2022.5.07

主 題:共同体とその指導者して五旬節の日

聖書箇所:使 徒1・15~2・4

 

(はじめに)

前回から、ルカの福音書と同じ著者の医者ルカが、それに続いて書いた使徒の働きを読み始めました。この使徒の働きのはじまりのところを少し振り返っておきます。

十字架刑で死んで葬られ、三日目に復活された主イエスが、弟子たちに語られたルカ・244749節がこういうことばで閉じられています:

 

  

 

47 その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる
48 あなたがたは、これらのことの証人です

49 さあ、わたしは、わたしの父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」と 

 

つまり、

神の国の福音は エルサレムだけでなく、あらゆる国のあらゆる人々に宣べ伝えられますが、あなたがたはその証人ですよ。

しかし、そのために、父なる神の約束したものをあなたがたに送りますから、その力が降るまでは都エルサレムにとどまっていなさい、と→これが、ルカの福音書の“聖霊降誕の約束”でした。

この約束のことばでルカの福音書は閉じられていますネ。

それにつづくのが「使徒の働き」です。ですから、

“使徒の働き”は:

・神の国の福音を、エルサレムのユダヤ人をはじめとし、全世界に宣べ伝える使徒や弟子たちの足跡というべき物語

 です

・父なる神の約束のもの(聖霊)による“聖霊の働き”の足跡をしるす物語でもあります→ここから別名“聖霊行

 伝”とも言われています

さあ、それでは私たちもその「使徒の働き」をしっかりと読んで その世界宣教の一端を担う者として進んでまいりましょう。

 

1.ユダヤ教の共同体と、その指導者(12~26)

1.1 祈るために集まった共同体(12~14)

12 そこで、彼らはオリーブという山からエルサレムに帰った。…

13 彼らは町に入ると、泊まっている屋上の間に上がった。この人々は、ペテロとヨハネとヤコブとアンデレ、ピリポ

 とトマス、バルトロマイとマタイ、アルパヨの子ヤコブと熱心党員シモンとヤコブの子ユダであった。(11人)

14 この人たちは、婦人たちやイエスの母マリヤ、およびイエスの兄弟たちとともに、みな心を合わせ、祈りに専念し

 ていた。

 

主イエスの十字架刑を恐れオリーブ山に隠れていた弟子たちでありましたが、復活された主イエスにお出会いし、そのおことばに勇気づけられ、エルサレムに帰りました。

そこには11人の弟子たちとともに、イエスの旅にはいつもつき従っていた婦人たちやイエスの兄弟たちも→屋上の間に上がっていました。 そして、皆で心を合わせ祈っていました、祈りに専念していました。

 

皆さん、この期間には“イエスに与えられたのと同じ力が、そこに下るであろう”という約束がありましたですネー:

8 しかし、

聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは“力”を受けます。

そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、

および地の果てにまで、わたしの証人となります。」

 

        →力(ギ語デュナミス→英語ダイナマイト)を受ける

 

 この約束に対するこの弟子たちの祈りの専念した行動は、実に忠実で、模範的でありました。かれらは祈りのために集まっていました。

 →私たちもまた困難で苦しむ時はみことばと祈りにより聖霊の力により解決していただきましょう

 

ところで皆さん、この共同体に集まったメンバーの中に、あのガリラヤ以来イエスといっしょにいた女たちが入っています→つまり、すでにこの共同体は、ユダヤ教の枠組みを超える集団になっていたことが分りますネ(→これが教会の原型)

 

1.2 ユダヤ教共同体(15~25)

15 そのころ、百二十名ほどの兄弟たちが集まっていたが、ペテロはその中に立ってこう言った。

 

1)  イスラエルの家に宣教する完全なユダヤ教共同体でありましたしかし、この共同体はまた、

 

12名の使徒たちはイスラエルに遣わされました。イエスは、この12使徒が王座に座ってイスラエルの12部族を裁くであろうとやくそくしました(ルカ22・28~30)。

28 けれども、あなたがたこそ、わたしのさまざまの試練の時にも、わたしについて来てくれた人たちです。

29 わたしの父がわたしに王権を与えてくださるように、わたしもあなたがたに王権を与えます。

30 それであなたがたは、わたしの国でわたしの食卓に着いて食事をし、王座に着いて、イスラエルの十二の部族をさ

  ばくのです。

 

