2023.5.6
題 名:「 私たちの力つきる時に 」
聖書箇所:ルカ8:40~56
カペナウムを拠点に主イエスは弟子たちとともに宣教に忙しい日々でした。人には理解できない 主イエスの不思議なおことばとそのなさるわざのゆえにこのイエスさまを頼りに…大ぜいの群衆がイエスさまのところに集まって来て つき従っていました。
41 するとそこに、ヤイロという人が来た。この人は会堂管理者であった。彼はイエスの足元にひれ伏して自分の家に来ていただきたいと願った。
ここに会堂管理者ヤイロの名が出てきますが、会堂管理者とは 各地にあった会堂の管理責任者であり、ユダヤの人たちに大変に尊敬されたりっぱな地位でありました。その人の名前もヤイロと記されていますから、よく知られていた人であったようです。
42 彼には12歳ぐらいのひとり娘がいて、死にかけていたのである。イ
エスがお出かけになると、群衆がみもとに押し迫って来た。
ヤイロには12歳ぐらいのひとり娘がいました。ひとり娘というのは親にとってはどれほど大切な子であるかは よくわかりますよネ:
・そのひとり娘が12歳…その時代にあっては もう嫁にやってもいい年ごろであったようです
・ひとり娘の幸せを願っていた父にとって、娘がもう結婚してもいい 年ごろになったということは→とても大きな喜びであったことでしょう→ところがここまで育って、愛らしくなった娘が突然 死の病にかかってしまったのです
この父親にとっては12歳にもなって、これからという時に何故こんな思いをしなければならないのか→深い絶望の中にとらわれていたのではないでしょうか。この父親ヤイロにとっては→「自分の力ではどうすることもできず→力つきて」 どうしたらよいかわからない状況にあったのではないかと思われます、ネー
思い余ったヤイロは あの大評判のイエスに 助けを求めることが 父としてできる最後のことであったと思われます→そこで、彼
はイエスの足元にひれ伏して自分の家に来ていただきたいと願ったのでした。
→そのような所へ…次の話が割り込んで入ってきます。
2. 長い間の病気をいやされた女性の話(43~48)
43 ときに、12年の間「長血をわずらった女」がいた。だれにも直してもらえなかったこの女は、
44 イエスの後ろに近寄って、イエスの着物の“ふさにさわった”するとたちどころに出血が止まった。
長血をわずらう…律法によると「月のさわりの状態」(レビ15・19以下)が長く続く婦人病であります:
・12年もの長い期間にわたる出血の病に どれほど苦しめられたか
・またその病の治療のためにどれほど医療費を使い尽くしてきたか
→しかし、そのかいもなく なお絶望の中にありました。ほんとうに「力つきてしまって」、もう死にたいと思っていたことでしょう。
そんな中にあって、
「だれにも直してもらえなかったこの女は」イエスの評判を聞いて:
・イエスの後ろに近寄て、イエスの着物の“ふさにさわった”のです
・するとたちどころに出血が止まった→驚きでした!
ところが
45…「わたしにさわったのは、だれですか」とイエスは言われた。
このイエスさまのお声を聞いた時:
・さわったことを恥じ、そしてさわったことを恐れた
・できることならば隠されたままでいたいと願った
それだけでいいと思っていたら、思いがけないことが起こり、恐れに捕らわれて、むしろ、とんでもないことをしてしまったという思いになっていたと思われます、ネー
ペテロは…「このおおぜいの人が、ひしめき合っておしているのです」から、先生、そんなことわかりませんよー」と言います。
46 しかし、イエスは、「だれかが、わたしにさわったのです。わたしか力が出てゆくのを感じたのだから」と言われた
女は、47「隠しきれないと知って、震えながら進み出て、御前にひれ伏し、すべての民の前で、イエスにさわったわけと、たちどころに癒された次第とを話した。
48 「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して行きなさい。」
「あなたの信仰があなたを直したのです。」と、言われ女も驚いたことでしょう。私の信仰ですって。どこに信仰があったのでしょうか:
・わたしはただ恐れただけ、苦しかっただけ
・そして、この方以外にはない、とただ取りすがっただけ
・「私は力つきてしまって、ただ手を伸ばしただけ」なのです、と
