2024.4.27
主 題:「 最 後 の 晩 餐 」
聖書箇所:マタイ26・17~30
(はじめに)
主イエスは3年半の公生涯を送られた後、いよいよその時がきたことを悟り、自分の死と復活を予告されていました(マタイ16:21)。そしてついに、エルサレムに子ろばに乗って入城されました→いわゆる受難週の始まりです.
今日は、このエルサレム入城から5日目(木)の「最後の晩餐」の箇所をマタイ26章から読んでまいります。
1.過越しの食事
1.1 過ぎ越しのいけにえのはじまり
「過ぎ越し」→出エジプト12章1~14節にその意味が記されてる;
・傷のない1歳の雄の羊を用意し、ほふる
・その血を取って、羊を食べる家の入り口の2本の門柱と、この図のように鴨居とに塗る
←かもいに塗る
・そのほふられた羊は皆で焼いて食べます
・その夜、わたし(主なる神)は…エジプトのすべての初子を撃つ
・あなたたちの家に塗った血は、あなた達のしるしとなる。その血を見たならば、わたしはあなたたちを通り越す→過ぎ越す(13節)
ここから、過ぎ越し;
エジプト人の長子と家畜の初子を滅ぼした神の使いが、イスラエル人を過ぎ越したことに基づいた名称であり、この神の守りの中で、イスラエルの民は見事エジプトからの脱出が始まることとなった
この出エジプトの旅はここから始まりまして、40年の荒野の旅の果てに乳と蜜のながれる約束の地カナンにもどることができたのです。過ぎ越しの祭りはイスラエルの民が神によってエジプトからの救出を祝う祭り→ですから、イスラエルの民にとってはとても大切な祭りです。
1.2「過ぎ越しのいけにえ」による罪の身代わり
出エジプトしたイスラエルの民ですが、約束のカナン地をめざし荒野の旅を始めます。
しかし、その旅の中で、のどが渇けば水を、腹がすけば食事を求め、都度モーセは神にたすけを求めた→神はその都度祈りにこたえ与え導かれた。民は都度その欲望を増し、神の養いや導きに不満を言い続けた。
その指導者モーセに対して神は「神と神の民との間の契約」(例えばシナイ契約では十戒)を授け荒野の旅を続けることをゆるされた:
・その神の戒めを破ることは罪であり
・罪をおかした者は、その罪を「動物の血」→身代わりのいのちのとして「過ぎ越しのいけにえ」としてきた
これが旧約時代においては、罪の贖いとして広く行われ、イスラエルの王はじめ、民に至るまで“身代わりの血”による罪の赦しでした。
さて、このような時代の中に、神の子イエスは誕生し、人としてのイエスは30年間のナザレの村の大工ヨセフの長男として生きて、この世の人の罪ゆえに苦しむさまざまな姿を見てきた。
また公生涯の3年半にわたる公生涯での旅路の中で、その罪ゆえに苦しむ多くの人々、罪ゆえのさまざまな困難苦難のさまを見て、心を痛めてきた。
その公生涯の最後と時と定めて、「人の子は十字架につけられる」預言の成就のため、イスラエルの最大の“過ぎ越しの祭り”を目指しエルサレム入場してきました。主イエスは、自分が十字架につけられる前には、是非ともしておかなければならないものとして、この“最後の晩餐”のことを考えていました:
(ルカ22章)15イエスは言われた。「わたしは、苦しみを受ける前に、あなたがたといっしょに、この過越の食事をすることをどんなに望んでいたことか。」
そんなわけで、26章18節のようにその日、その時、場所などが詳しく書かれています→すべて、主イエスが計画されたものだからです。
あーなんという、イエスさまのご愛→罪にまみれる私たちに対するイエスさまのご愛:
・30年の人として見てこられた、罪ゆえに苦しむ人々のために
・3年半の公生涯の間に出会った人々のために
・旧約から預言されてきた沢山のその預言の数々を成就するため
・自分の弟子たちからも、見放されてしまった、その弟子たちのために
・すべての異邦人のために
・すべての人のすべての罪の身代わりのために
その“身代わりの小羊”として歩まれた、その愛の道のきびしさ、激しさ、大きさ…はかり知れません:
・主イエスは、私たちすべての人の、すべての罪の身代わりの小羊として十字架上で死んでくださいました
・この十字架上の死は、私のための身代わりの小羊ですの告白をもって、わたしをみ救いに入れてくださいました
私たちは唯々感謝です、偉大な主のご愛に心から感謝し、主の御名をほめたたえます。
2.弟子の足を洗ったイエス
この最後の晩餐の記述のところには、4つの福音書に記述がいろいろ書かれていますが、「弟子の足を洗ったこと」は、主イエスのおこなわれたことのなかでも代表的なものの一つとしてとして語られています。
「最後の晩餐」の席上で主イエスのなされた大切なことの一つ、それが「主イエスが弟子の足を洗った」ことです。マタイには出ていませんが、ヨハネによる福音書には詳しく出ていますので見てみましょう。
(ヨハネ13:1~10)を開き…読む…
1節には「世にいる自分のもの(弟子たち)を愛して、この上なく愛し抜かれた」と記されています。ところで、4節に「食事の席から立ち上がって」と書かれています…突然に不思議なことが起こったのですね。仮に足を洗うとしても、食事の前にすることでありましょうが;
(ヨハネ13:4~5)
・「上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って、腰にまとわれた。」
・「それから、たらいに水を汲んで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手でふき始められた」、と書き記されています
足を洗う仕事:
・あのカナンの地、大半は砂漠地のようなところですから、暑い夏には焼け付く地であり、雨季には雨水がその渇いた地を激
しくぬらします。そんな中を旅する人の足…人は皮のくつをはいて旅していましたが、その足を洗うこと…家に入って休む
にも足を洗うことは必要でした
・この足を洗うこと→これは奴隷がやる仕事でした。なかでも、異邦人の奴隷がやる仕事である、とそのように卑しめられている仕事でした
皆さん、その奴隷がやる仕事を、ここではイエスさまが、自分がひざまずいて洗ってあげるのです→「イエスさまが、今なんと、僕となられた」→イエスさまがひざまずいておられる。
ペテロにしたら、本当にびっくりしたことだろうと思います、ね;
・「主よ」と叫んでいるのです
・主であるあなたが何故…奴隷にならなければならないのですか
・しかも、なぜ…わたしの奴隷になるのですか、と →皆さんなら、どうしますか?
主イエスは;
「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、あとで分かる ようになる。」と言われた
ぺテロは後に、このことが良く分かったから伝道者になったのですが、ぺテロもまた、主イエスの恵みに応え「愛し抜くこと」を学んだのです。しかし、最初は「私の足など、決して洗わないでください…そんなもったいない事をしないでください」と言っていました。
イエスは言われました;
「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる。」
あなたはわたしのものでなくなる。わたしの愛から落ちてしまう、と
主とか、主人とか、奴隷とか…そんなことに拘ることがおかしいことではありませんか!アガペーの愛とは:仕える愛なのですね→キリストの愛は「神に仕える愛」、「隣人に仕える愛」です、主はそう語られているのです。
(他教会での洗足式の紹介)
3.最後の晩餐
主イエスは十字架の死の前夜、まさに絶望のどん底のようなところで、ここでも「約束」を語っておられます。
それは主イエスが、ここに言われているからであります…26~29節;
26節 また、彼らが食事をしている時、イエスはパンをとり、祝福して後これを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取って食べなさい。これはわたしのからだです。」
27節 また、杯を取り、感謝をささげて後、こう言って彼らにお与えになった。「みな、この杯から飲みなさい。
28節 これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです。
皆さん、この内容はそのまま、現在の教会での聖餐式の内容です、ネ。
私たちは聖餐式において、主イエスの罪のゆるしの杯に預かります;
「多くの人のために流すわたしの契約の血」がこれであります
このように、最後の最後のときに至る残された時間の中でも、救われたこの私たちが、恵まれた一日一日を生きることができるための、愛のご計画まで造り示してくださるそのイエス様のご愛に、心から感謝します。
この聖餐式を人々に知らせるためにも、この最後の晩餐のことは、主イエスにとって、どうしてもしておかなければならない;
・大切なこと
・重要なこと
・決して忘れてしまうことのできないことでした
このために、主イエスが、恵みの手段として制定されたものであります。洗礼を受けるなら…この聖餐に与ることができます。
どうか神様、私たちが神様の大いなる恵みに与ることができるように、助けてください、導いて下さい。
了
2024.4.20
主 題:「 わたしのところに来なさい!」
聖書箇所:マタイ11・28~30、6・25~34
1. わたしのところに来なさい
28「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」
イエス様の愛の招きの言葉です…なんと慈愛に満ちた、恵み豊かなみことばでしょうか! このみことばに感動し、どれほど沢山の人がイエス・キリストの救いに与ったことでしょうか…。
原語に忠実に訳してみると;
「労苦して疲れ果て、しかもなお重荷を負わせられている者はすべて、わたしのところに来なさい。わたしが、あなたがたを休ませてあげます。」と、このようになります。
* わたしのところに来なさい。わたしが…休ませてあげよう、と→わたしが強調されています
* 又ただ、「疲れた人、重荷を負っている人」だけでなく、「労苦の果て、疲れあえいでいるけれども,なお、重荷を負わされている人」です;
・それは自分の意志でとも言い難いものですが、負わされているのです
・負わされているその重荷の重さに、うめいているのです
・しかも、その人はその願いも叶わぬまま、時が過ぎようとしています
さあ、イエス様はそのような人々に向かって;
・わたしのところに来たら良いですよ
・そのままで、来たら良いですよ
・わたしが休ませてあげるよ… と言ってくださっているのです
ここの「休ませてあげます」の意味;
・むしろ「新しい、新鮮ないのちの力をあげるよ」と訳しているのもあるのですが、私はその意味の方が正しいと思います
・主イエスが約束しておられるこの休息は、休むことによって→「新しい望み」が生まれてくるのです→「さあ、またやるぞ! 自分のような者でも、もう一回立ち上がれるぞ!」…そのような「休息」です。
さあそれでは、
「労苦の果て…疲れてあえいでいるけれども、なお、重荷を負わされている人」とは一体誰のことでしょうか?;
・これは自分のことだ、自分の人生そのものだ、と→そうです、私のことです、あなたのことです、この近隣におられるすべての方です、ネ
・人生にはさまざまな労苦があります、重荷があります
・そのために疲れ果ててしまっている私達自身が、皆呼び掛けられ、人生のありとあらゆる労苦にあえいでいる人々が、ここに招かれているのです、ね…「休ませてあげますよ」、と。
2.くびきに生きる私たち
私たちが重荷だ、と思っているもの→その私たちを苦しめている「本当の重荷とは何なのか」…主イエスはそこを見抜いておられるのです。それゆえに、主イエスは、本当の休みを与えることが出来るお方なのです。
皆さん、私達を疲れさせ、疲れ果てさせ、絶望にまで追い込んでいるものは、一体何でしょうか!
日本では毎年3万人が自殺をしています。ここ10年では30万人が自分で 自分の命を絶っているのです。人間は疲れ果てたときに、こんな人生は何の役に立つのか…という空しい思いに付け込まれてしまう隙、これは誰にでもあります。
一体、何がそうさせるのでしょうか→“絶望”ではないでしょうか!
われわれを捕えてしまう絶望;
① その思い・重荷は…一体どこから来るのか
② それを真実… 取り除く道はどこにあるのか
③ 自殺にまで追いやる空しさは…どこからくるのか
そのような中に、29「わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎがきます」という主の約束があります。
そんな中の私達は、重荷だけではなく、「どうすれば休みになるのか」を自分では“知ってるつもり”です、ね→例えば、酒で憂さを晴らす人は多い;
・酒を飲むことによって、重荷を下ろすことを、どこかで覚えています
・しかし、重荷の解決を酒に頼っていると、悪酔いします
・そして、どんどん深酒となり、しまいに体を駄目にしてしまいます
・死に至ることもあります…私はそのような方を近くで聞いてきました
ですから、酒はこの重荷の解決にはなりません一時的な憂さ晴らしです、ね。
さて、この29「そうすれば、たましいに安らぎがきます」という言葉は、次の2つの言葉が語られたところで言われた言葉です;① わたしのくびきを負いなさい ② わたしに学びなさい
そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる、と
すなわち、「安らぎを得られる」イコール「わたしのくびきを負って学ぶ」ということと同じであるということです。
“くびき”…皆さん知っていますか;
・軛とは牛や馬を使って、田や畑を耕すとき、また馬車などを引かせるときに使う、その牛や馬の「首元に掛ける道具」であります
・ですから「くびきを負う」→そのような時は、牛や馬が働かされる時です
このように農家の人はその仕事を終え、ねぐら・馬小屋に連れて帰る時に馬や牛から、「ごくろうさん」と首を撫でながらそのくびきをおろします。
しかし、主イエスは「わたしのくびきを負うとき、休ませてあげよう」と言うのです;
・くびきを負っているときに休みなどない→ああ休みたい、休みたいと、そう言って働いているだけではないか!
・私達は、激しい労働とやっと手に入れた… ささやかな休息 の繰り返しの中で人生は営まれるのだ…だから、本当にゆっくり休むのは、死ぬ時しかない、などと考えてしまいます
しかし、主イエスはそうは言っていない。
主イエスは;
・私達が生きている所で、くびきを負っている所ですでに憩い
・くびきを負うそのことの中に、常に新鮮な「いのちに生きる道」があることをここで語っているのです
さあ、ここで言われている「くびき」とは一体何でしょうか;
・「くびき」とは、もともと重荷を負うときに用いられる道具です
・くびきがあってこそ、私達は荷物を運び、田畑を耕すことができるのです
この「くびき」が人に用いられるときは;
・人生の重荷を背負いながら生きていく時の、最も優れた手立てとして…「おきてに生きること」を求められたのです
→旧約聖書の“律 法”とはそのようなものです
・すなわち、神の民、ユダヤ人が「神の民にふさわしい生活をするのに、どうしたらよいかという問いを抱いたとき、このように生きなさいと言われた手引きです」→しかし、その律法が人を疲れさせてしまう!