ユダヤ教共同体ですから、12部族には12人の証人が必要です→しかし、使徒の弟子であったユダが裏切ってしまい11名の使徒しかいません。そこで、裏切り者ユダに代わる人物を見出すことが必要になりますネー

 

2) 120名の兄弟たちの中から指導者1名を選びます

15 そのころ、百二十名ほどの兄弟たちが集まっていたが、ペテロはその中に立ってこう言った。

 120名という人数もまた、イスラエルの宣教ではよく見られる数です。ユダヤ教の律法によれば120人の男子は

→会議を開催できるシナゴークを形成するのに必要な数なのです

 

シナゴーク:エルサレム神殿が破壊された現在ではユダヤ教の礼拝し、

      また祈る場所であり、また結婚式、教育などの場となっていました。

 

 上図はイスラエルのコプト教会のシナゴーク入り口の看板です 

→すでに弟子たちは、その共同体を合法的に形成するの必要な人数(120名)を集めていたことが分かります

 →当時すべてのことはユダヤ教に忠実になされていたのです(とルカは言う)

 

 次の16~22節は、イエスを売ったユダのことについての記述ですが→ここのところは昔から色々な解釈があり、今回は省略し手先にすすませていただきます

 

ユダがいなくなったユダヤ教の共同体ですから、その共同体から12人目の新しい指導者を→祈り求めることとなりま

した。 

新しい12人目の使徒の選出についてまず→使徒の定義を語ります:

使徒とは(1・21~22):

   ・ヨハネの時から始まって、

  ・天にあげられる日まで…イエスと生活をともにしていた者、です

 

このような基準のもとでの選びです→どんな選び?

23 そこで、彼らは、バルサバと呼ばれる別名をユストというヨセフと、マッテヤとのふたりを立てた。

24 そして、こう祈った。「すべての人の心を知っておられる主よ。」

26 そしてふたりのためにくじを引くと、くじはマッテイヤに当たったので、彼は十一人の使徒たちに加えられた。

 

こうして、マッテヤがくじに当ったので、彼は11人の使徒に加えられ→マッテヤは12使徒の一員となり、12使徒は再びそろいました。

 

この新しい共同体の指導者は→2つの方法で選ばれましたネ:

  その資格(21~22)から〔下から上へ〕

  神の選び(24)により〔上から下へ〕

〔下から上へ〕:その祈り深い教会が指導者として選んだことであり

〔上から下へ〕:恵み深い神が、その宣教を遂行するために必要な導きを欠いた神の共同体をそのまま放置せず

        に、賜物をとして与えた指導者を意味しています

 

すなわち、正当な指導者とは:

   ・教会の基礎となったイエスの出来ごとと教会を結び付け

   ・彼ら自身の働きと証言とによって

→教会が宣教を遂行できるようにする人のことであります

 

16~26節にわたるペテロの演説から気付くことは、これまでの物語で起こったことは:

 ・人を使徒にもするし(マッテヤ)

 ・背教者にもするということです(ユダ)

 

そして、教会が直面したこの世における欺きや失敗は、実は教会内でまず起こった→それどころか、そもそも最初にその信徒の集まりの基礎を据え、会衆を導いた人々の中においてさえ、それは起こった…と言うことであります。

 

2.激しい風の音・五旬節の日(2・1~4)

1 五旬節の日になって、みなが一つの所に集まっていた。

2 すると突然、天から、激しい風が吹いて来るゆな響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。

3 また、炎のような分かれた舌が現れて、ひとりひとりの上にとどまった。

4 すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。

 

1節を見ますと、「五旬節の日になって」とあります。この五旬節というのは、旧約では七週の祭りとも呼ばれ、元々は小麦の収穫感謝の祭りでありました。

この七週というのは、過越しの祭りから七週、50日後ということです

→ここから五旬節祭ペンテコステ祭とも言われます。

この五旬節祭・ペンテコステ祭については次々週5月21日のペンテコステ記念礼拝で詳しく語らせていただきます。

 

そこでですが、

ペンテコステに向けて、キリスト教の3大祭りの関係についてだけ語らせていただきます→キリスト教3大祭りのつながりとその由のみを簡潔に

3大祭り: 時間順で

 1.クリスマス 2.(十字架刑による死→)イースター 3.ペンテコステ

 

