2022.1.1
主 題:「この町には、わたしの民がたくさんいるから」-②
聖書箇所:使徒18章9~10節
1.皆さん新年おめでとうございます…
この新年の今…昨年1年の間 私たちはコロナからも守られ→今日この日お互いに元気で新年のご挨拶をすることができ まことに
おめでとうございます。と同時に、主に心から感謝しそのみ名を賛美いたします!
過ぎし年を振り返り「昨年はどんな年」を思うとき→一言で言って「コロナが猛威を振い私たちは自分の死の恐怖を覚えた年であ
ったなー」…ではないでしょうか!;
・昨年は 大都市圏を中心にコロナ患者は急拡大し→日本全国に…いや世界中に→パンデミックに拡大しました
・その中で1年延長したオリンピックが開かれ、コロナ感染者は急拡大しました→そして自分の死の恐怖に外出自粛を控える生活
へ→コロナ感染から身を守ることをするようになりましたネ
・2021年・年末の統計は次のように出ています(12.29現在)
|
概人口 |
コロナ感染者 |
死亡者 |
和歌山県 |
96万人 |
1,054人 0.1% |
13人 |
日 本 |
125百万人 |
1,733千人0.8% |
18千人 |
世 界 |
78億人 |
278百万人 3.6% |
539万人 |
このコロナによるパンデミックの原因は→つぎの2つの見方が言われ始めています:
1.人間の勝手野放図な発展で地球温暖化により凍土が露出
凍土が露出しあの大恐竜時代の強烈なウイルスが出てきている…
2.人間の勝手野放図に野生動物の生息域に踏み込んだ…
野生動物に生きている強烈なウィルスが人間に伝染する機会がすさまじい勢いで広がっている…
→このようにウィルスが人に感染する確率を上げた。
そして、せまくなった地球が、流行を広げ→人の往来の増加やグローバル化が拍車をかけた、と…
→これらは聖書の語る私たち人間の生き方→目標の置き方の間違いによるものと言えることであり、私たち人はもっと創造者
なる神のことばに忠実に生きることが求められていると思います…
→聖書創世記1・26
「神は仰せられた。さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、
われわれに似せて。彼らが海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。」
この支配するようにの意味は→正しく管理するように、という意味です→私たち人は被造物を正しく管理する役目なのです
→私たちは、もっと聖書を読み、聖書のことばを→真の神のことばを生きるようにしなければと思わされています。
2.恐れの中の私たちの目標とその実
2.1 旧年(2021年)の目標 (使徒18章9~10節)
9ある夜、主は幻によってパウロ(私たち)に、「恐れないで、語り続けなさい。黙っていてはいけない。
10 私があなたがっとともにいるのだ。だれもあなたを襲って、危害を加える者はいない。この町にはわたしの民がたくさんいるから」
と言われた。
私たち…あのChristmasでお生まれになったイエスさま…その主イエスが私たちすべての人の、全ての罪の…;
・身代わりとなって十字架上で死んでくださいました
・また葬られ→聖書が示す通りに三日後によみがえられ
・ケパにあらわれ、それから12弟子→その後、キリストは5百人以上の兄弟たちに同時に現れました
(1コリント15・3~6)
→救われた私たちは…主イエスは今も生きて働かれていることを信じています。
その主を信じる信仰により…教会に導かれて→礼拝する民に加えられ…あなたの惠の中であなたの証人とされ→その恵みを近き隣人に福音を証し さらに伝える者としてくださいました。
さあ、そのような日常の中で…;
・気を付けながらも 不安に思ったことの一番は何だったでしょうか
・いや今でも一番気にしていることは何でしょうか…?
…→皆さん コロナ感染の結果としての「自分の命の死」のことではないでしょうか…?
