣等感を抱いてきた自分自分で自分を見失っていたのです

 ・そこでお金で「自分を高く見せよう」として取税人になり

 ・不正をして私腹を肥やしてきた自分の姿

 ・なのに…いくら貪っても:

→もてば持つほどもっと欲しくなる…平安→本当の幸せはありません

→お金では本当の幸せは得られない…身に染みていました

 ・かえって、その故に神から失われ、隣人からも失われた自分となってしまっていました…しかし、イエスさまから呼びかけられて→今自分で気が付いたのですそしてイエスさまを喜んで自宅に招きましたネー

…… ……

さて、彼の家でイエスさまが何を語ったのかは分りません.

しかし、明らかなことは;

“ザアカイがイエスさまに接したことで、すっかり変わってしまったことです“

その証拠に、昨日までのザアカイならばとうてい考えられなかったことばが、彼の口から出てきました;

(8節)

「主よ、ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。

また、だれからでも、私がだましとった物は、四倍にして返します。」、 

なんと、彼は自分の財産の殆ど全てを放棄する決心をしていました。命令されたからですか→いいえ、ただ、イエスとの交わりを通して、その愛ときよさに触れて→彼の心はすっかり変えられたのです;

・せっせと蓄財に励んでいた守銭奴の彼が

・貧しい人々のことを心にかけ

・同時に自分がしてきた不正の償いをしなければ、気がすまなくなっていたのです、ネー

神から離れ、霊的に死んでいた彼が、新しいいのちを得、そのいのちがあふれて「愛と義の実」を結んだのです。確かに、救われて→「永遠のいのち」を得た人の姿がそこにありました。 

3.「きょう、救いがこの家に来ました」9~10節)

9 イエスは、彼に言われた「きょう、救いが “この家に”来ました。この人もアブラハムの子なのですから。」

ここ9節でイエスは、三つのことを言われています

.1 救いが“この家”に来た

ザアカイの家、家族がどうであったかはわかりません。しかし、皆さん、主イエスは「きょう、救いがこの人に来ました」と言われたのではありません;

・救いはこの家に来ましたあなたの家に神の祝福が始まりましたョ

・救いはこの家だけで終わりはしません→救いはこの家よりはじまるの

ですよ…と、このように語られたのだと思いますネー 

このことばを読むときに皆さんも思い返されることでしょう;

使徒16:31)二人は答えて言われた

『主イエスを信じなさい。そうすればあなたもあなたの家族も救われます』 

神の期待はあなただけではないのです、ね。あなたの家族も。更にあなたの地域も→あなたの町をも…と

さあ、この呼びかけに対して、私たちはどうすれば良いのでしょうか?

.2 この人もアブラハムの子なのですから

ザアカイという名前は「正しい人」という意味です、アブラハムの子ではあるが、この失われた人は、神の救いに与るのです先の(ルカ18・26)「それでは、だれが救われることができるでしょう」の問いに答える主イエスのことばとなっています。

背の低いザアカイ、その故に取税人となったザアカイ、その生き方はユダヤ人からはもちろんのこと、ザアカイは、仲間の人間からも「相手にされませんでした」;

・ザアカイ自身が、“神との関係、隣人の関係などはどうでも良い”と

・その点では、自分で諦めていた→自分を捨てていました

・ザアカイは正に「やけを起こし」神から“失われた人”となっていました

だが、そこでイエスは言われます;

10節)

人の子(イエス・キリスト)は、失われた人を捜して救うために来たのです

ザアカイは、「私はイエスを迎えるにふさわしい人間なのだ」といって、胸をはって生きてきたのではありません。

反対に;

・自分で自分をあわれな者と勝手に決めつけ

・金で自分の幸せを見せつけることが出来るだろうと

・取税人となり、税金をだまして上乗せし→お金持ちになりました

・しかし、そうすればするほど皆から疎まれ、さげすまれ→孤独になり 

  ⇒神から失われた人へ

  ⇒隣人から失われた人へと…と落ちて行ったのです 

しかし、失われた人が→主の救いにあずかった時;

・その人は生まれ変わります→そして、自分が抱いていた憧れが、この新しく生まれることであったのだ…とわかります

・そのことの故に、救われた者が「神を愛し、隣人を愛することが出来る」ようになるのです

・このようにして→「その孤独から解放される」のです 

ザアカイは、イエスを「主よ。」と呼び、この主イエスに従う決意を明らかにしました;

そして、

・自分が“救われました”→そして、自分だけでなく、

・その隣人をも愛す(お金を返す)こともできるようになりましたネー 

.3 救われた者の務め

皆さん、どうして「このザアカイの話が聖書に載っている」と思いますか?