1.クリスマス

神の子が→人のかたちをとってこの地上に来られました

その目的は→次の2つのみことばから考えてみましょう:

  ル カ81イエスは神の国を説き、その福音を宣べ伝えながら、町や村を次から次に旅をしておられた

  マルコ115時が満ち、神の国が近くなった。悔いあらためて福音を信じなさい

  →そうです、神の国(神の支配)に生きる幸いと平安を知り、そのことを伝える神の子イエスを信じ救われなさい

 →これをすべての人にお伝えすることですね

 

2.イースター

しかし、すべての人にお伝えするために選ばれた12弟子ですが、その弟子たちの期待にはずれ、主イエスは十字架で殺されてしまいましたですネー

しかし、そのイエスは復活して、今も生きて働いておられる→私たち初め、いつもすべてを見ておられ、祈りにこたえて最善へと助け導いてくださっています。そして、私たちの隣人へとお伝えする働きを助けてくださいます。

 

しかし、わたしたちはその隣人へとお伝えすることが難しく、苦しみます、そこで→

 

3 ペンテコステ

8 しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります、と

 

皆さんクリスチャンと言えども…苦き根が残っているならば→自己中心にもどりやすく、また誘惑に弱い私たちです。が、聖霊の力をいただくときに、隣人への証人としての働きができるようになります

 →これを各人それぞれが証して行くときに、世界中→地の果までお伝えすることができます、よ…

 →この3大祭りがなければ、いやどれひとつなくても、キリスト教は世界中に広がって行くことはできませんネー

 →現在は全世界78億の民の3分の1はキリスト国となっているのです、ハレルヤーアーメンですね!

 

さあ、今日のところはここまでとします。

わたしたちは礼拝で聖霊の力をいただくべく、祈って待ち望みましょう!

 

今日のみことばに感謝します。アーメン

 

 


2022.5.21

主   題:「神の国に入るには」

聖書箇所:(マルコ101331

 

(はじめに)

神の子イエス・キリストがこの地上に人のかたちをとってこられました。 その目的は→次の2つのみことばから考えてみましょう:

 ル カ8・01イエスは神の国を説き、その福音を宣べ伝えながら、町や村を次から次に旅をしておられた

 マルコ115時が満ち、神の国が近くなった。悔いあらためて福音を信じなさい

 →そうです、「神の国に生きる幸いを知り」、そのことを伝える「神の子イエスを信じ救われなさい」と、そして

→このことを すべての人にお伝えすることです、ね

 ですから、共観福音書の共通の主題は「神の国」であることはすべての聖書学者の一致していることであると言われています。

では、「神の国」それは何を意味しているのでしょうか?;

・「神の国」はマタイの福音書では「天 国」とも訳されています

・「バシレイヤ」(原語・ギリシャ語)は領土の意味の「国」とは違い、「支配」又は「統治」と言うのがふさわしい訳です。すなわち、「神の国」とは「神の支配」です

 

そして、イエス・キリストの福音の中心→「神の国」は彼方の抽象概念ではなく、イエスの受肉によって実際に歴史の中へ到来しました:

1)私たちが「神の国に入るとは」:再臨前の今、この地上でキリストによる神支配を受け入れ、服従することです→洗礼を受けることです

2)「神の国に住まう」は:

神の国は死んで行く所だけでなく、現実この社会の中にあっても、みことばを生きることによって住まい続けることができます

 さあ、それではこの神の国に入り、その神の国に住むには、どうすればよいのでしょうか→み言葉を読んでまいりましょう。

 

1.子供を祝福する

10:15「まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、

   決してそこに、はいることはできません。」

 →これはどのように解釈するのでしょうか?

・「子供のように…純真な心の持ち主でなければ神の国に入れない」…のでしょうか?

・では、子供はそんなに純真で、素直でしょうか?

赤ちゃんの肌は本当に透き通って、愛らしいですね。しかし、だんだん大きくなって這い出し、そして歩き出すようになると→どうですか悪いですね

 

この福音書の「子供」にあたる単語は、ルカの福音書では「乳飲み子」(パイディオン)と呼び掛けられています。生まれたばかりの、まだ乳離れしていない赤ちゃん、そのような幼子を指しているのです。

Q「乳飲み子のように神の国を受け入れる人」とはどのような人でしょうか?