主イエスは「律法なんていらない」と言われたのではありません。「わたしのくびきを負い、わたしから学びなさい」と;
・わたしが「新しい掟を与えるから、よく学びなさい」と告げられたのです
・そして、主イエスは「山上の説教」はじめ、さまざまな「新しい掟」を私たちに示して「あなたがたは安らぎを得なさい!」とお勧めしておられます
3.新しい掟
30「わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」
しかし、そのような重い命を、軽く担って生きる道がある、と主は言われる、それが「わたしが新しいおきてを与えるから、わたしから学びなさい。」の道“主の弟子として生きる道”です
具体的に主イエスは、山上の説教で「心配するのは止めなさい」と(マタイ6:24以下)を言われました;
24 だから、わたしはあなたがたに言います…
…
33「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それ
に加えて、これらのものはすべて与えられます。
34だからあすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。
労苦はその日その日に、十分あります。
(高木の証し)略
み言葉に戻りまして、28~30節の短いところに、「わたしの」「わたしは」「わたしに」と、ご自分のことを繰り返し語っておられます。主イエスが主張しているのです→鍵は、この「わたし」にあります、と。
特に、29「わたしは心優しく、へりくだっているから」…のみことばが鍵です。
キリストから学ぶべきは→この「キリストの心優しくとへりくだり」です。
さらに掘り下げて行きましょう→私達は教会で礼拝をささげます。
礼拝とは英語で「サーヴィス」です、「奉仕」です;
・私達が神に奉仕するのではありません
・(ルターの教え)礼拝において奉仕するのは主イエス・キリストです
・そこで私達は恵みに預かるのです
・その恵みの手段は「みことば」と、「聖礼典」=クリスチャンには聖餐式
主イエスが、私達に心優しく、へりくだりを尽くして→仕えてくださる。
更に主イエスが、「わたしは心優しく、へりくだっているから」を具体的に示されていますことはの例2箇所:
ヨハネ13章
あの最後の晩餐の席で、主イエスは弟子達の足元にひざまずいて、汚れた弟子たちの足を洗われました。十字架の死を目前にして、弟子たちをそのように心優しくへりくだりをつくして→愛し抜かれたのであります
ピリピ2章6~8節;
キリストは、神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。→自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。
これらのことは…主イエスは28節のお言葉を語るために全責任をおとりになったのです;
28「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのもとに来なさい。あたしがあなたがたを休ませてあげます。」
即ち、主イエス・キリストは;
・柔和で謙遜な僕となられたのです
・主イエスの生涯は、ただ私達が安息を得るための生涯でありました
・そして私達の生涯が、ただ重く、あえぎながら生きるものではなく
→真実に、「神の恵みの中で…休ませてあげますよ」と呼んでおられる。
私達がそのことがよく分かったとき、主イエスが弟子たちの足を洗いながら;
「わたしが、あなたがたの足を洗ったからには、
あなたがたもまた、互いに足を洗いあうべきである」
と言われたのが何故であったのか も分かるようになるのです…
つまり、「あなたがたも、柔和と謙遜を尽くして…神と、隣人に仕えなさい。」と言われている→“主の弟子として生きる道”…であります
。私達は、もういちど、しっかりと“主の弟子として生きる道”をあゆませていただきましょう!
ここまでとします。 了
2024.4.13
主 題:「 平和をつくる者は幸いです 」
聖書箇所:マタイ5・9、イザヤ2:1~4
1.山上の説教 (マタイ5・1~10)をもう一度
ガリラヤ湖畔のカペナウムを拠点で公生涯を始められた主イエスには、大勢の人々が付き従っていました。マタイ5章に入りますと、イエスはこの群集を見て、山に登り、おすわりになると語りだしました→弟子たちはじめ、主イエスを求めてつき従ってきた 病気や痛みに苦しむ病人、中風の人々などの人々に向かって…有名な「山上の説教」が語られました。
この「山上の説教」の初めの部分は「…する者は幸いです」(3~10節)が繰り返されます→「8つの幸いの教え」などとも呼ばれます。
ここ「山上の説教」に出てくる「幸い」とは;
・英語で言う“ハッピー”(Happy)とは違う言葉なのです
・(Blessed)と英訳されていますから「神に祝福されています」です
それは「神による祝福ですから」誰も、他人からは干渉できないものですし、ご本人の自覚と喜びと自信により増し加えられるものです。
前回までに、8つの中の「2つの幸い」についてみことばを学んできました。それを一度振り返っておきたいと思います。
イエス様は、ここでご自分のところに来た人々に向かって→“祝福しますよ”と言われたおことばだ、ということです:
・「あなたがたはわたしの所に来た、わたしのところに救いを求めに来たのだから、そのあなたがたは幸いだ、わたしが幸い
にする、もう幸いなのだ。」そう宣言された
・「心が貧しくなくても、わたしの所に来たのだから、あなたがたはもう幸いなのだ。」そうイエス様は宣言された
→私たちはその祝福の中にもう生きているということです
・「心が悲しむ者ではない私たちですが、私たちが求めるなら→キリス
ト・イエスにあって一つとされ、私たちを悲しむ者にしてくださる。
イエス様と新しいいのちに生きる者にしてくださる、だから幸いだということです
さて、私は次の3つ目のみことばをもって、山上の説教→「神の国はどのようなところか」を学び終えたいと願っています。
2. 平和をつくる者は幸いです ( 5・9 )
9「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから。」
皆さんこう言われても、私たちに平和をつくる力などありません、ネー
この時イエス様の前にいたのは、私たちと同じように様々な問題を抱えた人々です:
・今日生きるにも困り果て、イエス様の所に救いを求めに来た人々です
・そのような人々に平和をつくる力などありませんネー
皆さん、平和を実現する力があるのは、この世の権力者であり、もっとはっきり言えば軍隊を動かすことの出来る王や皇帝でしょう。しかし、現実はその人たちによってむしろ戦争が起こされているのです。
平和を実現する、それが出来たらどんなに幸いかと思います。平和を願わない人はいないでしょう。皆、平和を望んでいる。しかし、現実にはその平和の反対の戦争が世界中で続いていますネー
そこで、「イエス様が言われた平和」について少し考える必要があります:
・私たちは戦争がなければ平和だと思っているところがあります
・しかし、イエス様が告げる平和は、単に戦争がないという状態だけを指しているのではないのです…
→もっと根本的な、もっと徹底した平和です:
1)人と人とが互いに愛し合い、支え合い、仕え合う交わりです
2)さらには、国と国、民族と民族、人と人との交わり だけではなく
・人とこの世界
・人と神様との関係においても
“ゆるぎのない平和”のことであると思います→それは、神様によって造られた人と世界が、そのみ心に従って、神様のご支配の中に生かされる世界⇒あの“エデンの園”のような状態と思わされます、ネ
皆さん、この平和を実現するために来られた方、平和の主、平和の王…⇒それが主なるイエス・キリストです!
イエス様は全能の神の独り子ですから、その御力をもって当時世界最強であったローマの軍隊をけ散らし、そのみ力ですべての者の上に君臨することも出来たでしょう。
しかし、イエス様がなさったのはそういうことではありませんでした:
・イエス様がまことの王としてエルサレムに入城したときに乗られたのは子ロバでした。立派な、大きな馬ではなかった
・軍馬にまたがる王としてではなく、子ロバに乗った王としてエルサレムに入城された…
→それは、“イエス様が平和の王”だったからです
イエス様は神に敵対していた人間の その敵意をわが身に受け、神をなだめる犠牲となって十字架にお架かりになった。そのよ
うにして、人間と神様との間に平和を実現されたのです。
パウロはそのことをエペソ人への手紙・2章14~16節:
「14 キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、
15 ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。
このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人を造り上げて、平和を実現するためであり、
16 また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。」
と告げております。
イエス様は自らを十字架の上で犠牲とすることによって、神と人、人と人の平和を与えられたのです。
3.その人たちは神の子どもと呼ばれるから。
このイエス様の祝福に与り、イエス様の救いに与った者、イエス様と神の国にすまう者は→“どうしても平和の世界に住まわせていただきたい”ですネー
「人と人、国と国が自らの利益、自らの欲に引きずり回されて、互いに争うのは仕方のないことだ…」と言って済ませるわけに はいかないですネー
それでは、イエス様の十字架は無駄だったということになってしまうからです:
・イエス様の十字架を無駄にしないためには、イエス様が与えてくださ った平和が実現するように、願い求めて歩むのです
・それは、私たちがすでに神の子とされているからです。神様に向かって「父よ」と呼ぶことが出来る者とされているからです
まわりの世界を見てみると…→ロシアとウクライナの戦争がもう2年間も続いています。そして、多くの人々が家族を失い、家を失い、職場を失い、生きる場を失っています。それが現実です。
そのような中で、私たちが「平和を実現する」などということは、とても不可能のように思えます。
自分の外のそんな大きなことではなくても、私たち身の回りを考えてみましょう:
・私の家に平和があるか?
・私の兄弟姉妹関係に平和があるか?
・私の日常の隣人との間に平和があるだろうか?
そのような問いもまた、このみ言葉から突き付けられる私たちなのです。
・世はそれを知りません、がしかし
・私たちは知らされた。神の子とされた者として、それを知らされた
だからその愛に生き、それを伝えるのです→それ以外に、私たちの生きる道がないからです。
いま世界を見ても、日本国内を見ても、私たちの身の回りを見ても→もう、どうにもならない、閉塞感いっぱいの世界しか見えない…とそのように思ってしまいますよー
神はそのようになることをご存じであったのでしょうか、主なる神はイザヤ書の中で、終わりの日のことを予言されています:
(イザヤ2:1~4)
1 アモツの子イザヤが、ユダとエルサレムについて示された先見のことば。
2 終わりの日に、主の家の山は、山々の頂に堅く立ち、丘々よりもそびえ立ち、すべての国々がそこに流れて来る。
3 多くの民が来て言う。「さあ、主の山、ヤコブの神の家に上ろう。主はご自分の道を、私たちに教えてくださる。私たちはその小道を歩もう。」それは、シオンからみおしえが出、エルサレムから主のことばが出るからだ。
4 主は国々の間をさばき、多くの国々の民に、判決を下す。彼らはその剣を鋤に、その槍をかまに打ち直し、国は国に向かって剣を上げず、二度と戦いのことを習わない。
4節のみことばは、現在の国連本部ビルの建物の礎石に刻まれているものです。
が、現実は今の世界は国と国の対抗が激しくなり、戦争による終末の危機感が溢れています。まさに終わりの日→終末が待たれる時代に生きていると言ってもおかしくありません。
私たちはこのような時代の中に生きるものとして、主の平和を求めます→主の平和、それは愛によって建てられていくものです:
・世はそれを知りません
・しかし、私たちは神の子とされた者として、それを知らされた
だからその愛に生き、それを伝えるから始めるのです。それ以外に、私たちの生きる道がないからです。
「マラナ・タ」「主よ来てください」です。まことの平和は、主が再び来られることによって実現することを願いつつ、その愛に生き、それを伝えるから始めることができるよう心から祈ります。アーメン
2024.3.16
主 題:「 悲しむ者は幸いです 」
聖書箇所:マタイ5・4, マルコ14・32~36
1.山上の説教 (マタイ5・1~10)
皆さん、私たち人はだれでも“幸いを求めて生きている”のではないでしょうか。私たちはその幸せを求めて、頑張って生きているともいえると思います。がしかし、私たちの日常生活はその幸いを味わうどころか、いつも問題があり その問題のために悩み、苦しみ→むしろ嘆き悲しんでいる…これが私たちの現実ではないでしょうか?
ここ「山上の説教」では、「…する者は幸いです」と日本では訳されていますが、英訳では;
・ “Happy”ではなく
即ち、「祝福されている」という意味なのです。
その「幸いです」は 神から与えられるもの、神から恵まれるものですから、誰からも、奪ったり、邪魔することができません:
・“突然の出来事”や“状況の変化”などで乱されません
・この世の人が「お気の毒に」と思うような不幸や、状況の変化などがあっても…それでもかき乱されることのない喜びや平安…それがここ聖書で言う「幸いです」!
さて、それでは具体的に…今日は8つの中から2つ目の幸いについて取り上げて、その「幸い」を心して味わわせていただきましょう。
2. 悲しむ者は幸いです (マタイ5・4 )
3 「悲しむ者は幸いです。その人たちはなぐさめられるから。」
実は、私は 「悲しむ者は幸いです。」→何という“おことば”であろうかと思いました。私には語ることはできないと思い、随分と苦しみ祈らされました。しかし、このことばを語ることのできるお方はただひとり→主イエスだけが語られる“おことば”なのだと思い、話を続けさせていたきます。
皆さん、この「山上の説教」は、先にも述べた通り、「神の国での生き方、つまり神の姿について」 語られているのです。
ですから、その「神の国に生きる主イエス」が、「この世に生きる人としての悲しみの極みの時に」、イエスはどうしたでしょうか?
→その極みのところ、あの「ゲッセマネの祈り」のところをみさせていただきましょう!
「ゲッセマネの祈り」 のところ→イエスは、地上での生活の最後となる時に、いつものオリーブ山に行って、激しい叫びと涙をもって祈りました。
(マルコ14:32~36)を見てみましょう:
32 ゲツセマネという所に来て、イエスは弟子たちに言われた。「わたしが祈る間、ここにすわっていなさい。」
33 そして、ペテロ、ヤコブ、ヨハネをいっしょに連れて行かれた。イエスは深く恐れもだえ始められた。
34「彼ら(ペトロ、ヤコブ、ヨハネ)は言われた。『ここを離れず、目を覚ましていなさい。』、と…」
35「地面にひれ伏し『できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るように』と祈り
36こう言われた『アッパ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯を私からとりのけてください』・・・」
ここのところルカの福音書で見てみましょう
(ルカ22・40~42)
40 いつもの場所に着いたとき、イエスは彼らに、「誘惑に陥らないように祈っていなさい」と言われた。
41 そしてご自分は、弟子たちから石を投げて届くほどの所に離れて、ひざまずいて、こう祈られた。
42 「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。…」
あの神の子イエスさまでさえ、わたしは死ぬばかりに悲しいと→あの杯(十字架刑)から取り除けてください、と訴えたのです…
……
→しかしながら、どれほどの時が流れたでしょうか
42「…しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」
と神の国に生きる神の子としての信仰するお方に立ちかえり、祈られたのです。
まさに、死から救う力のある方に、祈りと願いをささげ、そしてその深い信仰のゆえに→聞き入れられましたですネー:
その三日後には
・よみがえられたのです
・天の御国・神の国に帰ることができたのです!!
