2023.12.2
聖書箇所:ルカ22章39~46節
( はじめに )
私の前回礼拝説教は「最後の晩餐」で、今に残る聖餐式をやって、見せてくださいました。
今日の聖書箇所では ユダの導きで捕らえられるその最後の時にも、ゲッセマネでの「主への祈り」を弟子たちにやって見せてくれます。「主への祈り」こそ信仰の基であることを示そうとされたイエス最後のさいごの愛のわざでありました。
この「ゲッセマネでの主への祈り」から、私たちが礼拝ごとに祈る「主の祈り」ができています。このように私たちにとっても とても
大切な聖書箇所です。
主イエスは十字架前の最後の最後の時に、信仰が無くならないように「主イエスの祈りの姿」を見せるために…弟子たちを連れ
て行きました→私たちもご一緒にその祈りの場に行って見ましょう。
1. 誘惑に陥らない祈り(39~40)
39 それからイエスは出て、いつものようにオリーブ山に行かれ、弟子たちも従った。
エルサレム入城以来毎日宮で教えられていたイエスは、毎夜このオリーブ山のいつもの場所に行き、切に祈っておられた(ルカ21・37)。
その主イエスは、信仰を保つための「主への祈り」を弟子達に→“やって、見せるために”、オリーブ山のいつもの場所 ゲツセマネへと、弟子たちを連れて行き、彼らに最後の「主への祈り」を、「その祈りの姿を見せる場」を持ったのです。そして、主イエスはこの時、弟子達にこう言われたのです:
このおことばこそ、これから迎える厳しい状況の中で、弟子たちが信仰の備えをするために、どうしても必要なこととして、主イエスが教えて下さったことなのです。「誘惑に陥らないように祈っていなさい。」と主イエスは…様々な誘惑に陥りやすい私たちにも今日語ってくださいます:
・厳しい状況になればなる程、本当はいよいよ祈らなければならないはずなのに、祈らなくなる。いや、祈れなくなる
・「祈ったところで何になる。この状況は少しも変わらないではないか。祈ってもしょうがない。」
→そんな誘惑が私たちを襲うのです
そこに連れてゆかれた弟子たちは、主イエスが祈っている間に眠り込んでしまいました。すると、主イエスは再び:
46「なぜ、眠っているのか。起きて、誘惑に陥らぬように祈っていなさい。」
と弟子達に告げられたのです。ここでは「起きて、誘惑に陥らぬよう…」、と言われたのです。
この「起きて」の原文の意味は「立ち上がる」という意味です:
・当時の人はしばしば立って祈った、と言われます
・祈りとは、そのように誘惑に引きずり込まれないように、しっかりと足を踏ん張って立って、神に向かって願いを述べ、神
の栄光をほめたたえるのです
・私達もこのゲッセマネの祈りから、弟子たちによって受け継がれ、つくられた「主の祈り」を祈る時は立って祈ります、ネ
主イエスの弟子たちは:
・この主イエスの十字架を前にしての祈りの姿を
・そして主イエスによって告げられた“おことば”を生涯忘れませんでした
彼らはこの「祈っていなさい」という、主イエスの教えに生きる者とされたのです。
そして、この教えがどんなに力あるものであるかを、その後の厳しい伝道の生涯の中で思い知らされていったに違いないのです。そしてこの主イエスのおことば、弟子達から更にその次の世代へと伝えられ、キリストの教会が保持する大切な教えとなっていったのです。
使徒パウロは、Ⅰテサロニケの信徒への手紙で:(5章16~18節)
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことに感謝しなさい。」
と教え伝えています…
この様に、主イエスの「誘惑に陥らないように祈っていなさい。」のおことばが パウロの言葉として受け継がれ、伝えられ、キリストの教会に生きる代々の聖徒達を生かし、導いてきたのですネ。
2. 主イエスの祈りの姿(41~43)
この時の主イエスの祈りの姿は“ひざまずいての祈り”でした。当時、祈る時の姿は両手を天に上げ、立ったままの祈りと言われています。私は、弟子たちはこの主イエスの“ひざまずいての祈り”の姿を見て驚いたのではないかと思いますネー
そして、もっと驚いたのはその祈りのことば、祈りの内容でした:
42「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。…
「この杯」というのは、明らかに十字架の死を示しています。主イエスはここで、死の恐れに苦しみ、もだえています。主イエスはここで、永遠に神の子であった方が父なる神に捨てられるという苦しみを味わっておられるのです。そして、主イエスがこの苦しみを味わわれたが故に、私たちの死は「神に捨てられる死」ではなく、「神のみ許に召される死」へと変えられたのですネ。この時、主イエスを苦しめていたのは、私たちの罪です。ひざまずいて祈る主イエスの上に、私たちの全ての罪が覆いかぶさり、押しつぶそうとしていたのです。
その主イエスは、その罪の重さを受けとめつつ、こう祈られました:
「…しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」
祈りは→ただ自分の願いを神にぶつけるだけのものだけではないことを、主イエスは示されたのです。
祈りは→詩編にあるように、自分の思いを神にぶつける祈りもあります。
しかし、こちらの祈りでは→祈りに祈っていく中で、私たちはやがてこの主イエスの祈り:「わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」へと導かれていくようになってくると思います
そして、祈りに祈っていく中で:
・神は先を見られた深い思いやりのあるお方だ―が分かり
・自分が求めた祈りは→自分中心の祈りであったことが分かりるようになります
3.主イエスの祈り(44~46)
神を徹底的に信頼すること=諦めないということ:
・神にすべてを明け渡す心の叫びをする=「祈るということ」です
・それが「ゲッセマネでの主イエスの祈り」であったのです
ゲッセマネでの祈り…この祈りを弟子たちにやって、見せたいために、主イエスは3人の愛弟子たちを伴われたのです。
では、イエスが見せた祈りとはどのような祈りであったでしょうか?