A「乳飲み子」は、「素直で純真」というより、むしろ「何もできない子供」が、母親のお乳を求めるように、イエス

  様を求める、の意味です 

 イエスの目から見る子供は、無力な者、助けを必要とする存在であります。イエスが子供を祝福するのは、彼らが神の祝福を必要とするからであります→「神の国」は、乳飲み子のように「神の助けを受けいれた者の国」なのであります。もう一度、

15「子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、入ることはできません。

ここで言われている「神の国」とは「神の支配」であります

別な言葉で言えば;

・神の国とは私たちが「死んでから…行く所」のみではないのです

・わたし達が生きているこの世界において、神のみ心が私達の生きている現実においても実現するのです

  私たちが本人の希望に基づき、とりなしの祈りをするとき、神様の御業がなされ、その人が癒され、また願いが実

  現するのです

  その故に試練の中で「不安で一杯であった私たち…は平安に過ごすことが出来るのです=神の国に住むことが出来

  るのです」

  →それは、

 ・主イエスが復活され既にこの世に来て下さっているからです

 ・けれども、この主イエスの言葉を・神の力を、世の大人は認めようとはしません

  →ですから、幼子のようになりなさい、と

 

では、神の国に入るにはどのようにすれば?

イエス様を信じる信仰」により、「神の国」に入ることができるのです。

「神の国」に入るにはこの幼子のように「受け入れる」ことが、最も大切なことでありまして、

・キリスト教の教理を理解するとか ・信仰に熱心であるとか

 は望ましいことではありますが、「救い」に不可欠なことではありません

 →素直で、謙虚に、イエス・キリストを「受け入れること」だけが、必要で大切なことです

 

2.金持ちの男

この金持ちの男はイエス様にこう尋ねます。17節;

「尊い先生。永遠のいのちを自分のものとして受けるためには、私は何をしたらよいでしょうか

しかし、ここに大きな間違いがあります。金持ちの男は、そしてわたし達は、イエス様にこう尋ねるのです;

・イエス様、わたし達は「何をすれば」神の国へ入ることができるのですか?

・「どんな努力」をすれば永遠のいのちをいただけるのでしょうか?

 このような質問は、神の国に入ることや、永遠のいのちを得ること→それが、「わたし達の力や努力によって手に入れることができる」、と考えていることから起こるのです。

わたし達は一体どのような努力をすれば神の国を自分の手で掴むことができるでしょうか…?

イエス様はこう答えるでしょう;

「あなたがどんなに努力しても、あなた自身の力や努力によっては、決して神の国に入ることも、永遠のいのちを得る

 ことはできません」と

ここに記されている「金持ちの男」は、何か自分の力や努力で「永遠のいのち」を得ようと考えていました。

この男の問いに、イエス様は旧約聖書に出てくる「十戒」に出てくる戒めを示されます、19節;

「…殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽証を立ててはならない。欺きとってはならない。

 父と母を敬え。

 しかし、私達はこの十戒を守れますか?これを守り通すことができますか? 難しいですね…如何なる人間でも不可能です、ね。

「十戒」それは決して「永遠のいのち」を得るための条件ではありません→わたし達は「十戒」の前では、自分自身が「罪人である」と自覚するために示されているものなのです、ね

 

事実、この金持ちの男も、またこの律法の前にはそれを守ることのできない罪人でしかなかったのであります。

しかし、問題はそこからなのであります…

→自分は罪人だと示された時、その罪人である私が、「その罪から開放されるために、神様を必要としているかどうか」、それが大切なのであります。

ここに出てくる金持ちの男は、自分の持っている財産への執着から離れることができませんでした;

・彼にとっては、「永遠のいのち」を得るよりも「この世の財産」の方が大切だったのです

・彼には「本当は、神様を必要としていなかった」のです

・生きるために、必死になって母親を求める「乳飲み子」のように、神様を求めてはいなかったのです

→それよりも自分の財産に頼って、「自分の力で活きていくこと」の方が大切でした。

 

3.らくだが針の穴を通る

今日の聖書箇所で、財産を手放すことができなくて悲しむ男を見て、イエス様のいわれた言葉;

23裕福な者が神に国に入ることは、何とむずかしいことでしょう」

25金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通る方がもっとやさしい。

 

この言葉…らくだが針の穴を通る…どおいうことでしょうか?

