2023.1.7
主 題:「バプテスマを説くヨハネ」
2023.1.7
主 題:「バプテスマを説くヨハネ」
聖書箇所:ルカ3章1~14節
1. ヨハネの時代(1~2)
1 皇帝テベリオの治世の第十五年、ポンテオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの国主、その兄弟ピリポがイツリヤとテラコニテ地方の国主、ルサニヤがアビレネの国主であり、
2 アンナスとカヤパが大祭司であったころ、神のことばが、荒野でザカリヤの子ヨハネに下った。
最初に出てくるのはローマの皇帝テベリオです。学者や研究者たちの研究結果によりますと:
・皇帝テベリオはAD14年8月に皇帝になったことが判っています
・その第15年ということは、バプテスマのヨハネが活動を始めたのは、紀元後AD29年頃ということになります
・その時のユダヤの総督は、私たちが良くその名前を知っているポンテオ・ピラトです→これもローマの公文書の中に紀元後26年からユダヤの総督となった記録が残っています
・次の二人ヘロデ、ピリポは、主イエスのお誕生の時のユダヤの王、ヘロデ大王と呼ばれますが、その子ども達で、ヘロデ大王の領土を分割して受け継いだ
→ということが分かっています
当時の大祭司アンナスとカヤパのころ、神のことばが、荒野でザカリヤの子ヨハネに下った→と書き始められています。
皆さん、あのエリザベツとザカリヤの間に生まれた子→それが成長して「30歳になっていたヨハネ」に神のことばが降った
のです。
2. 荒野で叫ぶザカリヤの子ヨハネ(3~6)
3 そこでヨハネは、ヨルダン川のほとりのすべての地方に行って、罪が赦されるための悔い改めに基づくバプテスマを
説いた。
4 そのことは預言者イザヤのことばの書に書いてあるとおりである。
「荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。
5 すべての谷はうずめられ、すべての山と丘とは低くされ、曲がった所はまっすぐになり、でこぼこ道は平らになる。
6 こうして、あらゆる人が、神の救いを見るようになる。』」
ルカは、1節2節でその生まれた年を丁寧に明らかにしましたが、そのヨハネが、あのヨルダン川のすべての地方に行って
語ったのが「罪が赦されるための悔い改めに基づくバプテスマ」でした。
この4~5節にイザヤがバビロン捕囚のただ中にある神の民に告げた最初の慰めの言葉「イザヤ書40・3~4」、それが今日の
ルカの3章で引用されている言葉なのです。
(イザヤ40・3~4)
3荒野に呼ばわる者の声がする。「主の道を整えよ。荒地で、私たちの神のために、大路を平らにせよ。
4すべての谷は埋め立てられ、すべての山や丘は低くなる。盛り上がった地は平地に、険しい地は平野となる。
皆さん、イザヤ書の語るこの道というのは、私たちが日常的に使っている普通の道のことではないのです。例えば、王が外国まで遠征して戦いに勝利して帰ってくる、そのような時に使う道…なのです:
・人々はこの道の両脇に並び、王の勝利を喜び祝う→巨大な道です
・この王の凱旋のパレードのための道、何万、何十万という軍隊と共に、勝利の王がやってくる
その道を備えよ→そうイザヤは告げている。
この勝利の王である神によって、イスラエル人のバビロン捕囚という現実は打ち破られる…そうイザヤは告げたのです。
ルカはこの荒れ野で呼ぶ者の声こそ、バプテスマのヨハネだと告げているのです。しかし、ヨハネの語る言葉は、荒々しく、
激しいものがありますネー
7 それで、ヨハネは、彼からバプテスマを受けようとして出て来た群集に言った。「まむしのすえたち。
8 それならそれで、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。『われわれの父はアブラハムだ』などと心の中で言い始めて
はいけません。よく言っておくが、神は、こんな石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことがおできになるのです。
9 斧もすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。」
イスラエルの群衆に向かって「まむしのすえたち」と呼び、「必ず来る御怒り」=「神の裁き」を語っています:
・この言葉の勢いに押されて、ヨハネの語る慰めを聞き落としかねませんから注意して読んでいきましょう
・何よりもヨハネは次に来られる救い主イエス・キリストを指し示し、主イエスによってもたらされる「大いなる救いの出来事」の先触れとなったのです
では、このヨハネが語っていることをよく見てみましょう。2つに分けてみてゆきます:
1)「悔い改めの洗礼を宣べ伝えた」ことです
「悔い改め」これはキリスト教会で、いつも耳にする言葉ですけれど、何となく判るけど、何となくはっきりしない、
そんな印象を持っている方も少なくないのではないかと思います
これは、これは私たちが慣れ親しんでいる「反省」とは全く違うことです:
・反省するのには神はいりません。自分で自分の姿をふりかえってみて、これではいけないと思う→それが反省でしょう
・私は反省では人間はなかなか変われないと思いますよ―人間は弱いものですから、反省しても同じ過ちを繰り返してしま
います,それが私たちではないでしょうか!
