2023.10.7

  題:「 放蕩息子の物語

聖書箇所:ルカ15・11~24

(はじめに)

今日ルカ15章から与えられていますみことばは、神から離れていた者が“神の懐に帰った喜び”を主イエスがたとえ話で語られた物語です。皆さん、この「たとえ話」を読みますと、私たちは自分の姿とこの弟息子の姿とを重ね合わせるのではないかと思います。 

この放蕩息子のたとえ話は、イエスのたとえの話の中でも最も有名なものの一つと言われ、また歴史上最も優れた短編小説という言い方がされています。それは、誰もが自分の人生と重ね合わせてこのたとえ話を読むことが出来る、そういう普遍性があるからではないかと思います、ネ.

私は、この「放蕩息子のたとえ話の正しい読み方」は、ここにあるのだと思っています→即ち、放蕩息子はこの私だと考えて読むことです。皆さん、ここに出て来るキャストは:

・父親とは→天の父なる神のことであり

・その息子の弟の方=放蕩息子とは→私だと考えましょう

このことをしっかり覚えながらこの物語を読んでまいりましょう。

 

1.    放蕩息子への道 (11~17)

 

11 またこう話された。「ある人に息子が二人あった。

12 弟が父に、『お父さん。わたしの財産の分け前をください』と言った。それで父は、身代をふたりに分けてやった。 

13 それから、幾日もたたぬうちに、弟は、何もかもまとめて「遠い国に旅立った」。そして、そこで放蕩して湯水のように財産を使ってしまった。

14 何もかも使い果たしたあとで、その国に大ききんが起こり、彼は食べ物にも困り始めた。

 このたとえ話で不思議なのは、どうしてこの父親は、弟息子に財産を分けてしまったのか。そして、自分の家から出て行くことを許してしまったのかということであります:

・あまりにも甘やかし過ぎなのではないか…

・まだ世の中を知らない若者にお金だけやって…

家から出せば、ロクなことにならないことぐらい判りそうなものだ、と 

皆さん、この父はいったい何をしようとしたのでしょうか。この父親の行動は何を意味しているのでしょうか→それは、父なる神の「自由な愛」を示していると思います:

神は私たちを御自身に似た者としてお造りになられ

・神との自由な愛の交わりに生きることが出来るものとして造って下さったのであります 

しかし、この世の常識から考えると、この放蕩息子の父親のしたことは愚かであり、甘すぎるということになるのだと思います。がしかし、天の父なる神が私たちに対してしてくださっていることは、こういうことなのですネ:

・私たち人間に対して、神はあり余る富を、能力を与えられたのです

・理性を与え、言葉を与え、文化を与え、豊かな情緒を与えました 

私たち当たり前と思っているかもしれませんが、これは本当に大きな、人間だけに与えられた神からのプレゼントなのです。更に神は、それらの力を自由に用いてよい自由をも私たちに与えられたのですネー 

神は人間がそれらの能力の全てを用いて、御自身との間の自由な“愛の交わり”を形作っていくことを望まれたのであります。

しかし、人間はそうしなかった→それが、13節にある「遠い国に旅立ち」ということです:

・自分の力で、神なしでやっていける

・自分には力もあり、能力もある。そう思ってやってきた。そして、失敗し行き詰まるのです 

 

15 それで、その国のある人のもとに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって、豚の世話をさせた。

16 彼は豚の食べるいなご豆で腹を満たいほどであったが。だれひとり彼に与えようとはしなかった。 

しかし、神を忘れた人間は、神に似た者として造られた姿を失い、罪の奴隷となってしまった。そして、そこには本当の自由もなく、食べるにもこと欠く、惨めな状態だけが残ったのです:

・本当にそこまで追いつめられなければ、気が付かない、目が覚めない。それが私たちなのでしょう

・自分の力で何とか出来ると思っている限り、神など求めない。それが私たちなのです

・食べるにもこと欠く、惨めな状態だけが残ったのです 

本当にそこまで追いつめられなければ、気が付かない、目が覚めない。それが私たちなのです。自分の力で何とか出来ると思っている限り、神など求めない。それが私たちなのです、ネー 