このたとえの言葉の追求…ですが二通りあるようです;

  針の穴:エルサレムの城壁にある「一人の人がやっと通れる小さい通路(針の穴とも呼ばれた)。人がやっと通れるほどのところを、あの大きならくだを通すほど→困難だ 

  らくだ(ギ語・カメーロス)と訳しているが、実はギ語・カミロスは舟の引き綱のことであります

大阪南港の大きな船の引き綱ではありません、和歌浦漁港の漁船の引き綱位でしょうか→その引き綱でも針の穴を通せるでしょうか?この綱を針の穴を通すほどの難しさ→いや不可能なことだ

 

裕福な者が神の国に入るのはそれ位難しい、とイエス様は言われます。それは;

・裕福な者は、往々にしてそちらに目を奪われやすいからです

・お金の力で何でも出来る。そう考える人には、神様は必要なくなります

財産と神様を天秤にかけ、神様も大事だけれど、やっぱりお金が一番、とこの金持ちの青年は、どうもこの方の人でしたですネ

ただし皆さん、イエスは私有財産を否定したということではありませんよ。例えば;

・イエスはしばしばカペナウムで、ペテロの家 [1]に入られています。ペテロはなお家をもっていて、そこがイエスの活動の拠点となりました→(ガリラヤ湖畔の家のこと)

・マルコの母マリヤは、大きな家をもっていて、原始教会の根拠地として自分の家を提供していたようであります(使徒1212

皆さん金銭が地上生活で不可欠であるか否かは…議論の余地がありません、ね。

問題は;

・生活を金銭や財産中心に生きるか

・それとも神の意思を第一に生きるか

ということでありますネー

 

イエスが貧しい者、弱い者の味方になられたことは、福音書が一貫して説くところであります。

しかし、戦後の日本社会、物を求め・お金を求めて経済の高度成長を一目散に駆け上がってきましたですね;

・弱い者を置き去りにし、効率最優先で突き進んできました

・物は溢れ、お金持ち日本になりました

その結果、世界でも「経済大国日本と」もてはやされるまでになりました、ですネ…

その結果はどうでしょうか? 家庭はどうでしょうか?;

・子供はお金を与えられ家でほったらかし…どんどん悪を覚えていきます

・刹那的になりますから学校に行ったら苛めが起こり、また学級閉鎖まで起こしてしまいます

・そうかと思うと、暇さえあれば塾通い→欲望に生きる人へとかきたたている→憂慮すべき事態が起きています

 

お金第一の生き方は日本の将来を破滅に導いています。この様な姿をきたらしたのは、わたし達世代の責任です。神様助けてください、と心から悔い改め祈ります。

お金が一番という生き方の人は、子どものように神様を必死で求めることをしなくなります。そのように神様を必要としない人にとって、神の国に入ることはらくだが針の穴を通るよりも難しいのです。

 

4.神の国に入るには

26 弟子たちは、ますます驚いて互いに言った。「それでは、だれが救われることができるのだろうか。」

27 イエスは、彼らをじっと見て言われた。「それは人にはできないことですが、神は、そうではありません。

 どんなことでも、神にはできるのです。」

 

神の国に入るのに、あれはダメ、これはダメ…なのでしょうか?

26「それでは、だれが救われることができるのだろうか?」

これは弟子たちの 素直な思いではないでしょうか→この疑問に対し、主イエスは語られます 

27「それは人にはできないことですが、神は、そうではありません。どんなことでも、神にはできるのです。」

 

神の国に入ること、そして永遠の命を生きること→そのために、

  何かをしなければならない

  子供のように素直で純真な心にならなければではありません

「神の国」は、ただ、イエス・キリストの十字架の贖いの業によって開かれているのです。

その「神の国」には、すべての人が招かれています。すべての人が、イエス・キリストの十字架の贖いによって、

「神の国」に入るように、そして「永遠のいのち」を得るようにと招かれているのです。 

 問題は、わたし達が真剣にそれを求めているかどうかです。神を必要としない人たちは、決して「神の国」に入ることはできません→必要としていないからであります。

 

乳飲み子が生きるために、本能的に必死になって母親を求めるように、

・わたし達は本当に神様を必要としているでしょうか

・わたし達は必死になって神様を求めているでしょうか

・また既に救われた方は、神のあふれる恵みを、願い求めているでしょうか→神様を小さくしてしまわないでください

 