特に高齢者や病気などの疾患のある方は「感染による死」の危険を毎日のように報道され叫ばれています、ネ
「自分のいのちの死」…これは古今東西→これはどこであっても人間共通の一大関心事でありましょう…
このような「自分のいのちの死」の恐れの中で、神様は励まし、命じたのです…
→「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと
共にいる。だから、あなたを襲って危害を加える者はない。」、と
→聖書において神様が「恐れるな」と告げられるとき、その理由はいつも「わたしが共にいる」と言ってくださいますから安心で
す、ネ
このような状況の中で、旧年(2021年)の教会は
(目標)コロナのために宣教活動を思いとどまるとしました→その2つの目標と実績は次のようです:
1) 神の家族の教会となる
・学び会→学び祈り会へと前進し、祈る教会となってきました
・その礼拝、学び祈り会は コロナからも守られ休むことなく続けることができました
・誕生祝、母の日・父の日、召天者記念会と墓前礼拝など定例化してお祝いし、交わりをしてきました
2)地域との関わりを進める
・上岩出小学校の育成会会員となり活動してきました:
・夏季のラジオ体操への参加
・通学時の学童補導の実施…現在も雨の日には出て行きます
・構内マラソンなどへの応援
などを通し→先生方と子どもたちとの関わりをすすめました…→校長先生から…遊びに来てください、と!
・自治会活動や大池運動公園での散歩での挨拶運動での関り
・教会のホームページを開設して、毎週ごと更新しています
・コロナが収束してきたので12月クリスマスには2つの集いを他教会員の多くのご協力を得、その上で皆で検討決定することができ2回の上岩出GOOD NEWSとして地域にそれぞれ200部、300部を配布してきました。
また、教会では祈り会で祈り続けてきました。これまで教会で関わり続けてきた子どもたちや、大人の方々の名をあげて祈り
続けました。
2.2 2021年の実
これらのかずかずの関りの集大成として、年末の2つのクリスマスの集いの結果に集約されてきました
1) クリスマス・イヴのつどい
イヴのつどい”では他教会の佐々木兄がギター&ウクレレをもってクリスマ・スソングをコラボして下さり、また子供向けのクリスマスのDVDの映像化をして下さいました…→子どもたちがクリスマスの本当の意味が分かりました!
子どもが一人もいない教会が10名の子どもを与えてくださいと祈り、呼びかけてきましたが…→クリスマス・イヴには子ども19名と大人10名の計29名でクリスマス・イヴをお祝いすることができました。
祈りの応えて下さった主の御名を賛美しました。
2)クリスマス礼拝の集い
クリスマスのつどいでは野村尚子姉が弦楽トリオをもってクリスマスメドレーを弾き、またお友達を沢山招いて下さり17名でクリスマスを祝うことができました。ハレルヤー!
3.新年の教会ディボーションのめあて (使徒18・10)
10わたしがあなたとともにいるのだ。誰もあなたを襲って、危害を加える者がいない。
“この町にはわたしの民がたくさんいるから。”
私たち二人は昨年4月末にこの岩出市に赴任してまいりました。ここに来て見てわかりましたが…なんとここは今私たちが読んで
いる聖書にあるコリントの町と同じような環境だなーと感じ入っています;
・高野山あり、根来寺あり、お寺ありお地蔵あり
・神社あり→熊野古道の山伏修験者あり…
そんな町にあって、主は「この町には、わたしの民がたくさんいるから」との約束をも与えてくださいました…;
→私たちが語り続けることは無駄にはならず
→この和歌山県の、この岩出市の町の多くの者が主イエスを信じるようになる
…そう約束してくださっているのです
このような導きの中で 2022年度の上岩出キリスト教会のデボーシオン課題(祈祷課題)を次のように定めさせていただきました;
(デボーシオンブックを見ながら聞いてください)
と語られています…私たちはどのようにすればその方々へ福音をおとどけできるでしょうか? とはいえ、今は新型コロナウイルスの変異が起こり、慎重な生活が求められています。幸い、この上岩出教会は少人数ゆえに、主に祈り…知恵と勇気をいただきながら進めます→そんな中での目標は、昨年と同じで「この町にはわたしの民がたくさんいるから。」-②で進めます