・「悔い改め」は、回心とも言います:
・この時の字は、心を回すと書きます、心を改めるではありません
・心を改める改心は、反省して、部分修正するようなものでしょう
人間の心は、部分修正ではダメで、根本から心の向きが変わる、心が回るということじゃないと変われないですネー
問題はどこに向かって、どう心が回るかということです。それは私たちの心が神に向かう、真っすぐに神に向かうよう
になるということであります
・それはもっと具体的に言えば、「神中心の生活をするようになるということです。」…
心は回ったけど、生活は変わらない→そんなことはあり得ません
・たとえば、私たちは土曜日になるとここに集い、神に礼拝をささげます。たまの休みに、骨休みもしたい。しかし私たちはここに集う→それは、この礼拝をささげるということが、私たちが生きる上でなくてはならないもの、生活の中心になっているからでしょう-
・だから、私たちの生活のすみずみにまで及ぶものですネー
ヨハネは、主イエスの到来の道案内として、人々の心の向きを神の方に向ける、そのことをなしたのであります。
それがヨハネのなした第 一の主イエスのための道案内でした
ヨハネはこの悔い改めによる道案内を、いわゆる神の民と自覚している人々から、更にもう自分は神の救いから遠いと
思っている人々にまで広げました。
主イエスの救いは、律法を守るユダヤ人だけではなくて、全ての人々に及ぶ。ルカ2章31、32節のシメオンの言葉で言えば:
・「万民のために整えてくださった救い」
・「異邦人を照らす啓示の光」
としての主イエスの救いへと道案内をしたことです。
そのことが、7~14節のヨハネの言葉の中に示されています。ユダヤ人達は、自分達はアブラハムの子孫だから救いに
与れると考えていました。しかし、ヨハネは、そんな考えは頭から捨てよ、神は石ころからでもアブラハムの子を造り出
すことがお出来になる、そう言うのです。
自分達はアブラハムの子孫である。そこにユダヤ人達の誇り、救いの根拠がありました。しかしヨハネは、そんなものは
何の役にも立たないと告げたのです。これは主イエスも教え、パウロにも引き継がれた福音の道筋と言えるでしょう。
Qでは、何が救いの根拠になるのか
Aヨハネは、神に向かって回心すること、悔い改めることだ、悔い改めにふさわしい良い実をつけることだ、
そう教えたのです
Qでは「良い実を結ぶ」とは、具体的にどうすること?