皆さん、イエスさまはそのことは知っておられた、だからこそ言えることばだと思います:
「悲しむ者は幸いです。その人たちはなぐさめられるから。」
今のこの時代、悲しみの中で生きていると言ってもいいような世界にいる私たちです。私たちはいくら頑張っても、また罪をおかしてしまうものです。そして、その罪のゆえに苦しみ悩み、またその結果として悲しむ者です。
しかし、イエスさまは:
・人の姿となりこの地上に来てくださり、その私たちすべての人のすべての罪の身代わりとして、十字架上で死んで贖ってくださいました→愛のお方です
・そして死んだらしまいではなく、よみがえられて、私たちひとり一人と共にいて下さって悲しんでくださっています
・神の国へと招いてくださっています
そのような中にあって、私たちは主の救いに与ることができ:
「神に頼らなければ、神の援助がなければ生きていけないし、またそのことを知っている人」とさせていただきました。
がしかし、この逆の人が大勢です:
・いまさら神に頼らなくても、自分の力で生きていけると思っている人
・神に頼るなんて弱い人のすることで、自分には神なんて必要ない
・神なしで生きてゆける…と思っている人
このような人→今は順境のときですから、笑って傲慢になって過していますが→あることで、ちょっとしたことで→ショックを受け、立ち直れなくなってしまうことが多いと思います。それ故に、その人を悲しみ、神なる主イエスに向かってとりなし祈る→悲しむ者は、幸いです…とも語られていると思います。
主が語られた「悲しむ者」は“霊的な破産状態”を認め、神の前に“アッパ父よ”の如く神に助けを求め祈るものとなる人のことと思い、理解しました。
イエスさま―この世にあっては、さまざまな罪の誘惑が待ち構えています、そのことのゆえに、私たちは悩み苦しみ、思い煩うものであります。そのような時にできない自分を悲しみ、イエスさまー…と、赤子のようにイエスさまに尋ね求める者、祈る者へとなりますように、とただただ願い祈ります。
3.ある高齢者信仰者の証し
台湾に高静蘭という信仰者がおられました。彼女は2005年8月(82歳)まで、台湾タバロン基督長老教会の長老執事28年の間お勤めしたお方です。
私が妻の和子先生とともに、初めてその高静蘭さんにあつたの時は2016年でした。当時93歳でした。そのときの写真があります。(略)
彼女は長老執事を引退してからは:
・自宅でもっぱら聖書を毎日読み祈る、いや祈り続ける生活でした
・高静蘭さんは車に乗る人ではありませんので、伝道の労苦に生きる教会のために自宅で祈る人でした
・神の家族から頼まれ、ご近状から頼まれ祈る方でした
・また頼まれれば朝早くから、晩に至るまで祈る人でした
このように小さな教会、伝道の労苦に生きる教会、貧しさを嘆く教会のために、病める人のために朝早くから祈り続けるお方でした。
自分は楽に生きているからではなく、自分も悲しんでいるから、悲しんでいる人のために祈り続けるのです。
台湾の教会のためにだけ、アミ族のことだけに祈るだけではありませんでした:
・特に台湾は、日本の統治下におかれた時代は日本語が台湾の母語となりましたので、高静蘭さんのことばはアミ族のアミ語
と日本語のみですから、台湾宣教に出た中田和子宣教師のことは、初めから和子宣教師を→「和ちゃん」と呼んで何彼とな
く、世話し祈ってくれていました
・2016年の時には和子が足の痛みがある中での台湾訪問でしたので、朝早くからずっとそのことを祈り続けくれていました
そのようなお方でした。
その高静蘭さんは昨年9月26日に召されました。100歳でした。そのことを知らせるその息子さんから和子宣教師に対する
手紙をいただきました。
この手紙を見て、私はまた感動しました:アミ族の男で日本語を見よう見まねで書いた手紙です
その内容は:
・母は昨年9月26日に、ちょうど100歳で亡くなった
・お母さんは、私たちクリスチャンにとって、死は神が私たちに
与えて下さった最高の贈り物です。 なぜなら私たちには永遠
のいのちがあるからですと言いました
・だから、お母さんが亡くなったとき、お母さんはとても穏やかでした
あーなんという悲しみのお方かー。しかし高静蘭さんは神に祝福されたお方かー、と。まさに、「悲しむ者はさいわいです。その人は慰められるからです。」
を証しされたお方だ、と思わされています。
ここまでとします。 了
2024.3.9
主 題:「 心の貧しい者は幸いです 」
聖書箇所:マタイ5・3,ルカ15・11~24
(はじめに)
私たちは前回に「神の国」について学びました:
・この主題をもって、イエスさまはガリラヤの宣教を始められました「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信
じなさい。」、と
古くから預言され、誰もが待ち焦がれていたその救いの時が来ましたよ→さあ、今までの生き方を悔い改めて、その救い
主を信じなさい。そして、神の国に生きなさい、と
・イエスさまは神の国を伝え、生き、そして死なれました
・その上復活され、今も生きて神の国へと招いてくださっています
その上で、この神の国に入るには、この神の国を生きるには…どうすればよいのでしょうか、前回みことばから学びました:
・神の国に入るには→悔い改め、救われる
・神の国を生きるには→聖霊に満たされ、罪の誘惑や悪から解放される
さあ、それではその神の国は:
・どんなところ
・そこはどんな価値観のところ
なのでしょうかこれから、しばらくマタイの福音書の5章の中からこの点につき読んでまいりましょう!
1.山上の説教 (マタイ5・1~10)
マタイによる福音書は4章に入りますと、イエス様はガリラヤで四人の漁師を弟子にし、いよいよその伝道生涯を始められるのであります。
23「イエス様はガリラヤ全土を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病気、あらゆるわずらいを直
された。」
と書かれるとおりでした。その結果イエスの評判はシリヤ全体に広まりました。そして、人々はガリラヤ、エルサレム、ユダヤ…のほか→川の向こう側から、大勢の群衆が来てイエスにつき従った、と書かれています。
5章に入りまして、イエスはこの群集を見て、山に登り、おすわりになると、語りだしました…有名な「山上の説教」が語られたのです。
この「山上の説教」の初めの部分は「…する者は幸いです」(3~10節)が繰り返されます。皆さん幾つ書かれていますか「8つの幸いの教え」などとも呼ばれます。
皆さん、私たち人はだれでも“幸いを求めて生きている”のではないでしょうか。私たちはその幸せを求めて、頑張って生きているともいえると思いますネー。
しかし、私たちの日常生活にはいつも問題があり、その問題のために悩み、苦しんでいる…これが私たちの現実ではないでしょうか?
しかし、ここ「山上の説教」に出てくる「幸い」とは;
・英語で言う“ハッピー”(Happy)とは違う言葉なのです
・「神における至福の状態」を示すことばです…「神に祝福されています」(Blessed)と言う意味なのです。
聖書が言っている「幸い」とは;
・“突然の出来事”や“状況の変化”などで乱されるものではないのです
・この世の人が「お気の毒に」と思うような不幸や、状況の変化などがあっても、それでもかき乱されることのない喜びや平安…それが聖書で言う「幸い」なのです
その幸いは…神によって与えられるものです。そして誰も、決して奪うことができないものです。
さて、それでは具体的に…今日は8つの中から1つ目の幸いについて取り上げて、その「幸い」をじっくり味わわせていただきましょう。
2. 心の貧しい人々は幸いです ( 5・3 )
3 「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。」
日本語で「心の貧しい者」とは…「心が狭く、利己的な人」と言った悪い意味です、ね。しかし、聖書のここでいう「心の貧しい人」というのは;
・ 自分の力では生活できない人
・ 生活の保護を受けたり
・ 家族の援助を受けたり
していかなければ生きてゆけない人のことを指しているのです…その典型…それは「赤ん坊」です、ね。赤ん坊は、
保護者・母の援助なしには生きてゆくことはできません、ね…いわば、“完全な無一物の人”のことです。
しかし、イエス様は、天の御国(天国・神の国)とは、まさにそのような人の居るところ、入るところである…といわれるのです。
つまり、神様に頼らなければ、神様の援助がなければ生きていけないし、またそのことをよく知っている人。そのような人こそ、「神に祝福されています」と言われるのです。
それでは、この逆の人とは;
・いまさら神に頼らなくても、自分の力で生きていけると思っている人
・神様に頼るなんて弱い人のすることで、自分には神なんて必要ない
・神様なしで生きてゆける…と思っている人
このような人→今は順境のときですから、笑って傲慢になって過していますが→あることで、ちょっとしたことで→ショックを受け、立ち直れなくなってしまうことが多いと思います。
主が語られた「心の貧しい者」とは、神の前に“霊的な破産状態”を認め、神が差し伸べてくださっている恵を手にすることができる人のことです。
神様は、私たちが罪の故に;
・悩み苦しみ→心の思いとは裏腹なことを言ってしまう、やってしまう
・それによって人を傷つけ
・またそのことの仕返しとしての批判や悪口を受け、更に苦悩する
このような有様をご覧になり、私達のために…その罪からの救いの道を開いてくださいました。
すなわち:
・御一人子のイエス・キリストをこの地上に送ってくださり
・十字架に付けその血をもって私達の罪の身代わりとなり→裁きを受け、十字架上で死んでくださいました
・私達に対する神様の愛…それは御一人子をも捧げてくださる愛なのです
この神の愛、この世にこれ以上の真理はありません。
イエス様―この世にあっては、さまざまな罪の誘惑が待ち構えています、そのことのゆえに、私たちは悩み苦しみ、思い煩うものであります。そのような時にこそ悩みや、思い煩うことなく、イエスさまーと、赤子のようにイエスさまに尋ね求める者、祈るものへとしてなりますように、神の国に住む者としてくださいますように、とただただ祈ります。アーメン
3.「放蕩息子のたとえ話」(ルカ15・11~24)
さて、聖書に出てくる有名な物語の一つに、「放蕩息子のたとえ話」があります。先ほど読んでくださいました。
二人の兄弟のうち弟の方が、生きているお父さんから遺産の生前贈与を受けるのです。
その弟は;
・ それを全部お金に換えて、遠い国に旅立ち
・ そこで放蕩の限りを尽くして、財産を使い果たしてしまったのです
・ そして、何もかにも使い尽くし、無一文になってしまうのです
・ ついに豚の世話をする有様となりました
その時になって初めて、彼はお父さんを思い出すのです;
・ 父の所には大勢の雇い人がおり、パンも有り余るほどある
・ それなのに私は、ここで飢え死にしそうだ
父のことを思い出すことのできたのです→この弟こそが、心の貧しい人になることができました;
× 財産を使い果たしたから、貧しいのではありません
○ お父さんの所には有り余るパン(いのちのパン)がある、と気付いたのです
この弟は、はじめは…お父さんなんか必要ないと思ったかもしれません。しかし、どうしようもない状態となって初めて;
・ 自分はお父さんに頼らなければ
・ お父さんの援助を受けなければ
…生きていけないことが分ったのです
これを神様と人間との関係に当てはめてみますと、私たちは皆この弟息子のような者なのではないでしょうか;
・行き詰まらないと、自分には神様が必要であることに気がつかない
・行き詰まって初めて、自分には神様が必要なのだ…神様なしでは生きてゆけないこと→に気付くことが多いのです、ね
天のお父様の所には、有り余る恵(祝福)があるから、この神にたち帰ろうとすること→まさにその人こそ『心の貧しい人』と言えるでしょう。
では、「天のみ国はその人のものである」とは…どおいうことでしょうか。
天の国は「神の国」と同じ言葉です。神の支配してくださる所…と言う意味です、ね。
ですから、「天の国」とは私たちの心にもできますし、わたしたちの家庭や、職場も天の国にもなります。
更に死んだ後にも行き住まうところです。そこは…神の支配されるところです。
放蕩息子が、お父さんの所に帰ってきた時、お父さんは;
・息子が帰ってきたことを…息子より早く見つけて・いつも私たちが戻ってくるのを…今か今かと待っていてくださり…
・その姿を見つけると両手を広げて、帰ってきた息子を無条件で迎え入れ、帰ってきたことを喜び、お祝いをしました。
しかも、そこには;
・お父さんがいつも一緒にいて交わる事ができます
・必要なものは何でもそなわっています
…まさにそれは天の御国・神の国です
このように、この天の国(神の国)の中で;
・お父さん=神様と…いつも側にいて交わり
・生きていくために、必要な知恵も力も備わっている場所にいること
→まさにそれこそがほんとうの「幸せ」・「幸い」ではありませんか!
・私たちもその幸いの中に入れていただいています!
・私たちは今でも神の国にいることを忘れないようにしましょう!
ここまでとします。アーメン!
上岩出2024年 2024.3.2
主 題:「 神の国を生きる 」
聖書箇所:マルコ1:15、10:13~22
(はじめに)
共観福音書(マルコ、マタイ、ルカの福音書)の主要な主題は…それは唯一つ→「神の国」、と聖書学者は一致しています。この主題をもって、イエス様はガリラヤの宣教をはじめました;(マルコ1:15)
「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」
時は満ち:古くから預言され、誰もが待ち焦がれていたその救いの時がきましたよ→さあ、今までの生き方を悔い改めて、その救い主を信じなさい。そして神の国に生きなさい、と。そのイエス様の3年半の公生涯は…歩き続け、神の国の福音を語り続けた毎日でした。
では、そのイエス様の公生涯の日々は、と言えば→先ずは、出て行って;
・病める者には、病気を癒し
・差別されている者には、その回復と元気を与えました、他…
そのように苦しむ人々を見て、数々の“しるし”を行いながら、関わり続けられたのです。このようにイエスが悪霊追放のしるしを行う時、そこには神の国があるのです。その“神の国”;それは…
・「主イエスのたとえ」の中心的な主題であり
・最後の晩餐に望んで、イエスの口にのぼった主題でありました
イエス様は神の国を…伝え、生き、働きそして死にました。その上復活され、いまも生きて神の国へと招いてさっています→真の愛のお方です❕
さあ、それでは,“この神の国に入るには”,“この神の国を生きるには”、どうすればよいのでしょうか→み言葉から学んでまいりましょう。
1.神の国とは
「神の国」それは何を意味しているのでしょうか?;
・「神の国」はマタイの福音書では「天 国」とも訳されています
・原語・ギ語「バシレイヤ」は→領土の意味の「国」とは違い、「支配」「統治」と言うのがふさわしい訳です
→即ち、「神の国」とは「神の支配」です。
神の国とは;
・父なる神が御子イエスに授けた権威と支配であり
・御子イエスは…全ての敵を足の下に置くまでその権威を行使し
・終わりの日に、その国を父なる神に返還します(神の国の完成)
神の国を求めること;
・再臨前の今、この地上でキリストによる神支配を受け入れ
・そして、従うことです
即ち、
・神の国とは私たちが「死んでから行く所」だけではないのです
・わたし達が生きているこの世界においても、キリストを信じ、受け入れ従うなら、私達の生きている現実においても実現する;(ルカ17:21)
「いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」
なぜならば、主イエスがこの世に来て下さっており、復活され生きて働いておられるからです。
2.神の国に入るには
15「子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、入ることはできません。」
“子どものように神の国を受け入れる者”→これはどのように解釈するのでしょうか?
この福音書の「子ども」にあたる単語は、ルカの福音書では(パイディオン)「乳飲み子」と呼び掛けられています。生まれたばかりの、まだ乳離れしていない赤ちゃん、そのような幼子を指しているのです。
Q「乳飲み子のように神の国を受け入れる人」とはどのような人?
A「乳飲み子」は、「素直で純真」というより→「何もできない子供」が、母親のお乳を求めるように、イエス様を求める…の意味です;
・イエスの目から見る子供は、無力な者、助けを必要とする存在で
・イエスが子供を祝福するのは、彼らが神の祝福を必要とするから
・「神の国」は、乳飲み子のように「神の助けを受けいれた者の国」なのです
即ち、「何もできない子供」が、母親のお乳を求めるように、イエス様を求める者が 行くところなのです…!
もう一度、神の国に入るには
・キリスト教の教理を理解するとか
・信仰に熱心であるとか
は望ましいことではありますが、「救い」に不可欠なことではありません。「神の国」に入るには→幼子のように「信じ→受け入れる→従う」ことが、大切なことです。
3.神の国に入る―その 失敗事例; 金持ちの男
この金持ちの男はイエス様にこう尋ねます;
10・17「尊い先生。永遠のいのちを自分のものとして受けるためには、私は何をしたらよいでしょうか。」
ここで、永遠のいのち=神の国です。しかし、ここに大きな間違いがあります。金持ちの男は、そしてわたし達は、イエス様にこう尋ねるのです;
・イエス様、私達は「何をすれば」神の国へ入ることができますか?