(目 標)
昨年はコロナのゆえに、まず関りを進めることを精一杯させていただきました。
今この教会につながっている お一人ひとりが…
→この関りを継続するとともに
→力を会わせ祈る教会となり、
そこから知恵と勇気をいただき→「宣教する教会となる」このことを目標として進めたいと思います。
〔祈祷課題-①〕
“GOOD NEWSやHOME PAGEなどで地域に発信する教会となるように“
祈りによる知恵と勇気をいただき、グットニュースで地域にお知らせし、ホームページによってさらに教会での働きのことも広くお伝えしてゆくように…祈りたいと
絵手紙クラブが開かれるように
旧年から子どもたちからも希望する声がありましたが、コロナのために開くことは出来ませんでした。コロナに対する明るい見通しが得られたならスタートしたいと考えています→いずれ子供クラスへとつなげてゆければとも
神の家族が広がるように
そして、コロナが解決された後には→家庭集会も良いし、クリスマスも良い機会でしょう 教会学校も伝道集会も出来たら良いと思います…
大切なことは、私たちが自分の隣人に証の生活を続けることがいま求められていると考えています
→一人一人が 自分の隣人に証の生活を続けること→その延長線上に「わたしの民がたくさんいる→その民に関わることができる」
と思わされます→私たちは、この神様の救いの御業にお仕えするために、先に召された者たちなのではないでしょうか…
〔祈祷課題-④〕
子どもたちへの働き人が起こされるように
昨年のクリスマス会にも多くの子どもたちが教会を足を向け始めています。その子どもたちのための働き人が起こされる様祈っていきましょう
→以上が新年度の上岩出キリスト教会の;
・目標聖句
・目標
・祈祷課題
でありデボーションブックにのせてあることです。
皆さんこの目標に向け心を合わせて祈ってまいりましょう
アーメン!
2022.1.15
主 題:「 死の彼方からの声 」
聖書箇所:ルカ16章19~31節
(はじめに)
皆さん、残念ながらコロナの第6波が医学識者の予想のように日本中に蔓延し始めましたですねー…
→特に今回のオミクロン株は気中感染でパッと広がって、一時に多くの人に感染するということですから、恐ろしいですね。感染者がなかった和歌山で5日で117名と驚くような速さで広がっています。
このコロナのパンデミックの中で私たちが一番の恐怖は何でしょうか…
→それは他人でもない私の生命の死の恐怖ではないでしょうか…
→その死の恐怖のゆえに、息をひそめて生きていると言っても良いのではないでしょうか
そんな中ですが今日の聖書箇所は、これまで読み進んできましたルカの福音書の16章となりました…
→ が、何とこの箇所は「死の彼方からの声」という巡り合わせなのです。
私たちにとっては今差し迫っている死と死後について…主イエスが今日語って下さっているのです。自分の今の生き方を思い返し→悔いのない生き方となるように、この物語をしっかり読み 反省すべきは反省し、明日の希望をもって歩んでまいりたいと思います。
1.この世での暮らし方(19~21)
19節「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や細布を着て、毎日贅沢に遊び暮らしていた。」
紫の衣:いくら金持でも毎日着るものではないようです。
細布:柔らかい麻布のことで、その紫の衣の下に着る下着のことです。贅沢な下着です。
遊び暮らしていた:毎日お祭りをしていたという解釈…異常なことです
皆さん、私たちの常識では、金持ちもまた金持なりに働くものですが、この男は働くことも忘れ、毎日祭りをしていたという→全くの異常な男ですネー
そのような生活の中で、自分の豊かさを喜び、楽しんで、「神の言葉を聞きはするがやり過ごす」…「神の言葉は本当かな?と思いながら、けろりと忘れてしまう…」→皆さん、忘れると何が起こるのでしょうか…
その金持の毎日のお祭り祝の傍らに→貧しいラザロがいました。この何気ない言葉で「ラザロ」と書いてありますが、とても大切なことを意味します;
主イエスは聖書の中で沢山の譬え話をしていますが、主人公の名前が出てくるのはこの人だけです。他はみな金持、兄、弟、女などと呼ばれるだけです…
20~21節