2 帰って来た放蕩息子 (17~24)

17 しかし、我に返ったとき彼は、こう言った。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が大ぜい いるではないか。それなのに、私はここで、飢えにしそうだ。

18 立って、父のところに行って、こう言おう。「お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。

19 もう私はあなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにして下さい。」』

 

17弟息子は飢え乾く思いの中で「本心に立ち返り」ました。我に返ったのです。自分が誰であるか、それに気付いたのです。

1819何はともあれ家に帰って、父親に詫びる言葉を考え考えしたのです

 

20 こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家まで遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄ってかれをだき、口づけした。

21 息子は言った。『お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。』

弟息子はやつれ果て、遠い所から帰ってくるのです。もう体力も使い果たし、やっとの思いで、家に帰ってきました。帰る道の途上でも父に言うべき言葉を何度も何度も唱えていたであろうと思います→このお詫びのことばは 筋が通っています、ネ:

・もう自分は子供の資格はない→そのとおりです

・子供として帰らせていただけるだけでも→贅沢な話です

・勝手な話だ と言われても仕方がない

・だから、せめて雇人として受け入れていただければありがたい、と→筋が通っています、ネ 

ところが、物語は常識を外れで進みます:

・帰ってきた息子を、父は、首を抱いて接吻しながら、そのわびのことばを聞いてやるのです→しかし弟のそのことばは記さ

  れていません、父がそれを遮ったのです

 ・そして次のように言うのです 

22 ところが父親はしもべに言った。『急いでいちばんよい着物を持って来て、この子に着せなさい。それから手に指輪をはめさ

  せ、足にくつをはかせなさい。

23 そして肥えた子牛を引いてきてほふりなさい。食べて祝おうではないか。

24 この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。』そして彼らは祝宴を始めた。 

私たちは、この父親のやり方をだれが受け入れることができるでしょうか、だれが、この非常識な愛し方を、この溺愛ぶりを受け入れることができるでしょうか? 

この父親のやり方に律法学者、パリサイ人(2節)が、喜ばなかったのは当然でありました:

・そして、ここで恐ろしいことが起こります…

私たちでも当然だと思う、筋を通すことを重んじた律法学者、パリサイ人が、この愛の物語をされるイエスに、とうとう耐え切れなくなって、これを殺すのです…

→十字架につけて殺すのです。そして、自分の良心を満足させるのです

即ち、正しいことはこういうことだと筋を通したのですよー

 

このイエスのたとえ話は、それほどに人々をつまずかせるものでした。

何故この弟は父に迎えられたのでしょうか、なぜ弟はこんな風な仕方で迎え入れられたのでしょうか…?

父が愛したからです、父が喜んだからです。ほかに理由はありません。

 帰って来てくれたことを父が喜んだからです:

 ・父は、それ以外になすべき道を知りませんでした、そして

 ・この弟、つまり私たちが、父の子として再生する道も、そのような愛によって受け入れてくれる以外にはなかったのです

皆さん、主イエスは、この物語をすることによって、自分が何のためにこの地上に来られたかを語られたのであります。 

ここでこの父なる神の愛は、私たちの考えている正義や公正の原則とか、正当な報いの原則などは 吹き飛ばしてしまってしまいますネー:

 ・主イエスの愛は、不当なほどに人を愛されたのであります

 ・神が私たちに御子イエス・キリストを与えてくれた愛は、私たち人間が定める公平、公正を、まるで問題にされません

 何故でしょう?

もしも神が本当に公正に、神としての正義の原則を貫いたならば私たち人間は生きて行かれませんし、子であることができなくなるからではないでしょうか!  