そうです、それだけでありました。しかし、主イエスは言われます「あなたの信仰があなたを直したのです。安心して行きなさい。」と。
3. 会堂管理者ヤイロの娘の救い(49~56)
さあ、再びヤイロの娘の場面に話は変わります
49 イエスがまだ話しておられるときに、会堂管理者の家から人が来て、言った。「あなたのお嬢さんはなくなりました。もう先生を煩わすことはありません。」
ヤイロの場合、会堂管理者であったのですが、その身分を忘れたようにイエスの足元にひれ伏して、自分の家においで下さいとしきりに願いました→ただ自分はどうすることもできずに、イエスにお頼みしたのです、と。
しかし、49「あなたのお嬢さんはなくなりました。もう先生を煩わすことはありません。」の知らせが入りました…
しかし、主イエスがこう答えられただけです
50これを聞いて、イエスは答えられた。「恐れないで、ただ信じなさい。そうすれば、娘は直ります。」
→会堂管理者のどこに自分を救いうるような、自分の信仰と言えるような言葉があったでしょうか→「自分の力ではどうすることもできず→自分が力つきたときに、ただ手を伸ばしただけではないですか。そうです! それだけでした。
ヤイロの家に着くと、人々は死を悲しんで→すでに泣き叫んでいる。イエスはその死の悲しみに対して、
52節「いや、娘は死んだのではない。眠っているのです」と言われた…
→人々はそれを聞いて「あざ笑った」のです。力つきた人々、絶望の人には 主イエスのことばは届かない、何の役にも立たないと思われています、ネ
⇒死に襲われた絶望の中で、人々はイエスを笑った。そうです、私たちは力つきたその先に、私たちの中に信じる力が残っているわけではありません…ここまで精一杯やった。そこにイエスの「恐れないで、ただ信じなさい。そうすれば、娘は直ります。」
のことばが響くのです。この時に残っているのは、私たちの力ではありません。信じたらよいと励してくださる主イエスに、そのことばに身を任せるだけであります:
54 しかし、イエスは、娘の手を取って、叫んで言われた。「子どもよ。起きなさい。」
55 すると、娘の霊が戻って、娘はただちに起き上がった。それでイエスは、娘に食事をさせるように言いつけられた。
4.二つの「力つきた者の救いの物語」(40~56)
皆さん、今日の聖書箇所には二つの物語が 入り組んで語られています:
① 死にかけている12歳の娘を持つ父親のものがたり
② 12年もの間 長血をわずらう女、医者にかかっていたが、だれにも直してもらえなかった女のものがたり
この物語に共通しているのは
・ふたりとも「何をやってもダメ…できないダメです、と」→力つきています
・本当に力つきてしまって、もう死にたいほどだったといってもよいでしょう→「私たちの力つきる時に」のことが語られているのです
この二つの物語はその「私たちの力つきる時に」とった行動…に共通しているのは:
1) 主イエスのところに尋ね求めた…ことです
このお方に助けを求めて尋ねてみよう→その思いだけでした
➀ 会堂管理者のどこに自分を救いうるような、自分の信仰と言えるような見事な言葉があったでしょうか。
→自分の力つきた時に、ただこのお方に助けを求めただけだ。そうです! それだけでした。そこに
→「恐れないで、ただ信じなさい。そうすれば、娘は直ります。」のイエスのことばが響くのです、そして事実、娘は癒された
② また長血の女には 私の信仰ですって。どこに信仰があったのでしょうか。「わたしが力つきたときに、イエスさまに
ただ手を伸ばしただけ」なのですが、と。そうですそれだけでありました。しかし、主イエスは言われます
「あなたの信仰があなたを直したのです。安心して行きなさい。」
この2つのことから
信仰を認めるのは、まさしく私たちではなく、神の側にあるということです:
・神の側から私たちに語り掛けて下さって
・私たちを引き上げてくださったときにのみ、信仰が生まれるのです
ですから、「私たちの力つきる時に」することはただ、イエスさまのところに→イエスさまのおられる教会に来て心から助けを求めること
聖書はこのことを語っておられます:
→するとイエスさまは、私たちに力を与えてくださるのです
→私たちは助け救われ、信仰が与えられ、更に信仰が成長するのです
皆さんアーメンですか? アーメンですね
ここまでとします。ハレルヤー!