群衆一般の人々には:
11 彼は答えて言った。「下着を二枚持っている者は、一つも持たない者にわけなさい。食べ物を持っている者も、そうしなさい。」と答えたとあります
弱い者、貧しい者に対しての「あわれみの心を形にすること」であります。
取税人たちには:
12 取税人たちも、バプテスマを受けに出て来て、言った。「先生。私たちはどうすればよいのでしょう。」
13 ヨハネは彼らに言った。「決められたもの以上には、何も取り立ててはいけません。」
ヨハネのもとに取税人も来たのです。彼らは救いに与ることの出来ない者と考えられていた人々でした。
しかしヨハネは、彼らに対しても、救いの道は閉ざされてはいないと告げたのです。言われたことは簡単なことでした
→「規定以上のものは取り立てるな」ということでした:
・これは当たり前のことでしょう。ヨハネは難しいことを求めたのではないのです。当たり前のことを、当たり前にする
ことを求めたのです
しかし、取税人の仲間達の間では、規定以上に少しでも多く取ることが当たり前であったことを考えるならば、これを行うの
も又、戦いではなかったかと思うのです。
そして次に兵士です:
14 兵士たちも、彼に尋ねて言った。「私たちはどうすればよいのでしょうか。」
ヨハネは言った
「だれからも、力ずくで金をゆすったり、無実の者を責めたりしてはいけません。自分の給料で満足しなさい。」
これはローマの兵隊でしょうから、異邦人であったかもしれません。異邦人も当時救いに与ることの出来ない人々と
考えらていました。
しかし、ヨハネは彼らに対しても又、救いの道は閉ざされていないことを告げました。そして、「だれからも金をゆすり
取ったり、だまし取ったりするな。自分の給料で満足せよ。」と言ったのです。これは当たり前のことでしょう。ヨハネは
難しいことを求めたのではないのです。当たり前のことを、当たり前にすることを求めたのです。
これは、まことに簡単なことのように思われます。 しかし、兵士達にとってはローマの権力をかさにきて、ゆすったり、
だまし取ったりするのが日常であった彼らにとって、 この当たり前のことをすることは、少なからぬ戦いを必要としたの
ではないかと思うのです。
このように、ヨハネは、徴税人も異邦人であるかもしれない兵士も、罪の赦しへの道が開かれていることを示しました。
これは、主イエスの道案内に、何とふさわしいことであったかと思います。慰めに満ちたことであったと思います
→しかし、それは同時に、「今までの歩みからの決別という戦いを求めるもの」でもあったのです。
神の慰めに生きる=「神の受洗にあずかる」ということは、この神の勧めに喜んで従うということでもあるのです。
今日もう一度私たちは悔い改めることを教えられました:
・私たちは神に向かって全身を傾けて歩む者として召されました
・そうである以上、悔い改めた者にふさわしい実を結ぶ者として、歩んでまいります
・これは、きびしい律法ではありません。私たちにとって慰めに満ちた勧めでもあります
・そのような者として召されているということは、神の恵み以外の何ものでもありません
この礼拝から始まる一週間の歩みも→それに続く一週間も→それに続く一年間も、神を中心として、神に喜ばれる歩みを、
精一杯ささげつつ歩んでまいりたいと心から願うのであります。
ここまでといたします。アーメン
2023.1.21
主 題:「 祈る主イエス 」
聖書箇所:ルカ3章18~22節
1. 祈る主イエス(21)
21 さて、民衆がみなバプテスマを受けていたころ、イエスもバプテスマをお受けになり、そして祈っておられると、天が開け、
22 聖霊が、鳩のような形をして、自分の上に下られるのをご覧になった。また、天から声がした。「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」
ルカの福音書の今日の箇所を読むとき、心に留まる箇所と言えば「イエスもバプテスマをお受けになり、そして祈っておられると…」のところではないでしょうか?
先人説教者も多くの方々もこの「祈っておられると…」のところに深い関心を持って語られたといわれています。福音書の中で
もこのルカの福音書はこれから先も、イエスは祈る方であることが各所に出てきます。
イエスの使命感:
「ほかの町々にも、どうしても神の国の福音を宣べ伝えなければなりません。私はそのために遣わされたのですから。」
(4・43)
に基づき毎日忙しい伝道生活を続けられるのですが、そんな中にも主イエスは一人になる時を好まれました。それは祈るため
でありました→例えば(6・12)「このころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈りながら夜を明かされました。」
祈って夜が明明けると、弟子たちを呼びよせ、その中から12人を選び、彼らに使徒という名をつけられた、とあります。
ある方はこのルカの福音書は、この箇所から主イエスがこの世に出られてからの最初の仕事は“祈 り”であったと強調する方もおられるのですねー
〔私がイスラエル訪問した時の“祈る主イエス”の見学記〕
ガリラヤ湖を望む山の中腹=丘にある主イエスが祈っていたところ(右の写真)と、そこの前にある記念碑です。
主イエスは夕方にはいつもここで祈っていたと言われるところです。
例えば(マタイ14:22~25)
22 それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗り込ませて、自分より先に向こう岸へ行かせ、その間に群集を帰してしまわれた。
23 群集を帰したあとで、祈るために、ひとりで山に登られた。夕方になったが、まだそこに、ひとりでおられた。
この場面は、弟子たちを船で送り出し、一人で山に登られて祈っていたのですが、一晩中嵐に苦しむ弟子たちの姿を見て、湖上を歩いて助けに行くイエスのくだりがありますが、ガリラヤ湖湖畔のカペナオムを拠点とした伝道生活ではよくここで祈っておられたところです。
これはそのほんの一例ですが、祈り続けている主イエスの姿は、ここでも祈っておられる、ここでも祈っておられると、イエス
の歩みはどこを切っても祈りの歩みであったことが記されていますネー:
・最後の晩餐でも祈られ
・ゲッセマネでもしたたる汗を流し流し祈られました
・十字架の上でも祈り続けられました
このように、主イエスの祈りは止むことがありませんでした。
ここから、私たちにもまた語られたみことばを、私たちは心して日々祈りの生活を歩みたいと思います:
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。」( Ⅰテサロニケ5:16)
2. 先に立つヨハネ(18~20)
18 ヨハネは、そのほかにも多くのことを教えて、民衆に福音を知らせた。
19 さて国主ヘロデは、その兄弟の妻ヘロデヤのことについて、また、自分の行った悪事のすべてを、ヨハネに責められたので、
20 ヨハネを牢に閉じ込め、すべての悪事にもう一つこの悪事を加えた。
皆さん、21~22節のイエスがバプテスマのヨハネから洗礼をうけられる下りの前に、この18~20節が先にあり、順序が逆になっています、ネ→Qなんで?