この上岩出の教会からでも、そのようにして出て行った方を、さらにまた新しい方を 招き続けていてくださっているのです。

「この町にはわたしの民がたくさんいるからいるから」と語り続けてる主は、今年もまた学び会に、礼拝に、特別礼拝にクリスマスに多くの方々を呼んでくださることを信じて、祈り待ち望みます。

 

ここまでとします。                    了

 


2023.10.21

主 題:「 祈りは聞かれる 」

聖書箇所:ルカ18章1~8節

( はじめに )

私たちの日常生活には、いつも問題や解決すべき課題があります。そのような問題・課題が自分の過去の経験や、知識で解決できればそれでよしです。がしかし、解決できないことがあれば私たちはそのことで悩み苦しみます。クリスチャンであれば私たちは、そのときはまず主なる神に祈ります。私たちの祈りは神のもとに届き、神はその祈りを聞き、事を起こして下さる

これは私たちの信仰の根本を形作る、大切な信仰の確信です、ネー 

私たちは信じて生きる日々ですが。それは常に「戦いの連続である」とも思います、ネ。この現実社会でこの信仰生活を全うするためにとても大切なことは“祈 る”ことと言えます:  

 祈 る→信じることができる  信じる→祈ることができる 

・信じて祈り続けることを通して問題が解決され、祈りがその人の身につきます

・その逆もまた真なり→祈りによって、問題が解決されることによって主イエスは今も生きておられ、祈りにこたえて働かれていること

   を確信しにより頼む信仰が見につきます

 →“祈 り”と“信 仰”は信仰生活という車の両輪と言えるでしょう

・祈りのない信仰生活は成り立ちませんし、また信仰のない祈りは神に聞かれる祈りではない、といえます 

祈る主イエスはしばしば祈りをお教えになりました。この18章でも主イエスは祈りを教えますが、ここでは

祈りを聞いてくださる神の側からの思いを、いつものとおりに「たとえ」をもってお語り、導いてくださっています。

ですから、その御心をしっかり学び、主に祈る生き方を 身に着けてまいりましょう。 

1.    不正な裁判官のたとえ (1~6)

1 いつでも祈るべきであり,失望してはならないことを教えるために、イエスは彼らにたとえを話された

主イエスは 弟子たちがご自分とこの世でお会いできなくなる時、気を落として祈れなくなる→その様な時代が来ることを見越して、弟子達のためにこのことを語られたと思います。

さらにまた後になって…この世では主イエスのすがたがもう見られない

→そういう中で、気を落とし、はたして、自分達の祈りは聞かれているのだろうかという→いわば信仰の危機を迎えた教会で、弟子達はこの主イエスのおことばを思い起こしたのではないかと思われますネー

 

そして、この主イエスのことばを教会に集う信徒の皆さんに語りかけ、「

分達は今一度、祈る者として立っていこう。」、そう呼びかけたのではない

かと思います。そして、

キリストの教会は祈りの民として立ち上がり、祈る民→主イエスを信じ

る信仰者として立ち続けることができたと思います。

 

さあ、その主イエスの語られたたとえ話を、読んでいきましょう:

2 「ある町に、神を恐れず、人を人とも思わない裁判官がいた。

3 その町に、ひとりのやもめがいたが、彼のところにやって来ては、『私の相手をさばいて、私を守ってください』と言っていた。

4 彼は、しばらくは取り合わないでいたが、後には心ひそかに「私は神を恐れず人を人とも思わないが、

5 どうも、このやもめは、うるさくてしかたがないから、この女のために裁判をしてやることにしよう。でないと、ひっきりなしにやって来てうるさくてしかたがない』と言った。」

このたとえの登場人物は二人だけ。神を畏れず、人を人とも思わない裁判

やもめです。 この裁判官というのは、ユダヤ人ではなかったと思い

ます:

・ローマによって遣わされていた裁判官でしょう

・わいろ、コネ、そんなものが横行していた時代です

このやもめには、そんなものはありません:

・このやもめには、何もありませんでした

・やもめは、ただただ、この裁判官に何度も何度も、ひっきりなしに、「相手を裁いて、わたしを守ってください。」と願い続けたのです 

この裁判官は、「もううるさくてかなわん、彼女のために裁判をしてやろう。」と言ったというのです。

やもめはただ願うしかなかった→無力さをかみしめていた

皆さん、私たちも「もう何もない。何もできない→どうしようと悩み苦しむ」→そういう時があるのではないでしょうか。

しかし、ことここに至ったときこそ→「私たちには祈ることがまだ残されている」ということを…覚えておきたいですネ:

・祈りは、全能の力の神に頼ることであります

・自分の無力さを認め、全能の神に助けを求めることです 

その意味で、祈ることは私たちの最後の、そして最大の武器と言ってもいいのではないでしょうか! 主イエスは、この不正な裁判官でさえもそうなのだから、「まして私はそれ以上ですよ」と言われたのです。 

2.    祈りを聞かれる主(7~8)

主は「不正な裁判官の言うことを聞きなさい」と言われた。

7まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか

8あなたがたに言いますが、神は、すみやかに彼らのために正しいさばきをしてくださいます。しかし、ひとの子が来たとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか。」 

主イエスはここで、三つのことを強調されています:

1)、神は昼も夜も叫び求めている祈りを聞いておられる

私たちの祈りが神のもとに届かないなどということは、決してないと

2)、あなた方は選ばれた者ではないか、神はほっておかないよ

ということです。神が、我が子よと呼ばれる、神の民ではないか。どうして、神が御自分で選ばれた民を忘れることがあろ

うか、であります。

御ことばを思い起こしてみましょう→cf出エジプト記22325節:

23それから何年もたって、エジプト王は死んだ。イスラエルの人々は労役にうめき、わめいた。 彼らの叫び声は神に届い

  た。

24神は彼らの嘆きを聞かれ、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。

25神はイスラエル人をご覧になった。神はみこころを留められた。

  →神が御自分で選ばれた民を忘れることがあろうか 

3)、神様はいつまでも私たちを放っておかれることなく…

→必ず速やかに答えてくださる

この3つをまとめると→“主は祈りを聞かれますょ

イエスさまは愛のお方です。昼も夜も、年中休むことなく、私たちを見守って下さり、私たちの心の扉をたたいてくださっています。だから、私たちが心の戸を開くなら、入ってこられて、祈りの応えて最善に導いてくださいます。主の御名を心から賛美します、ハレルヤー

.「祈りを聞かれる主」の証詞 -高木弥―

私は日本の高度成長期の企業戦士でした。その私が救われたのは49歳の時でした。

1)洗礼を受けるのを待っていたかのように、突然その2ヵ月後に会社の上司より呼び出され、「子会社へ取締役としての出向」の打診がありました。しかし、その打診は受けざるを得ませんでした。

神戸市に自宅のあった私は電車で2時間半の地である岡山県・備前市で単身赴任の生活となってしまったのでした:

・当時の子会社の皆さんは私を「親会社の手先」として派遣されたと思い、見ていたのでした

・会社では日々問題が起きます、起こります。工場長でもあった私はその問題の正しい解決を迫られます。が肝心のところは当事者たちは責任逃れで、正しい解決ができません

・まともな相談相手もなく一人で苦しむ誠に辛いときでした→まさに、逆風の中の、苦悩の日々でした

 その苦悩する日々が続く中で、私は気が付いたのです:

・私は救われたのだ… ・だから神に祈ることができるのだ…そのことを思い出すことができました 

2)私の証を続けます。

会社は日々問題が起こります、またユーザーさんからのクレームがきます。すぐに解決できない問題の都度私は神様に助けを求め、祈りました。毎日毎日聖書を貪り読み、問題の都度主に祈りました…心から助けを求めて、叫び祈りましたネー

また、私は会社にある悪習慣も目につきました;

・子会社では親会社への被害者意識が強い

・その実、その内側に甘えがありました→納期遅れや、品質不良品対策等

・工場長の私の下には、会社生え抜きの実力者がいました。工場の殆どの従業員は、この実力者の顔色を伺いながら仕事を進めていたのです

・新しいやり方を進めようとする私、従来の慣習の上にあぐらをかこうとする実力者、この二人の間には色々な確執が付きまといました

〔事例―①〕

私は難問題に出会うたびに、そのことの正しい解決策を祈って考えました

神は;・私の足りなさ…また欠けを

・そして愛の無さをも気付かせ、導いてくださいました

そして真理の道を教え導いてくださいました.祈りの後に、このようにすべき…と示されことは、どうしても、あの実

力者に話をし、理解してもらわねばなりません.