2023.5.20
聖書箇所:ルカ9:1~6
(はじめに)
福音の宣教…はじめはもちろん イエスさまが始められました。次いで、弟子たちを通して宣べ伝えられてまいります。そのために、イエスさまは まず12人の弟子を選ばれました。ルカ8章では、その弟子たちと共に、ご自分の使命である「神の国の福音を宣べ伝えること」に忙しい日々を過ごされていました。ルカ9章に入りますと、主イエスは12人の弟子達を初めて「神の国の福音の宣教」にお遣わしになります、そしてその心得をも示されます。
「神の国の福音を宣べ伝える」とは:
・神の国はあなたがたの所に来ていますよ、と神の国の実在を伝え
・神の国は 神の支配です…神がいま支配しておられることを伝え
そして、その神の国が→ここにあることの“あかし”として、病気を癒す力を弟子たちが用いることをゆるされるのです。
私は、私を含め教会員の皆さんが恵まれ 楽しい信仰生活を味わい そして 伝道もして欲しいと思っているのです。
そのために私は:
・教会員のそれぞれの方が何よりもまず礼拝に出て、恵まれてほしい
・神の家族として愛の交わり祈り合い、お互い励まし合い、助け合いする教会生活→楽しい信仰生活をし
・それぞれの近き隣人への伝道から始めてほしい
と思っています。そして、それぞれが「イエスと共に働く者」になってほしいと願いつつ、ここを一緒に読んでいきたいと願っています。
先ず第一に、イエスは12人の弟子達に「すべての悪霊を追い出し、病気を直すための、力と権威を与えられました」:
・これは弟子達自身に備わっていた力ではありません
・主イエスからの力であります
その神の国が→ここにあることのあかしとして、「病気を癒す力と権威」を弟子たちが用いることをゆるされたのです。
そして第二に、神の国を宣べ伝え、病気を治すために、彼らを遣わされた。
力と権威を授かった弟子達は:
・主イエスに代わって 悪霊を追い出し
・主イエスに代わって 病気をいやし
・主イエスに代わって 神の国を宣べ伝える者として遣わされた→この「主イエスに代わって」が重要なのです
弟子達は、主イエスがまことの神であることを証しする者として遣わされるのです。
つまり、弟子達がなすことは、全て主イエスの業とされるのです:
・しかし、自分にあるはずもない力を与えられ、それを用いて悪霊を追い出し、人々を癒し、福音を宣べ伝えていく中で…
・弟子達は主イエスが共におられ 主イエスが自分と共に働いている、私は用いられているということを味わったのではないか
と思うのですネー→この経験こそ重要なことなのですョー!
キリストの教会は、キリストを頭として、私たちそれぞれが体の部分としてなっている生きものなのです、建物ではないのです:
・だから、罪の赦しを与える洗礼を行うことが出来るし
・キリストのご臨在を示す聖餐を執り行うことが出来るのです
このことによって、教会はキリストが自分と共に生きて働いて下さっていることを知らされ続け、教会は教会であり続けてきたのです、ネ
2.弟子を遣わすのにーその② 心得3つ(3~5)
2.1 旅に出るときの持ち物(3)
イエスは、こう言われた。3「旅のために何も持って行かないようにしなさい。杖も、袋も、パンも、金も。また下着も、二枚はいりません。
このことが最も重要なことだと言われます。旅に行くのに何も持っていくな…と主は言われる。ここで言われている杖、袋、パン、金、下着というのは、当時の旅の必需品でありました…
特に杖…これは何のため:
・足腰を守るため?…違います
・当時はこれが野獣などから身を護る武器でありました
そして「杖や袋やパンなど…」→最低このくらいは持っていなければ、旅は出来ませんネー
ところが、主イエスはそれらを持っていくなと言われるのです。
Qどうして?
Aそれは、この旅が神の国すなわち神のご支配を宣べ伝える旅だから:
・神の力、神の守り、神が共にいて下さることを示すための旅だから
・神のご支配、神の力と守りを語り伝えながら、自分は目に見える杖やパンや金で自分を守り支えようとするなら、それは矛盾です.主が養って下さる。そのことを本気で信じて、委ねて生きるのです。
聖書にはエリヤの烏の話(Ⅰ列王記17章)が書き記されています;
・エリヤが主のご命令で身を隠していた時、
・数羽の烏が来て、朝に夕にパンと肉をエリヤのもとに運んできたという話です…
また、主イエスはそのことを山上の説教の中で、次のように言われています:
「神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」(マタイ6:33)
これらのものはみな加えて与えられる→これらのことは出エジプトの40年の旅で証されています、ネ
主が養ってくださるのだから、思い煩うなということでしょう。私たちは、もっと大胆に、もっと安んじて、神様を信頼し、お委ねして良い…と言われていますよー!