「この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が寝ていて、金持ちの食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。
犬もやってきては、彼のそのできものをなめていた。」
寝ていて:人に連れてこられ、そこに座らせられる…又は寝かされる…つまり自分の力では動けません
しかし、この金持ちはラザロが門前にいることを許しているということです。
全身できものが出来ており、それを犬がなめている。そのようなラザロを拒否していません。
その食卓から落ちる物→ヨーロッパの食事の歴史によると、食卓に置かれるパは食べるためだけではなく、汚れをふき取るためにも用いられた、と。
すなわち、汚れたところがあると、パンで手を拭いたり、食卓を拭いてそれを捨てた。
そのような捨てられたパンをあてにして、ラザロはそこにいたというのです。この世での二人の暮らしぶりが、簡潔に語られています。
2.あの世での暮らし(22~26)
さて時がめぐりました…金持は死後に黄泉に至り、見上げると、はるかかなた、アブラハムのふところ(天国)にいるラザロを知りました。
ラザロの名前を呼ぶくらいですから、おそらくこの金持ちは、自分の玄関を出入りする時にいたラザロを知っていたのでしょう…
黄泉の苦しみ:24節
「ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます」
それは苦しいところではないでしょうか…私はこの黄泉の国のことを思うとすぐにあの淡路島の大塚美術館のあのダビンチの「最後の審判」の絵→私たちの目の前に…裁かれてこの黄泉の苦しみの中に投げ込まれてゆく状況を思い出します→苦し紛れに水を求め、舌先を冷やさせてくださいと叫ぶその様は目に浮かぶようです…
しかし最大の黄泉の苦しみは;
「天国が見えることである」…とここから知ることが出来ます ネ。
私たちは;
・お隣で家を改築・リフォームしてとても、住みよい家となっている
・2軒隣では新しい車を買っている、それも最新式の電気自動車です
・あの家では、子供たちがしょっちゅう来ていて、お孫さんたちももうこれで8人だそうな…アーうらやましい…
それに比べ我が家は…と比べる生活に慣れてきた私たちですから…もうこの「天国が見えること」には耐えられませんねー
更に、黄泉の国から天国は遥かでも「黄泉の国から天国には声が届くのです」、とそのような姿を主イエスは語っておられるのです。
3.死のかなたからの声(27~31)
また、その苦しみの中で、この金持ちは、自分のことだけではなく、自分の兄弟たちのことも考えています。
もしかしたらこの金持ちは長男であったのかもしれません。この金持ちも長男らしく、自分の弟たちのことを考えていました。
この兄弟たちも自分と同じように金持であったのでしょうか、それで心配になりました。自分が滅んでも、他の五人の兄弟たちは
自分と同じ苦しみに会うのは気の毒だから何とかしてやりたいと思い…
アブラハム(イエスさま)に頼みました;
「わたしの五人の兄弟達のところにラザロをつかわしてください」、と。
アブラハムは答えました;
29節「彼らにはモーセと預言者がいる」、と。
ここを現代版に訳しますと;
アブラハム:主イエス
モーセ:掟=律法=聖書
預言者:クリスチャンというように置き換えることが出来るでしょう。
すなわち、神が語られた言葉はすべて聖書の中に語られています。人生のすべての場面で、神の語られた言葉があります。あなた方は何度もそれを聞き、読んでいるではないか…また詳しく解き明かしもされているではないか。それで十分なのです、と。
しかし金持ちも負けてはいません;
「いえいえ、父アブラハムよ、もし死人の中から誰かが兄弟たちのところに行ってくれたら、彼らは悔い改めるでしょう」、と…
→私たちはもうたくさんの神の言葉・聖書を学んできました。しかし、学んできただけでは…言葉だけではだめなのです。
言葉の証人となる人が出てくれば話は違います、と。すなわち、
実際に死後の世界を体験してきた人たちが:
「本当にそうなる。間違いないことです」
と言ってくれないと、御ことばに耳を傾けないものです、と。
これは心の思いに正直な話と思います。彼らは聖書の話を無視していたわけではありません。聞くには聞いていたのです。
しかし本気で信じなかったのです!
