2023.8.5
聖書箇所:ルカ5・1~11
ガリラヤ湖の カペナゥムで教え始められた主イエスのことばには…「権威がありました」(4・32);
・(黙れ。その人から出て行け)のおことばによって、汚れた悪霊を追い出しました
・(熱をしかりつけられる)のおことばによってシモンの家のしゅうとめの熱を引かせました
・おことばによって多くの人のいろいろな病気をいやされました
→主イエスのことばには「事を起こす力」がありましたですネー
このようなことを知った群衆は…ガリラヤ湖湖畔を歩いていた主イエスのところに大勢で押しかけてきていました。
1 群衆がイエスに押し迫るようにして神のことばを聞いたとき、イエスはゲネサレ湖の岸辺に立っておられたが…
3イエスは、そのうちの一つ、シモンの持ち船に乗り、陸から少し漕ぎ出すように頼まれた。そして、イエスは座って、舟から 群衆を教えられた。
ガリラヤ湖の岸辺にいた主イエスは、漁師シモンに舟にのせてもらい、その船の上から、集まって来た群衆に教え始めました。
上の写真は主イエスが船から語られたところを記念した所の写真です。
2.1 漁師シモンの思い
さて、その説教が終わり、主イエスの口から出たことばは、まったく意外なもので、次のように言われたのです:
4「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚を取りなさい」
この時の時刻は記されていません→がしかし、漁師であるシモン達が漁を終えて帰ってきて、その後始末として網を洗っていた時から→船の上でのお話が始まって、その教えが終わった時なのですから…もう日もだいぶ高くなっていたと思われますよ、ネー→もう昼近くになっていたかもしれません。
皆さん、日が高くなってからは、魚はあまりとれません・釣れません…これは常識ですネーですから:
・漁師も・釣り人も、まだ夜が明けない内に家を出るのです
・そして、東の空がほんのり白くなってくると同時に竿を出し、網をあげるのですョー
この日、シモンは夜通し漁をしたのですが、何もとれなかった。シモンは生粋の→生まれながらの漁師です。
「その俺が夜通し漁をしたけれど、何もとれなかった。それなのに、こんなに日が高くなって漁をしても、魚がとれるはずが
ネー 」
それがシモンの言葉の中に表れていますネ;
5「先生…私たちは、夜通し働きましたが、何一つ取れませんでした…。」
これは、主イエスの言葉に対しての生まれながらの 漁師シモンの批判の意味が込められている言葉ですネ
2.2 シモンの悔い改め
しかし、間をおいてからでしょうか→5「…でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。」と言ったのです。
おそらく、(熱をしかりつけられる)のおことばによってシモンの家のしゅうとめの熱を引かせたなどの→力あるおことばを思いだしたのでしょう。
6そして、そのとおりにすると、たくさんの魚が入り、網は破れそうになった
7そこで別の船にいた仲間の者たちに合図をして、助に来てくれるように頼んだ。
彼らがやって来て、そして魚を両方の舟いっぱいにあげたところ、二そうとも沈みそうになった…なんとその結果は、網が破れそうになる程の大漁でした。
シモンは驚きました…驚いたというよりも、畏れたと言った方が当たっているでしょうネー。
今まで何度か聞いた;
・主イエスの説教
・そして悪霊を追い出し、病人をいやされた主イエスのおことば
・今、目の前に起きている船が沈みそうになる程のあり得ない大漁
シモンの頭の中には、この方はただの人ではない
→聖なる方・偉大なる方!
そんな思いがわき上がってきたに違いありません→そして、シモンは、主イエスの足もとにひれ伏して:
8「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです。」
→そう言うのです、これは、「シモンの悔い改めの言葉」ですネー
漁師シモンは 主イエスのことばとみわざによって、主イエスが聖なる方・力あるお方…であることを思い知ったのです。
そしてその時、口に出たのがこの言葉でした…悔い改めとは…この聖なる方との出会いの中で起きるものなのですネー。
皆さん;シモンは「主イエスのことば」と「主イエスによる不思議な出来事によって」
この聖なる方との出会いを与えられ→悔い改めたのでした!