私たちは、このゲッセマネでの祈りを通して 主イエスが示された祈りとは次の4点に示されると思います;
1) 祈りは“単純、素朴な心の叫び”である
“パテール”→幼い子供が父親をよぶ言葉です“パテール”:“父よ”の言葉が入っています
それまでに、これほど幼い言葉で祈った人は、主イエス以外にはいません
2) 祈りとは心を開いてイエスをお迎えすることです
黙示録3:20→祈りの本質を明らかにしてくれるみことばです:
「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしは、彼のところに入って、彼とともに食事
をし、彼もわたしとともに食事をする。」
私たちは悩みの時にイエスを迎えたいと思っているか→最も大切!
3) 祈りとは、本質的には「無力な人にのみ備えられたもの」と言われます
祈りは、無力な人(自分ではどうやってもできない人)の最後の逃れ場・心の避けどころです
一例ダビデの祈り(詩編142・1~2節)
私たちにとって祈りは→いちばん最後の逃れ場なのです。私たちは色々のことを試みた後、最後に祈りの道へと逃れるのです。無力さのどん底にいる人は、その無力さによって父なる神の優しい心に届く「最高の祈り」を持っているのです。
4)信仰があるから祈る→それも本当のことです。祈ったら、主は祈りにこたえて下さるという経験→信仰に固く立つことができます。しかし、祈るから信仰が守られる→それも本当のことと言えるでしょう。
主イエスが弟子たちと一緒にいることが出来た最後の時→その一番最後の時に、主イエスは自らの祈る姿を弟子達にやって見せた→これはとても大切な意味のあることだったのです。主イエスの弟子たちへの最後のメッセージがここにはあるのです:
「起きて、誘惑に陥らぬよう祈っていなさい。」
ここに、私たちが本当に備えていかなければならない信仰が守られていく“ただ一つの道”があるからです。
さあ皆さん、
まとめです
ゲッセマネでの…この「主イエスの祈り」を祈りなさい、と主は語られた
そこで「ゲッセマネでの祈り」が…マタイにより、またルカにより「主の祈り」として後に書かれたと言われます。
即ち、マタイが主の祈りの中に、この「神のみこころの実現を求める祈り」を書いたとき、明らかに、このゲッセマネにおける主の祈りを思い起こしていた…と言うことです。
この主イエスのことばを受けとめて、キリストの教会は礼拝の中で「主の祈り」を祈ります、またキリスト者は様々な困難また悩み苦しむときには助けを求めて主に祈ります。そして、困難な歴史の中を歩み続けて来たのです。
私たちも、この主イエスの言葉を受けとめて、祈るのを止めようとする様々な誘惑と戦って、しっかり祈って…
→アー主は、私の悩みに答えて解決してくださるのだー、私たちの祈りを待っておられるのだーの信仰をもち、この喜びを、隣人へと証する者にして下さいと、心から祈ります。
2023.12.9
聖書箇所:ルカ23章1~25節
( はじめに )
その祈りのあと:
・イエスはまだ眠っていた弟子たちに話をしているとき、ユダが先頭に立つ群衆に捕らえられ、大祭司の家に連れて行かれてしまいました
・弟子たちは、恐れてみな逃げてしまいました。その中で ペテロが遠く離れて、ついてゆき→大祭司の門をくぐり、様子をうかがうつもりでしたが、「あなたも、イエスの仲間だ!」と疑いをかけられます
・その女中など三度の疑いに対しその都度「イエスを知らないと「呪いながら」否定しました」
→イエスの言われていた「ペテロ。あなたに言いますが、今日鶏がなく前に、あなたは三度、わたしを知らないと言います」を思い返しペテロは泣きました
その大祭司の家での夜が明けると、イエスの宣教の働きにねたみを持つ民の長老たち、祭司長、律法学者たちは、イエスを殺
すために イエスの口からその証言を得ようと議会(サンヘドリン)に連れて行きました。
そして彼らは「あなたは神の子ですか」と尋問のすえ→ついに「あなたがたの言うとおり、わたしはそれです」のイエスの証言を得たのです。
ここまでが22章のゲッセマネの祈りのあとのことでした→今日の聖書箇所は、そこから始めます。
1. ピラトへの訴え(1~7)
イエスをねたむ彼ら(民の長老たち、祭司長、律法学者たち)は議会(サンヘドリン)に連れて行き、イエスの証言を得たので喜び勇んでピラトのもとへとイエスを連れて行ったのです
Qでは、“彼らのねたみ”とはどんなことでしょうか?