A そのヨハネが先立たずにおられなかった理由があります。
それは時の権力者が彼ヨハネを捕らえ、ついに殺してしまい→そこでヨハネが裁かれたということがしるされているからです。
なぜ殺したのか:
・領主ヘロデが「兄弟の妻ヘロデヤのことで」と19節にあるように
・このヘロデは、自分の兄弟の妻になっていたヘロデヤを、横取りしてついに自分の妻としてしまったからです
→洗礼者ヨハネは、このことを明らかに指摘し、それがどんなに恐ろしい罪であるかを糾弾してやまなかったのです。人間の
→領主ヘロデはその(恐ろしいわがまま→)小さな権力におぼれて、洗礼者ヨハネを殺し、悪事と批判する神のことばを消そうとし、もう一つの悪事を重ねてしまった。そして世はますますくらい闇がこくなろうとしていました→洗礼者ヨハネでもこの闇は消すことができなかったことを示しています→この暗やみの中に主イエスの歩みが始まった
これを示さんがための順序変更でありました。
同時にルカがここで明らかにしたかったことは:
・その主の歩みがヨハネ先導のもとで始まっていたことであり
・イエスはそのヨハネと並ぶことではなく、ヨハネの前に立つ民衆に混じり
・イエスは、その民衆が自分の罪を悔い、悲しんでいるそのバプテスマを共にすることによってであります
→罪を悔いる民衆の中に立ってくださったのです
→罪の赦しのバプテスマと共にすることによってであります
これがイエスがバプテスマを受けた理由と言えると思います、ネ
3.聖霊が降る(22)
22 聖霊が、鳩のような形をして、自分の上に下られるのをご覧になった。
また、天から声がした。「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」
皆さん
・イエスはナザレの寒村で大工ヨセフの長男として過ごした30年の生涯を通して“人として生きる体験”をつぶさにしてきました
・また悪事を働く国主ヘロデの政を見聞きし知り、体験してきました
そうした人間社会をつぶさに経験したイエスですが、ただ政治を非難したり、悪いのは権力だからそれをひっくり返せばいいと
民衆をそそのかしたりはしませんでした。権力者も、その支配下の収税人や兵士たちも、律法学者やパリサイ人も、みんなどん
なに「神の戒めから遠くなっているか」を:
・ご自分の悲しみとし
・ご自分の恥として
そこで祈り、また祈り祈り続けられた、と思いますネ→言って見れば、主イエスの十字架上での「父よ、彼らを赦してください」という祈りがもうそこで始まっていたといえると思います。
イエスは神に何とか祈りを聞いてもらうようにと、上に引き上げてもらうのではなく、私たち人間よりももっと深いところにたって、私たちの祈りを支え、とりなしてくださるのです。ここに、主イエスの私たちとともにある歩みが、祈りが始まるのです:
1)公生涯に入られようとするこのときこの祈りが聴かれたのです:
・聴かれたとき天が開け、聖霊が鳩のような姿を取ってイエスの上にくだり
・そして天から声がし、天が開けたのです
ここに、神と人間との深い絆がつくられました。
2)神は黙っておられなかった。そして「神そのものの聖霊が 鳩のように見えた」というのです:
・鳩のような形をして→「鳩のように、目に見える姿を示しながら」
・目に見える現実として神の霊がイエスにくだった
