2023.9.2

  題:「神の前に富む生き方」

聖書箇所:ルカ12・13~21

(はじめに)

イエスは神の国を説き、その福音を宣べ伝えながら、町や村を弟子たちと共に次から次へと旅しておられた。12弟子もお供をし…その旅をしていますが、どこに行っても、多くの人たちがそのイエス一行に着き従っていました。今回の13節では「群衆の中のひとりが、『先生。…わたしの兄弟に話してください…』とイエスに願い出てきたのです。さあ、その願い出た話に答えた主イエスのことばに聞いてゆきましょう。 

1.         遺産分けに対する不平(13~15)

13 群衆の中のひとりが、「先生。わたしと遺産を分けるように私の兄弟に話してください」と言った。 

自分の兄のことでしょうか。当時長男には大きな権限があり、父親が死ぬとほとんどの財産が長男の手に入りました。この男は次男か三男か、少なくとも長男ではなかった。ところが、その長男が貪欲な人であって、自分の取り分以上のものを取って、弟に渡してくれなかったようです。この男にとっては、そのことが気になって仕方がなく、尋ねたようです。

兄弟の遺産争い、これは古今東西変わらないことです、ネー 

この男は「先生、これを何とかしてくれませんか」と言います:

・当時の社会では、このような争いがあれば、いわゆる律法学者、神のことばについての専門家が判断するのが普通でした。やはり第三者の権威ある判定が求められていました

・おそらくイエスのお姿を見て、その弟子たちを諭しておられるのを聞いて、「ああこのイエスというお方は、正しくさばいてくださる方だ」と思ってのことでしょうネ 

イエスはそうした思いで訴えた言葉に直接には答えず、そこにいた人々に言われた、

15「…どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい。なぜならいくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではないのですから。」

 この男は聞いて驚いたと思います「なんたることか」と思ったのではないでしょうか。この男のことはこれ以降聖書には出てきません。 

けれども、腹を立たてて、なおそこに立ち尽くしている人の心にも届くようにと16節以下の「主イエスのたとえ物語」が始まるのです。いったいこの物語は何を言わんとしているのでしょうか?

それはすでに、15節の主イエスのおことばが明らかにしています:

どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい。なぜならいくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではないのですから。」 

この“貪欲”のことばの訳し方に対し いろいろな方々が試みられていますが、「もっと欲しいと思う心」というとらえ方が主流です:

 ・ただ、自分が持っていないのを欲しがるというのではなく

 ・「有り余るものを持ちながら、なおほしいと思う心」 

このようにとらえてみますと、皆さんいかがですか。私たちの、いや私のこころの中にもありました。

〔高木の証-①〕

 ・わたしが学校卒業して社会人になったときの希望・・・人生目標は幸せになることでした:

 ・お金を沢山持てば幸せになるだろうと、また欲しいものを沢山持てば幸せになるだろうとおもい→一生懸命に働きました

・同時にまた私は、日本の高度成長期の時代の要請にこたえるためにも働きに働きました

 ・給料もたくさんいただくようになりました。またそのこともあり、TVも、車も、家も持つことができました

→しかし、これらはいくら持っても「これで満足」はなく、さらに欲しくなり欲望は膨らむばかりでした

  ⇒“貪欲”になるばかりでした

→幸せな気分にはなりませんでした…「幸せになる」の人生目標には到底至りませんでしたネー

 15節「いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではないのですからです。」のみことばはそのことを言っていると思います。ではどうすれば…?

 

2.         愚かな金持ちのたとえ(16~19)

この金持ちを主人公にしたたとえ話は、特に1619節のところは読んだだけで、どんなことをイエスが言おうとしていたかは、どなたにもわかることであります、ネ:

   

  画家レンブラント「愚かな金持ちの絵」

彼は心の中でこう考えました。「どうしよう。作物をたくわえておく場所がない…こうしよう。あの倉を取りこわして、もっと大きいのを建て、穀物や財産はみなそこにしまっておこう。」、と

19 そして、自分のたましいにこう言おう。

「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」 

ところが、

20 神は彼に言われた。

愚か者。おまえのたましいは、今夜お前から取り去られる。そうしたら、お前が用意した物は、いったいだれのものとなるのか。 

Q 皆さん、人のいのちは誰が決めるのでしょうか?