新しいやり方の場合…祈り備え望む翌日朝に、彼の正面で目を見ながら話をしました。今までそんなことはしたことがないという…その彼が「分かりました」…というのです。そして問題は解決されて行きました

神は、その相手の心まで変えてくださる  

〔事例―②〕会社の納入製品についてのクレームへの対策私は会社にある悪習慣も目につきました;

・内側にある甘えがありました…品質不良クレームの扱いに対すること

・わたしは、神に祈りました

   →現場に行きなさい、事実をよく見なさいと思わされました

早速現場へゆき、状況把握をしました→私はその担当部署の責任者とともに、お客様のところに飛んで行き謝りました。同行し

た彼はいいわけしなくなりました→責任逃れではなく、真の対策がとられるようになりました

相談相手のない、孤独な私は神に助けを求めるほかありませんでした 

〔事例―③〕「金の卵の採用活動」=納期遅れの対策としても

採用担当の労働課長に言いました「採用はどうなっていますか」、と

彼は答えた:ハローワーク、高校には求人案内を出しているのですがー

・わたしは、神に祈りました→あなたはどう行動するかと心を探られた

わたしは、彼とともにハローワークに、高校訪問に出ました  →採用できたのです 

〔事例―④ 私の証を続けます〕

当時、岡山での私の単身赴任の生活ですが;

・平日は出向先である備前市で単身赴任の生活

・週末は自宅の神戸に戻り…家族と共に過ごし、救われた家族で礼拝に出て、また共に暮らす→という生活の仕方でした

他方、平日の水曜日には岡山市・香登教会の夜の祈祷会に:

 ・ローカル線で40分ほど離れた香登教会の祈祷会に、私は毎週欠かさずに出席しました

 (9年間で1回だけ休みました)→そのときのハプニング

 ・祈祷会における祈り…わたしは抱えている問題を出して、皆さんに祈っ 

 ていただきました

 ・中でも、大切な問題、重要なものほど…よく時間をかけて、祈り続け・求めることが大切です

 神はふさわしい時に、ふさわしい仕方で解決して下さいました 

私はこの子会社での生活は9年間にわたりました:

・当初は変な目で見られ、また単身赴任という生活の中で悩みの時を過しました

・神様は予め洗礼に与らせ…助けてくださいました

・問題、課題で苦悩する時に「祈りという助け」を与えてくださり、その職責を全うすることができました…

「主は 祈りを聞かれるお方 」

わたしは確信して申し上げることができますの証詞です。

 

(証ついでに)

この子会社には9年間お勤めしました(50~59歳)

祈りにこたえて下さる主の御業のゆえに:

・救われる前の私は緊張し、不安の付きまとう生き方でした

・救われてから、祈りの応えて下さる主のお守りの故に、主にある平安な生き方へ→私の願い「幸せな人生」を確信した

・62歳で定年退職後の生き方として、働く人々に、この喜び、この生き方をお伝えすることが→私の使命と→鉢伏山での召命

 があり→神戸ルーテル神学校での学び卒業し→65歳からこの道に歩んでいます ハレルヤー! 

                        


 2023.10.28

主 題:「 永遠のいのちへの道 」

聖書箇所:ルカ18章18~30節

( はじめに )

高齢者にとって、また病気で苦しむ人にとって、永遠のいのち(天国行き)を願わない人はいないと思います。私たちの友人

知人などでも、このような人を容易に思い浮かべることができるのではないでしょうか。 

気候温暖化で各地に自然災害が頻発し、南海地震が、東南海地震がかなりの確率で発生し、そのときには膨大な死者が出ると報

じられ、またロシアのウクライナ侵攻に始まった戦争は世界中に蔓延し、収束する様子も見えません。

そんな中で、今日ほど私たちすべての人が自分の命の死を恐れるときはないですし、永遠のいのちを願わない人はいないと思い

ますネー 

今日はなんとその 主イエスさまが “永遠のいのち”への道案内をしてくださる、というのです→しっかり聞いてまいりましょ

 

1.  まだ一つだけ欠けたもの (18~22)

18 …ある役人が、イエスに質問して言った。「尊い先生。私は何をしたら、永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」 

ここである役人と言っても→信仰もあり、神の教えを忠実に守りながらも、謙遜な方。さらに人望もあり、社会的地位もあり、

その上裕福と、非の打ちどころもありません。その彼が主イエスの所に来て、「何をしたら 永遠のいのちを受けることができるでしょうか。」、と尋ねたと書き始められています。本当に真面目な人だと思いますネー。 

しかし、この人は:

・自分が何か善いことをすれば永遠のいのちを受けることが出来る

・また、自分は永遠のいのちに値する善いことをすることが出来る

そう思っているのですネー.