私たちは、救われている人も、まだ救われていない人も神様の約束を握り締めて:

・救われてない人は→神の国に入れるように

・救われている人は→神の国に安心して住み続けれるように

 

ただただ、母を求める乳飲み子のように願い求めていきたいです;

・神様の約束ですから

・神様は約束を必ず守るお方ですから

・神にとって不可能はない方ですから

神様助けて下さい。神様が栄光をおとりくださいますように

主イエス・キリストのみ名により祈ります。アーメン 

 



[1] マルコ12921320933を参照

 

 


 2022.5.28

主 題:「 神の家族 」

聖書箇所:エペソ21422

 

(はじめに)

この5月になり私たちがこの岩出市に来てまる2年が経ちました。コロナの中での引っ越しであり、またコロナの中での集会でした。その礼拝、また学び会ですが、主の守りと、皆さまの祈りの中で欠かさずに続けられてきていますことと思い感謝、感謝です。

 

ところで、先週の礼拝は「神の国」、また「神の国に入るには」について共に学ばせていただきました。

特に「神の国に入るには」:

 ・神の国に入るにはただ、主イエスを信じる信仰によってのみ

 ・私たちの知識や、行いにはよらない(←誰も誇ることがないため)

  →洗礼を受けることによってのみ入ることができる、を学びました

 

こうして、「神の子」にしていただいた私たちは、教会につながり、礼拝に出席し、学び会で学びますが、昨年からは学びの後に、祈り会を持ちとりなしの祈りの生活を続けています。

私たちの家族の日常生活にはいろいろな問題や悩み苦しみがありますネ。それをみんなで分かち合いし、神様に祈ることで、主にそれにふさわしい解決を祈り、委ねることができますから、なーんと幸いかなーと思わされています。

このようにして私たちは、聖霊なる神様によって「一つ所に集う者とされた」のですが、この日与えられた聖書はそこを3つの言葉で言い表しています;

19節、21節)

「聖徒たちと同じ国民」、 2 「神の家族」 、3 「聖なる宮」

 

この三つは、いずれも…「キリストの体なる教会」を指していると考えますが、その一つずつの内容とどんなところ→役割を見てまいりましょう。

 

1.「聖徒たちと同じ国民」(19)

聖徒たちと同じ国民」…別の言い方をすれば「神の民」ということです。

19節「あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく」といわれます。

寄留者…難しい言葉が出てきましたね→寄留者とは;

他郷または他家に身を寄せて住むこと、つまり「仮住まいする者」ということですね→本籍がない人のことです

 

他国人や寄留者は、その国の法律で守られるということがありません。つまり、そこに住んでいても本当の恵みを受けることができません

→私たちは外国に行くときにはパスポートを持参します。旅先で亡くしてしまったら大変です、パスポートがなければ、国の法律での守りが無くなってしまうのです、ネ

 

私たちは「聖徒たちと同じ国民」としてくださっている故に、神様の守りの中で、神の恩恵を十分に受ける者になったということです、ね

→「神の民」;

これはあの出エジプトしたイスラエルの民で、シナイ山において「十戒」による契約を結ぶことにより「神の選民」、すなわち「神の民」となりました。

つまり旧約の時代においては「神の民」とはイスラエル人のことでありました

 

しかし、イスラエル人・後のユダヤ人…といえども罪人です。罪を犯します。旧約時代では…その罪の贖いのために雄牛あるいは、山羊や羊、貧しい者は鳩の頭に手を載せて罪を悔い改め、殺し、その血をもって身代わりとしていたのです。

しかし、人は罪を犯しますから、その都度このような身代わりの血がささげられ、その罪を贖ってきたのです。

 罪を贖うということは、そのように多くの犠牲を払い、心からの悔い改めのしるしをもって…はじめて、その一つの罪が赦されるのです。ことほど左様に“罪を贖う”(罪の身代わりとなること)ということは重大なことであるのです。

しかし、新約の時代に入って、主イエス・キリストの救いの御業によって、その民族的「枠」、即ちユダヤ人と異邦人を区別する『隔ての壁』(14)は壊されました;