これは、現代の今も同じでしょう;
・私たちはみことばだけでは、なかなか聖なる方との出会いというところにまで至りませんネー
・しかし、それ(みことば)が出来事となる時に
告げられていたみことばの真実を思い知らされ、聖なる方の御前に引き出され、自らの罪を悔い改めるということが起きる
→と、いえるのではないでしょうか。アーメン?
皆さん、それが 洗礼を受けるきっかけとなる人もいるでしょう!
私たちの神様は生きて働かれる全能の父なる神様なのでありますから、実際に私たちの人生の中に出来事を起こすというあり方で、私たちと出会っていかれるのであります“みことばと出来事の結合”であります。
10シモンの仲間でであったゼベダイの子ヤコブやヨハネも同じであった。
イエスはシモンにこう言われた。
「こわがらなくてもよい。これから後、あなたは人間をとるようになるのです」
11 彼らは、船を陸に着けると、何のかも捨てて、イエスに従った。
この時、シモンは聖なる方の前に居る自分を見出しました→そして、自らの罪を示されました
・この時、シモンは何の自信も誇りもありません。「ああ、もうダメだ。」そんな思いでしかなかったかと思います
・しかし、そのようなシモンに、主イエスは
「こわがらなくてもよい。これから後、あなたは人間をとるようになるのです」
という、召命を与えたのです。
この主イエスの召命によって、シモンは全く新しい人生を歩む者となった。生まれ変わったのであります→シモン・ペトロはこの主イエスのことばによって、主イエスの召命によって、全てを捨てて、主イエスに従う者となったのです。使徒ペトロの誕生の瞬間です!
同じようにゼベダイの子漁師ヤコブやヨハネも主イエスの召命により、生まれ変わり→主イエスの弟子となったのです、ネ
Q:この様な記事を読むと、シモンは全てを捨てたと言うが、自分は捨てられるだろうかと心配する人が居ますネ
A:全てを捨てて従うように召された者は、その時には何の不安もなく捨てる者となりますョ
ですから、召命を受けていない者は、全てを捨てることはないです
召命は、皆一人一人違うのです。私たちは自分に与えられた召命に忠実であればよいのです。
〔私の召命のこと〕
私は62歳6月 それまで勤めていた会社を定年退職しました。これからの生き方を考えていました→そんな年の秋の日に…家の前の鉢伏山の山頂近く自宅の方を眺める方向で聖書を開き、座って祈っていました。次のみことばを開いていました;
(使徒1章8節)
「聖霊があなたがたに臨むとき、あなたがたは力を受けます。そしてエルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリヤの全土、
さらに地の果に至るまでわたしの証人となる。」
→すると
① そのみことばと、
② 午後の日の中で…眼下に広がる光景とが一つになって→次のようにガーンとなってわたしに迫ってくるのでした;
「聖霊があなたの上に臨む時 あなたは力を受けます。そして、青山台ばかりでなく、淡路島、桃山台、つつじが丘、
さらに明石や姫路の全土に、さらに地の果てに至るまでわたしの証人となる。」、と
そして、その時以後もこのみことばは…私の脳裏からは離れませんでした
→献身の思いが迫ってくるのです
→私には使命があると:
“救われた者の恵(主にある平安)を→苦悩しながら働く人々にお伝えする”
私は家族と相談し、家族の同意を得て神戸ルーテル神学校の受験をし、主からの召命に応じ→その使命に生きることとなりました!