 「主が与え、主が取られる。主のみ名はほむべきかな」(ヨブ1・21) と聖書は語っています

 実は、この男のいのち→神のご計画ではその夜のうちに死んでしまうことになっている。

死んでしまったなら、その豊かなたくわえ物はだれのものとなるのか。彼にとっては何の役にも立ちません→地上の時をいくら積んでも、死の前には無力ではないか。イエスはそのように言っておられるのです。

ここでイエスが語られる中心問題は『 死 』であります。一人ひとりの死です。私たち人はやがて死にます。しかし、やがてと言っても、実際にはいつであるかは、だれにも分かりません:

 ・10年も、20年も、30年も生きる人もあるでしょう

 ・コロナにかかり、病院でも対応ができなくなり このまま死ぬかも

 ・交通事故で突然死ぬ かもしれない 

これはだれにもわからないことです。しかし、私たちはやがて死ぬのです。必ず死にます

この死ぬ時に 意味がなくなるような事柄に いつまでかかずらっているのか? とイエスはここで語ろうとしていると思います。

そこで、ここで心に留めおきたい「みことば」はこれです:

 15どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい。なぜならいくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではないのですから。」

ここで主題は:

×結局は死ぬのだから、そんなものを求めても無駄だ→なんとはかない

  いのちは、何に根差すのか→死ぬとしても、私たちがなお保ち続けることができる 『いのち』 とはなにか…それを求めなさいと

つまり、「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ」、と。真実の富(宝)とは何か。

21「神の前に富む生き方」にあるのではないか、と問われているのです、ネ。

では、「神の前に富む生き方」とはどのようなものでしょうか、考えてみましょう。

 

3.         神の前に富む生き方へ (20~21)

20 しかし、神は彼に言われた。『愚か者。おまえのたましいは、今夜お前から取り去られる。そうしたら、お前の用意したもの

  は、いったいだれのものになるのか。』

21 自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこの通りです。」 

この“金持ちのたとえ”は、「自分が本当に豊かに生きるいのちとは、そこに生きがいを見出していますかと問われているのではないでしょうか! ここでは今、「いのち」を「生きがい」ということばを使いました

→「生きがい」というのは…何らかの意味で「自分は生きているという実感、充実感を得ること」と思います。

つまり神から「あなたの生きがいとは、自分がたくさんの物を持っているということで、そこに生きがいを見出していますかと問われていると考えられます。

 では、「神の前に富む」とは

A ・ 神の前に立った時に、自分がこのように生きてきて本当に良かったと神の前に告白することができる生き方をしている、ということです

 ・      そして、「神の前に富む者」は、そこで死を超える生き方・いのちに行きます。永遠のいのちを受け継ぎ、生きる者となります 

 神が私たちにこの「いのち」を与えて下さっています。神が与えてくださったいのちを、このように喜んで生きているならば、いつ死んでもいいという生き方ができるようになり→そこでは貪欲から解放され、いのちに生きることができる。そうイエスは言われ、また招かれています。 

主のおしえを聞きながら、遺産相続争いの虜となってしまった男が知らなければならなかったことはこのことでした。皆さん:

・貪欲の虜は、偽りの神を神とします、がその神を礼拝しても生きることは出来ません

・貪欲の特質は真の神を忘れ、真の神を否定することにあります

食欲を満たすもの、それを可能とするものが 神とされるのです→偽りの神、偶像を求める者となります 

現代人は、偶像礼拝を生む貪欲の虜となっているともいえると思います。

神の前で富む」とは何か→を真剣に問うことよりも、自分の財産の大変な蓄積を自ら驚嘆しながら、自分の死を忘れ、神の前に立つ日をケロリと忘れている、と言えますネー

→主イエスのこのたとえ話愚かな金持ちのたとえは、襟を正して聞くべきみことばです。

 〔高木の証-②〕

・私の人生目標は→「幸せになること」でした。しかしものを持つことではその欲望がさらに膨らみ、幸せにはなれませんでした

・そんな中私48歳の時に、先に救われていた妻に誘われ、ついて行った塩屋聖会→それは、私にとって生まれて初めてキリスト教に、聖書に、みことばの説教に出会ったのです…そこで私はみことばに感動しました

・その次の週から、私は妻の通う教会の礼拝に出るようになり、欠かさずに通うようになりました。また週の半ばにもたれる学び祈り会にも欠かさず通うようになりました

・そして、聖書の生き方は「私の心を満たす本当の生き方だ」と確信することができ、教会に通い始め一年後に洗礼を受けることができました…

このようにして「神の前に富む」生き方へと近づく道が開かれてまいりました。自分の証しは時間の関係で以下略とします。

皆さん、現代はまさに偶像礼拝を生む⇒貪欲のとりこになってしまっている時代ではないかと、真剣に問わずにはおられませ

ん。

神の前の富むこととはどうすることかを、真剣に問うことよりも、自分の財産を守ることに腐心し、自分の死を忘れ、神の前に立つ日をケロリと忘れている、と言えるのではないでしょうか?