つまり、イエスがバプテスマを受けて、祈るとき聖霊が降ることを目に見える形で見せられました。そしてここに聖霊の目に見える働きが主イエスにおいて始まったのです→これは、人がバプテスマを受けて祈る時にもこのようになることを、目に見える形で示されたと言えます。
ルカによる福音書は「祈りを重んじたとともに、洗礼をうけた者の恵みとしての聖霊について語ること」に心を注ぎました:
(ルカ4:14)「イエスは御霊の力を帯びてガリラヤに帰られた。」
(ルカ4:18)「わたしの上に主の霊がおられる。」
→聖霊がこの世の中で、ご自身の新しい歴史を始められた。使徒の働きの中でもこの同じ御霊が弟子たちに注がれ→教会をつくったことを記しています:(使徒1:8)
「聖霊があなたがたの上に臨まれる時に、あなたがたは力受ける。…地の果に至るまで、私の証人となる。」
この御霊の働きはそれ以来現代にいたるまで止むことなく恵み続けておられます。主を捕らえた聖霊は、鳩のように見えた聖霊
は、今現在も私たちを捕らえて下さっています。
〔高木の証し〕
「 しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。…および地の果てにまで、わたしの証人となります。」(使徒1:8)
このみことばは、わたしが定年退職後に、須磨の鉢伏山で祈っていた時私に来た、私の召命のみことばなのです。
わたしはこのみことばを与えられて、自分の定年後の生涯を主に献身する道へと招いてくださったのです:
・企業戦士であった私が48歳で初めてキリスト教に、聖書に、みことばに、みことばの説教に会い感動しました
・その翌週から塩屋キリスト教会に行き礼拝に、学び会につながりして1年後の49歳で洗礼をうけました
・その洗礼を待っていたかのように、その会社の子会社へと出向となりました→子会社での役員として、工場長としての苦難
の生活が始まりました
・工場で、会社で起こる問題解決に誰も協力し助け導く者がなく、一人で苦しみました
・そのとき、救われていたことを思い起こして、問題解決を神に祈ることをおもいつき→都度祈りに祈りました
・祈りにこたえ聖霊を送ってくださり、正しく導き、助けて下さる毎日、毎月を9年間を重ねました
その結果:
・わたしが救われる前の緊張と不安の生活から
・救われた後の「主にある平安の日々」
私は、その主にある平安を自分だけのものとするのではなく、かっての私と同じように苦しみ悩みつつ働く皆様に、その喜びを、この平安をお伝えしたい→これが私の定年後のわたしの思いでした。
このことを鉢伏山で祈っていた時の召命のみことばでした。このみことばの召命を受けて、私はその翌年神戸ルーテル神学校に入学して、この献身の生涯が始まったのです。
洗礼をうけ、聖霊が降ってくださった者の生涯の証しとさせていただきました。
ここまでとします。ハレルヤー アーメン
2023.1.28
主 題:「 荒野での誘惑 」
聖書箇所:ルカ4章1~13節
1. 悪魔の試みに会われたイエス(1~2)
1 さて、聖霊に満ちたイエスは、ヨルダンから帰られた。そして御霊に導かれて荒野におり、
2 四十日間、悪魔の試みに会われた。その間何も食べず、その時が終わると、空腹を覚えられた
主イエスは悪魔の試み(誘惑)に会われたとルカは聖書に記します。どうして主イエスが悪魔の誘惑を受けられたのでしょうか? 1節には“み霊”によって、つまり聖霊によって導かれてとありますから、この悪魔の誘惑を受けることは神のみ心であったということですネー
何故なのでしょうか?