私たちは自分に与えられた召命に忠実であればよいのですネー
ただ、こう言うことは出来るでしょう→主イエスに従うということは、何も捨てないということはあり得ないことです;
・神の召命は人によって違います、しかし、それぞれが、自分に与えられた召命に従って生きる時、何かを捨てるということは
必ず起きるのです
・私たちは、毎週ここに集っているということは、この時間を神様にささげ、この時間に出来る→“何かを捨てている”という
ことでしょう
今日は「主イエスからの召命」のみことばでした、皆さんも主の呼びかけはあなたに対する主の選びの結果ですから→素直に応答してまいりましょう! あなたのすばらしい未来がまっていますよ! アーメン
2023.8.19
主 題:「 祈りを教えてください 」
聖書箇所:ルカ11・1~8
(はじめに)
「イエスはある所で祈っておられた。」と、今日の聖書箇所11章は書き始めています。福音書には、主イエスが祈っておられたことが、いろいろな箇所に記されています。イエス様はどうしてあんなにいつもいつも祈るのだろうか、どんな風に、何を祈っておられたのだろうか、と誰も想像することでしょう。
その祈りが終わると、弟子のひとりが「祈りを教えてください。」とイエスに言いました。これは弟子を代表して、そして後に弟子となる私たちを代表して尋ねてくれたと思いますネ。 私たちも初心に帰ってもう一度 教えていただきましょう。
1.祈りに対する心の姿勢(1~4)
一人の弟子がイエスに「祈りを教えてください。」と願いました。それに対してイエスの答えて下さったその祈りは、後に「主の祈り」として私たちが礼拝でいつもささげる祈りとなっています。 主イエスは11章2~4節に「祈りに対する心の姿勢」こそ大事ですと簡潔に示しこのように祈りなさいと、そして粘り強く祈りなさいと示された。
1.1 自分の祈るべき方が誰であるか知って祈ります(2)
2 ・・・父よ、御名をあがめさせたまえ 御国をきたらせたまえ
第一に、私たちは誰に祈るのか→何となく漠然とした神というようなお方ではなく、ここでイエスは、まず最初に「父よ」と呼びかけることを教えられました。
この「父よ」というのは、「イエス・キリストの父」を意味しています。天地万物を創造された神とイエス・キリストは、永遠の三位一体の関係において、永遠から永遠まで、父と子の関係であります。ですから、イエスが神を「父よ」と呼び祈るのです。
しかもイエスは私たちにも、神に向かって「父よ」と呼んで良い、呼びなさいと言われたのです→私たちを神に向かって「父よ」と呼ぶ関係へと招いて下さったのです。
そして、この神に対しての「父よ」の一言は、自分と神との関係を明確に示しています。神に向かって「父よ」と呼ぶ者は、「神の子」とされているということです→この事実が私たちの祈りの前提なのですネー。次に、
私たちは礼拝第一の生き方をするときに、その礼拝で過ぎてきた一週間にしていただいた主のみ業を覚えて 心一杯主の御名を賛美します。その後で、犯した罪の悔い改めをします。そして説教と聖礼典により恵まれ→聖霊を満たしていただきます:
1)御名をあがめさせたまえ
私達が、聖霊に満たされるときに、聖霊の力・デュナミス→ダイナマ
イトの力が与えられます。ですから、諸々のこの世の誘惑に勝って 神のみことばを生きることができるようになり→天の父(御名)をあがめられるようになります、ネー
2)御国を来たらせたまえ。
み国は神の国とも言われます。 神の国とは「神の支配」です→もう少し詳しくいうと「父なる神がみ子イエスに授けた権威と支配」です。御子イエスはすべての敵を足の下に置くまでその権威を行使し、終わりの日、国を父なる神に返還する(Ⅰコリント15・24~28)のです。
御国が来るとは、この世にあっても父なる神が聖霊を私たちに与えられ
たとき、私たちはその恵みによってみことばを信じ、この世にあっても、永遠においても、神の喜ばれる生活ができる→御国に住まうようになります…このことをさしています。
1.3 我らの日用の糧を 今日も与えたまえ(3節)
「日用の糧」→「日用」というのは、毎日必要なという意味です。
「私たちの日ごとの糧を毎日お与えください。」という祈りは、「私たちに毎日必要な食べ物を今日も与えてください。」と祈ることです。わたしたちは、食べ物がなければ生きていけません。ですから、「食べ物を今日も与えてください。」と祈ります。
でも食べ物さえあればわたしたちは生きられるでしょうか。食べる物の他にも、着る物も住む所も必要ですよね。
つまりこの祈りは、「わたしたちが生きていく上で必要なすべてのものを与えてください」、そういう祈りなのです。
わたしたちは生きていく上で必要なすべてのものは毎日毎日必要です。ですから毎日毎日、今日も食べる物を、必要なすべてのものを与えてください、とそう祈るのです。
皆さん、「主の祈り」はイエス様が「こう祈りなさい。」と言って教えてくださった祈りです。ですから、自分で勝手に作り変えてはいけないのです。「私たちの日ごとの糧を毎日お与えください。」と、毎日毎日「今日の分を与えてください。」と祈るよう、イエス様は教えてくださったのです。
Q なぜ毎日祈るのか?