であればこそ、イエスのこのたとえ話「愚かな金持ちのたとえ」は、襟を正して聞くべきみことばではないでしょうか。

ここまでとします。了 

 

 


 2023.9.16

  題: 神は待っておられる

聖書箇所:ルカ13・1~9 

1.         因果応報の考えからの解放 1~5)

イエスは弟子たちと福音宣教の旅をしていますが、どこへ行っても多くの群衆がついて回っていました。

主イエスとこの群衆や弟子たちが対話をしていたそのときに、次のようなニュースが飛び込んで来ました:

“あのう-…ピラトが ガリラヤ人たちの血を ガリラヤ人たちのささげるいけにえに混ぜてしまったンだー ” 

つまり、我々ユダヤ人の仲間が エルサレムで神殿礼拝中に殺されたと訴えているのです。

しかし、それを「ガリラヤ人たちのささげるいけにえに混ぜた」とはどういうことでしょうか?:

・エルサレムの神殿で犠牲を捧げていた。犠牲の血を流して、自分たちの罪の贖いをし、神殿礼拝をしようとしていたのです

・そこへピラトの軍隊が襲って我々の仲間のユダヤ人を殺してしまったー⇒その人たちの血が 彼らの犠牲の血に混ざってしまったのです

神殿礼拝の最中に暴力によって殺された―→なんでやねん?と… 

それを聞いたイエスは、次のように言われました

…「そのガリラヤ人たちがそのような災難を受けたから、ほかのどのガリラヤ人よりも 罪深い人たちだったとでも思うのですか。」 

この主のことばにある「災難」は、そのことを意味しています:

・災難が起こると、どうしてもそこでの神の意志を問いたくなり

・これは神の裁きですかと問うているのです

 そして尋ねるのです「神様どうしてですかー?と」(実は、これはピラトが起こした政治の暴力が生み起こした犠牲者でした。) 

主イエスは私たちを含めたそう言う者に対して

3…私はあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。 

そんな時に、災難はさらに加わるものなんですネー→自然災害がそれに加わります。4節には「シロアムの塔が倒れた」

のです;

・シロアムは、エルサレムの水源池の一つです。そこから水道が引かれていたのではないかと言われています

 ・その水道を守るために塔が築かれていたようです

 ・その塔が倒れてしまったのです、そしてそこに犠牲者が出てました

  →災難にあった人は不幸なことでした

  →しかし、死んだ人にとっては深刻な問題です

それをまわりで見た人々も、なぜこんなことが起こるのかという問いが起こるのも不思議ではありませんネー

→主よ、あそこも神の裁きとみてよいですか?と尋ねているのです

 

皆さん、このような問いかけは 今日の日本でも神様の問題として投げかけられています、ネ→こういうことが起こると、古今東西、私たち人間が思うことは“因果応報”ということです:

 “自分の行いの善悪に応じて、その報いが自分に帰って来る”→という教えです 

2節にある主のことばの背景にもそのような考えによるものでしょう:

・エルサレムの神殿で礼拝していた我々の仲間が、殺されてしまった

・どうしてそんなひどい目に合うのか

・あなたはこの前も神の裁きについて語っていったけれど、あの者たちはその神の裁きを受けるべき罪を行ったからですかと

そう問うていると思われた→その思いへのおことばであったことでしょう。 

主イエスは私たちを含めたそう言う者に対して

5そうではない。私はあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。

と言われたのです。イエスにとって大切な言葉です→3節、5節と繰り返して言われています。

ここで イエスの思いは、私たちが考えているような因果応報ではありません→“悔い改めなさい”と語られているのです。

その悔い改めとは何かの説明のために、次のブドウ園に植えられたいちじくの木のたとえの話をして下さいました。 

2.         いちじくの木のたとえ(6~9)

 

6イエスは、このようなたとえを話された。「ある人が、ぶどう園にいちじくの木を植えておいた。実を取りに来たが、何も見つからなかった。

7そこで、ぶどう園の番人に言った。『見なさい。三年もの間、やって来ては、このいちじくの実のなるのを待っているのに、なっていたためしがない。これを切り倒してしまいなさい。何のために土地をふさいでいるのですか。』

8番人は答えて言った。『ご主人。どうか、今年一年そのままにしてやってください。木の回りを掘って、肥しをやってみますから。

9もしそれで来年、実を結べばよし、それでもだめなら、切り倒してください。』」 

このたとえの物語は、普通に読めばよくわかる物語です。がイエスの口から語られた「たとえの物語」として読むならば含蓄のある、心して読む物語であると思わされます。

〔ドラマの出演者は〕

  ぶどう園の持ち主、それが神でしょう

・この持ち主は、ぶどう園に植えて、実がなるのを待っているいちじくの木があった

・三年間も実を求めているが、まだその実を得ることができない。じっと待ち続けている。この待ち続け忍耐している神がい

 ます

  ぶどう園に植えられているいちじくの木→これはユダヤの民でしょ

  ぶどう園とは世界→神が造られた世界

→であると思います 

〔ドラマの内容〕

1)神がつくられた世界に、神が選ばれた民イスラエルが植えられました。期待をもって植えられた木、どんな花を咲かせ、ど

 んな実をみのらせてくれるか期待します…神の選民イスラエル→神の正義に生き、神の愛に生きているであろうか、とかみは期待します 

2)主イエスはそのユダヤの民のひとりとしてお生まれになり、ナザレの村で大工ヨセフの長男として生き続けられました:

 ・ユダヤの人々と共に生活をしながら、神の選民の生活、神が求めておられる義と愛と平和はどこにあるであろうかと見てくらしました

 ・人々の悩み苦しみも一緒に担いながら、神のあわれみを信じて生きる姿はどうであろうかと探し求めながら生き続けられました 

3)しかし、悔い改めることのない民に対する悲しみいっぱいのドラマの話となりました:

・悔い改めることがなく犯し続ける罪の生き方

・罪を犯しながら、その罪に気付かない姿に愕然とします 

4)7そこで、ぶどう園の番人に言った。

『見なさい。三年もの間、やって来ては、このいちじくの実のなるのを待っているのに、なっていたためしがない。

 これを切り倒してしまいなさい。…』、と 

ぶどう園の主人の切り倒してしまえの判断は正しいでしょう。しかし、主人の言葉を聞いた時の番人はいちじく をかばいます

5)番人は答えて言った

『ご主人。どうか、今年一年そのままにしてやってください。木の回りを掘って、肥しをやってみますから。』

皆さん、主イエスは、私たち一人一人にこのたとえの話をしておられるのです。そして、問われているのです→あなたがたは

本当に実を結ぶ木になっていますか、そのことをよく考えてみなさい、と:

・あの人の災害、この人の災難をいろいろ言っているが、あなた自身はどうなんですか?

・あなたは実をみのらせず、その土地を無駄にしていませんか? と 

さて、このたとえにもどりまして、このたとえの中の番人は、まるでいちじくの木の身代わりになったかのように主人に赦しを請います:

 ・ぶどう園の持ち主が⇒神であるならば

・このぶどう園の主人に信頼されながら、ここではこのいちじくの木をかばって立つ番人は⇒主イエスご自身でしょう 

番人の形で主イエスご自身を、この“たとえ話”に登城させました。

Q1私(主イエス)はこの地上に人として何のために来たのでしょうか?

あなたがたを神の前でかばうためですよ

神によって裁かれるとき、あなたがたが切り倒されないようにするためである、と

→ここでは、そのまわりを掘って肥料をやってみる、そしたら来年は実がなるかもしれない。実が成ったら助けてやってください。もし、それでもだめなら切り倒してくださいと、番人は頼みました 

Q2 一体、実際にはこのたとえはどのような結末に?

やがて、このたとえ話をされた主イエスは十字架に付けられ殺されてしまいました

これはどういうことになったのでしょうか?:

いちじくの木を守って、自分が切り倒されたのです

実らないいちじくの木に押し倒されるようにして死なれたのです

・実際にイエス・キリストを殺したのは、このいちじくの木に例えられているユダヤ人たちです(十字架につけろ

3.         悔い改めを待つ神(5)

5そうではない。わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます

悔い改めなければ、みな同じように滅びる→と主イエスは怖い顔して言われたのではありません。ひとりひとり、よく考えてみなさいとやさしく言われています。

しかし、その中で悔い改めのない者は、神から遠ざかり続け、神のいのちに生きることができないのですょ、と…→ここが問題なのです

Q3 サーではそこに現れてくる私たちの滅びが、どうして私たちを滅ぼしつくすことがなくてすむのでしょうか?

主イエスが私たちの弁護をし続けてくださるからです

主イエスが立ちふさがって「この木を守る」と言われると、父なる神も、それを赦して下さるからです

 神の恵みはひとりひとりにすでにそそがれています。そこに立ち返るのです。その時分らないことがあれば、神に問うたらよいのです⇒粘り強く神に祈り続けるのです:

  ・求めなさい→そうすれば 与えられます

    ・捜しなさい →そうすれば 見つかります

    ・たたきなさい→そうすれば 開かれます 

 

信じて、祈り続けなさいと主はおっしゃいます。主はいつの日か、ふさわしい時に必ず応えて下さいます。求め、捜し、そしてたたき続けてまいりましょう。 アーメン

 


 2023.9.23

   題:「神の国は今ここに」

聖書箇所:ルカ13・10~21 

1.神の国は今ここに

今日は 今先に行われた召天者を記念する日の礼拝であります。そして今日の聖書箇所は「神の国」のところであります。

皆さん 「神の国」とはどこか領土を持つ国のことではなく、「神の支配」・「神の支配するところ」です:

・今日の召天者の住まわれる天国も神の支配されるところで神の国です

・また、この地上にあっても主イエスが生きて神の支配するところ

→教会礼拝の中も神の国と言われるところであります

救いに与り、信仰と喜びに生きる礼拝こそ「神の国は今ここにあり」の現実そのものであります

この点から考えてみても今日の聖書箇所は不思議な巡り合わせと言えます、ネ

さあ、それでは今日の聖書箇所ルカ13章のところを読んでまいりましょう。今日の聖書箇所は13章の2回目でありまして、ここでは10節「イエスはある会堂で教えておられた」と書き始められています 

主イエスはいつものようにユダヤ人の会堂で聖書を読み、説教をしておられました。主イエスの説教の内容はいつも同じであったであろうと思いますネ

→(8・1)「イエスは神の国を説き、その福音を宣べ伝えながら町や村を次から次に旅をしておられた」とあるからです 

皆さん“ 神の国”は→「神の支配するところ」です。国境があるわけではありません。主イエス・神の恵みは、既にここに現実に力を持ち、働き始められている→歴史を支配し始めていると告げられたのであります。 

“主イエスがそこに来ておられる”ということが神の支配のはじまりであり、神の国の現実がここ地上の歴史の中で新しく息づきはじめている、ということを示しています:

 ・ここに来られて説教をして恵まれていること

・そして相手が誰であろうと、痛みのある人々の傍らに立ち、慰めを告げ、痛みを取り去ってくださっているということ

 ・まさに福音が=喜びの訪れが今ここにあるのです 

これらのことが起こされている今“ここに神の国が、その福音がもう来ている現実”と言えます。即ち、「主イエスご自身のことばとわざ」 の中に神の支配がすでに始り、喜びの訪れが現実となっているのです。

 

2.神の国をたとえで語る(18~21)

それでは神の国の「たとえ」でさらに特徴を良く学ばせていただきましょう:

18…イエスはこう言われた。「神の国は、何に似ているでしょう。何に比べたらよいでしょう

19 それはからし種のようなものです。それを取って庭に蒔いたところ、生長して木になり、空の鳥が枝に巣をつくりました。」

21 パン種のようなものです。女がパン種を取って、三サトンの粉に混ぜたところ、全体がふくれました。」 

イエスは神の国の説明に二つのたとえをもって語りました→からし種とパン種にたとえられました:

からし種

パレスチナのからし種の木は、普通1mくらいの高さに育ちますが、ある状況下では4mぐらいの高さまで育つことがあるそうです。ですから、鳥がその枝に巣を作ることがあるようです。

このからし種が成長した木には三つの不思議があります:

   最も小さい種から最も大きい木になるという驚くべき生長

   庭園の草木(野菜)が大きな木になるという超自然な生長

  木の枝は空の鳥の安息所ともなっているのです 

パン種皆さんご存知です。ほんの少々ですが→大変よく膨れますネ 

さて、この二つのたとえが示していることは、小さなものが極めて大きく成長するという特徴をもって→神の国の一面を表そうとしていることです。 

“神の国は神の支配するところ”です。その神の国・神の支配するところは、最初は誰も気付かないくらいに小さな出来事から始まるけれど、「それは大きく成長していく」というたとえなのです:

1)今それを教会、教師という視点で見てみましょう

・二千年前に、日本から遠く離れたユダヤの地にイエス・キリストが生まれ、その方が十字架にかかり、復活されました。そ

  の時主イエスによって召された弟子は12人でした

・二千年後のそれが、今現在の日本のキリスト教会数は5743教会教師数は1万485人、信者数は96万8066人

(文化庁宗教年鑑2015年12月現在) 

イエスが「からし種」のたとえ、「パン種」のたとえで語られた神の国の成長力というか、成長性というものは、ここに確かに実現していると言わなければならないでしょう。

全国津々浦々の教会にそこに教会があるということは、この神の国の成長の営みが、二千年の間滞ることなく続いており、今もそこで継続しているということの、動かすことの出来ない証拠でしょう 

2)全世界のキリスト者に置き換えても同じだろうと思います。今や全世界78億ともいわれる人口の3分の一がクリスチャン

   と言われているのです。ですから、一人のキリスト者がそこに居る。それは、二千年の教会の歩み、二千年の神の国の成長の

   種なのです 

そして、この神の国の成長が今も続いているということは、その一人のキリスト者から更に新しい神様の救いのみ業が今も起きているし、これからも起き続けていくということなのであります。

皆さん、私たちが救われた。それは、私たちを用いて神様の救いのみ業が進展していく、そのためなのですネー 

 

3. 18年病の霊に取りつかれた女の癒し(11~13)