2.2 一つの家にとどまること (4)
次の心得→4「どんな家に入っても、そこに留まり、そこから次の旅に出かけなさい。」というものですが、これも第一の心得と重なってきます。弟子達は、主のことばを告げ、いやしをなし、悪霊を追い出します→すると、弟子達を招いて家に泊めてくれる人が出てきます。
しかし、その家が豊かな家とは限らない。貧しい場合もあるでしょう。そういう時も、自分への待遇がもっと良い家へと渡り歩くようなことはするなということ…です。あなた方は主の養いに生きるのであって、報酬を求めてこの業についているのではないからだ、ということであります→献身し、主への奉仕する者は→かくあるべしです! アーメンですネ
(高木の証)
2.3 足に着いた塵を払い落とすこと(5)
三つめの心得は、
5 人々があなたがたを受け入れない場合は、その町を出て行くときに、彼らに対する証言として、足のちりをはらい落としなさい。
私には良く判りませんでした。「足についた埃を払い落とし」て行くというのは、「私とあなたとは関係ない」という意思表示と思います…いろいろな本を見てどうにか理解できるようになりましたですよ→伝道者になって、この言葉が何と慰めに満ちた主の言葉であろうかと思うようになりました。
伝道者は伝道の成果が上がらないと、自分の能力のなさを責める者です。そして、自分は牧師に向いていないのではないかとさえ思い始めます。けれども、伝道というものは…本来神のみ業です。会社の営業成績のようなものではないのですネ
しかし、伝道者はそれを判っていても、やっぱり自分の能力がないからではないかと思ってしまうんです→主イエスの弟子達だって、行く所行く所で、いつも大歓迎された訳ではありません。偉大なパウロの伝道のようすを「使徒の働き」は伝えていますが、そこに記されているパウロの伝道でさえ、いつも成功を収めていた訳ではありません。
イエス様は、そのことも良くご存知だったのです。そして、こう言われたのです。
5「人々があなたがたを受け入れない場合は、その町を出て行くときに、彼らに対する証言として、足のちりをはらい落としなさい。」、と。
主イエスは、「あなたの業もことばも受け入れられないとしても、それは受け入れない人の責任、問題なのであってあなたの責任ではない。」そう言われたのでありましょう。
もちろん、伝道者自身に問題があることもあるでしょう。しかし、そればかりではない。伝道は神様の業…そのことを良く良く心にとめなさいということなのでしょう→そうでないと、伝道の成果が上がると、今度は自分は大したものだ、という勘違いが起きてしまうことにもなりかねないのです、ネ
皆さん、イエスさまの 弟子たちに対する思いやりの心、身に沁みます。その大きな愛に改めて感動感謝します…ハレルヤー!
3.教会の役割(6)
主イエスは このように弟子達に力と権能を与え、伝道の心得を与え、弟子達をお遣わしになりました。その弟子たちは、このように主の訓練を受け、それぞれの所に持ち帰り、そこここで伝道し、宣教の業を繰り広げました→こうして、そこここに教会ができ会堂が立てられてきました。
その教会の中で、主の恵みを受けた者が、さらに力と権能を与えられ伝道をなし→また新しい教会が立てられ、加えられ
→さらに教会が立てられました
その教会の中で、主の恵みを受けた者が、さらに力と権能を与えられ伝道をなし→また新しい教会が立てられ、加えられ…
→あれから2千年後の今この上岩出キリスト教会が立てられました、ですネー
私たちは毎週ここに集まり礼拝を守っています→私たちはここに集まり、礼拝します。礼拝は頭なるイエスと私たち主なるイエスの弟子とされた者たちとの交わりの時です。
この礼拝は
・過ぎし一週間の中での主のなしてくださった御業へ心から賛美し
・「主の祈り」の中で 犯した罪の悔い改めをします
・そしてこの礼拝の中心にあるのは、「みことば」=メッセージと、聖礼典=聖餐式です
私たちは、教会で聖餐に与ります。キリストの体と血に与り、キリストの“いのち”を受けます。この聖餐に与る者は、キリストが共にいて下さるということを身をもって味わうのであります
・そして主を信じ、より頼む信仰をもって主の恵みにあずかります=聖霊の満たしを受け
・祝祷において、私どもは遣わされた者としてこの世に一週間の旅路に出て行くのです!