この金持ちは、とても正直に人間の心を語っています…
→この金持ちは、死をも超える永遠の視点で、自分の人生を見、それを生きたことがなかったのです
→「金持ちである」ということだけを生きてきたのであります…「神の言葉を真剣に聞くことがなかったこと」を顧みているのです
アブラハム(主イエス)がすぐに答えます; 31節
「もしモーセと預言者の教えに耳を傾けないのなら、
たといだれかが死人の中から生き返ってもえってくるものがあっても、
彼らは聞き入れはしない」、と。
聖書だけで十分なのです、また集会でのメッセージ・奨励だけで十分なのです。神はその聖書の言葉をもって、あなた方の地上の生活において生かして下さいますよー…と
その“みことば”に耳を傾けないようなものは、この死後の世界の者が誰かが言って、語られていることが真実だと言っても、地上の人間が、それを真剣に受け止めるであろうか」…アブラハム(主イエス)はそう言って突っぱねたのでありますねー…
4.1 たとえの意味① (13)
皆さん、主イエスはなぜこのようなたとえを話されたのでしょうか。このことをもう一度考えてみましょう。 主イエスは
13節「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」…と言われた。
それを聞いた「金に執着するファリサイ派の人々」が→主イエスをあざ笑ったのです。
Qどうして笑ったのか?
Aそれは:
・彼らにとって富とは神様の祝福のしるしであり
・それは自分達が律法を守り、神様の御前に正しく生きているから…
→その報いとして神様が与えてくれたと理解していたからです
逆に言えば、貧しいということは:
・その人が正しくないから、神様がその罰としてそのような境遇を与えたということだと理解していたからであります。
主イエスは、このたとえで、そのような信仰理解の誤りを指摘しているのです。
金に執着するファリサイ派の人々の、このような信仰理解の根本にあるのは
→徹底的な現世主義あるいは因果応報ということと思うのです:
・善いことをする人→正しい人である
→そうすると神様は富に代表されるこの世の幸を与える
・逆に、悪いことをする人→正しくない人である
→そうすると神様はその人に不幸をあたえる…という理解です
これは別にファリサイ派の人々に限ったことではありません:
・いつの時代でも、世界中どこにおいても、最も一般的に受け入れられている宗教観であると言って良いと思います
・おまじない、占いから始まって、多くの宗教が語っていることでもあります
これをやらないと収穫が減る。病気になったのはこれこれをしていなかったからだ…と。
主イエスはそうではないと、このたとえ話を語って諭されたのであります:
・ラザロは神様に見捨てられたから貧しかったのではないし
・金持ちは神様に愛されたから金持ちだったというのではない→そう告げようとされたのです。
主イエスの言わんとすることは:
・どうしてあなた達は、この生きている間だけの豊かさ・貧しさ、幸いと不幸ということしか見ないのか
・神は生きている時だけの神ではなく、死を超えて私たちの全てを御支配される神なのではないのか
そして、
→死を超えた所においては、この世における富は、何の意味も持たない
→この世の富は、死んで後の救いの、何の保証にもならない
そう告げられたのですネー…
4.2たとえの意味② (27~31)
このたとえ話において、陰府に下った金持ちは:
・こんな苦しい所に来ないように、自分の五人の兄弟にラザロを遣わして下さいと願います
・死んだ者の中から誰か兄弟の所に行けば悔い改めるでしょうと言うのです
しかし、アブラハムは、モーセと預言者がいる、それに耳を傾けない者が、どうして死者の中から生き返る者の言うことを聞くだろうかと言う:
① これは、主イエスの復活をファリサイ派の人々が受け入れないという預言になっている訳でありますが、それ程までに現世のことしか考えない人の心はかたくなであるということをいっているのでしょう
② この心のかたくなな所は、現代の日本も又同じでではないでしょうか。
しかし、私たちは落胆しません。自分達の伝道がたとえ目覚ましい成果を上げないとしても、私たちは自分のしていることが無駄にはならないと知っているからです…→御国において受ける報いを信じているからですネー
最後に、皆さん次のみことばを見てみましょう
(Ⅰコリント15・58)
「ですから、私の愛する兄弟たちよ。
固く立って、動かされることなく、いつも主の業に常に励みなさい。
あなたがたは自分たちの苦労が、
主にあって無駄にならないことを、知っているのですから。」