11 すると、そこに18年も病の霊につかれ、腰が曲がって、全然伸ばすことのできない女がいた。

12 イエスは、その女を見て、呼び寄せ、「あなたの病気は癒されました」と言って、

13 手を置かれると、女はたちどころに腰が伸びて、神をあがめた。

  ここでは 12 イエスは、その女を見て、呼び寄せ、「あなたの病気は癒されました」

と言われた。そして手を置かれると病は癒えました。18年間捕らえられていた病気から自由にされたのです→すでに自分の内側に始まっている神の支配→神の力がはじまったのです。

そのうえで主は手をその上に置いてくださった…ご自分の力を注いでくださった。そして立たせてくださったのです

→牧師の手をおいた祈りのこと

(ルカ9・1)エスは12人を呼び集めて、彼らにすべての悪霊を追い出し、病気を直すための力と権威とをお授けになった

 

4. 安息日に癒すことの是非(14~17)

主イエスが、その女を癒されたのを見て、すぐに論争になりました。それぞれの会堂には責任者、管理者、そして礼拝の責任者であった会堂司がいました。その日の礼拝に責任を持っていた会堂司であったのでしょう。

主イエスがされたことにについて、直接に腹を立てて言うことを、さしひかえ→群衆に向かって言いました:

14働いて良い日は六日です。その間に来て、直してもらうがよい。安息日には、いけないのです。 

癒されることはかまわない。しかし、それは安息日にしてはいけないことでした。安息日には何のわざもしてはならないという律法の戒めにそむくからであります。

主イエスは、この会堂司の言葉に真っ向から反対し、毅然として言われた:

15偽善者たち。あなたがたは、安息日に、牛やろばを小屋からほどき、水を飲ませに行くではありませんか。

16 この女はアブラハムの娘なのです。それを十八年もの間サタンが縛っていたのです。安息日だからといってこの束縛を説いて

  やってはいけないのですか。」 

家畜は安息日だからと言って、水を飲ませない訳にはいきませんので、それは良いとされていたのです。牛やろば は安息日にも縄を解いてやるのに、どうしてアブラハムの娘であるこの女性を、サタンの縛りから解いてやるのがいけないことなのか。

安息日であっても、それをしても良いし、いや安息日こそそれをすべき日なのではないか。そう主イエスは言われたのであります。ここで、主イエスは安息日とは何なのか、その根本を問題とされたのです。
主なる神が六日間で天地を造られ、七日目に休まれた。だから、神は安息日を祝福し、聖別されたのです→つまり、安息日は神の祝福を受け取り、神のために献げる日なのです。「何もしない」ということが目的の日ではなかったのです。

主イエスはここで、本来の安息日を回復したのです。本来の安息日→それは、「神の国は今ここに」の日です:

神をほめたたえ、神からの恵みを喜び、神の祝福を受ける 

それは、まさに神の国のただ中にあり、めぐまれよろこびの訪れです。どうして18年も苦しんでいたこの婦人がいやされたことを共々に喜び祝うことが出来ないのでしょうか。

 

神は確かに六日間で天地を造られ、七日目に休まれました。しかし、神は安息日にいつも休んでいるのでしょうか。神は安息日には何もしていないのでしょうか。そんなことはないでしょう。

皆さん、詩編1214を見てみましょう:「見よ、イスラエルを守る方は、まどろむことなく、眠ることもない。」 

とある通りであります。神はまどろむことなく、眠ることなく働き、この世界を支え、守り、支配しておられる。

今、主イエスがなされた腰の曲がった婦人をいやすというみ業は、その神のお働きなのです。安息日にも休まれない神のみ業、それがここに現れたのです。

そうであるならば、どうして、これを喜び、神をほめたたえないのか。神の国は、ここに始まっているではないか。確かに、その出来事は腰の曲がった婦人をいやすという小さな出来事でしかない。しかし、すでに始まった。神の国が始まった。どうして、それが見えない。どうして、それを認めようとしない。主イエスは、そう言われたのであります。 

腰の曲がった婦人が主イエスによっていやされたこの安息日の時、すでに神の国は来ていた、神の国は始まっていたのです。しかし、それを知らず、それ故に神をほめたたえることが出来なかった会堂司→主イエスは、そのような者であってはならないと私たちに告げておられるのではないでしょうか。 

皆さん、安息日礼拝→私たちにとっては、「神の国が今ここに」の時です。私たちは今主なる神が支配するところに加えていただき、恵まれ喜び、これからの一週間のこの世の旅路に祝福をもって遣わされていきますよー。張り切ってまいりましょう!