  また罪のゆえに苦しむ人は、ただ聖霊の導きによって

  キリストを信じるすべての者は救われ

  「神の民」としてくださいます

そして、私たちもまた、「イエス・キリストの十字架は私の罪のための贖いです」と信じる信仰のゆえに、罪を赦され、「神の民」としてくださいます。「イエス・キリストの十字架の贖い」→本当に感謝です、ネ。

皆さん、「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる」(ローマ10:13)のです

こうして、わたし達は「神の民」・「神の国の住民」となり、神様との親しい交わりができるようになります、ね。

 

(私の救いの時のことを少し証させて頂きましょう)

私が洗礼を受けた時は1989年49歳の時です。

       私は東京オリンピックがあり、東海道新幹線が開通した昭和39年(1964年)に社会人となり

       日本の高度成長期の社会を・神戸製鋼という会社で、企業戦士として生きてきました

その生き方といえば;

       自分の知識、経験や技術を頼りとし

       効率を追求する会社生活にどっぷりと浸かりきり

       上昇志向で自分勝手な私の生き方でした

まわりの者は大きな犠牲が伴い、また私自身も頼るのは自分のみ、それゆえに「絶えず緊張した企業戦士の生活」でありましたです、ねー

 しかし、50歳に近づく頃には、人生を振り返った時 何か物足りないものを感じていました。そして先に救われていた妻と友人に→あの「塩屋聖会」へ誘われました。

そこで私にとって初めて→聖書と、聖書のみ言葉と、そして説教と出会ったのでした;

「新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるべきである」(ルカ538

そこでは、それまでにボンヤリ考えていたこと→世の中・企業活動の中での矛盾…そんなやり方でいいのかなぁ―とぼんやり考えていたことが;

・御言葉に簡潔に書かれており

・説教で整然と語られたのでした

→わたしは驚きました・感動しました…聖書ってすばらしいことが書かれているんだ!  と。

 

ですから、私は翌週から教会の礼拝に、水曜日の夜の「聖書を学ぶ会」に欠かさずに通い聖書を読み、聞き学びました。

教会に通い始めて1年後、この生き方こそ…今の私の心を満たしてくれる本当の生き方、めざす生き方だと考え、「人生の忘れもの」に気付かされた思いで洗礼を受けることができました。

こうして、わたしは「神の民」となり、親しい「神との交わり」できるようになりました。

「神との交わり」…罪を赦していただき、み言葉・聖餐により新しいいのち、新しい力をもらい、日々どんなときでも祈りによって、神様によって助けていただくことが出来ますから,感謝です、ね

こうして私は救いに与り「神の民」とさせて頂きました。私49歳のこの時までまで忍耐し、待ってくださった主のご愛に心から感謝しました。

 

2.神の家族(19)

これは、“神様に対して、「父よ」と呼ぶことができる者にされた”ということであります。一人の神を父と呼ぶことができるわけですから、まさに「神の家族」であります。

しかし、家族であるということは;

  皆一人一人が神様に結びついているということだけではありません

  家族ということは、お互いが兄弟姉妹とされているということでもあるのです、ね

  この兄弟姉妹の交わりがなければ、ただ名前だけの家族ということになってしまいます

私たちは…今日この礼拝に連なり、神の家族としての交わりをすることができることは…真に感謝なことです

今日はお互い心を割って、ザックバラン、悩み苦しみ・問題があるならば打ち明けて、父なる神に共に祈り→助けていただきましょう。

その神の家族の集うところ→教会です;

1)教会はこの世における「神の国」の雛形です

2)私たちはこの教会の中で神の家族として…共に生きています

・毎週の礼拝・食事の交わり、学び会・祈り会

 この祈り会こそ愛の交わりの起点となるものです→「教会は祈りの家と呼ばれるべきである」

・毎月の誕生祝、母の日・父の日、各種お祝い

・結婚式、葬儀、召天者記念会・墓前礼拝など

 このようなことを通して、家族の愛の交わりが深められてゆきます。

 

そして、家族はお互いに許し合い、支え合い、助け合って暮らすところです、ね;皆さん

・失敗した者を…裁き、批判していることはないですか?…励まして助け合っていますか

・自信をなくしたものを見たとき、共に祈ってあげていますか

・泣く者と共に泣いていますか

・苦しむものと共に苦しんでいますか

・喜ぶものを引き摺り下ろそうとしていませんか…共に喜んでいますか

・愛の交わりをしていますか

→これらのことで自分自身を点検して今日よりも明日へと神の家族へと進んでまいりましょう、神が喜ばれますよ。

 