私は思いますョー:

・ザアカイが、この話を誰かれなく何度もしたからだと思います

・ザアカイは自分が主イエスと初めて出会った時のこの話を何度も何度も話したに違いない。喜びと驚きと感謝をもって… 

自分が主イエスを求めていたと思っていたのに、なんとイエスさまの方が自分の名を呼び、自分のもとに来てくれ、自分と共に歩み、自分の中に宿って下さったー:

 ・その恵みを、幸いを喜び、出会う人には誰にでも伝えたかったと思います、ネー

・それは、この話を読む私たちが、このザアカイの姿に、自分自身を重ねて読むのと同じではないかと思うのです 

 ザアカイが、何度も自分の主イエスとの出会いの物語、救いの証しを語ったように、私たちも又自分の言葉で自分が救われた証し何度も何度もし、隣り人に主イエスの到来の喜びを伝えてまいりましょう!  了

 

 


2023.11.18 

主 題:「 エルサレム入城に進む主イエス」

聖書箇所:ルカ19・28~40

( はじめに )

イエスの公生涯…その3年半の旅も最終段階に入りました。そして、自分の最後の時が来たことを覚悟し、エルサレムに向かって歩み始めました。今日の19章のここから、いよいよ主イエスがそのエルサレムへ入城に進む時となります。この主イエスがエルサレム入城になったときから、いわゆる受難週と呼ばれる一週間が始まります。

主イエスが捕らえられ裁判にかけられ、十字架につけられ、殺され、よみがえられる という大事件が次々と起こる一週間の物語りがここから語られていきます。私たちもまた、こころして読み進んでいきましょう。

 

1.「主がお入り用なのです」(28~35)

前回19章でエリコの町でザアカイを救われた後しばらくして、主イエスとその弟子たち一行は、おそらくあのマリヤとマルタ姉妹の宿ベタニヤに向かわれたと思います。 あの姉マルタに対し「どうしても必要なものは 一つだけです。マリヤはその良い方を選んだのです…」と語られたあのマルタの宿です。その宿のベタニヤを出て べテパゲの辺りでしょうか、そこでイエスは弟子の二人を呼んで 

30言われた。「向こうの村に行きなさい。そこに入ると、まだだれも乗ったことのない、ろばの子がつないであるのに気が付くでしょう。それをほどいて連れて来なさい。

31もし、『なぜ、ほどくのか』と尋ねる人があったら、こう言いなさい。『主がお入り用なのです』

イエスが二人の弟子に言われたのです:

つないである“ろばの子”→子ろばをほどいて連れて来なさい、と。そして、『なぜ、ほどくのか』と尋ねる人があったら、こう言いなさい

主がお入り用なのです。』(正確に訳すと)このろばの子の主人がこれを必要としているのです』、と 

皆さん、弟子のあなたがイエスさまからこのように言われたとして、ハイ分りましたと、そのご用のために出て行くことができるでしょうか?

弟子たちは驚いたと思いますネー:

 ・つながれたろばの子がいるとして

 ・どうして連れてゆくのかと問われたときに 「このろばの子の主人がこれを必要としているのです」で、相手は納得するでし

   ょうか

 ・「主がお入り用なのです」を聞いた子ろばの持ち主は目を丸くするのではないだろうか、と

→子ロバの本当の持ち主は私ではないか、と言われてもしようがない言い方ではないか、と思ったことでしょうネー

 

そんなことを考えながら、

行って見ると、イエスが話された通り、その持ち主が「なぜこの子ロバをほどくのか」と言われ…あーやっぱりーと、おそる

おそる→弟子たちは、「主がお入り用なのです」と言った…

    ……(この間が大事!)…

  →35そしてふたりは、それをイエスのもとへ連れて来たのです 

この子ろばの本当の持ち主は、「主がお入り用なのです。」のことばを受け入れたのです。何のためらいもなく受け入れたのです。

今度は弟子たちの方が、主のおことば「主がお入り用なのです。」の力”に驚いたことではないかと思いますネー。  

皆さん、イエスの弟子たちは「みことばの力」・「みことばの偉大さ」を身にしみて体験させられたのではないでしょうか

ところで皆さん、これは、現代の私たちが「主を信じる信仰人生」の中で“みことばを生きる冒険”に打って出るとき→と言うか「みことばを生きる冒険にチャレンジするとき」の大きな励ましとなるのではないでしょうか

 

2.エルサレム入城に向かわれるイエス(36~38)

 