・「どんな努力」をすれば永遠のいのちをいただけるのでしょうか?
このような質問は、「神の国」に入ることや、「永遠のいのち」を得ること→それが、「わたし達の力や努力によって手に入れることができる」、と考えていることから起こるのです。
Q わたし達は一体、どのような努力をすれば神の国を自分の手で掴むことができるでしょうか…?
A イエス様はこう答えるでしょう;
「あなたがどんなに努力しても、あなた自身の力や努力によっては、決して神の国に入ることも、永遠のいのちを得ることはできません」、と
イエス様はこの男に、旧約聖書に出てくる「十戒」の戒めを示されます:
19「殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽証を立ててはならない。欺きとってはならない。父と母を敬え。」
さあ皆さん、
Q 私達はこの十戒を完全に守り→これを守り通すことができますか?
A 難しいですね…如何なる人間でも不可能です、ね
このように「十戒」とは;
・それは決して「永遠のいのち」を得るための条件ではありません
・わたし達は「十戒」の前では、自分自身が「罪人である」と
自覚するために示されているものなのです…ね!
事実、この金持ちの男も、またこの律法の前にはそれを守ることのできない罪人でしかなかったのであります・・・しかし、問題はそこからなのであります→自分は罪人だと示された時、その罪人である私が、
「 その罪から開放されるために…神様を必要としているかどうか 」、
それが大切なのであります。
ここに出てくる金持ちの男は、自分の持っている「財産への執着」から離れることができませんでした:
・彼にとっては、「永遠のいのち」を得るよりも「この世の財産」の方が大切だったのです
・生きるために、必死になって母親を求める「乳飲み子」のように、神様を求めてはいなかったのです
それよりも自分の財産に頼って、「自分の力で活きていくこと」の方が大切でした。私たちひとり一人はどうであるでしょう
か…?
4. 神の国を生きる
4・1)神の国に入った者が→神の国を生きるには?
「神の国」には、全ての人が招かれています。全ての人が、イエス・キリストの十字架の死は私の罪の身代わりでしたと悔い改めにより、「神の国」に入るよう、そして永遠のいのちを得るようにと招かれています。
そのように、私たちはイエス様を信じ、罪赦され→救いに与りました。聖霊をうけ神の子としていただきました→神の国への門が開かれ 新しい生活が始まったのです。
救われて、神の子たちの共同体→神を頭とする“教会”があります。
教会はイコール神の国ではありませんが、神の国を受け入れ、その支配と祝福に与る者たちの集まりです。
教会は→神の国の地上でのひな形であり、御国の統治形式です(エペソ2:5~6)。しかしながら、救われて→キリスト者となった私達は;
・サタンが支配者するこの世に生き歩みつつ
・神の国を生きる
という絶妙なバランス感覚がもとめられる→御国の民の二重生活があるのです。
この二重生活にはいつも苦難が伴います(Ⅱコリント5:1~5)。
クリスチャンがこの世に生きる中には、それはそれは様々な困難、試練がありますネ;
・やっと念願の会社勤めができるようになった→即戦力を要求され、生きつくヒマもありません
・会社では、無理ばかり要求される…と日々問題です、試練です
やがて、年をとってくると
・病気になってしまった→仕事が続けられない、どうしよう
・子供は家から出て行き、今は夫婦のみ…その連れ合いが亡くなり、一人ぼっち、孤独だ! →でも今更隣近所と交際を始める
ことも…
・年をとってきたが、死が怖い どうしたらいいの?
わたし達はこの世にあっては…生涯を通して様々な苦難・試練に遭遇します;がしかし、
・私たちはこの試練に一人で立ち向かうことはできません
・それゆえ、私達は…「神の助け」を求め続けるのです
「神の国を生きる」問題は、「わたし達が真剣にそれを求め続けているかどうか」、です。神を必要としない人たちは、決して「神の国を生きる」ことはできません→必要としていないからであります。
4.2) 神の国を生きる
キリストにあってこの世に到来した神の国は;
・いまや、教会を通して世に働き
・福音を全世界に宣べ伝え、そのようにして、
・教会に集うクリスチャンは、神の国の福音を宣べ伝える証人として召されているのですのです(ルカ24・48)
そのために神の子となった→弟子たちに、神様はその神の力を授けました;(使徒1:8)
「聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。
そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」
「聖霊の満たし」こそ、唯一 神の国に生きる力の基です。聖霊の満たしこそ、サタンを打ち破るダイナマイトの力です→私たちの日々の問題には…聖霊が勝利をとってくださいます。
では、
Q 聖霊の満たしを受けるには…どうすれば?
A みことばと祈りです
確かなことは→礼拝に出て、神様に願い求めることです
礼拝で私たちは、力を尽くし、思いを尽くして、精神を尽くして、主を礼拝します:
・過ぎし時の主の御業を思い→主を賛美します
・その間に犯した罪、また知らずして犯した罪を悔い改めます
・語られるみことばに感動し、聖霊を受けます
・聖礼典でイエス様の十字架の贖いとその契約を再度受け取ります
即ち、みことばと聖礼典により、私たちは主イエスの恵みに与ります。つまり、聖霊に満たされます。そして、祝祷により、力を得て私たちは一週間のこの世の旅に出て行くのです。
聖霊の満たしこそ、サタンが支配するこの世にあって、神の国を生きる力の基なのです。
問題の都度、みことばに頼り、神に祈る…熱い祈りこそ神の国を生きる力です。
さあ皆さん、私たちは神の国を生きてまいりましょう!
2024.2.24
聖書箇所:ルカ24章44~53節
1.食事のあとの主の解き明かし(44~47)
44 さて、そこでイエスは言われた。
「わたしがまだあなたがたといっしょにいたころ、あなたがたに話したことばはこうです。
わたしについてモーセの律法と預言者と詩篇とに書いてあることは、必ず全部成就するということでした。」
そして、
45 そこで、イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて、
46 こう言われた。
「次のように書いてあります。キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、」
聖書→主イエスがよみがえられた時には、まだ新約聖書はありませんから、聖書と言えば旧約聖書なのですが、その聖書に書いてあるとおり、わたしはその聖書が告げたメシアであり、わたしは十字架にかかり三日目に復活したのだ、そう言われたのです。
ここで主イエスは、御自身が誰であるか、聖書が記すメシアであるということを明確に告げられたのです。そして、十字架も復活も、聖書に書かれていたことであり、父なる神の永遠の御計画の中にあったことなのだ、そう告げられたのです。
この天地創造以来の神の永遠のご計画は、この主イエスの十字架と復活によって完成し、全てが終わったのでしょうか。そうではありません。
47 その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。
罪の赦しを得させる悔い改めが、あらゆる国の人々に宣べ伝えられていかなければならないのです。すなわち、全世界の人々の救いこそ、神の御心なのです。
2.あなたがたは、これらのことの証人です(48~49)
48 あなたがたは、これらのことの証人です
49 さあ、わたしは、わたしの父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。
あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」
使徒たちはじめ主の弟子たちは 聖霊なる神の導きの中、この主イエスの言葉を思い起こし、全世界に主イエスの福音を宣べ伝える者とされていったのです。
実に、主イエスが十字架にかけられ、死に、弟子たちは恐れていました。自分たちも主イエスの弟子として捕らえられてしまうのではないかとも思っていました。
しかしながら、主イエスの弟子たちは、復活の主イエスに出会い、信じられない程の大きな喜びを知りました。この肉体の死によって終わらない“(永遠の)いのち”へと招かれていることを知りました。
しかし、それは:
・自分一人の中にとめておくような喜びではありませんでした
・全ての人々をそこに招き、共にあずかる喜びでした
→彼らは主イエスの証人として遣わされるために、復活の主イエスとの出会いを与えられたのです。
自分が救われたのは、自分を通して一人でも多くの者が救われるためだ。自分の救いは、自分だけのものではないのです。
主イエスの弟子たちは、この復活の主イエスとの出会いによって変えられました:
・神の大きな救いのみ業の中で生かされ、
・その神に仕える者として召されたからです
自分の幸い、自分の願いというもの以上のもの、自分の人生に意味を与える大きな使命と言うべきものを与えられたからです。
さあ、と言っても、あなた方にはまだ、これから起こる困難や問題や課題に対して、打ち勝つ力がありません。
つぎのような指示がありました:
49 さあ、わたしは、わたしの父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。
あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」
弟子たち一同は、指示に従ってエルサレムを離れないで、祈っていました。
3.主は弟子たちを祝福し、神をほめたたえる弟子たち(50~53)
弟子たちは、よみがえられた主イエスと何日かを夢中で過ごしたようです。このルカの福音書の最後のところはあまり詳しくは書いていません。
ルカは、この福音書をの後にすぐに「使徒の働き」を書いてゆきます。
その最初のところでこの福音書の50~53節に記しているところを、改めて丁寧に書いていますから→詳しい話はあとで読むことにして、ここは一気に締めくくって終えたと思われます。
50 それから、イエスは、彼らをベタニヤまで連れて行き、手を上げて祝福された。
51 そして祝福しながら、彼らから離れて行かれた。
52 彼らは、非常な喜びを抱いてエルサレムに帰り、
53 いつも宮にいて神をほめたたえていた。
ここに3回の祝福(エウロギア・ギ語)が書かれています:
50祝福された :良いことばを語られた、恵まれた
51祝福しながら:良いことばを語られながら、恵まれながら
この祝福は神が人に与えて下さるものであり
53ほめたたえていた:良いことばを語る
この「ほめたたえ」は 人が神を「祝福する」時は→神を「ほめたたえ、礼拝する」の意味となります
この祝福は、聖霊のお働きであり
この祝福は、神である主の契約を通して与えられます
そして、イエスさまは ベタニヤの村へ 弟子たちを連れて行き手を上げて祝福された。 そして、彼らから離れて行かれた!
弟子たちは、非常な喜びをもってエルサレムに帰り、いつも宮にいて、神をほめたたえていた!
ここまでとします。ハレルヤー!
2024.2.17
聖書箇所:ルカ24章28~43節
1. 霊の目が開かれた二人の弟子(28~32)
1.1 パンを裂くイエス
エマオへの道を行く二人と共に歩まれたイエスは、まだ先へ行きそうなご様子でした。 そこで、彼らが「いっしょにお泊りください」と言って無理に願ったので、イエスは彼らといっしょに泊まるために中に入りました。
食卓に着いた時に、イエス自身がその愛の労苦でしょう、ご自分の方からパン裂きをしたのです。
そのパンを裂くその手つきを見ていると、この二人は思い起こしたのではないでしょうか?:
・あの5千人を超える人びとにパンと魚を分け与えた時の手つきを…
・何度かイエスと食事をしていたかナー
二人の弟子は復活の主イエスとの食事によって、今まで歩きながら自分たちに聖書の説き明かしをしてくれていたのが誰であったのか、初めて分かったのです。聖書はそのことを「二人の目が開け」と記しています。この「目が開け」とは、まさに“霊の目が開かれた”ということでしょう…
→復活の主イエスが 自分と共におられることが分かったのです!
皆さん、この復活の主イエスとの食事は、あの最後の晩餐の出来事(ルカ22・19)と共に、
私たち教会の聖餐式の源となりました:
・実に、ここで「イエスはパンを取り、祝福し、裂いて彼らに渡された…」のことばは、最後の晩餐を記した…
・ルカ22・19「イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き」
とほとんど同じ言葉が用いられているのです。この二つの食事の記憶が、私たちの聖餐式の源となったことは間違いありません。
この主イエスが復活された日の午後の出来事=二人の弟子と復活の主イエスとの間の出来事:
・主イエスが聖書を説き明かし
・この二人の弟子と一緒に食事をする
そして、弟子たち二人の目が開かれ、復活の主イエスが共におられることが分かった
・ そして聖書を説き明かされた時に心が燃えたではないか…
→実に、これがキリストの教会の礼拝の原体験となったのです。
つまり、聖書の説き明かしとしての説教と、復活の主イエスと一緒に食事をする聖餐式です。この二つがセットになっているのです:
・聖書の説き明かしだけでは、この二人の目は開かれなかったのです
・復活の主イエスと共に食事に与るこのことによって彼らの目が開かれたのです→“礼拝の姿です”!
1.2 霊の目を開かれた二人の弟子
二人の弟子はそのときの主イエスの姿を思い起こしたのではないかと思いますね。すると、31「イエスは彼らには見えなくなった」、と
ところで、この時二人の弟子は目が開かれて復活の主イエスが分かったのですが、そのとたんに「その姿は見えなくなった。」と聖書は記します。
Qこれはどういうことでしょうか?:
Aこれは主イエスの復活という出来事が、単なる“肉体のよみがえり”というようなことではなかったということを示しています…
→主イエスの復活は体のよみがえりであるには違いないのですが、それは同時にまことに霊的な出来事であり、信仰の出来事であった
→そして、主イエスだと分かったとたんにその主イエスの姿が見えなくなったということは、もう見える必要がなくなったからだと思うのです
彼らは主イエスの“よみがえり”の情報は聞いて知っていましたが、信じることは出来ないでいました:
・復活の主イエスが二人の弟子の前にそのお姿を現されたのは
・彼らが主イエスは本当に復活されたのだということを信じるようになるためであったのです
ですから、主イエスの復活を信じたのなら、主イエスはもうその姿を彼らに見せる必要はなくなったし、彼らももう見る必要が無くなったのです。
そして、弟子たちには聖書の説き明かしと主イエスとの食事⇒説教と聖餐という「恵みの手段」が与えられ、この二つによってキリストの教会は立ち続けてきたのです。
聖餐式は:
・主イエス・キリストの体と血、キリストのいのち、キリストそのものにあずかる出来事です
・そして、この聖餐式において、私たちは復活の主イエスが自分と共におられることを味わい知るのです
主イエスは御自身の霊である聖霊を私たちに注ぎ、信仰を与え、聖霊として私たちと共にいて下さっています.
ハレルヤー!