きっと、その通りだったのだと思います。真面目なユダヤ人なら、これらの「十戒の戒め」は子供の頃から教えられ、それを守るようにきっちりとしつけを受けていたと思われますから… 

主イエスは、この答えを聞いてから:22「あなたには、まだ一つ欠けたものがあります。」

と言われ「あなたの持ち物を全部売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。」と言われました。金に執着し 自分の財産さえ処分出来ないあなたが、どうして自分の善き業で永遠のいのちを得られるなどと考えるのか、そのことを気付かせたかったのではないか、と思うのですネー 

実は、主イエスが、「あなたには、まだ一つ欠けたものがあります。」と言われたのは、十戒の前半の部分→特に、十戒の第一

の戒である「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。」→これが欠けていると言われたのだと思いま

す。 

確かにあなたは、父母を敬っているだろう。殺してもいない。姦淫もしていない。盗んでもいない。偽証もしていない、しかし

真の神以外に何も頼らず、神を信頼し、全てを神に委ねていますか?

あなたが頼っているのは、自分の富であり、自分の地位であり、自分の真面目さなのではないか→そんなものは永遠のいのち

を受けるのに、何の頼りにもならない→そう、主イエスはこの人に 気付かせたかったのではないかと思うのです

金もある、地位もある、名誉もある。しかし、永遠のいのちを与えられるのは神であり、またイエスがその神であることをまだ

知らないのか、と→しかし皆さん、今の日本人は ほとんどこの役人のような考えではないでしょうか。

では皆さんイエスは「永遠のいのち」を受けるにはどうすれば…?

主イエスはこう言われています:(ルカ1817

「子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決して、そこに入ることはできません」

すなわち、子どものような混じりけのない信仰…

「主イエスを信じ、主イエスに従う」 ことが必要です、と…。

 

2.  主イエスを信じ、主に従う道(23~27)

24 イエスは彼を見てこう言われた。「裕福なものが神の国に入ることは、なんと難しいことでしょう。

25 金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通る方がもっとやさしい。」

らくだが針の穴を通る”:

 ・つまり、金持ちが神の国に入ることはできないことを語っています

・主イエスは、人は神と富とに仕えることはできません(ルカ1613

とも言われています

皆さん、ここで子供のように「主イエスを信じ イエスに従う」ということについて、少し考えてみましょう:

1)皆さん、主イエスを信じる」 「イエスに従う」ということは…

“自分の生き方の問題であり、自分の決断だ”と思っているところはないでしょうか? 

しかし、主イエスに従うということは、そんなことではないのです

2)「主イエスを信じ」「 主イエスに従う 」ことは、子どものように主イエス・キリストを信じ求め、子どものようにそのみことばを

 実行する(生きる)ことです→永遠のいのちと直接に結びついてくることなのです:

・大人の私たちであれば主イエスに従う一歩を踏み出す時→私たちは洗礼を受けます

・そして、私たちは礼拝ごとに恵まれます

・その聖霊の力によってみことばを生きることができます 

即ち、そのたびごとに主からの恵まれ(聖霊に満たされ)、その結果主イエスに従う道を歩み続けることができるのです。

主の恵みにあずかり、この世での罪の誘いに打ち勝つ力(デュナミス)により勝利の道を歩むことができるのです

洗礼もなく、礼拝にも出ず・聖餐も受けずに→主イエスに従うというのは:

・その人の生き方の選択ということでしかないのです

・主イエスへの信仰もないなかでイエスに従うことはできません

繰り返しますが、

私たちがどんな生き方をしようと、どんな生き方を選択しようと、その結果永遠のいのちが与えられるなどということはありません。信仰は、私たちの「選択の一つ」ではないのです:

 ・今までの欲望の生き方(罪の生き方)を180度方向転換する(悔い改める)ことによってのみ行くことができるところな

  のです

 ・さらに、私たちは悔い改め洗礼を受けたとしても、すぐにまた誘惑に弱い故に罪を犯してしまうのです…「救われた罪人」

  に過ぎません 

だから、洗礼を受けた私たちは、いつも礼拝に出て説教と聖餐の恵みによりこの世での罪の誘いに打ち勝つ力(デュナミス)をいただき…勝利の道を歩むことができるのです

この人は金持ちであったために、主イエスのことばに悲しむしかありませんでした。しかし、だからと言って→私は財産がないから大丈夫、そんな風に安心することは出来ません。 

ここで主イエスが、「らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」というのは、不可能であるということです。

この言葉を聞いた人々は、「らくだが針の穴を通る方が易しいとするなら、一体誰が救われることが出来るのか。」そう思いました。しかし、主イエスは言われます→27 「人にはできないことが、神にはできるのです。」

このことこそ、私たちが永遠のいのちを与えられるのに、決定的なことなのです。 

(ここまでをまとめます)

私たちが永遠のいのちを与えられる:

・それは、私たちが善き業をもって得られることではないのです→それは、らくだが針の穴を通る程に、不可能なことです

・永遠のいのちを与えられるとは、私たちの業によってではなく不可能を可能にされる、全能の父なる神の憐れみによるのです

・何の善きものも持たない私たち。自分の財産さえもささげることの出来ない私たち。そのような私たちが永遠のいのちへの道

→それはただ神の憐れみによる選びです

→その選びに答える…「主イエスを信じ 従う信仰」のみによるのです

 

3.  永遠のいのちへの道 28~30)

28 するとペテロが言った。「ご覧ください。私たちは自分の家を捨てて従ってまいりました。

このペテロのことばのために→ペテロが主イエスに従ったいきさつを、思い出してみましょう:

(ルカ5・1~11)

・ガリラヤ湖の漁師であったシモンは、漁に出たが魚は取れず網を洗っていました

・イエスはシモンに「深みに漕ぎ出し、網をおろしなさい」と言われた

・シモンは「夜通し働きましたが何一つ取れませんでした」と、

でも、お言葉通り、網をおろしてみましょう」と→「たくさん入って網が破れそうになった」

・シモン・ペテロはイエスの足元にひれ伏して「主よ、わたしのような罪深いものから離れてください」といいました

・「こわがらなくてもよい。これから後、あなたは人間をとるようになるのです」とイエスが…

・「彼らは何もかも捨てて、イエスに従った」 

このようなペテロだからこそ言える28節の問いですネーそれに対するイエスのことば29節です:

「あなたがたに告げます。 神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子どもを捨てたもので、

  だれひとりとして、後の世で永遠のいのちを受けない者はありません。」 

 →のように正しく読まなくてはいけません

と反対の読み方は間違いですよ 

主イエスは言われます:

私たちには永遠のいのちがある。この永遠のいのちにしっかりと目が開かれる時、私たちは自分の財産からも、自分の家族からも自由になることができるのです、と

それは、私たちが:

・神の国における永遠のいのちを受け継ぐ者として、

・また、キリストを信じ、従う者として

・さらに、キリストの愛に生きる者として

自分の家族との関わりを受け取り直すということだと思うのです。

「主イエスの愛の証しの場」として、家族や家庭を受け取り直すことだと思うのです:

・子供だからこうすべきだ

・親だから、妻だから、夫だからこうすべきだ…

→そういうことから自由になって、

→それぞれに仕える道を求めていく

ということなのではないかと思うのです…皆さんいかがでしょうか

 

最後のまとめです。

私たちに欠けている“大事な一つのこと”:

・まことで唯一の神 「イエスを信じ イエスに従う」ことです

・ここに集中していく時、私たちは全てのものが与えられ、そして永遠のいのちも備えられるのです

そして、そこには全き自由があるのです。皆さん私たちは…この恵みに招かれているのです。 

このことを残された私の全生活において実行してまいります。感謝し、主イエスキリストのみ名によりお祈りします。アーメン