今私たちはオミクロン株蔓延のゆえに、私のいのちの死の恐怖に、息をひそめて生きています。しかし、私たち復活のいのちを信じ、御国への憧れに生きる者は、この地上の生涯の労苦が何一つ無駄にならないことを知っている知っています。
それゆえ、目に見える成果だけに目を奪われることなく、主の業に励みます。これからの新しい一年も、御国への憧れを持つ者として、主の御前に誠実に生き、礼拝第一の生き方に励み、真実に歩んでまいりましょう。 了
2022.1.29
主 題:「永遠のいのちへの道」
聖書箇所:ルカ18・18~30
( はじめに )
高齢者にとって、特に病気の人で天国行き→永遠のいのちを願わない人はいないと思います。私たちの友人知人などでも、このような人を
容易に思い浮かべることができるのではないでしょうか。
今コロナが蔓延し日本中に、いや世界中に感染拡大しパンデミックとなり、それがオミクロン株となり、さらに爆発的になり、世界中に蔓
延し、収束する様子も見えません。そんな中で今日ほど私たちは自分の命の死を恐れるときはないですネー
しかし、人が勝手に天国への道を唱え教え、そしてその教えを信じ従っている人がほとんど…悲しむべきことです→しかし、これが日本の
実情ではないでしょうか。
さあ、今日は 主イエスがその正しい“永遠のいのちへの道”について、直接教えてくださいます→しっかり聞いてまいりましょう。
1. まだ一つだけ欠けたもの (18~22)
18 またある役人が、イエスに質問して言った。「尊い先生。私は何をしたら、永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」
ある役人→ある議員と訳された聖書があります。ですから、ここである役人と言っても→お金もあり、社会的地位もあり、真面目な人が、
主イエスの所に来て、「何をすれば永遠のいのちを受けることができるでしょうか。」…と尋ねたと書き始められています。本当に真面目
な人だと思います。
しかし、この人は:
・自分が何か善いことをすれば永遠のいのちを受けることが出来ると思っている
・また、自分は永遠のいのちに値する善いことをすることが出来るそう思っているのですネー
主イエスは、この人の問いに対して、「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、父母を敬え」と、十戒の後半の戒めを答えます。
すると、この人は、「そういうことはみな、子供の時から守ってきました。」そう答えます…
→きっと、その通りだったのだと思います。真面目なユダヤ人なら、これらの「十戒の戒め」は子供の頃から教えられ、それを守るようにきっちりとしつけを受けていましたから…
主イエスは、この答えを聞いてから:22節「あなたには、まだ一つ欠けたものがあります。」 と言われたのです
そして、「あなたの持ち物を全部売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。」と言われました:
・金に執着し 自分の財産さえ処分出来ないあなたが、どうして自分の善き業で永遠のいのちを得られるなどと考えるのか、そのことを気付かせたかったのではないか、と思うのですネー
・その上、19節で青年は「尊い先生」と呼んでいまが、イエスは「なぜ、わたしを『尊い』というのですか→尊いお方は神お一人で、それは私ですよ」、と言っているではありませんか…
その上で、主イエスはこの人に「十戒の後半だけ」(出エジプト20章)を告げられました。
前半の部分:
・あなたはわたしのほか、ほかの神々があってはならない
・自分のために、偶像をつくってはならない。拝んではならない。
・あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない
・安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。」
…これについては、何も言いませんでした。
実は、主イエスが、「あなたには、まだ一つ欠けているものがあります。」と言われたのは、この前半の部分、この部分は、神とイエス
ご自身との関わりに関するところです…
→特に、十戒の第一の戒である、
「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。」…→これが欠けていると言われたのだと思います。
確かにあなたは、父母を敬っているだろう。殺してもいない。姦淫もしていない。盗んでもいない。偽証もしていない:
・しかし、あなたは本当に神を神としていますか?