36イエスが進んで行かれると、人々は道に自分たちの上着を敷いた。

37イエスがすでにオリーブ山のふもとに近づかれたとき、弟子たちの群れはみな、自分たちのみたすべての力あるわざのことで、喜んで大声に神を賛美はじめ、

38こう言った。「祝福あれ。主の御名によって来られる王に。天には平和。栄光は、いと高きところに。」 

イエスと弟子たちなど一行がエルサレムに向かったその時は…と言いますと→ユダヤ教徒たちが盛大に祝う“過ぎ越し祭り”が近づいていました:

・多くの巡礼者の集団が、パレスチナからだけではなく

・ローマ帝国の全土全国から、エルサレムへ向かっていた時期でした 

イエスの名はすでにエルサレムには知れ渡っていました。人々は道に自分たちの上着を敷き大歓迎した。あたかもイエスは、王もしくは救い主であるかのように大歓呼のうちに迎えられました→「ホサナ(救ってください)と叫ぶ者も大勢いました:

・しかし、彼らは心の中では「ローマ人から解放してください」と願っていた叫びでした…

・彼らは、ダビデ王国が再び訪れ、ダビデの時代のように、自分たちが自由で、独立した身分となり、幸せな日々を送れることを夢見ていた 

イエスはその願いを叶えてくれるはずであったのです…。イエスは、人々の歓呼の思いがどのような思いからのものであるかはすべてご存知でした。しかし、イエスは歓呼されることを拒みませんでした。ただイエスは、馬にまたがってではなく、子ろばにまたがってエルサレムに入ったのです:

・馬は王、戦士、征服者の乗るものであり

・子ろば は、貧しい人々、権力を持たない者の乗り物であり

・ゼカリヤ書に示されるメシアの乗り物だからです

 (ゼカリヤ9・9)

「シオンの娘よ。大いに喜べ。エルサレムの娘よ。喜び叫べ。見よ。あなたの王があなたのところへ来られる。この方は正しい方で、救いを賜り、柔和で、ろばに乗られる。それも、雌ろば の子の 子ロバに。」

 イエスは、メシアの役割とは:

・人々が思っていることとは 異なっていることを示されたのでした

・ローマ人を追い出すためではなくもっと大切なことのため”に来たことを示そうと思われたのです:

→ゼカリヤはじめ多くの預言の成就をめざして

すべての人のすべての罪の身代わりとして、十字架上でほふられるために

皆さん、エルサレム入城に進むイエスさまを大歓迎したユダヤ人たちの思いを私たちはどう見ますか?

 イエスさまのエルサレム入城は…この私たちの、いやこの私の罪の身代わりとなるためにも、この苦難の道エルサレム入城に進まれたのだーと、他人ごとではなく、自分のためなのだの思いをしっかりと心して読んでいきたいと思わされますネー

 

3.石が叫びます(39~40)

39 するとパリサイ人のうちのある者たちが、群衆の中から、イエスに向かって、「先生。お弟子たちを叱ってください」と言った。

40イエスは答えて言われた。「わたしは、あなたがたに言います。もしこの人たちが黙れば、石が叫びます。」

弟子たちの群れは、自分たちのみたイエスさまのすべての力あるわざのことで、喜んで歌っていました:

  「祝福あれ。主の御名によって来られる王に。天には平和。栄光は、いと高きところに。」

この弟子たちの賛美を パリサイ人がたしなめたときに、主イエスは言い返しておられます:

  40わたしは、あなたがたに言います。もしこの人たちが黙れば、石が叫びます。 

この40節みことばの意味は様々な解釈があります→不思議なことばです。ですが:

・私たちは、「祝福あれ。主の御名によって来られる王に…」とこの賛 美を歌った弟子たちがこの後どうするのか…

・このあと数日でこのイエスを捨てるのです→そおいう物語がこれから

 始まろうとしているのです

そうなることは主イエスはすでによく知っておられました。 

そのことを考えてみるとこの弟子たちの賛美歌は全く頼りにならないものでした。だから、この弟子たちは、

「自分たちの賛美が退けられるなら、禁止されるなら…石が叫ぶのだ、」とは思ってもみなかったことでしょう:

なぜなら…

 ・お前はあのイエスの仲間であったのではないかと言われただけで、びっくりして否定し、逃げてしまった、そういう弟子た

    ちの歌です→自分たちの歌を弁護する主のことばを耳にしても、その真の意味はさっぱり分からなかったでしょう

 ・実際に、人々が力ずくで弟子たちの口を封じ、弟子たちを追い散らしたときに、エルサレムの都は崩れてしまいます

石が叫ぶ

・その石とはエルサレムの城、神殿をつくっている石であります

 ・44節「場内の一つの石も他の石の上に残しておかない日が来る」と主イエスが語っておられる、この「石」です。

 