A その理由も単純です。私たちはとっても忘れやすいからです。一年に一回しか祈らなかったら、わたしたちは完全に神様のことなんて忘れてしまい、そして自分勝手に生きてしまう。
どんどん神様から離れていってしまう→自分は神無しで生きていく、生きていける、そんな風に勘違いしてしまうからです。だからイエス様は、わたしたちが毎日祈るように、この「主の祈り」を与えてくださったのです。
1.4 我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ(4節)
この願いは、父なる神さまが、わたしたちの罪を見つめないで、またそのために祈りを聞いて下さらないことがないように求めています:
・私たちは祈り求める者に値する者ではなく、またいただく資格もなく、日々多くの罪をおかしている者です
・しかし、私たちは神の愛と憐れみを頼りにして恵んでくださることを期待する者です
ですから、わたしたちに対して罪を犯す者を心から赦して、喜んで彼らに良いことをします、と表明するのです。
以上が、私たちが神に祈るときの基本的な姿勢であり、私たちの願いです。このことをしっかりとわきまえたうえで、さらに恵まれる祈りの仕方を見てまいりましょう。
2.粘り強く祈る (5~8)
さて、主イエスは弟子達に粘り強く祈ることを教えるために、ここで一つのたとえ話をされました。
① 旅行中の友達が自分の所に立ち寄ったが、出すものがない。そこで友人の所にパンを三つ貸してもらいに行った
② もう日は暮れ真夜中です。戸は閉まっていた。子供も寝ている。その友人は「起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません。」と断る
そういう時にどうするかです。ここで「ああ、そうですか。」と言って帰ってしまえばそれまthでです→パンを手に入れることは出来ません、ネ しかし、執ように頼めば、何度も何度もあきらめずに頼めば、友人は起きて必要なものを与えてくれるだろうと、主イエスが言うのです。
友人でさえそうであるならば、父なる神ならなおのこと、与えて下さらないはずがない。
→そう、主イエスはこのたとえで教えているのです
ここでのポイント、“執ように頼む”ということです。あきらめない、執ような、しつこい祈りです。一回祈って聞かれないならあきらめる。そんな祈りの態度ではダメなのです。
何度も何度も、何日も何日も、そのことに心を向け、祈る。→そうすれば、与えられ、見つかり、門は開かれるのです。
この人がどうして、友人の家にパンを求めて行ったのか。それは自分の家にはパンが無かったからでしょう。自分にはどうも出来ない。だから求めたのです。
私たちは無力です→祈りは、本質的には無力な人のためにのみそなえられたものであり、祈りは無力な人の最後の逃れ場です(O.ハレスビー)。
自分で出来る、自分は持っているというのならば、神に祈り求めることはないのです。自分には出来ない、自分にはない。だから祈るのです。
そして、この人は「旅行中の友達のためのパン」を求めたのです。自分のパンでも、家族のためのパンでもありません。自分のこと、自分の家族のことだけのことならば、この人は夜中にパンを求めて友人の家に行くことはなかったのです。明日の朝にパンを焼けば良かったのです。このことは、とても大切なことでしょうー
私たちが自分のことや家族の者のこと以外に目を向けた時:
・本当の自分の欠け、
・本当の自分の足りなさに気付くのではないでしょうか!
それは、愛の欠け、愛の欠乏と言っても良いでしょう。私たちはまことに、祈りが少ない者です。それは本当に、自分のことや家族の者以外の者に向かって、目が、心が開かれていないからではないでしょうか!
もう一度「主の祈り」を見てみましょう:
・「私たちの日ごとの糧を毎日お与えください」であり、
・「私たちの罪」であり、
・「私たち試みにあわせず」でありました
→「私の」ではないのです。
もちろん、私の問題は祈らないということではないのです。私の問題はいつでも重要です。しかし、それが全てではない。
この「主の祈り」によって開かれた祈り心は、「我たち」という広がりをいつも持っているということなのです。
この「我たち」に目を開かれた私たちとって、いつも問題になるのは、私たち自身の愛なのです。愛の足りなさなのです。自分や、家族の日用の糧を真剣に求めることはあっても…「我たち」の日用の糧を求めることのない自分に気付かされるのです!