今日のみことばに感謝します。ここまでとします。        了

 


 2023.9.30

  題:「 神の招きを断るな 」

聖書箇所:ルカ14・15~24

 

(はじめに)

今日の聖書箇所は14章に入りました。ここでも神の国についてのたとえの話をされます。今日の箇所のたとえは16節「ある人が盛大な宴会を催し…」とありますので盛大な晩さん会」という表題をもって呼ばれています。神の国が「盛大な晩さん会」と呼ばれますが、その晩さん会に招かれた人はどのように対応したのでしょうか? さあその晩餐会のようすをのぞいてみましょう。

1.         神の国で食事をする人(15)

15 イエスといっしょに食卓に着いていた客のひとりがこれを聞いて、イエスに、神の国で食事をする人はなんと幸いなことでしょうといった。 

“神の国で食事をする人とは”神の支配するところで、親密な楽しい交わりする人です

この人は、主イエスとともに親密な楽しい交わりする人ですから、多分ユダヤ人であり、信仰生活のきちんとした人であったように想像します。がしかし皆さん、もう一度このことばを読んでみましょう:

 「神の国で食事をする人はなんと幸いなことでしょう… 

主イエスが言われるような意味での “親密な楽しい交わりをまだ受けていない”という不満を持った人の発言のように感じますネー

何故なら、当時のユダヤの国はローマが支配していましたから、自分たちユダヤ人は、まだ神に十分にもてなされてはいない、満たされてはいないという思いがあったのではと思われます。もちろん、感嘆の声を発したこの方は、主イエスの弟子ではないと思われます:

 ・「神の支配するところで、親密な楽しい交わりする人」とは、素晴らしいことと思いながら、自分はその中に入っていない

    という思いが、しかも、そこには入りきれない思いがあったように思われますネー

 ・現代の私たちの中にあってもそのような人を知っています

  イエス・キリストを信じて、神の国の生活をすればどんなにか素晴しいかと思いつつ、「どうですか、主イエスを信じてキ

    リスト者になりませんか」と勧められると「そうですね、キリスト者になればどんなにいいかと思いますがー…」と言って

    ためらったままになります 

神の国で食事をする人は幸いです」とは言うのですけれども→いざとなると自分のものとすることができない人→主イエスとの食事、神の国の現実にあずかりながら、なお立ち止まる思いが、この発言には聞こえますネー

 

2.盛大な晩餐会(16~20)

16 するとイエスはこう言われた。「ある人が盛大な宴会を催し、大勢の人を招いた。

17 宴会の時刻になったのでしもべをやり、招いておいた人々に「さあ、おいで下さい。もうすっかり、用意ができましたから」といわせた。 

主イエスはここで、そのような発言を聞きながら、実際にご自分と食事をしている人に向かって、この「盛大な晩餐会」のたとえの話をされました:

ある人が盛大な宴会を開こうとして、大勢の人を招き、宴会の時刻になったので、僕を送り、招いておいた人々に、

もう用意ができましたのから、おいで下さい」と言わせた。 

実際に、当時のユダヤの国の習慣では、宴席を催すとき、このような二重の手続きで客をまねくようなことがあったようです。特に大宴会の時にはそのようにしたようです:

・初めにまず宴会開催を伝え

・次に出欠の返事を聞いたのであろうと…

ところが、

この段階に来たときに、今度はだれもが断り始めたのです:

・最初の人は、18「畑を買ったので、見に行かねばなりません。どうか失礼させてください…

 ・ほかの人は19「牛を二頭ずつ五組買ったので、それを見に行くところです。どうか失礼させてください…

 ・また別な人は20「妻を迎えたばかりなので、行くことは出来ません…

皆もっともな理由があります。皆そういって断られるならば、招いた者は、それでも無理にとは言えない→という思いになるかもしれませんネ?

断ったこの人たちは:

・自分の生活の仕方まで変えて、この宴席に連なりたいということではなかった

 ・口では「どうか失礼させてください」と言いながら、心の中ではこの招待を断るのは当たり前と考えていたのでは、とも思

    われます 

これを聞いた主イエスは、このたとえ話の最後に言われた:

24 言っておくが、あの招待された人の中で、わたしの食事を味わう者は、ひとりもいないのです。

 

.1 あの招待された人→ユダヤ人の場合

あの招待された人たちは→主イエスがお話される神のことを、最初から知っていたはずの人々でしょう:

 ・1334「ああ、エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣

わされた人たちに石を打つ者、わたしは、めんどりがひなを翼の下にかばうように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった。」

   →神の民であったイスラエルは、既に選ばれていたのです 

 ・そして、第2の最終的な招きのために主は来られました。イエス・キリストが来られたということは第2の段階の招待が始まったということです。そのときに、断り始めるのです→断るのに皆それぞれに理由があるようです 