・神以外に何も頼らず、神を信頼し、全てを神に委ねていますか?
→あなたが頼っているのは、自分の富であり、自分の地位であり、自分の真面目さなのではないか…
→そんなものは永遠のいのちを受けるのに、何の頼りにもならない…そう、主イエスはこの人に 気付かせたかったのではないかと思うの
です
金もある、地位もある、名誉もある。しかし、永遠のいのちを与えられるのは神であり、またイエスがその神であることをまだ知らない…
→まさに、今の日本人は ほとんどこの役人のような考えではないでしょうか。それ故に…
→イエスを信じイエスに従うことを知らない…
→そのような中でのお尋ねではないかと思いますネー…
2. 主に従う道(23~27)
24 イエスは彼を見てこう言われた。「裕福なものが神の国に入ることは、なんと難しいことでしょう。
25 金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通る方がもっとやさしい。」…
“らくだが針の穴を通る”
→つまり、金持ちが神の国に入ることはできないことを語っています
→)また、主イエスは(ルカ16・13)で→人は神と富とに仕えることはできないとも言われています
皆さん、ここで「主イエスを信じ イエスに従う」ということについて、少し考えてみましょう:
1)皆さん、「主イエスを信じる」「イエスに従う」ということは…
→“自分の生き方の問題であり、自分の決断だ”と思っているところはないでしょうか?
→しかし、主イエスに従うということは、そんなことではないのです
2) 「主イエスに従う」ということは、主イエス・キリストを信じ、そのみことばを生きることなのです…
→永遠のいのちと直接に結びついてくることなのです:
・私たちが主イエスに従う一歩を踏み出す時…→私たちは洗礼を受けます
・そして、私たちは礼拝に出・聖餐にあづかります…
→そのたびごとに主からの恵み(聖霊の満たし)をいただき、その結果主イエスに従う道を歩み続けることができるのです
→主の恵みにあずかり、この世での罪の誘いに打ち勝つ力(デュナミス)のにより勝利の道を歩むことができるのです
洗礼もなく、礼拝にも出ず・聖餐も受けずに→主イエスに従うというのは:
・その人の生き方の選択ということでしかないのです
・主イエスへの信仰もないなかでイエスに従うことはできません
繰り返しますが、
私たちがどんな生き方をしようと、どんな生き方を選択しようと、その結果永遠のいのちが与えられるなどということはありません。
信仰は、私たちの「選択の一つ」ではないのです…
→今までの欲望の生き方(罪の生き方)を180度方向転換する(悔い改める)ことによってのみ行くことができるところなのです
→さらに、私たちは悔い改め洗礼を受けたとしても、すぐにまた誘惑に弱い故に罪を犯してしまうのです…「救われた罪人」に過ぎま
せん
→だから、洗礼を受けた私たちは、いつも礼拝に出て説教と聖餐の恵みにより→この世での罪の誘いに打ち勝つ力(デュナミス)をいた
だき…勝利の道を歩むことができるのです
この人は金持ちであったために、主イエスのことばに悲しむしかありませんでした。しかし、だからと言って→私は財産がないから大丈夫、そんな風に安心することは出来ません。
ここで主イエスが、「らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」というのは、不可能であるということです。
この言葉を聞いた人々は、「らくだが針の穴を通る方が易しいとするなら、一体誰が救われることが出来るのか。」そう思いました。
しかし、主イエスは言われます:
27「人にはできないことが、神にはできるのです。」
このことこそ、私たちが永遠のいのちを与えられるのに、決定的なことなのです。
(まとめます)
私たちが永遠のいのちを与えられる:
・それは、私たちが善き業をもって得られることではないのです→それは、らくだが針の穴を通る程に、不可能なことです
・永遠のいのちを与えられるとは、私たちの業によってではなく、不可能を可能にされる、全能の父なる神の憐れみによるのです