2.弟子たちに現れたイエス(33~35)
さて、この二人の弟子は食事の時、目が開かれて、復活の主イエスと出会いました。彼らは、喜び勇んで「時を移さず出発して、いまきた道をエルサレムに戻った」のです→主イエスが復活されたという驚くべき恵みの出来事を、他の主イエスの弟子たちに知らせるためでありました。
そして、エルサレムに戻ってみると、すでに使徒たちが集まっており
→主イエスが復活されて、シモン・ペトロに現れたと言っていたのです
→この二人の弟子も、自分たちの上に起きたことを話しました:
・道を歩いていると復活の主イエスが近づかれて聖書の解き明かしをしてくれたこと。その時心が燃えたこと。しかし、そ
れが主イエスとは判らなかったこと
・けれども、一緒に食事をすると主イエスであることが判ったこと
・しかし、その姿は見えなくなったこと…
このように主イエスの弟子達は、自分の身の上に起きた復活の主イエスとの出会いの出来事を語り合いし,その体験を共有する群れとなったのです:
・自分だけの経験ではない。この友もあの友も、同じ主イエスの復活の出来事に与っていた。その恵みの経験を皆で共有した
のです
・この証言の共有、神様の救いの御業の共有、それが新しいキリストの教会が最初にしたことだったのです
この救いの恵みの共有、しかも証言という形での共有。それが後に福音書という形に結実していったのでありましょう。
そして、この証言の共有は、今も続いています:
・礼拝に集い説教と聖餐により、私たちは、主イエスによる救いの恵みに共に与り、それを共有しているのです
・そして、そのことにより主イエスが今も生きて働き、私たちと共にいてくださることを知らされ、心に刻むのです
3.復活の姿を見せるイエス(36~43)
36 これらのことを話している間に、イエスご自身が彼らのまん中に立たれた。
37 彼らは驚き恐れて、霊を見ているのだとおもった。
弟子たちは霊を→幽霊を見ているのだ、というのです。
そこで、その疑いを取り去るために、主イエスはもっと具体的に、主イエスのよみがえりのお姿を、手と足を見せながら示してよく見なさいと言われた:
・弟子たちは はじめから信仰をもって、主よと呼べばよかったが…
・それができなかったので、主はご自分の手や足を丁寧に見せられた
41 それでも、彼らは、うれしさのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物はありますか」と言われた。
弟子たちは不思議がって、びっくりし、驚いてしまいました→自分の考えや知恵からはみ出してしまう驚きです―
皆さん、魚一切れを弟子たちの前で食べて下さるキリストのお姿…
Q いったい何をしているのでしょうか?
A 弟子たちに対する愛の心を示されている…私はそう思います
“主のよみがえり”というのは、喜びにせよ、悲しみにせよ、私たち人間には、私たちの手に余るというか、それほどに大きな出来事なのですネー!:
× 私たちの心や、知恵、知識で何とか納得しようではなく
◎ 信じ切ることでのみ→初めて信仰が生まれます
イエスというお方は魚を食べ、パンを食べながら生きる私たちとともにあるということをここで見せて示してくださっている愛のお方です。そして教会はその望みに生き続けているのであります。ここまでとします。 了
2024.2.3
聖書箇所:ルカ24章13~32節
( はじめに )
ルカの24章は主イエスの復活の物語ですが、私たちはこの章をくぎって丁寧に読んでいます。前回は「墓にかけつけた者たちの驚き」と題して、空の墓を見て、そしてふたりの方に「ここにはおられません。よみがえられたのです」と聞かされても、まだ理解できずにいたイエスの弟子たちの模索のところでした。
今日の箇所はこのお方こそと→イエスを信じ、過ぎ越しの祭りへとエルサレムに向かったエマオ住まいの二人の物語です。エルサレムでの出来事を見て帰る二人の歩みはどうだったのでしょうか、みことばを読み→考えながら 丁寧に読んでまいりましょう。
1. エマオへの道を歩む二人(13~16)
この方こそとイエスを信じてイエスの弟子となっていた二人が過ぎ越しの祭りを祝うためにエルサレムに行きました。 その二人がエルサレムから11キロほど離れたエマオへの村へ帰って行くところでした。
この二人は主の弟子となっていましたが、よほど熱心な弟子でした。二人ともエマオの村に住んでいたのですが、何かの形で主イエスを知るようになり、主イエスのことばに心惹かれるようになっていたようです。
過ぎ越しの祭りの時に、おそらく深い期待をもって主イエスにお会いになるためにエルサレムに行ったのです。そして、思いがけずに、イエスの死→あの十字架刑による死に出会って、驚いてしまった。
いやそれだけではなく、ほうむられた墓を見に行ったら、墓は空になっていて、主イエスはよみがえられて、いなくなられたという知らせを聞いて、すっかり心閉ざされてしまい、自分たちの村に帰って行く途中のところでした。
いまエルサレムでおこったあの十字架刑の一部始終→について熱心に話し合っていると、ある人がちかづいてきて二人といっしょに歩き始めました。しかし二人の目はさえぎられていて、イエスとはわからなかったと書かれています。
2.“よみがえり” を信じることの難しさ(17~27)
家路を急ぐ二人に、イエスは:
「歩きながら二人で話し合っているその話は、何のことですか」と尋ねた。
すると二人は暗い顔つきになってたちどまりました。そして、クレオパという方が言うのです→“エルサレムにいながら、近ごろそこで起った あの大変なことを、あなただけが知らなかったのですか?”
と言って話し始めるのです:
・ナザレのイエスが、十字架につけられた
・私達はそのお方に望みをかけていた、だが、殺されてしまった
その後に主のよみがえりの知らせをどのように聞いたかが語られます:
×喜びにあふれて、その知らせを聞いたのではないのです
・しかもこのことが起こってから、今日が3日目なのです
・ところが、私たちの仲間である数人の女が私達たちを驚かせました
・というのは、彼らが朝早く起きて墓に行きますと、イエスのからだが見つからないので、帰ってきましたが
・そのとき二人のものがあらわれて、「イエスは生きておられる」と告げたと申すのです.
皆さん、このクレオパの告げることに間違いはありませんネー!
これは その後の教会が告げた言葉そのものです:
・人々が十字架につけたイエス、そのイエスがよみがえらされて墓が空になり
・主は生きておられる、イエスは生きておられる
のことばが語られる・・・
→これはのちの教会が 繰り返し告げた喜びをもたらすメッセージそのものなのですネー
ところがクレオパは、そしてその二人は…そのキリストの死からのよみがえりを、はっきりと語りながら、主のよみがえられたとの喜びは,そこにはないのです。
24節の記事を見ながらそのわけを考えてみますしょう:
・それで、わたしたちの仲間の何人かが墓に行って見たのですが
・女たちの言った通りでイエスさまは見当たらなかったというのです
次のように言えるのでは:
・墓がからっぽであったり
・御使いたちが、イエスは生きておられると告げた、と
しかし、これだけでは
主が死んだという事実、その事実を伝えるだけでは、立って生きている人の心を動かすことにはならなかった、と.
言い換えてみると、復活の信仰は:
・人間が さまざまなちえ、手立てを尽くして、
・墓が空っぽであることを証明しても、確かめてみても
→納得させることはできないということです、ネ
25には「ああ、愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない、こころの鈍い人たち。」と言われ、
そのことのゆえに、イエスはモーセおよびすべての預言者から初めて、聖書全体の中で、ご自分についてある事がらを彼らに説明された→27 道々お話になっている間も、聖書を説明してくださってる間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか」、と、即ち、あとでやっと気が付くほどに私どもの心が燃え始めた→みことばが分かり始めたのでした。
3.パンを裂くイエス(28~32)
28 彼らは目的の村に近づいたが、イエスはまだ先へ行きそうなご様子でした。
29 そこで、彼らが「いっしょにお泊りください」と言って無理に願ったので、イエスは彼らといっしょに泊まるために中に入った。
食卓に着いた時に、イエス自身がその愛の労苦でしょう、ご自分の方からパン裂きをしたのです。
そのパンを裂くその手つきを見ていると、この二人は思い起こしたのではないでしょうか?:
・あの5千人を超える人びとにパンと魚を分け与えた時の手つきを、またその後の祈りを
・何度か主イエスと食事をしていたか
→そのときの主イエスの姿をおもいおこしたのではないかと思いますね
すると、イエスは彼らには見えなくなった:
ある説教者はこう書かれています
・主イエスのお姿は見えなくなった
・しかし、主はそこに居続けておられる、と
そしてエマオに帰ろうとしていた二人は→主にお会いしたあとで、すぐにエルサレムに引き返したとこの物語は続くのです:
・それは夜にです、夜道です、寝るのも忘れたのです
・ここに来るときは、明るい日の光の中で、その日の光を見ることもできない暗い思いで歩いた道でしたー
・その道を、彼らは、その夜道を光り輝く思いで
→エルサレムへかえって行くのです
→主イエスの弟子たちが集まる所(教会)へと急いだのです!
ハレルヤー ここまでとします。 了
2024.1.27
聖書箇所:ルカ24章1~12節
( はじめに )
ルカ23章で、朝の9時に十字架刑につけられたイエスは、十字架上の最後のことば「父よ。わが霊を御手に委ねます。」を大
声で叫んで、息を引き取られた。夕刻の3時であった。
この日は準えの日で、もう安息日が始まろうとしていた。彼ヨセフはアリマタヤというユダヤ人の町の議員の一人で、神の国を待ち望んでいた。このヨセフがピラトのところに行って、イエスのからだの下げ渡しを願った。それから、イエスを取り降ろして、亜麻布で包み、そして、まだだれをも葬ったことのない、岩に掘られた墓にイエスを納めた。
それに次ぐ今日の聖書箇所ルカの24章と言えば、それは主の復活の物語であると誰もが思います。しかし今はイースターの時ではありませんので、私はこの24章をいくつかに区切って丁寧に読んでいきたいと考えました。少しずつご一緒に読んでまいりましょう。
1. 墓にかけつけてみると(1~3)
安息日が明けた朝はやく、女たちは、準備しておいた香料をもって急ぎ、墓についたと書き始められています。
ルカは、この女性たちについて特別な思いを込めて、書いているように見て思われます:
➀ ルカ8章には1節に、イエスは神の国の福音を宣べ伝えながら、町や 村を次から次に旅をしておられましたが、主イエス
に一番近くつき従っていたのは女たちであったと書かれています
➁ その女たちがここ24章に出てきます:
・10節にその名が記されていますのはマグダラのマリアと、ヨハンナはルカ8章に出てきた女性です
・ヤコブの母マリアもそこに混じっていたかもしれません
この女性たちは主イエスにつき従って いつも主の身の回りの世話をしていて、女性でなければできない細やかな気配りをしていた人々です。そして、とうとうエルサレムへ→ゴルゴタまでついてきて、思いがけなく主の死に立ち会うようになってしまった。
そこでこの女性たちも深い衝撃を受けたに違いありません→ですから、ペテロが墓に向かって、走り出したと書かれてありますが、ペテロより先に墓に向かったのは、この女たちであったことに気づきます。
主イエスそのものを慕っていた女たちです→十字架刑で死んでしまったイエスです。そのために一刻も早く夜が明ける前に香料をもって墓に向かったことと思われます!
その墓に着いて見ると、穴をふさいでいた石がわきにころがしてありました。そこで墓に入って見ると主イエスのからだはなかった、空でした。
2.イエスの言葉を思い出す(4~10)
2.1よみがえられました(4~7)
4そのため女たちが途方に暮れていると、見よ まばゆいばかりの衣を着たふたりの人が、女たちの近くに来た。
5 恐ろしくなって、地面に顔を伏せていると、その人たちはこう言った。
「あなた方は、なぜ生きている方を死人の中で探すのですか。
6 ここにはおられません。よみがえられたのです。まだガリラヤにおられたころ、お話になったことを思い出しなさい。
7人の子は必ず罪人らの手に渡され、十字架につけられ、三日目によみがえらなければならない、と言われたでしょう。」
2.2イエスの“ことば”を思い出した女たち(8~10)
ふたりの人に「イエスさまがお話になったことを“思い出しなさい”」と言われた女たちは“おことば”を思い出したのです→イエスが言われた9章22節のおことばです:
「人の子は、必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、そして三日目によみがえらねばならないのです。」
この「思い出す」ということばは他の福音書にはない、ルカ独特のことばです→このことばが語られた9章では、このみことばが語られた前後では、まことに不思議な忘れられない出来事の連続でした。
その出来事な中で語られた主イエスのことばを 女たちは忘れるはずがありません。覚えていたに違いありません→あーそうかと思い当たるのであります、納得する…そのことばの真理をようやく真実に理解するのです。そして心に留めるのです→そのように思い当って納得したことばは、その人のいのちの糧になり、力になります、ネ…
⇒思い出すとはそういうことです、ネ
思い出した女たちは、墓から戻ってまず11弟子たちに向かって、見て来た一部始終を報告しました:
・墓が空っぽになっていたこと
・イエスがよみがえられたこと
・ふたりのものから告げられたこと
そして、イエスは生前にご自分のことについて語られたことが、とうとう起きてしまい、実現したこと…の一部始終を報告しました。
またほかの人たちにも見て来た一部始終を話し、そしてそれがイエスの生前に自分のことを語られたこと…の一部始終を誰かれに差別なく語り伝えました。
3. 驚きのペテロ(11~12)
ところが使徒たちにはたわごとと思われたので、彼らは女たちを信用しなかった、と11節には記されています。
12しかしペテロは立ち上がると走って墓に行き、かがんでのぞき込んだところ、亜麻布だけがあった。それでこの出来事に驚いて家に帰った
使徒たちや弟子たちが女たちのことばを信じなかったというのが11節の最後のことばが語るところです。
ところが、すぐに続いてルカが書き記すのは、ペテロは立って、墓へ走っていったということです。信じてもいないのになぜ立ったのか、なぜ走ったのかそのことについての説明はありません。
私もまた同様に、ペテロは立って、墓へ走っていった…その訳はわかりません
このことについて、先人加藤常昭牧師は語るのです:
・墓には重い足取りで行くところ、走って行くところではありません
・ペテロは墓に向かって走るなど、この日初めて経験したのでは?
ペテロは、この日には走ったがなぜだろう?