.2 私たちの場合

1)日本人の私たちの場合の例

私たちも主に招かれています。そのときは神を信じればよい→キリスト者になればいい、ここで教会に行けばいい、と。しかしそのときにいろいろ理由を考えてしまう:

・いや考える先にその理由が出てくる。やはりこちらの生活が大事だと言い始める

・この神を信じ教会に行くような生活を始めると、どうも都合が悪くなる,友達付き合いが悪くなる、出来なくなる,

などなど

2)もう教会生活をしている者たちもまた→自分の生活に差し支えない範囲で教会に通います

・受験生では→勉強時間が優先で…

・クリスチャンでも→仕事が優先で、今忙しいから…

  と自分の生活を成り立たせることが優先で、神とのお付き合い→礼拝はじめ集会は二番目、三番目となってしまう

皆さん、神の国で食事をする人となるには→悔い改めることが必要です:

・私が一番から→神いちばんへと180度方向転換することです

・私たちの生活に一つの革命が起こることです

即ち、自分の都合優先ではなく、神の都合で自分の生活を立て直すということです。 

しかしながら、それをしない人ばかりでしたから、結局はだれも神のもてなしに応ずる人はいなかった→さあそこで何が起こったのでしょうか? 

3.   神の招きを断るな (21~24)

21 しもべ は帰って、このことを主人に報告した。すると、おこった主人はそのしもべに言った。

『急いで町の大通りや路地に出て行って、貧しい者や、体の不自由な者や、盲人や、足のなえた者をここに連れて来なさい。』

怒った主人はしもべに 命じました。しもべは 町の大通りや、路地に行きました。そして貧しい者や体の不自由な者を連れて戻り、その宴席につかせたのです。

「貧しい者や、体の不自由な者や、盲人や、足のなえた者」→この人たちは当時のユダヤ人の考え方では神の招きから漏れていると考えられていた人々です。 神のもてなしを受けそこなっている、その資格もない人達です。その人たちを宴席に着かせた。が、しかし席はまだ塞がっていません。 

22 しもべは言った。『ご主人さま。仰せのとおりに致しました。でも、まだ席があります。』

23 主人は言った。『街道や垣根のところに出かけて行って、この家がいっぱいになるように、無理にでも人々を連れて来なさい。

街道や垣根のところ→その当時の人々の生活の外れにあるところを意味します。そこは神の民ユダヤ人の社会のはずれにあり、そこで生きている人々です→神の民に属していない外国人、異邦人、そしてユダヤ人の人々が信じている神を信じていなかった人々のことと思います。 

そういう人々をここでは「無理にでも連れて」来なさいと言われました。そのような人々のところへ行ったら喜んでついてきたというのではありません。いやでも無理にでも引っ張ってくるのです。 

これらの人々は、この招待にあずかる資格がなかった。あらかじめ招かれているわけでもなかった。招かれる資格もない、招かれてもいなかった人々が、本来招かれる資格のあった人々に代わって宴席に座り、ご馳走になっているのです。

 

皆さん、神の招きはどこから始まったでしょうか→そうです、主イエス・キリストが来られてからであります。主イエスが来られて、して下さったことは、私たちの生活やものの考え方をひっくり返すことでした⇒「招きによる革命」とでもいえるでしょう、ネ:

・あのような人々に神のもてなしが及ぶはずがない、そのように思っていた人々のところに、神の招きが届きました

 ・その人々が、自分のようなものが招かれたのかと、驚いたり、遠慮している間に、手取り足取りされて、神の恵みの中に引

    きこまれてしまいました 

24 言っておくが、あの招待されていた人たちの中で、わたしの食事を味わうものは、ひとりもいないのです。  

一方、自分たちはいつでも神の招きを受ける資格がある。これは当然のこと一度や二度は招きを断っても、慌てることはない、自分たちの生活の枠の中で、神と交わりつつ生きることができると、暢気に構えていた人々が、招きから落ちました。

 主イエスに現れた神の愛とは、このような招きなのです:

・資格がないと思っている人を引きこんでくる力があります

・神の招待を受ける→自分は神から遠いと思い込んでいる者が迫ってくる神の愛に気が付くと…そこから始まります

私の食事を味わうものとなるためには、神の愛の招きに身をゆだねることです.

   即ち、それまでの生き方を悔い改め神の招きに身をゆだねることです

 

さあまとめてみます

主よ、「盛大な晩さん会」のたとえをもってのお招き ありがたく、感謝します。私たちは異邦の民ですが、「盛大な晩さん会」の交わりの楽しさすばらしさを聞いています、知っています。しかし、知っていることを実行できるように、私たち一人一人にその実行する力を、少なくとも「神の招きを断る」ことがないように助け、導いてくださいますようにと願います。さらに、そのことを隣人へお知らせすることができるように助けてください、とこころから願い感謝します

 

ここまでとします。                    了