主イエスは、この悪魔の試みを受けてから、公生涯すなわち神の子としての宣教を始められるのですから、この悪魔の誘惑は、公の生涯を始めるに当たっての最後の準備だったのではないかと思います。
主イエスの神の子としての公生涯は、「ほかの町々にも、どうしても神の国の福音を宣べ伝えなければなりません。わたしは、そのために遣わされたのですから。」(4・43)と言われる如く→「神の国の福音を宣べ伝える」日々となるのですが、行く手には主イエスには様々な攻撃や誘惑が待ち構えている。しかし、それらに負けてしまうことなく“十字架への道”を全うすることであったと言えます。
先ず、主イエスは、この世の命ではなく永遠の命を与える神の子として歩む。この世の王としてではなく神の国の王として歩む。仕えられる主としてではなく仕える主として歩む。そのことが、決定された時であったと言って良いと思います、ネ 。さらに、主イエスが悪魔の誘惑に勝利して下さった故に、私たちも又主イエスと共に様々な誘惑に打ち勝つことが出来るのですヨー!
2.パンの誘惑(3~4)
3 そこで、悪魔はイエスに言った。「あなたが神の子なら、この石に、パンになれと言いつけなさい。」
4 イエスは答えられた。「『人はパンだけで生きるのではない』と書いてある。」
第一の試み「神の子なら、この石にパンになれと言いつけなさい。」でありますが、これは主イエスに対してだけの試みということになるのだろうと思います。何故なら、私たちには石をパンに変えることの出来る力はありませんからです、ネ
ここで、悪魔の誘惑は、力があるところにやってくるものだということが判ります→お金儲けが上手な人は、そこに誘惑が来ますし、異性にもてる人はそこに誘惑が来ます、ね。
この悪魔の誘惑に対して、主イエスは「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある。」と聖書のことば(申命8・3)から引用してこの誘惑を退けられました。
そこを見ますと、「人はパンだけで生きるものではない」で終わっているのではなくて、その後に「人は主の口から出るすべてのものによって生きる」という言葉が続いているのです。
この言葉は、イスラエルの民が出エジプトの40年の旅の間、天からのマナによって神に養われたということを示して告げられている言葉です。つまり、40年の間イスラエルの民は天からのマナによって神に養われ、生かされたではないか。主の言葉に従って生きる時神によって全てが守られることを、あの40年間の旅の間中、学び続けたのではないか。そう言っているのです。
私たちにとってパンの問題はいつも重要です。しかし、主イエスは言われました:(マタイ6・33)
「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、
それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」
私たちの求めるものは神の国と神の義です。神の言葉、神の支配、それを求める中で、パンの問題も又、主によって解決されていきます。→このことを信じる私たちは、礼拝ではいつも「主の祈り」を心を込めて祈ります。
3.権力と栄光の誘惑(5~8)
5 悪魔はイエスを連れて行き、またたくまに世界の国々を全部見せて、
6 こう言った。「この、国々のいっさいの権力と栄光とをあなたに差し上げましょう。それは私に任されているので、私がこれと思う人に差し上げるのです。
7 ですから、もしあなたが私を拝むなら、すべてをあなたのものとしましょう。」
8 イエスは答えて言われた。「『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えなさい』と書いてある。」
第二の誘惑、それは悪魔が主イエスに全世界の一切の権力と繁栄を見せて、自分を拝むならば、これら全てを与えようと言ったと言うのです。これは当時のことですから、さしずめローマ帝国の皇帝のようにしようということではなかったかと思います。
この世の力と繁栄、それは私たちの信仰の歩みにおいても、いつも誘惑となり→私たちの信仰の歩みが道からはずれてしまいま
す:
・私たちが苦しみに会った時、「どうして、神は私に何もしてくれないのか。神は本当に私を愛しているのか。」→疑いの心
が湧いてくることは皆さんも知っているのでは?