ペテロは女たちのことばを信じることができなかった、けれども、墓が空であったことがどうしても気になったのだ:
・そして墓に行って見て、墓が空であることを見届けた
・この出来事に驚いて家に帰った
→主のよみがえりを信じたとは書かれていない、即ち復活の信仰は別のことなのです。
やがてペテロは、よみがえられた主ご自身にお会いすることによってはじめて復活の信仰をもったのです。その主のよみがえりを死ぬまで語り続けたのです。
しかし、ペテロは墓に向かって走った→そのことは信仰は生まなかったが、主のよみがえりを証するようになったとき、ペテロは、あの墓に向かって、走った思い出を忘れることがなかったと思う、と:
・空の墓を見ながらなお信じることができなかった自分の愚かさ
・女たちのことばを信じることができなかった自分の愚かさ
このことはわすれることは忘れることはなかったに違いないと思っています、と。
私たちにとって、復活は確かに信じがたいもののように思われます。
がしかし:
・キリスト信仰の根幹は復活を信じるということです
・ 復活の信仰なくしてキリストを信じることはあり得ません
キリストのよみがえり・復活を信じるとは:
・このペテロのように立ちあがること
・立って墓に向かって走るということ ではないでしょうか
私たちにとって、主イエスがよみがえられたと知らされたとき、立って、墓に向かって走ることなしに、よみがえりの信仰は→キリストを信じる信仰は考えられません。
今日から始まったルカの24章をそのような思いをもって、願いをもって読んでまいりましょう。ここまでとします。
2024.1.20
聖書箇所:ルカ23章39~53節
( はじめに )
総督ピラトの裁判で十字架刑を宣告された主イエスは、ムチ打たれ、いばらの冠をかぶせられ あの曲がりくねった石畳の中を、自分の十字架を背負って“ドロローサの道”(悲しみの道)を歩かされました。
途中クレネ人シモンが十字架を負うことになりましたが、「どくろ」と呼ばれているところに来るとそこで彼らは、イエスと犯罪人とを十字架につけた、とルカは簡潔に書いています。
今日の聖書箇所は その主イエスの十字架上での裁きの場面です。主イエスが十字架上で語られたお“ことば”を中心に読んでまいりましょう。
1. 十字架の上で(39~46)
1. 1 十字架上で救いを与えた主 (43)
主イエスの右と左には、犯罪人が同じように十字架につけられました:
・犯罪人A「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え。」と
・犯罪人B 41「我々は、自分のしたことの報いを受けているのだから当たり前だ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」
さらにこのBは、主イエスに向かって
42「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになる時には、わたしを思い出してください。」 と主イエスを頼ったのです→これは悔い改めの言葉です。
主イエスはこの言葉を受けて、
43「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」と告げられたのです。
皆さん、ここで注目すべきことは、この主イエスの救いの約束は、これから死ぬわけですから、良い業など何一つすることが出来ない、そういう者に向かって告げられたということです:
・主イエスが自らの十字架をもって私たちに与えて下さった福音は、ただ主イエスを信じ、主イエスに頼りさえすれば・・・
→救われるということです
・Aは主イエスをののしり、Bは主イエスに頼りました。このことだけが、この二人を分けることになったのです
私は、この十字架上の死の最後に主イエスを頼ったという犯罪人は、主イエスの言葉:
34「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分では分からないのです。」
を聞いたのではないかと思うのです。そして、この方に頼ってみよう、信じてみよう、そう思ったのだと思うのです。ですから、ただただ主イエスを信頼し、頼るしかなかった→信仰によって救われるとは、そういうことなのです、ネ!
この犯罪人は、あと何時間かすれば十字架の上で死んでしまう。そういう時になって主イエスと出会い、主イエスを信頼した。そして主イエスは、それを受けとめ、救いの約束をして下さった。
このことは、私は2つのことを示していると思います:
① 私たちが悔い改めて主イエスへの信仰を持つのに、遅すぎることはないということ
② いまわの時に救われると、
・この世において主により頼み、主にある平安な生活をするという特権にあずかることはできなかった
・けれども、あのエデンの園のような神の国に入り、永遠のいのちに与ることはできる
1.2 父よ。わが霊を御手にゆだねます(46)
46イエスは大声で叫んで、言われた。「父よ。わが霊を御手に委ねます。」こう言って、息を引き取られた。
主イエスは、十字架の上で息を引き取られる時にこう叫ばれたのです。「わが霊を御手にゆだねます。」何というおことばでしょうか!主イエスは何も悪いことをしていないのです。十字架につけられて殺されなければならないようなことは、何もしていないのです。
それにもかかわらず、彼らに対し主イエスの口からは、恨み言一つ出て来ない:
・自分を十字架につけた祭司長、律法学者たち、
・更に自分を十字架刑に決定した総督ピラト
・自分を十字架につけよと叫んだ群衆
・自分が十字架につけられたのを見て「神からのメシアなら、自分を救っ
てみろ。十字架から降りてみろ。」とあざ笑った者たち
・自分を見捨てて逃げてしまった弟子たち
Q 主イエスはこの十字架の上で、その誰に対しても恨み言一つ言われなかったのです。こんな人がいるでしょうか…
A 主イエスは、この十字架の死が、神の御心から出たものであることを受け取っておりましたー
そして、朝9時~午後3時の実に6時間に及ぶ死の苦しみの中においても:
・主イエスの神への信頼は少しも揺るがなかったのです
・父なる神と子なる神イエスとの永遠の愛の交わりは、この十字架の苦しみをもってしても、破られることはなかったのです
ここに一切の罪の力は敗れます。父なる神と御子の間の愛と信頼を破壊しようとした、一切のサタンの業は退けられたのです
→“ここに神の愛が勝利したのです”ハレルヤー
2.本当に正しい人(44~47)
44 そのときすでに十二時ごろになっていたが、全地が暗くなって、三時まで続いた。
45 太陽が光を失っていた。また、神殿の幕は真っ二つに裂けた。
主イエスが十字架におかかりになった時、「神殿の垂れ幕が真ん中から裂 けた。」と聖書は記します。この神殿の幕とは、エルサレム神殿の中にあった、年に一度大祭司だけが入れる至聖所と聖所を仕切るために設けられていた幕のことです。
この幕は、人間と神との間にある、決して超えることの出来ない、罪という隔ての垣根を意味していました。
この神と人との間にある仕切りの幕、隔ての中垣が真っ二つに裂けたということは、この主イエスの十字架の出来事によって、私たちと神との間の罪という仕切りが裂かれたことを意味します…
→そして、神と私たちとの交わりが、仕切りなしになされるようになったのであります:
・私たちが神に向かって、親しく「アバ、父よ」と呼べるようになった
・そして神も、私たちを「我が子よ」と呼んで下さるようになった
ということであります。
47 この出来事を見た百人隊長は、神をほめたたえ、「ほんとうに、この人は正しい方であった」と言った。
48 また、この光景を見に集まっていた群衆もみな、こういういろいろの出来事を見たので、胸をたたいて悲しみながら帰った。
この主イエスの十字架を最初から最後まで見ている者がいました→百人隊長です:
・彼はローマ人であり、ユダヤ人ではありません
・彼はまことの神を知らず、メシアも知りませんでした
しかし彼は職務上、今まで何人もの十字架にかけられて死ぬ犯罪人を見てきていたことでしょう。この日も、彼は職務上、主イエスが十字架を担いで総督ピラトの所からカルバリの丘まで来て、十字架にかけられ息を引き取るまで、彼はじっと主イエスの姿を見続けていました。
そして、主イエスが十字架の上で息を引き取った時に彼の口から出たのは、「本当に、この人は正しい人だった。」という言葉だったのです。主イエスの十字架での死を始めから最後まで見続けた彼の驚きは:
・これ程に神を信頼し、神と深く結び合わされている人がいるのかー
・これ程までに人を恨み、憎んだりする悪い心から自由にされている人がいるのか―→と、驚いたに違いないのです
この十字架に、十字架にかかられた主イエスというお方を見て、実にこの主イエスというお方の存在に気付いたのではないでしょうか。彼は驚き、神を知らぬはずの彼の口から、神への賛美が生まれたのです…
3. 墓に納められたイエス(47~53)
50 …ここに、ヨセフという、議員のひとりで、りっぱな、正しい人がいた。
51 この人は議員たちの計画や行動には同意しなかった。彼は、アリマタヤというユダヤ人の町の人で、神の国を待ち望んでいた。
52この人が、ピラトのところに行って、イエスのからだの下げ渡しを願った。
53 それから、イエスを取り降ろして、亜麻布で包み、そして、まだだれをも葬ったことのない、岩に掘られた墓にイエスを納めた。
主イエスは、十字架の上で息を引き取られました。午後3時のことです。この日は金曜日でしたから、当時のユダヤの一日の数え方では、日没から、安息日である土曜日に入ります→もう仕事をしてもいいという時間がありません。
しかしこの時、アリマタヤ出身のヨセフという人が登場します。彼は議員の一人でした。このアリマタヤのヨセフという人は、ヨハネによる福音書によりますと、公にはしていなかったけれど主イエスの弟子の一人であったということであります。
彼は議員でしたが議会では裁きに際し反対らしい反対も出来ずに→主イエスの十字架にまで来てしまっていました→皆さん、あのペテロはじめ弟子たちでさえ逃げて隠れてしまっていたのです。そして、神はそのようなアリマタヤのヨセフにも、なすべきことを与え、御業のために用いられました。
彼アリマタヤのヨセフは総督ピラトの所に行きます:
・そして主イエスの遺体を引き取らせてくれるよう願い出るのです
・さらに、主イエスの遺体を自分のために用意していた墓に葬ったのです
総督ピラトに、十字架で処刑された者の引き取りを願い出る。これは普通に考えて、最高法院の議員であるという立場でなかったら出来なかっただろうと思います:
・彼はこの申し出によって、今まで隠していた「主イエスの弟子である」ということを公にしたのです。彼は主イエスの十字架を見て、自分が主イエスの弟子であるということを、もう隠しておくことが出来なかったのでしょう
・この方のために出来ることは何でもしたい。そう思ったのだと思います→そして、自分のための墓を主イエスのために献げたのです
主イエスが死んでしまった後で、もう彼に出来ることはこれだけでした。
しかし皆さん、このアリマタヤのヨセフのように、私たちはしばしば後になって気が付くのではないでしょうか。
どうでしょうか皆さん。主イエスに対しては、もう手遅れだ、もう遅い、そんなことはないのですネー
→このアリマタヤのヨセフの「主イエスに対する信仰」が公にされる
→墓という主イエスへの献げ物がささげられる
それは全て主イエスが死んだ後でした。しかし、それは少しも手遅れではなかったのです。神と主イエスは、このアリマタヤのヨセフの信仰を受け取り、献げ物を受け取り、これを用いて、主イエスの栄光の復活の場として下さったのです。
主イエスへの信仰、主イエスへの献げ物に、遅すぎるということはないということですネー アーメン ハレルヤー!!
2023.12.23
主 題:「 二人の高齢者の幸い 」
書箇所:ルカ2・21~38
(はじめに)
コロナが去った今年のクリスマス、皆んなでこのようにして教会でクリスマスをお祝いできる幸いを大いに喜びし、感謝したいと思います。
「自分のいのちの死」…これは高齢者だけではなく古今東西→これはどこであっても人間共通の一大関心事でありましょう。
ここに、全くその“誰にも知られていない幼子イエス”、に出会った“二人の高齢者の幸い”のことが今日読んで頂いた福音書に記されています…シメオンとアンナという高齢の男・女の二人の喜びの物語です。
皆さん、その高齢者が“主イエスにお出合いすること”=“救い主に巡り合うことができた幸い:
・祈っていた救い主にお会いすることができた喜びにあずかり
・永遠のいのちを与えてくださる
という恵みの約束のゆえに、“もう死んでもかまわない”とまで言わせるのであります。ここには、その信仰の故の幸いのことが書き残されていますので、クリスマスの今日、主イエスのご降誕の今日、ここを選ばせていただきました。
1. 幼な児イエスと二人の高齢者
23「母の胎を開く男子の初子は、すべて、主に聖別された者、と呼ばれなければならない」…とあります
「主に聖別された者」とは;
・長男…「これは神のものだ」と言う意味です
・そこで、長男を与えられた両親は神殿で神に詣で、幼子を主に捧げます
・さらに、神がその長男を与えてくださったことを感謝し、そして神様から「頂き直した子供」として、連れて帰ります
幼児イエスも、両親に連れられて、神に捧げられるための“宮参り”でありました→日本でも、子供が生まれると「宮参り」という習慣があり、また長男が家の跡取りをすると言う制度・しきたり…がありますが、このような思想から出たものではないでしょうか。
当時のエルサレムの神殿にも、そのような子供連れが沢山来ていたと思われます。その中に、貧しい大工のヨセフと、おそらく粗末な身なりであったと思われるマリヤもそこに来ていました。そこに、「生まれたばかりの赤ちゃんの“主イエス”がおられた…」としても、周りの人々は何とも思わなかったことと思います;
・赤ちゃんが光り輝いていたわけではありません…むしろ、
・みすぼらしい、誠に庶民的な若い夫婦とその子供でしかありません
・その場にいた人々、すれ違う人々が、誰もがその幼な子が、後に
世界を救う「救い主」になる…などとは気が付いていません。
ところが、その「幼な子の正体を見抜いた人」がいたのです。それは年老いた二人の高齢者でした。
「シメオン」であり、「アンナ」でありました:
・シメオンの年齢は分りません。しかし、シメオンは主イエスにお会いしたら→「安らかに去らせてくださいます」、と→で
すから、相当の高齢者であったと思います
・アンナの方は84歳と書かれています。この時代84歳とは相当な年齢と考えられます
いわば、二人とももう死が近い、高齢者達でありました。その高齢の二人が、幼な子の主イエスにお会いして;
・その幼子がどのようなお方であるか…を見抜くことができたのですネー
・その主イエスが…生まれたことを心から喜び、お祝いすることが出来た
・そして“安らかに去らせてくださいます”とまで言わせるのです
お二人にとってはまさに人生の充実感を味わった;
・ああ、わしは耐えて、祈ってここまできたけど…よかった!
・ああ、わたしの人生は満たされました、幸せよ!
→至福の時だったのではないでしょうか…
2. 二人の高齢者の信仰生活
シメオンもアンナも年をとっていました。もうシメオンも仕事をしていなかったようです。二人とも「生きがい」を失っていたのでしょうか? そうではないと思います…ならば二人にとって、「生きがいとは何であった」のでしょうか?
・近づいている自分の死を忘れようと
・誤魔化した生き方をしていたのではありません
シメオンは幼子イエスを抱いて、
29節「主よ、今こそあなたは、あなたのしもべを、みことばどおり、安らかに去らせてくださいます」
と言っているのです。すなわち、
・ 神様、もう死んでも良いのです ・神様、もう死なせて下さい
・ 私の人生は満ち足りています→私はもう満足です、もう充分です
そう言ったのであります!
シメオンは、幼子イエスを抱いた時に、自分の人生がもう充分に充実していたこと…を感じていたに違いありません…
自分の死を見つめながら、自分の長い人生の経験をへて、いま自分の死を目前にしながら“救われる”と言うことは、どおいうことか!→“救いのめぐみ”を 実体験することができたのです:
30~32節;
「私の目があなたの御救いを見たからです。
御救いはあなたが 万民の前に備えらえたもので、
異邦人を照らす掲示の光、御民イスラエルの光栄です。」
シメオンは神を待ち望んでいました。26節「お前は救い主に会う、それまでは死なない」、と告げられていたのでした。神の約束に支えられて生きていました。しかし、その約束は;
・自分の救いだけのものではなく
・神の選民ユダヤ人の救いのため、さらにその上に
・「異邦人を照らす啓示の光」を見たい…全世界が救われなければならない、全世界の人々が救われなければならない→と言う約束であったのです
年老いるまで様々な人生を積み重ねてきた、それだけに世の悲しみを深く知っていた。それだけになお深く神の救いを、ひたすらに待ち望む、祈りの生活をしてきたのでありましょう;
→だから、誰も気が付かなかった、赤子の主イエスを抱いた時に…ここに神の救いが実現したことに、直ぐに気がついたのでありましょう、ね…
→私たちもこのことをシッカリと心に留めておきたいものです
これはアンナの場合も同じでした。アンナの一生については詳しくは書かれていません;
36~37節「処女の時代のあと七年間夫と共に住み、その後やもめになり、84歳になっていた…」
と書いてあります。
若いとき嫁いで、とありますから10歳代であったことでしょう、夫と共に暮らしたのは僅か7年間;
・20歳そこそこで夫に死なれ…
・その後84歳になるまで
従って約60年もの長い間、独り身の生活をしていました。皆さん想像して考えてみてください→その苦労はいかばかりであったか…
しかし、彼女は宮を離れませんでした。そのような祈りの生活を続けていたのです、ねー
37節「夜も昼も、断食と祈りをもって神に仕えていた」とあります
アンナにとって、「自分の不幸は忘れることのできないものであった」ことでしょう。
しかし、アンナは;
・「どうして私だけが…」と不幸を嘆き続けていたのではなく
・自分の悲しみは深く味わいながら、しかし神に仕え祈っていたのです
悲しみの人であったからこそ、神に仕えた…とも言えましょう。しかも、預言者でありました。つまり;
・自分だけのことではない
・自分を含めたこの世の悲しみを、この世の苦しみを
・神様はどのようにして救ってくださるか
…ということを、一生懸命に問い続け、御心を尋ね続け祈っていた のであったことでしょう。
外見は“静”であったかも知れません、いや“変人”と思われていたかもしれません…しかし、実際は:
・誠に激しい生活を生き抜いていたと思います
・その祈りは激しいものであっことでしょう…
その激しい信仰生活の故に、その信仰生活の末に…彼女は幼子イエスを見ることが、いや「見分けること」ができたのです
38「そして、エルサレムの贖いを待ち望んでいるすべての人々に、この幼子のことを語った。」
その大きな喜びの故にエルサレム中に、救い主の出現をお知らせすることができたのです。何と言う「充実した人生」ではないでしょうか!