このように礼拝は、私たちへの「招き」から始まり…そして、「派遣」で終わっています。
皆さん、礼拝は主なるイエスさまと私たちのお交わりの時なのです。私たちが、義務でくるところではないのです、神様が私たちとお交わりし、わたしたちに恵んでくださる時なのです。あの(使徒1・8)のダイナマイトの破壊力のある力を与えて下さる時なのですヨー。イエスさまが私たちをめぐまれることをまっておられるところなのです、ね。
ですから、伝道はこの遣わされた者の証しにかかっているのです…
→教会が伝道集会をやれば伝道しているということではないのですネ「主の養いに生き→主のご支配に生きる幸いの生活」が…
→人々を驚かせ、あこがれを持たれ、キリストへ…教会へと人々を招いていくのであります、ネ
皆さん、礼拝でキリストが共におられることを知らされた者が聖霊の満たしを受けました。ですから「イエスと共に働く者」と
された者として、私たちはここから一週間の旅路へと遣わされていくのです:
→キリストを知らない世界に、闇が深くおおっている世界に
→まことの光である主イエス・キリストを高くかかげる者として、遣わされていくのです
ですから、まず近き隣人を心から愛し・祈ることから始めてまいりましょう。アーメン! ハレルヤー!
2023.5.27
題 名:「5千人に食べ物を与える」
聖書箇所:ルカ9:10~17
1.弟子たちの喜びの報告(10~11)
さて、主イエスに遣わされた12人の弟子達は、村から村へと巡り歩き、福音を宣べ伝え、病気をいやしました…
→それは弟子達にとって、驚きの体験、喜びの体験でした。
12人の弟子達…今まで、主イエスがなさること、語ることをすぐそばで見て、聞いていた彼らです。その主イエスがされた様に、自分達も人々をいやし、主イエスが語ったように福音を告げたのです:
・彼らにとって、神は生きておられ、自分と共におられ、働いて下さっていることを知らされる体験でした,驚きの体験でした
・主イエスのもとに帰った彼らは、一つ一つ主イエスに報告しました
それは、喜びと興奮に満ちた報告であったに違いありません。主イエスも又、その報告を聞きながら、お喜びになったことでしょう.
その報告を弟子達から聞くと、主イエスは弟子達と共にベツサイダという町に退かれました。一日を終えて、父なる神に祈るときを大切にしておられた祈りのときを持つためでした→が、イエスの癒し、助けを受け、イエスの力を知った群衆はそのイエスさまを求めて,
どこへ行かれようと、その後を追いかけました。しかしここでも、主イエスはこの人々を迎え入れそして、病を癒されるなどの対応をされました。
2.主イエスによる奇跡(12~17)
ルカの福音書では、ここに「五千人に食べ物を与えた奇跡」のことが簡潔に書かれてあります。しかし、これは2千年前に起こった歴史上の事実であることを聖書は語ります;
・男だけで5千人の証人がいた
・4つの福音書すべてに書かれてある奇跡 だからです
私はイスラエル旅行時に、ガリラヤ湖湖畔でその遺跡を見てきました。写真で見てみましょう;
今はそこには教会が建てられております。その入口の所にここにみられるようなモニュメントがあります。
主イエスによってなされたこの奇跡…「五つのパンと二匹の魚」で男5千人に満腹させた→というものです。が、その人たちが満腹したのです。そしてなお余ったもので12の籠が一杯になった、と!
今回、私も4福音書に書かれている奇跡なので、他の福音書をも参考にして、その真理を理解しようと努め、メッセージつくりにしてまいりました。
3.弟子を通して配られるパン
3.1 弟子たちの心配(12~13)
主イエスの弟子達は、イエス様に告げました。「群衆を解散させてください。」これは、集まって来た人々に対しての弟子達の配慮から生まれたもののように聞こえます。
主イエスと弟子たちは祈るために退かれたのですから、人里離れた所に来ていたのです。ですから、食べる物も、泊まる所もありません。もう日が傾いてきていますから、夜になる前に解散させて、それぞれ食べ物と泊まる所を確保させるようにしましょう。そう弟子達は言ったのです。
それに対し主イエスは、13節「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい。」と言われたのです。
さあ、弟子たちは、あわてて、その群衆の中を探し回りました…
ここからはヨハネの福音書を参考に見てみましょう:
(ヨハネ6・8~9)
「弟子のひとりでシモン・ペテロの兄弟アンデレがイエスに言った。
『ここに大麦のパン5つと魚2匹を持った少年がいます。けれども、こんなに大勢人では、何の役にも立たないでしょう。』」
3.2 5つのパンと2匹の魚で5千人を満腹にした奇跡(14~17)
イエスは、群衆を50人くらいずつ(女や子供などもいれると100人くらい)草の上にすわらせるよう指示すると、弟子たちはそのようにして、全部を座らせました。