・しかし、誘惑というのは苦しみのときだけではないのです。その人が人生において、成功を収めた時、これも又私たちにと
っての誘惑の時となるのです
→成功し忙しくなる。礼拝を守ることもままならなくなる。そして自然と教会から足が遠のいていく。この場合は、苦しみ の時よりも、本人の自覚は薄いものです。何となく、祈る時が減り、礼拝に集う回数が減っていく,ちゃんと理由もつくのです。仕事が入る。時間の都合がつかない。仕方がない。それが続いていく内に、礼拝に集わないことが当たり前になってしまう。
私たちは、このようになる前に、悪魔の誘惑というものが、私たちに対して、実に巧妙であることを、よく知っておかねばならないのだと思います。そして、私たちは次のことをよくわきまえてまいりましょう:
① この世の力と繁栄を手に入れるために信仰しているのではない
② この世の力と繁栄が私たちをまことの幸いに導くものではない
このことを明確にしておかなければならないのではないでしょうか。
4.聖書のことばを用いた誘惑(9~13)
9 悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、神殿の頂に立たせて、こう言った。「あなたが神の子なら、ここから飛び降りなさい。
10 『神は、御使いたちに命じてあなたを守らせる』とも、
11 『あなたの足が石に打ち当たることのないように、彼らの手で、あなたをささえさせる』とも書いてあるからです。」
12 するとイエスは答えて言われた。「『あなたの神である主を試みてはならない』と言われている。」
さて、この第三の誘惑の特徴は、悪魔もまた、聖書の言葉を用いて誘惑しているということです。
ここで悪魔が引用しているのは、詩編の91編のみことばです。聖書の言葉というものは、そこに記されている意味・目的をきちんとわきまえないならば、悪魔でさえも引用することが出来るものだということです。神の御心に反する、神の思いと正反対のことを正当化するために、聖書の言葉を用いるということも起き得るということですネー
主イエスは、(申命記6・16)の言葉で悪魔の申し出を退けられました。「神を試してはいけない。」これも、私たちが良く心に刻んでおかなければならないみことばでしょう。私たちは、しばしばこの過ちを犯してしまいます。第二の誘惑が、成功した時の誘惑とするならば、これは、苦しい時・困難な時の誘惑と言っても良いかもしれません:
・神が、私を本当に愛しているなら、どうしてこんな目に会わなければならないの
・神が、私を愛しているなら、こうして下さい
そんな祈りをしてしまうことが、あるのではないでしょうか。「もし、あなたが本当に神なら、こうして下さい。」こう祈る時、私たちはこの悪魔と同じ言葉を用いて、神に迫っていると言えます。この悪魔のささやきは、実は私たちの心の中にあるささやきでもあるのだといえるのでは?
私たちが、「もし、あなたが神であり、私を愛しているなら、こうして下さい」そう祈る時、この悪魔の誘惑を退けられ、十字架への道を選ばれた主イエスは「私はあなたのために十字架にかかりましたよ。それではまだ足りないのですか?」と答えられているのではないか。
このように、主イエスは悪魔の誘惑に勝ちました。このことによって、私たちが出会う誘惑にも勝利の王として共に戦い、私たちを勝利へと導いて下さることになったのであります。主イエスは、私たちが出会う誘惑を知っています。それがどんなに力があり、巧妙であるか、よくご存知です。ご自身も誘惑に会われたからです。
しかし、それに打ち勝つ力を持っておられるのです。その力を、主イエスは私たちのために用いて下さいます。私たちの信仰の歩みには、戦いがあります。罪と戦い、誘惑と戦わなければならないのです。
(例えば)
私たちが礼拝日の朝、この礼拝に集っている。このことも又、誘惑との戦いに勝ったから、ここに座っているのでしょう:
・仕事が、家事が、勉強が、友人との遊びが、休息が、私たちを誘った。しかし、私たちは主を礼拝するために、ここに集っ
てきた。誘惑に勝ったからです→これは小さな戦いかもしれませんが、とても大切な戦いです。この戦いに敗れてしまえば、
私たちは信仰の歩みを全うすることは決して出来ないからです。
私は、この悪魔の誘惑に勝つ、一つの良い方法は、正しい習慣を身に付けることだと思っています。祈ることも正しい習慣の一つですし、毎日聖書を読むことも正しい習慣です。毎週礼拝を守ることも正しい習慣の一つです。例えば、毎週の安息日に礼拝を守ることも、それが習慣になってしまえば、特に誘惑と戦わなくても良くなります。当たり前のことだからです。しかし、これが習慣になっていない人にとっては、安息日の朝を迎えるたびに、大変な戦いをしなければならないことになってしまうのです。
もちろん、習慣だけで信仰の戦い、悪魔の誘惑との戦いに勝つことは出来ません。みことばと祈りという神の武具を身に付けなければならないことは、言うまでもありません。このみことばと祈りという神の武具をもって様々な誘惑と戦う時、この荒野の誘惑において勝利された主イエス・キリストが、私たちと共に、私たちに代わって戦って下さり、私たちを勝利へと導いて下さるのです。ここまでとします。みことばに感謝します、ハレルヤー! アーメン
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