3. 主イエスに出会った人の幸せ
現在の日本には高齢化社会を迎えて、いろいろな形の問題、課題があります;
・ 本当の生き方を見つけていないままに、高齢者となってしまった
→真の神のことを知らない、受け入れていない人
→死んだら終い、と思っている人…つまり→死を恐れている人
・ 周りの人々が高齢者をしっかりと生かしてあげていない
→別な言い方で、安らかに死なせてあげる世界が作られていない
・キリスト教:
・死んだらしまいではないよ
・永遠のいのちをいただき、神の国にてなんの思い煩いなく生き続ける世界がある
が知らされていない→弾圧され、禁じられてきた
“お金でものの軽重をはかろうとする社会”では、高齢者や、弱者と言われる人々、貧しいい人たちは、もう生きている価値が無いのであります、ね。
ある高齢者が言いました;
「わたしたちが生きていると
・沢山のもの、色々な物を食べ ・着物を着 ・そしてゴミを出す→老人が生きることは、長く生きるだけこの社会に迷惑が
かかる。ああ、どうしたら良いのだろう…と。」
皆さん 何とも、せつない、悲しい思い…ではありませんか!
では、聖書で神様は→高齢者をどう言っているのでしょうか
(イザヤ書43:4)
「わたしの目にあなたは価高く、尊くわたしはあなたを愛しています」、と。即ち、主はあなたを大事にし(価高く)、主の民として尊い立場を奪わずに…わたしはそのようなあなたを愛しているのですよ、と
そして、(イザヤ書46:3~4);
「あなたは胎内にいたときから担われ、
生まれる前からあなたに委ねられてきました。
同じように、
わたしはあなたたちは年をとっても 白髪になっても、背負うよ。
わたしはあなたたちを造った。わたしが背負い、救い出すよ。」
→皆さん 神様はこのように言ってくださったいますネー
日本社会の現実はこれとは、あまりにもかけ離れています、ネ…高齢者になる前に、自分で、自らの命を絶つ人がなんと毎年3万人もいるのです。生きることがつらい、苦しい社会となっているのです。
しかし、このシメオンや、アンナの時代に、すでに主イエスが救い主として、この世に現れてくださいました。そして、十字架における死をもって、わたしたち全ての人の、全ての罪の身代わりとなって下さいました。そして、私たち一人ひとりに呼びかけて下さっているのです;
「疲れた者、重荷を負う者はだれでもわたしのもとに来なさい。
休ませてあげよう。
わたしは柔和で謙遜な者だから、
わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。
そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。
わたしの軛は負いやすく、わたしに荷は軽いからである。」
(マタイ11:28~30節)
そして、私たちはきょうの聖書箇所を通してシメオンとアンナという高齢の二人の幸いを学ばせていただきました;
その二人が“主イエスにお出合いする”ことによる幸い→私たちに罪の赦しを与え;
→神のいのちに生きる喜び、いのちに生きる平安を楽しむことができ
→永遠のいのちを与えてくださる
…この恵みの約束のゆえに“もう死んでもかまわない”とまで言わせるのであります
最後になりました、
メリー・クリスマスのこの日ここに集われた皆さん、とりわけご高齢の皆さん、今日は私たちの救い主のお誕生日と見分ける目と耳をもって受け取り信じ、幸いな生涯を歩まれますようにと、主イエスキリストのみ名によってお祈りします! アーメン
了
2023.12.16
聖書箇所:ルカ23章26~38節
1.ドロローサの道をたどるイエス(26~31)
判決を受けた主イエスは 十字架への歩みを始められました。総督ピラトの元からエルサレム郊外の処刑場→ギリシャ語で“ゴルゴタの丘”、ラテン語で“カルバリの丘”、日本語で“どくろ”と呼ばれる所への歩みです。
この石畳の曲がりくねった坂の道、あの大きな十字架を背負ってこの石畳の坂の道を主イエスは、歩み出さなければならなかったのです。
私はイスラエル旅行に行ってその道を歩いてきましたが、上り下りする石畳の道、曲がりくねった道を歩む姿を想像するだけで、なんという苦難の道…悲しみの道か、と思わされました→事実、いばらの冠をかぶらされ、自分の十字架を背負って歩む“悲しみの道”(ヴィア・ドロローサ)でした。
そして、曲がり角のところどころに、上の写真のようにその十字架に倒れうずくまり苦しむ主イエスの姿が刻まれています。
みなさん、
これが私たちすべての人から十字架につけろと叫びののしられ、ムチ打たれ、棘の冠りをかぶせられ、嘲笑され、息も絶え絶え、自分がつけられるその十字架を背負って、あの石畳の上り下りする階段にあえぎながら、いざりながら背負って歩むイエスの姿なのですよー
2.クレネ人シモンの働き(26)
26 彼らは、イエスを引いて行く途中、いなかから出て来たシモンというクレネ人をつかまえ、この人に十字架を負わせてイエスの後ろから運ばせた。
主イエスが担い切れなかった十字架はキレネ人シモンに背負わされました→ここには、““主イエスの弟子である者の姿”が指し示されていると思わされます、ネ。しかし→実際は、この時主イエスの弟子たちは皆逃げてしまっていました。
主イエスは言われていました:
「自分の十字架を負って私について来ない者は、わたしの弟子になることはできません。」(ルカ14・27)
この主イエスのおことば通りに、主イエスが十字架への歩みをされた時に十字架を背負って歩んだのが、このキレネ人シモン
だったのです。隠れていた主イエスの弟子たちはここに自分たちの本来あるべき姿を見ていたのではないか…と思いますネ。
ここには、主イエスの弟子となるということがどういうことなのか、主イエスの弟子として生きるとはどういうことなのかが示されているのでしょう。自分から進んで、喜んでするのではなくても:
・主イエスの十字架を背負う
・自分の十字架として背負う
→ここにキリスト者としての道があるということを示していると思います。
ところで皆さん、自分の十字架とは?:
× 日本語でも使われるような、自分の苦しさ、困難、逃れることの出来ないしんどさ、それらを指しているのではありません
〇 自分の十字架とは、主イエスが背負う十字架を→自分の十字架として背負うということです
→主イエスと関わりない所で自分がつらく苦しくても、それが自分の十字架というわけではありませんョ
そこで私は、先人たちが尋ね求めた言葉を参考にして、語りたいと思います。
「自分の十字架」を背負って生きること:
私たちが神のために、主イエスのために、また隣り人のために、
・労苦をいとわず
・一銭にもならないことのために、喜んでささげている姿(生き方)
と言えるでしょう
それこそがこの世が本当に求めている塩→世の塩と言えるでしょう。この世の塩こそ、実に主イエスの愛であり、福音であり、自分の十字架を背負って生きる者の姿といえると思いますネ
3.十字架に着けられた主イエス(32~38)
3.1 主イエスは十字架につけられた(32~38)
33 「どくろ」と呼ばれている所に来ると、そこで彼らは、イエスと犯罪人とを十字架につけた。犯罪人のひとりは右に、ひとりは左に。「そこで彼らは、イエス…を十字架につけた。」→当時の人々にとって「十字架につけられた」ということは処刑されたということです:
・重罪人として殺され、この世から取り去らされることです
・パウロは、イエスは呪われて死んだ、と書きました
ルカは、
① イエスの十字架を巡って、人々が何よりも彼をあざ笑った、と:
39節では十字架にかけられた犯罪人の一人が→イエスをあざ笑った
そこにいたすべての人が→イエスをあざわらった。すべての人がイエスをあざ笑った→このように誰からも尊重されずにイエスは死んだ、と
② 彼ら(民衆や、指導者たち)はこうあざけります
あなたはキリストだ、と:
→それなのに、自分を救うことができないのか、と
→他人を救うという救い主が、自分を救うことができないのか?
→自分が殺されようとしているのに、自分を救えないような救い主
が真の救い主として通用するのか?と
③ ローマの兵隊が言います
あなたはユダヤ人の王だ:
・あなたがユダヤ人の王なら自分を救うがよい
・兵士にとって、自分を救えない、そのまま死んでしまう王など王の名
に値しない、と
彼らからは⇒このように、イエスの死は軽んじられました…しかし、私たちクリスチャンはこう考えます:
×キリストであるにも拘わらず→十字架につけられた
〇キリストであるからこそ→十字架につけられ、殺されたのだ、と
35「…もし、神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ってみろ。」に対し→イザヤ書42・1
「見よ、わたしのささえるわたしのしもべ。
わたしの心の喜ぶわたしが選んだ者。・・・」
神はそのような王を自由に選ぶ。選びは神の自由です:
・私たちが自分で決めるのではない
・人間が誰かを王に祭り上げるのではない
・神が選んで与えてくださる
→イエスは、神に選ばれた者です。そして、今十字架にかけられているのです!
3.2 父よ彼らをおゆるし下さい(34)
34 そのとき、イエスはこう言われた。
「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」
この「赦す・ゆるす」のことばは「解き放す」ことです:
・私たちを重荷から解き放すのです。私たちにからみつく罪からの解放が起こるのです→自由が与えられるのです
・重荷からの自由?→主イエスを十字架につけてしまう重荷からの自由です
主は、私たちが…十字架につけ処刑する→という大罪を指し示しながら、その“からみつく罪からの解放”を祈っていてくださることは明らかです。
皆さん、
私たちはこう言われて歩んできたのではないでしょうか?:
「人生は重荷を負って歩むがごとし!」
Q 何の重荷でしょうか?
A 私たちにからみつく罪です→罪の思いです=人を押しのけてもしようとする思い→欲望:すなわち
・金銭欲 や名誉欲
・地位や立場への欲
・目立ちたがる欲
・・・人は欲望という電車に乗って 突き進んでいる、とも。これらにもとずく自分中心の思いから
→人を批判する、裁く、悪口を言う→喧嘩する、ののしる、のろう
→神の思いと反対のことをしてしまう思い…私たちにからみつく罪です
最後です皆さん
何の罪もない主イエスが、裁かれ、鞭うたれ、いばらの冠をかぶせられ、
・あの重い自分の十字架を背負って
・あの石段の曲がりくねった道をたどり行き
・あの十字架にかけられたその姿をみていたときに
「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」のことばを聞きました、 私たちは心打たれました。
・「神のキリストなら、自分を救ってみろ」などとは決して言いませんと心に決めました。主の身代わりのご愛に感謝します。ここまでとします。 了
2023.12.9
聖書箇所:ルカ23章1~25節
( はじめに )
その祈りのあと:
・イエスはまだ眠っていた弟子たちに話をしているとき、ユダが先頭に立つ群衆に捕らえられ、大祭司の家に連れて行かれてしまいました
・弟子たちは、恐れてみな逃げてしまいました。その中で ペテロが遠く離れて、ついてゆき→大祭司の門をくぐり、様子をうかがうつもりでしたが、「あなたも、イエスの仲間だ!」と疑いをかけられます
・その女中など三度の疑いに対しその都度「イエスを知らないと「呪いながら」否定しました」
→イエスの言われていた「ペテロ。あなたに言いますが、今日鶏がなく前に、あなたは三度、わたしを知らないと言います」を思い返しペテロは泣きました
その大祭司の家での夜が明けると、イエスの宣教の働きにねたみを持つ民の長老たち、祭司長、律法学者たちは、イエスを殺
すために イエスの口からその証言を得ようと議会(サンヘドリン)に連れて行きました。
そして彼らは「あなたは神の子ですか」と尋問のすえ→ついに「あなたがたの言うとおり、わたしはそれです」のイエスの証言を得たのです。
ここまでが22章のゲッセマネの祈りのあとのことでした→今日の聖書箇所は、そこから始めます。
1. ピラトへの訴え(1~7)
イエスをねたむ彼ら(民の長老たち、祭司長、律法学者たち)は議会(サンヘドリン)に連れて行き、イエスの証言を得たので喜び勇んでピラトのもとへとイエスを連れて行ったのです
Qでは、“彼らのねたみ”とはどんなことでしょうか?
Aイエスさまが公生涯の福音宣教の旅…その中でのねたみ2選:
① 主イエスは…弟子たちが勝手知ったガリラヤ湖で、その暗闇の中で死にもの狂いの状況で苦しんでいる様子を知り、湖上を歩いて近寄り救い出し、言ったのがこのみことばなのです;
「わたしだ!」(エゴー、エイミ!)“わたしはあってあるものである”→“まことの神宣言”でありました.
律法学者たちには、決して受け入れられる言葉ではありませんでした!
彼らはみなで言った。「ではあなたは神の子ですか。」すると、イエスは彼らに「あなたがたの言うとおり、わたしはそれです」と言われた。
これを聞いた祭司長、律法学者たちは,ねたみに火がついたのです“どのようにしてイエスを殺そうか”と相談し、訴えたのです。
その時代、祭司長、律法学者たちは 自分たちで人を殺す裁きはすることが許されていませんでした→当時のローマ政府のみが、人を殺す裁きをすることができたのです。しかも彼らはユダヤ人が最も恥ずべき十字架による死刑を求めようとしたのです。
しかし皆さん、様子をうかがうつもりで大祭司の門をくぐって行った“主イエスの一番弟子を自任する”ペテロが「あなたも、イエスの仲間だ!」と疑いをかけられましたですねー
その三度の疑いに対しその都度「イエスを知らないと『呪いながら』否定した」と記されています(マタイ、マルコ):
・呪いながらですから…神の名をもって裁くということです
・神の名をもってペトロもまたサンヘドリンと同じように主イエスに死の判決をしたのです
この様に、イエスを裁いたのは、サンヘドリン(議会)だけではない、民衆だけではない、イエスの弟子たちでもあったのです
けれども、4節のように いろいろと尋問したピラトは「この人には何の罪も見つからない」と分かり、ヘロデのところに送りました。
2. ヘロデから尋問される(8~12)
2.1 私たち人間の罪
ピラトに次いで、ヘロデの尋問に対して、今こそイエスはことばを見つけ語らなければならない→その肝心なところで主イエスは黙っておられる…なぜイエスは黙っておられるのか…?