その“イエスの奇跡の業”のところをマタイ14章で読んでみるともう少し丁寧に書かれてあります;
すなわち、次のような手順であったと想像されます
① イエスは5つのパンを受け取りました
② 天を見上げてそれらを祝福し、パンを裂いて、弟子たちに渡した
そしてまた
② イエスは、それらを祝福し、パンを裂いて…弟子たちに渡した
そしてまた
② イエスは、それらを祝福し、パンを裂いては…弟子たちに渡した
③ 弟子たちにそのパンを群衆に与えた
……
何故ならば
ルカ9・14でイエスは「人々を50人ぐらいずつ組みにして座らせなさい」→仮に仮に男だけで5千人を50人ずつとするとると100組ほどにもなります。そこにイエスだけで配ることは到底考えられません:
② 主イエスは天を見上げて、それらを祝福し、パンを裂いては…弟子たちに渡した
③ 弟子たちはそれを皆に配りました
④ 魚もそのようにして全員に与えた→そのように思われます
そうすると、ここでは…弟子たちは主イエスのなされる奇跡を、ただ見ているだけではなかった:
・自分がパンを配ります…配っても配っても無くなることなく増えていった
・魚も同じように配っても配っても無くなることなく増えていったのです
今回の場合は、弟子たちは;
・ただそれを見るだけではなかった
・実際に自分たちが配ったのです
・配っても、配っても…無くならないのです
・すべての人が満腹した
・なお余ったパンは12籠もあった
この驚き…ただただ→びっくり仰天でした! この奇跡は弟子たちの力ではありません。ただ主イエスの力によって、なされたものでありました:即ち、
・ここでは、弟子たちにとっては→配っても配っても…なくならない奇跡の当事者、体験者となったのです→驚くべき不思議
でした、奇跡でした!
・ですから、十字架と復活を除いては、この奇跡のことのみが4福音書すべてに書かれている、と…そう考えられます、ネ
3.3 イエス・キリストの御業です
弟子達は、自分の手で食べ物を与えたのです。彼らは驚き、喜び、そして、主イエスというお方が誰であるかということを実体験したのです。
だから、この出来事の後で、ペトロは主イエスの「あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」という問いに対して、20節「神のキリストです。」という信仰を告白するに至ったのであります…
→このキリスト教会最初の「信仰告白を生み出した奇跡」が、この“5千人に食べ物を与える”という出来事だったのです。
また、(ヨハネ・6章)では、この主イエスの奇跡のみわざを見た人々は次のように書いています;
6:2「イエスが病人にたちになさっていたしるしを見たから…」
6:14「人々はイエスのなさったしるしを見て…」
この2個所で、この奇跡は”イエスのなさったしるし”と書かれています→どのような“しるし”でしょうか?
そのしるしとは;“主イエスがキリストであり、神の子であるというしるし” であります
言い換えると、イエスが行われた奇跡は→「主イエスこそキリストであり、神の子である」ことを証明していることです、と。
ですから、そのしるしは、現代の科学の知識というか、人間の知識ではとうてい理解できることではありません。
4.教会の役割
配っても配っても無くならないパン。皆が満腹になるパン。これは後に、主イエス・キリストの体である聖餐のパンを指し示すものとして理解されるようになりました。
教会は…この聖餐のパンを与えるものとして立ち続けてきました。聖餐に与るたびごとに、弟子達は、五千人の人々にパンを配った時のことを思い起こし、それをなされた主イエスというお方への信仰、まことに天地を造られた神ご自身であるという信仰を確かにしてきたのです。
12弟子達は、自分の手には、「五つのパンと二匹の魚しかない。」と言ったことを恥じたことでしょう。しかし、ここで弟子たちは、神が共におられるならば、五つのパンと二匹の魚で十分であることを知らされたのです→主よ、教会も私たちも、いつも五つのパンと二匹の魚しかないのです。
しかし、主イエスはいつも言われるのです。「あなたがたが与えなさい。」他の誰でもない、私たちが自分の手で与えなさいと言われるのです。
主イエスが命じられるということは、主イエスがその御力をもってなしてくださるということです。弟子達は、ただパンを配っただけです。パンを増やすことは弟子達のやることではないのです。主イエスが増やして下さるのです。
私たちはただ配るだけなのです。私たちの近き隣人に 配っても無くならない「5つのパンと2匹の魚」、すなわちキリストの恵み、キリストの福音、キリストのいのち…を配っていきます、と思わされました。
ここまでとします。アーメン
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