3.聖なる宮(21)

私達は互いに組み合わされて、「聖なる宮」となるのです…→教会です。

互いに組み合わされるためには…「角張ったところ」を削り取っていかなければなりません、ね。

「キリストによって組み合わされる」のですから、「キリストによって、角を取っていただき、寸法に合わせられていく」ことが起きます。

個性は大切ですが、それはキリストにある個性・賜物です。

 

キリストを愛し、キリストにお仕えする中で、私達は変えられていかなければなりません。そうでないと互いに組み合わせられることはできません、ネ。

わたしたちは、そのままで神に愛され、赦され、神の子とされました。

しかし、いつまでもそのままではいけないのです

 →「神の家族」として、一人一人変えられていくのです

 →そうでなければキリストの十字架を無駄にしてしまうからです

 

教会には目的があります。教会は「聖なる宮」なのです。「聖なる宮」というのは神様の住まいということです。つまり、「ここには神様がおられる」ということが明らかになる。そのようなところでなくてはならない、ということです。

この建物は…私たちがキリストによって組み合わされた交わりです

→これが教会です:

1)この土台は「使徒と預言者」(20)です→「聖 書」という言葉に置き換えてもいいでしょう

2)この石を取り除いたらすべてが崩れてしまうという「かなめ石」は、主イエス・キリストご自身なのです;

・栄光は全て主のものです…牧師や、誰々兄・姉のものではありません

・その土台は聖書なのです

教会は、主イエス・キリストの救いの御業;

・十字架

・復活→昇天

・聖霊降臨

という出来事により生まれたものです。ですから、この方を横に置いたところで…いくら仲良しになっても、それは決して「聖なる宮」とはなりません。それは単なる人の集まりに過ぎません、ね。

 

.教会の使命(21)

この教会には神様からいただいている使命があります;

21「この方にあって、組み合わされた建物の全体が成長し、主にある聖なる宮となるのであり」、と

 

この教会が組み合わされて成長するということであります。

教会が組み合わされて成長する…それがわたしたちの使命なのです。

数が増えることも成長の結果でしょう。

教会の成長の基本→「愛の交わり」がなければ成長できませんね。

ところで皆さん「愛の交わり」ですが…どうすることですか?

・男と女が仲良くすること…男女の愛・性愛ではありません

・神の愛とは「自分の命を相手にあげることです」よ

・自分の命とはなんでしょうか、どうすることでしょうか…あの日野原先生は「自分の時間」といいました

・あなたはその方のために自分の時間を捧げていますか→それが「愛の交わり」ということです

 

ここで大切なことは、教会の成長…これらのことは独りでするものではない、ということです;

22「このキリストにあって、あなた方も共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです」

 

このように一人一人にキリストが宿り、神殿となるだけではなく;

・この組み合わされて共に建てられる教会という交わりにおいて、神のご臨在が現れること

・神の家族という交わりにおいて、神様のご臨在が現れること

→これらの交わりをとおして、ここの教会には神様が居られる…ということが感じられるようになることですねー

 

この交わりにおいてこそ、主イエス・キリストが語られる「もっとも大切な掟」;(マタイ22章)

  あなたの神を愛しなさい

  隣人を自分のように愛しなさい

 

が全うされてゆくのであります。そして、このことにより、神がここに居られることが明らかになるのであります。

教会は;

   キリストというかなめ石により

   また聖書という土台によって建てられています

が、まだ完成されていません→完成されるのは終末のときです。ですから,すべての教会はみんな「完成途上」にあるといえます。

そうであるいじょう、「欠け」はあるのです。しかし、この教会は常に完成に向かって建て上げ続けられているのです。なぜなら、それは聖霊なる神様ご自身の導きにより…前進するものであるからです。

だから…求められているのは;

・一人一人が聖霊に満たされ

・この聖霊の導きに従うこと

→みことばを生きること…問題の時、みことばを実行することです

 

ああ神さま み言葉を感謝します。あなたは全てをご存知です。私たちはあなたに期待します;

・神がすべての栄光をとられますようにと私たちは祈ります

・この教会が組み合わされて成長させてください

さらに、

・神の家族に感謝します

・神の家族により頼みます

・神の家族に期待します

→ハレルヤ 神の家族