もしこの弟子たちの賛美の歌声をエルサレムの都の人々が、無理矢理に押しつぶすようなことをするならば…

石が叫ぶ

・石が音をたてる、石が音を立てて崩れる、

・エルサレムの都そのものが自らにさばきを招いて崩れるであろうと言われたのであろう…

→その意味では、44節の警告がここに始まっていると読むこともできると思わされますネ。

さあ皆さん、今日主イエスは私たちに語って下さいましたョー…

「自分たちの賛美が退けられ、禁止されるなら…石が叫びます」、と

 

主イエスこそ私たちの救い主ですと信仰告白していながら:

・賛美することが禁止されるならば…

 ・福音の喜びをお知らせすることが留められるならば→石が叫びます、と今日語られました

 

主よ、しっかりと受け取らせていただきました。これからもみことばを生きるほうの道を選びますと告白します。

 

主の御名により感謝してお祈りします。アーメン

 


 2023.11.25 

主 題:「 最後の晩餐へ 」

聖書箇所:ルカ22章1~23節

( はじめに )

イエスの公生涯…その3年半の宣教の旅も最終段階に入りました。そして、「自分の果たすべきその時が来た」を覚悟し、ホサナの歓呼の中にエルサレム入城されました。その次の日には宮きよめをされました。主イエスはその後も毎日宮で教えておられたと共観福音書には記されています。

続く今日の箇所はその受難週の第5日目のところに入りますが、いよいよ神のご計画の“最後の晩餐へ”と進みゆきます。

さあ、ここに至るまでの「人のたくらみの醜さ」と「神の愛のご計画」について、心して読んでまいりましょう。

 

1.     人のたくらみ(1~6)

ここに出てくる律法学者、祭司長は、当時の宮の指導者です。現代でいう教会の牧師に似た立場の人たちです。その人たちは神を恐れていたのではなく、イエスを殺すための方法をさがしていた→民衆人を恐れていたからである、と書き始められています。律法学者は律法の専門家ですが、おきての中心にあるものは“十戒”です。十戒の最も大切なものの一つは→「殺してはならない」です! 彼らはどのようにして殺すことができるか、うまい方法が見つからないでいました。 

3節には「イスカリオテのユダに、サタンが入った。」、と書かれてあります。

サタン(悪魔)、神にそむく力の支配者です:

・ユダは、この悪魔のとりこになったのです

・そして、自分の師である主イエスを裏切ったのです

ユダはこれまで師と仰ぎ、主と慕ってきた方、その方に対する信頼を失い、愛を失いました、愛に絶望したのです。 

皆さん、ここに:

・イエスを殺そうと考えていた祭司長、律法学者たちの“たくらみ”が 

・イエスの弟子ユダの裏切りの“たくらみ”と

→ぴたりと一致したのです 

一方で、十字架上での身代わりとなるという“神の計画”が進行中ですが、“神のご計画”と、この“人間のたくらみ”、とが一致することになるのです

皆さん、他人ごとではありませんよー

私たちが信仰に迷い、信仰をなくすとき:

 ・友人たちの誘惑に乗ってしまい、神とお会いする礼拝を休むことになってしまいます

・みことばを生きることができなくなります、結果として

→仕事の上でトラブルが起きてしまう

    →家庭で問題が起きてしまう 

皆さん、私たちにとって受難週入りとはどうすることでしょうか?

受難週とは→「人の誘惑、たくらみ」に落ち入りやすい私たち自身が、もう一度このことに、敏感になる時ではないでしょう

 

2.    神のご計画(7~23)

私たちはその“神のみ心=神のご計画”とはどのようなものであるかを正しく、注意深く読んでいきましょう。2つに分けて読んでいきます。 

.1 過ぎ越しの食事の用意 (7~13)

さて、過越の小羊のほふられる日が来ましたイエスは過越の食事を準備しなさいと言って、ペトロとヨハネを使いに出そうとされました。 

しかし、エルサレムの町は過越の祭りを祝うために大勢の人が集まって来ています。どこで過越の食事をするのか、その場所を確保することが容易なことではありません。 

そこで二人の弟子が「どこに用意いたしましょうか。」と言うと、主イエスは不思議な答え方をします:(1012節)

「都に入ると、水がめを運んでいる男に出会う。その人が入る家までついて行き、家の主人にはこう言いなさい。

『先生が、「弟子たちと一緒に過越の食事をする部屋はどこか」とあなたに言っています。』」

水がめを運ぶのは、当時は女の人の仕事です。ですから、水がめを運ぶ男というのは:

・座って洗濯している人…とか

・胸に赤い花を挿している人というような

→待ち合わせのための目印だったのではないでしょうか? 