このイエスが沈黙しておられた場面は、とてもうるさく皆が騒ぎたたえているところです:
・22・70彼等は皆で言った…
・23・1そこで、彼らは全員が立ち上がり…
この皆とは群衆のことです。私たちもまたその群衆の一人ひとりです、ネ ヘロデは、11自分の兵士たちといっしょにイエスを侮辱したりしたあげく、はでな衣を着せて、ピラトに送り返した。
けれども皆さん、私たち現代に生きる人びとも→ヘロデと似たことをしているところがないでしょうか?
つまり私たち現代の人間は、自分の力に頼って、神あるいは永遠なる方のまえに謙遜になることを忘れている→不幸になってしまっている→現代の人間が招いている不幸は、自分の力・権力だけに頼っている。
そして、神との関わりを忘れていると言えるのではないでしょうか!
2.2 神の沈黙の愛
(イザヤ53章)苦難のしもべ→の7節です:
7 彼は痛めつけられた。
彼は苦しんだが、口を開かない。
ほふり場に引かれていく羊のように、
毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、
彼は口を開かない。
ここに示される、この黙ったまま裁かれる人こそ真実神のしもべであって、神に徹底的に仕え、従ったものであったと証言しています。そのしもべは:
・他者のために裁かれている
・他者のために苦しんでいる
・他者のために死んでゆく→そのように言ってます…
沈黙すべきは、ほんとうは裁くほうの人々です。裁かれているこの人には本当にいくらでも言い分はあった。それを黙っているのです。
3.十字架刑の判決を受ける(13~25)
ヘロデからもう一度送り届けられたピラトの裁判です。ピラトはここで、主イエスは死刑に当たるようなことは何もしていない
と明言しています。しかも、彼らは三度繰り返しています:
4ピラト「この人には何の罪も見つからない」
15 ヘロデ「この人は、死罪に当たることは、何一つしていません。
22ピラト「あの人には、死に当たる罪は、何も見つかりません。」
ピラトは言った:
『あなたがたが訴えているような罪は別に何も見つかりません。
・・・だから私は、
懲らしめたうえで、釈放します』
三というのは完全数ですから、ここでピラトは、断固として、否定しようがないあり方で、完全に宣言したということです。
けれども、ピラトはそこに立ち続けることが出来ませんでした:
・群衆は、主イエスを十字架につけろと叫び続けたからです
・その叫びはどんどん大きくなります
・このまま放っておけば暴動になるかもしれない
ピラトが恐れたのは何よりも暴動でした。ローマの総督としてユダヤに赴任しているピラトにとって、暴動こそ一番恐れていたことでした。
そんなことが起これば、統治者としての自分の能力を疑われ、自分の将来がどうなるか分かりません→彼は自分を守るために、主イエスを十字架につける決定を下してしまったのです、あーなんということを…!
しかし皆さん
このピラトに対して、私たちは偉そうに、何と弱い奴だと言うことは出来でしょうか?:
・正しいことはこうすることだと分かっていながら、ついその決定をした後での…周りの反発を恐れて事を曲げてしまう
・そういう弱さが私たちにもあるのではないでしょうか
4.十字架につけた人は誰れ?
さあ皆さん、これまでの主イエスとのかかわりから見て、主イエスを十字架刑につけたのはだれでしたでしょうか?
つぎの3者が考えられます:
・ねたみに狂うユダヤの指導者
・扇動された民衆
・暴動を恐れたピラト
ここには3者3様の言い分と理由があると思います:
1)ユダヤの指導者
イエスは「わたしだ!」(エゴー、エイミ!)“わたしはあってあるものである”と言われました→“まことの神宣言”でありました→律法学者達には、決して受け入れられる言葉ではありませんでした!
2)扇動された人々
民衆は主イエスを「十字架につけろ」と叫びました。多分、ユダヤの指導者に扇動されたのでしょう。時は過越の祭りです。民族的高揚が最高に達していた時です。この時の人々の叫びには、熱狂した民衆の恐ろしさを覚えますネ
私たちは、政治家とか、或いは会社、所属団体などのリーダーたちの指導、または扇動にはつい「太いものには巻かれろ!」や、周りの人たちの行動になびく習性がありますね→戦争はその典型です
3)暴動を恐れたピラト
ピラトは『いったい、どんな悪事を働いたと言うのか。この男には死刑に当たる犯罪は何も見つからなかった。』と2度言った→しかし、自分の立場を守るために民衆の叫びの前に自分の判断を曲げてしまった
しかし皆さん、
正しいことはこうすることだと分かっていながら、ついその決定をした後での…周りの反発を恐れて事を曲げてしまう、そういう弱さが私たちにもあるのではないでしょうか→何かを決定しなければならない立場に立った者なら、これは誰でも身に覚えがあることではないでしょうか
ねたみに狂うユダヤの指導者、扇動された民衆、暴動を恐れるピラト、それらが組み合わされ、主イエスは十字架にかけられることになりました。三者三様の動機があったにせよ、人間の奥底にあるドロドロした罪がここで表にあらわれたのです→そして、それによって主イエスは十字架につけられたと言えます.
最後ですが、皆さん
私たちはここで、主イエスを十字架につけるために働いた人々だけを責めることは出来るでしょうか・・・?
ここには、私たちの罪と私たちの弱さが示されていると言えるのではないでしょうか→主イエスの十字架刑へと追いやった中に、私は、私たちは入っていると:
・「十字架につけろ」と叫んだ人々の中に、わたしも入っていました
・自分の立場や常識を守るために、主イエスを殺そうとしたユダヤの指導者たち→自分にもそのようなところあるナー
・自分を守るために、民衆の叫び声の前に自分の判断を曲げたピラトと→自分にもそのようなところあるナー
その私の前に、何も語らずに、黙って十字架への道を歩まれる主イエスがおられる。この主イエスを十字架刑へと追いやった人々の中に自分を見出し、その私の前に十字架への歩みをなされている主イエスが居られることを発見したとき、私たちはこの方の前にひざまずかざるを得ません!
そして、主よ憐れんで下さい、私の罪を、私の弱さを、私の愚かさを赦して下さい、そう祈らざるを得ないのです。
そして、二度とそのような歩みをしないように、主よ私をきよめて下さい、強めて下さい、助けてください、とそう祈る者であります。ここまでとします
2023.12.2
聖書箇所:ルカ22章39~46節
( はじめに )
私の前回礼拝説教は「最後の晩餐」で、今に残る聖餐式をやって、見せてくださいました。
今日の聖書箇所では ユダの導きで捕らえられるその最後の時にも、ゲッセマネでの「主への祈り」を弟子たちにやって見せてくれます。「主への祈り」こそ信仰の基であることを示そうとされたイエス最後のさいごの愛のわざでありました。
この「ゲッセマネでの主への祈り」から、私たちが礼拝ごとに祈る「主の祈り」ができています。このように私たちにとっても とても
大切な聖書箇所です。
主イエスは十字架前の最後の最後の時に、信仰が無くならないように「主イエスの祈りの姿」を見せるために…弟子たちを連れ
て行きました→私たちもご一緒にその祈りの場に行って見ましょう。
1. 誘惑に陥らない祈り(39~40)
39 それからイエスは出て、いつものようにオリーブ山に行かれ、弟子たちも従った。
エルサレム入城以来毎日宮で教えられていたイエスは、毎夜このオリーブ山のいつもの場所に行き、切に祈っておられた(ルカ21・37)。
その主イエスは、信仰を保つための「主への祈り」を弟子達に→“やって、見せるために”、オリーブ山のいつもの場所 ゲツセマネへと、弟子たちを連れて行き、彼らに最後の「主への祈り」を、「その祈りの姿を見せる場」を持ったのです。そして、主イエスはこの時、弟子達にこう言われたのです:
このおことばこそ、これから迎える厳しい状況の中で、弟子たちが信仰の備えをするために、どうしても必要なこととして、主イエスが教えて下さったことなのです。「誘惑に陥らないように祈っていなさい。」と主イエスは…様々な誘惑に陥りやすい私たちにも今日語ってくださいます:
・厳しい状況になればなる程、本当はいよいよ祈らなければならないはずなのに、祈らなくなる。いや、祈れなくなる
・「祈ったところで何になる。この状況は少しも変わらないではないか。祈ってもしょうがない。」
→そんな誘惑が私たちを襲うのです
そこに連れてゆかれた弟子たちは、主イエスが祈っている間に眠り込んでしまいました。すると、主イエスは再び:
46「なぜ、眠っているのか。起きて、誘惑に陥らぬように祈っていなさい。」
と弟子達に告げられたのです。ここでは「起きて、誘惑に陥らぬよう…」、と言われたのです。
この「起きて」の原文の意味は「立ち上がる」という意味です:
・当時の人はしばしば立って祈った、と言われます
・祈りとは、そのように誘惑に引きずり込まれないように、しっかりと足を踏ん張って立って、神に向かって願いを述べ、神
の栄光をほめたたえるのです
・私達もこのゲッセマネの祈りから、弟子たちによって受け継がれ、つくられた「主の祈り」を祈る時は立って祈ります、ネ
主イエスの弟子たちは:
・この主イエスの十字架を前にしての祈りの姿を
・そして主イエスによって告げられた“おことば”を生涯忘れませんでした
彼らはこの「祈っていなさい」という、主イエスの教えに生きる者とされたのです。
そして、この教えがどんなに力あるものであるかを、その後の厳しい伝道の生涯の中で思い知らされていったに違いないのです。そしてこの主イエスのおことば、弟子達から更にその次の世代へと伝えられ、キリストの教会が保持する大切な教えとなっていったのです。
使徒パウロは、Ⅰテサロニケの信徒への手紙で:(5章16~18節)
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことに感謝しなさい。」
と教え伝えています…
この様に、主イエスの「誘惑に陥らないように祈っていなさい。」のおことばが パウロの言葉として受け継がれ、伝えられ、キリストの教会に生きる代々の聖徒達を生かし、導いてきたのですネ。
2. 主イエスの祈りの姿(41~43)
この時の主イエスの祈りの姿は“ひざまずいての祈り”でした。当時、祈る時の姿は両手を天に上げ、立ったままの祈りと言われています。私は、弟子たちはこの主イエスの“ひざまずいての祈り”の姿を見て驚いたのではないかと思いますネー
そして、もっと驚いたのはその祈りのことば、祈りの内容でした:
42「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。…
「この杯」というのは、明らかに十字架の死を示しています。主イエスはここで、死の恐れに苦しみ、もだえています。主イエスはここで、永遠に神の子であった方が父なる神に捨てられるという苦しみを味わっておられるのです。そして、主イエスがこの苦しみを味わわれたが故に、私たちの死は「神に捨てられる死」ではなく、「神のみ許に召される死」へと変えられたのですネ。この時、主イエスを苦しめていたのは、私たちの罪です。ひざまずいて祈る主イエスの上に、私たちの全ての罪が覆いかぶさり、押しつぶそうとしていたのです。
その主イエスは、その罪の重さを受けとめつつ、こう祈られました:
「…しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」
祈りは→ただ自分の願いを神にぶつけるだけのものだけではないことを、主イエスは示されたのです。
祈りは→詩編にあるように、自分の思いを神にぶつける祈りもあります。
しかし、こちらの祈りでは→祈りに祈っていく中で、私たちはやがてこの主イエスの祈り:「わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」へと導かれていくようになってくると思います
そして、祈りに祈っていく中で:
・神は先を見られた深い思いやりのあるお方だ―が分かり
・自分が求めた祈りは→自分中心の祈りであったことが分かりるようになります
3.主イエスの祈り(44~46)
神を徹底的に信頼すること=諦めないということ:
・神にすべてを明け渡す心の叫びをする=「祈るということ」です
・それが「ゲッセマネでの主イエスの祈り」であったのです
ゲッセマネでの祈り…この祈りを弟子たちにやって、見せたいために、主イエスは3人の愛弟子たちを伴われたのです。
では、イエスが見せた祈りとはどのような祈りであったでしょうか?
私たちは、このゲッセマネでの祈りを通して 主イエスが示された祈りとは次の4点に示されると思います;
1) 祈りは“単純、素朴な心の叫び”である
“パテール”→幼い子供が父親をよぶ言葉です“パテール”:“父よ”の言葉が入っています
それまでに、これほど幼い言葉で祈った人は、主イエス以外にはいません
2) 祈りとは心を開いてイエスをお迎えすることです
黙示録3:20→祈りの本質を明らかにしてくれるみことばです:
「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしは、彼のところに入って、彼とともに食事
をし、彼もわたしとともに食事をする。」
私たちは悩みの時にイエスを迎えたいと思っているか→最も大切!
3) 祈りとは、本質的には「無力な人にのみ備えられたもの」と言われます
祈りは、無力な人(自分ではどうやってもできない人)の最後の逃れ場・心の避けどころです
一例ダビデの祈り(詩編142・1~2節)
私たちにとって祈りは→いちばん最後の逃れ場なのです。私たちは色々のことを試みた後、最後に祈りの道へと逃れるのです。無力さのどん底にいる人は、その無力さによって父なる神の優しい心に届く「最高の祈り」を持っているのです。
4)信仰があるから祈る→それも本当のことです。祈ったら、主は祈りにこたえて下さるという経験→信仰に固く立つことができます。しかし、祈るから信仰が守られる→それも本当のことと言えるでしょう。
主イエスが弟子たちと一緒にいることが出来た最後の時→その一番最後の時に、主イエスは自らの祈る姿を弟子達にやって見せた→これはとても大切な意味のあることだったのです。主イエスの弟子たちへの最後のメッセージがここにはあるのです:
「起きて、誘惑に陥らぬよう祈っていなさい。」
ここに、私たちが本当に備えていかなければならない信仰が守られていく“ただ一つの道”があるからです。
さあ皆さん、
まとめです
ゲッセマネでの…この「主イエスの祈り」を祈りなさい、と主は語られた
そこで「ゲッセマネでの祈り」が…マタイにより、またルカにより「主の祈り」として後に書かれたと言われます。
即ち、マタイが主の祈りの中に、この「神のみこころの実現を求める祈り」を書いたとき、明らかに、このゲッセマネにおける主の祈りを思い起こしていた…と言うことです。
この主イエスのことばを受けとめて、キリストの教会は礼拝の中で「主の祈り」を祈ります、またキリスト者は様々な困難また悩み苦しむときには助けを求めて主に祈ります。そして、困難な歴史の中を歩み続けて来たのです。
私たちも、この主イエスの言葉を受けとめて、祈るのを止めようとする様々な誘惑と戦って、しっかり祈って…
→アー主は、私の悩みに答えて解決してくださるのだー、私たちの祈りを待っておられるのだーの信仰をもち、この喜びを、隣人へと証する者にして下さいと、心から祈ります。
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