とするならば、そこで私たちはどうしても、私たちに愛を与えて下さいと祈らざるを得ないのではないでしょうか。
主よー…「主の祈り」を通して、私たちに祈りについて教えて下さり感謝します。私は「主の祈り」をするときには、今日学んだことをいつも思い出しながら実行できるように助けてください。主の御名により祈ります アーメン 了
2023.8.26
聖書箇所:ルカ12・1~12
(はじめに)
イエスは神の国を説き、その福音を宣べ伝えながら、町や村を弟子たちと共に次から次へと旅をしていた。今日の聖書箇所では、おびただしい数の群衆が集まって来て、互いに足を踏みあうほどであったと書き始められています。その中には律法学者やパリサイ人たちはイエスの揚げ足取りを求めて、一言ももらすまいとしてつき従っていました。さあそのような中で、イエスが弟子たちに向かって語り掛けています。
1. 偽善に気をつけなさい(1)
主イエスはパリサイの人々に対して、きびしい批判をされましたが、その第一に上げられているのは偽善です。主イエスは言われました:1b「パリサイ人のパン種に気をつけなさい。それは偽善のことです。」
このパン種とは、イースト菌のことですが、これはほんの少し小麦粉に加えるだけで、小麦粉全体を膨らせてしまいます。主イエスはここでパリサイ人の偽善に気をつけなさいと言われた。
偽善→言って見れば、表と裏が違うのです。パリサイ人は神を信じ、神の務めに生きているようでありながら、その裏では、その負いきれない重荷を人に負わせることによって自己満足し、その負いきれない人々を見殺しにするような生き方をしていました。何よりも、神のことばを聞いて、聞かない生き方をしていたのです。それでも表面を信仰者らしくとりつくろうことによって、信仰の生活が成り立つと思っていたのです。
パリサイ人も決して不真面目であったのではありません。真剣でした。一生懸命に生きようとしながら偽善の中に落ち込んだのです。
イエスの弟子たちもまた同じ偽善の罪をおかしてしまうのか→主イエスはパリサイ人のように、弟子たちにとってもおちいる恐れがあると考え、注意されたおことばと思います。
皆さん、このおことばは、主の弟子である私たちも同じように陥る恐れがありますよーと言われていると思いますね。よく聞いてまいりましょう!
4・・・からだを殺しても、あとはそれ以上何もできない人間たちを恐れてはいけません。
主イエスが“恐れを捨てよう”と言われたのは、
1)「体を殺しても、その後それ以上何もできない者ども」に対する恐れです。
私たちの体を殺すことが出来る者→それは本当に恐ろしい、この世で現実的な力を持つ者であります。私たちはそれを前にすると、本当に言いたいことも言えなくなる。
本当に力があるのです。それは、時の権力者であり、国家であり、あるいは世間というようなものであるかもしれません。
2)11また、人々があなたがたを会堂や役人や権力者のところに連れて行ったとは何をどう弁明しようか、何を言おうかと心配するには及びません。
この記述にも見られます→恐らくここには、主イエスの弟子達が将来出会うであろう“迫害”が、主イエスの目には見えていたということなのだろうと思います。では、何を恐れるべきなのでしょうか・・・?