・何の善きものも持たない私たち。自分の財産さえもささげることの出来ない私たち。そのような私たちが永遠のいのちへの道
→それはただ神の憐れみによる選びです
→その選びに答える…「主イエスを信じ従う信仰」のみによるのです
3. 永遠のいのちへの道(28~30)
28 するとペテロが言った。「ご覧ください。私たちは自分の家を捨てて従ってまいりました。
29 イエスは彼らに言われた。「まことに、あなたがたに告げます。神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子どもを捨てたもので、
だれひとりとして、
30 この世にあってその幾倍かを受けない者はなく、後の世で永遠のいのちを受けない者はありません。」
28節のペテロのことばのために→ペテロが主イエスに従ったいきさつを、思い出してみましょう:
(ルカ5・1~11)
・ガリラヤ湖の漁師であったシモンは、漁に出たが魚は取れず網を洗っていました
・イエスはシモンに「深みに漕ぎ出し、網をおろしなさい」と言われた
・シモンは「夜通し働きましたが何一つ取れませんでした」と、
「でも、お言葉通り、網をおろしてみましょう」→「たくさん入って網が破れそうになった」
・シモン・ペテロはイエスの足元にひれ伏して「主よ、わたしのような罪深いものから離れてください」といいました
・「こわがらなくてもよい。これから後、あなたは人間をとるようになるのです」とイエスが…
・「彼らは…何もかも捨てて、イエスに従った」
このようなペテロだからこそ言える28節の問いですネー…
→それに対するイエスのことば29節です:
「あなたがたに告げます。神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子どもを捨てたもので、
→だれひとりとして、後の世で永遠のいのちを受けない者はありません。」
→のように正しく読まなくてはいけません ○
←と反対の読み方は間違いですよ! ×
主イエスは言われます:
私たちには永遠のいのちがある。この永遠のいのちというものにしっかりと目が開かれる時、私たちは自分の財産からも、自分の家族からも自由になることができるのです、と
家族から自由になるというのは、注意しなければならない表現かも
→家族は、神が私たちに与えて下さった大切なものです…
→しかし皆さんどうでしょうか…家族であるが故のトラブルというものも少なくないですネー
→これは…人は年をとってみて、初めて分かることの一つではないでしょうか
その家族の中で、夫婦、親子、兄弟姉妹が最後まで仲良く出来るとすれば、それは本当にありがたいことです→神の恵みとしか言いようがない。そういう現実も又、知るようになるのではないでしょうか。
夫婦、親子、兄弟姉妹が最後まで仲良く出来る、それは決して当たり前のことではないと思います
→しかし、そういうことが私たちの家族の現実であるとするならば、私たちはどうしたら良いのでしょうか…
それは、私たちが:
・神の国における永遠のいのちを受け継ぐ者として、
・また、キリストを信じ、従う者として
・さらに、キリストの愛に生きる者として
自分の家族との関わりを受け取り直すということだとおもうのです
「主イエスの愛の証しの場」として、家族や家庭を受け取り直すことだと思うのです:
・子供だからこうすべきだ
・親だから、妻だから、夫だからこうすべきだ…
→そういうことから自由になって、
→それぞれに仕える道を求めていく
ということなのではないかと思うのです…皆さんいかがでしょうか!
最後のまとめです、
私たちに欠けている“大事な一つのこと”…
→まことで唯一の神「イエスを信じ イエスに従う」ことです…
→ここに集中していく時、私たちは全てのものが与えられ、そして永遠のいのちも備えられるのです
→そして、そこには全き自由があるのです
私たちは…この恵みに招かれているのです。
このことを残された私の全生活において実行してまいります。さあ、あなたはどうしますか?
感謝し、主イエスキリストのみ名によりお祈りします。アーメン
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