二人の弟子が行ってみると、主イエスの言われたとおり、水がめを運ぶ男の人がおり、その人について行って家の主人に:

“過越の食事をするところはどこですか”と言うと、主人は部屋に通してくれたのです。 

この部屋は、主イエスが既に備えて下さっていたのです。そして、弟子たちが過越の食事の用意をすると、主イエスはそれを…

新しい過越の食事⇒(現在の)聖餐式の制定の時とされたのです 

過ぎ越の食事の部屋も、聖餐の制定も、弟子達が考え出したものではなく、主イエスがあらかじめ備えてくださっていたものです:

・ですから、私たちは勝手にこれを変えることは出来ないし、そのようなことは私たちには許されておりません

・キリスト教会は、二千年の間、この聖餐を守り続ける共同体として立ち続けて来ました 

皆さん、主イエスは私たちの弱さを知っておられ、この目に見える救いの手段を与えてくださいました。私たちは、この主イエスが定めてくださった聖餐を、感謝しながら受け取ってまいります。 

 

.2 最後の晩餐(14~23)

14 さて時間になって、イエスは食卓に着かれ、使徒たちもイエスといっしょに席に着いた。

15 イエスは言われた。「わたしは、苦しみを受ける前に、あなたがたといっしょに、この過越の食事をすることをどんなに望んでいたことか。」

 

 

この絵画はレオナルド・ダ・ヴィンチが描いたものです。ほんとの姿はこのような横一列のかたちではなかったと言われていますが、12使徒のようすや表情がよく見せるためにこのような構図にしたようです。

これと同じもの→というか陶板にした絵が、あの淡路島の大塚美術館にあります。私も観てきて、写真を撮ってきましたが→構図はこれと同じです…

→未だの方は是非見てこられたらと思います

 …あの“最後の審判”の巨大な陶板画もここの大塚美術館で見ることができますョ… 

15節にあるように、主イエスは苦しみを受け十字架上でほふられる前に、ぜひとも、この過ぎ越しの食事にあずかる機会を持たなければならないと考え準備をしてきました。

そして、この聖餐にあずかる時を末永く行い続けるべく→このように行いなさい、と示された:

17 そしてイエスは、杯を取り、感謝をささげて後、言われた。「これを取って、互いに分けて飲みなさい。

19 それから、パンを取り、感謝をささげてから、裂いて、弟子たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与える、わたしのからだです。わたしを覚えてこれを行いなさい。」

20 食事の後、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です。

171920…これが「聖餐に与る」=聖餐式の内容です、主イエスは語るだけでなく、実際にやって見せて下さったのです→なんという行き届いたの「神のご計画」ではないでしょうか

 

この上岩出教会も、これに従って聖餐式を行っています。このことの中に、私たちが神から受ける救いの恵みの全てがあるからです→即ち、自分が救われていること→神の子とされていることと共に:

・キリストが私と共におられ→聖霊を満たしてくださる

・この世の誘惑や、苦難に打ち勝ち勝利の道を歩み続けることができ

・私には永遠の命が備えられている

このことを、都度満たされ、確認する時としてくださいます

この恵みは主に救われ、礼拝に出て聖餐式に臨むときにのみ与えられる恵ですよー。

皆さん、救われた私たちですが、現実社会では様々な問題や、誘惑があります。しかし、聖霊の内住と、聖霊の満たしによって→いかなる困難な岩であろうと、いかなる妨害であろうと、いかなる妨げであろうとデュナミス(ダイナマイト)の力で問題・課題を打ち破って解決する力を与えて下さるのです→なんという恵みでしょうか! ハレルヤー 

皆さん、私たち人間は罪のDNAをもって生まれてきた罪人です。クリスチャンですが→その苦難の生活の中から十字架のイエ

スを信じる信仰により救われた「罪赦された罪人」です。ですから、残された苦き根により誘惑に陥りやすい者でもあります。 

イエスさまはそのことを十二分にご承知のゆえに、15節にあるようにあのむごい十字架刑の前に…是非ともこの聖餐にあずかる時を持たねばと考えて下さり、目に見える形をとってこの最後の晩餐も神の愛のご計画あることが分かりました。

キリストの愛の御業に心から感謝したい思いで一杯です! ハレルヤー

 

ここまでとします。       了