3. 恐れなければならない方
3.1 真に恐るべき方を恐れなさい(5)
4 そこで、わたしの友であるあなたがたに言います。…
5 恐れなければならない方を、あなたがたに教えてあげましょう。殺したあとで、ゲヘナに投げ込む権威を持っておられる方を恐れなさい。…
ここで、主イエスは弟子たちに、そしてここにいるすべての者を「わたしの友」と呼び語りかけてくださっています。
そして、真実に人が恐れなければならない方を恐れなさい、と→これは終わりの日、私たち人が神のみ前に立つ日のことを言われていると思います。
見てきましたのでその絵をもとに最後の審判者主イエス・キリストの裁きを見てみます。すべての人は主イエス・キリストの
最後の審判を受けて、行先が決められます。全てをご存じの主イエスの裁きです→このお方ことを覚え、恐れなさい、と。
大塚美術館の陶板の大絵画で行先をよく見てみることを勧めます。
3.2 愛の神を恐れなさい(6~7)
6 五羽の雀は2アサリオンで売っているでしょう。そんな雀の一羽でも、神の御前には忘れられてはいません。
1アサリオンは1デナリの16分の1です。1デナリが一日の労働の対価
です。わずかの値段ということになります。人間の目から見ればこんなに
安い雀、なんの値打ちもないと思われるようなものでした。
しかしそんな雀の一羽でも、神の御前には忘れられてはいませんよ、と言
われます。
7それどころか、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています。恐れることはありません。あなたがたは沢山の雀よりすぐれたものです。
私たち人間の造られた目的を創世記から見てみましょう:(創世記1:26)
神は仰せられた。「さあ人つくろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。」
父なる神は天地万物の造り主なる大能の神でありますが、私たちの父であるお方であり、“あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています”
と、言ってくださる愛のお方です。更に、この世の中に起こるどんな小さな出来事も、この慈愛深い、父なる神は忘れられてはいません、と私たちに語っておられるのです。そこまで見守って下さる愛の神でありますネー、ハレルヤー 感謝します‼
3.3 恐れなければならないお方に告白しよう(8~9)
8 そこで、あなたがたに言います。だれでも、わたしを人の前で認める者は、人の子もまた、その人を神の御使いたちの前で認めます。
9 しかし、わたしを人の前で知らないという者は、神の御使いたちの前で知らないと言われます。
私たちは、神を知っています。いや、神に知られています→私たちの頭の髪の毛さえもみな数えられています。神は全てを知
り、その上で私たちの全てを赦し、愛し、育み、守って下さっています。
私たちの地上の命は、やがて終わりを迎えます。しかし、それで全てが終わるのではありません→死んだらしまいではないのです、ネ!
裁きの日には、一人びとりが皆、 本当に恐るべき、この神の御前に立つのです。そして、その時に全てが明らかになるのです。私たちが何を恐れ、何を信じ、何に従って生きてきたのか。その全てが明らかにされるのです。それは恐るべき日です、ネ
しかし、この神の御前に立つ日、私たちには別のことも明らかにされるのです。私たちが苦しみ、悲しみの中を歩んでいた日々、どれ程神の御手が私たちを守り、支え、導いて下さっていたかを。ですから、私たちがこの地上で行なっていることは、直接的に天における私たちの評価に結びついていることがわかります。
そして、イエスが私たちを認められるのは、神の御使いの前だということです。天使たちの前で、つまり、目に見えないところの世界、霊の世界、天における世界において、私たちを認めるか、認めないかを決められます。
だから私たちは安心して、私たちを脅かす一切の「目に見える力」を恐れることなく、主イエスと共に、“恐れるべきただ一人の方を恐れ、この方の御前に真実に歩んで行けばよいのですネー”ハレルヤー!
3.4 聖霊様の前で悔い改め告白を(10)
10 たとい、人の子をそしることばを使う者があっても、赦されます。しかし、聖霊をけがす者は赦されません。
解釈が難しい10節ですが、「人の子」というのはイエス様のことです。「人の子をそしることばを使う者があっても、赦されます。」というのは、私たちは皆、元々はイエス様なぞ知らないし信じない、と思っていた者でしょう。それが今は赦され、神の子とされている。
それは私たちが悔い改め、神の御子イエス・キリストを受け入れ、信じる者とされたからです。「人の子をそしることばを使う者があっても、赦されます。」これは、そのことを言っているのです。
では、「聖霊をけがす者は赦されません。」とはどういうことなのか。悔い改めるならば、どんな罪でも赦されるのではないか。その通りなのです。
しかし、自らの罪を認めず、悔い改めることがなければ、私たちの罪は赦されることはありません。「聖霊をけがす」とは、そういうことです。
思い出して下さい。「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えない。」のです。私たちは、聖霊によらなければ信仰を与えられず、祈れず、神様の前にひれ伏すことが出来ません。ということは、聖霊を冒涜する者とは、「イエスは主である」と言えない者ということになるでしょう。
私たちは、そのままでは赦されることがないのです。悔い改め、信仰を与えられ、イエスは主なりと告白しなければ、私たちの罪が赦されることはありません。罪赦された私たちは、祈る時、主をほめたたえる時、礼拝に集っている時、すでに聖霊の導き、聖霊のうながしの中に生かされています。この聖霊の導きとうながしを拒んではならないのです。これを拒む者は、「聖霊をけがす者」になってしまうからです。
アーイエスさま、今日もここまで詳しく「恐れなければならない方を恐れ告白しなさい。」と語って下さり感謝します。ここまでとします。 了
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