Aイエスさまが公生涯の福音宣教の旅…その中でのねたみ2選:
① 主イエスは…弟子たちが勝手知ったガリラヤ湖で、その暗闇の中で死にもの狂いの状況で苦しんでいる様子を知り、湖上を歩いて近寄り救い出し、言ったのがこのみことばなのです;
「わたしだ!」(エゴー、エイミ!)“わたしはあってあるものである”→“まことの神宣言”でありました.
律法学者たちには、決して受け入れられる言葉ではありませんでした!
彼らはみなで言った。「ではあなたは神の子ですか。」すると、イエスは彼らに「あなたがたの言うとおり、わたしはそれです」と言われた。
これを聞いた祭司長、律法学者たちは,ねたみに火がついたのです“どのようにしてイエスを殺そうか”と相談し、訴えたのです。
その時代、祭司長、律法学者たちは 自分たちで人を殺す裁きはすることが許されていませんでした→当時のローマ政府のみが、人を殺す裁きをすることができたのです。しかも彼らはユダヤ人が最も恥ずべき十字架による死刑を求めようとしたのです。
しかし皆さん、様子をうかがうつもりで大祭司の門をくぐって行った“主イエスの一番弟子を自任する”ペテロが「あなたも、イエスの仲間だ!」と疑いをかけられましたですねー
その三度の疑いに対しその都度「イエスを知らないと『呪いながら』否定した」と記されています(マタイ、マルコ):
・呪いながらですから…神の名をもって裁くということです
・神の名をもってペトロもまたサンヘドリンと同じように主イエスに死の判決をしたのです
この様に、イエスを裁いたのは、サンヘドリン(議会)だけではない、民衆だけではない、イエスの弟子たちでもあったのです
けれども、4節のように いろいろと尋問したピラトは「この人には何の罪も見つからない」と分かり、ヘロデのところに送りました。
2. ヘロデから尋問される(8~12)
2.1 私たち人間の罪
ピラトに次いで、ヘロデの尋問に対して、今こそイエスはことばを見つけ語らなければならない→その肝心なところで主イエスは黙っておられる…なぜイエスは黙っておられるのか…?
このイエスが沈黙しておられた場面は、とてもうるさく皆が騒ぎたたえているところです:
・22・70彼等は皆で言った…
・23・1そこで、彼らは全員が立ち上がり…
この皆とは群衆のことです。私たちもまたその群衆の一人ひとりです、ネ ヘロデは、11自分の兵士たちといっしょにイエスを侮辱したりしたあげく、はでな衣を着せて、ピラトに送り返した。
けれども皆さん、私たち現代に生きる人びとも→ヘロデと似たことをしているところがないでしょうか?
つまり私たち現代の人間は、自分の力に頼って、神あるいは永遠なる方のまえに謙遜になることを忘れている→不幸になってしまっている→現代の人間が招いている不幸は、自分の力・権力だけに頼っている。
そして、神との関わりを忘れていると言えるのではないでしょうか!
2.2 神の沈黙の愛
(イザヤ53章)苦難のしもべ→の7節です:
7 彼は痛めつけられた。
彼は苦しんだが、口を開かない。
ほふり場に引かれていく羊のように、
毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、
彼は口を開かない。
ここに示される、この黙ったまま裁かれる人こそ真実神のしもべであって、神に徹底的に仕え、従ったものであったと証言しています。そのしもべは:
・他者のために裁かれている
・他者のために苦しんでいる
・他者のために死んでゆく→そのように言ってます…
沈黙すべきは、ほんとうは裁くほうの人々です。裁かれているこの人には本当にいくらでも言い分はあった。それを黙っているのです。
3.十字架刑の判決を受ける(13~25)
ヘロデからもう一度送り届けられたピラトの裁判です。ピラトはここで、主イエスは死刑に当たるようなことは何もしていない
と明言しています。しかも、彼らは三度繰り返しています:
4ピラト「この人には何の罪も見つからない」
15 ヘロデ「この人は、死罪に当たることは、何一つしていません。
22ピラト「あの人には、死に当たる罪は、何も見つかりません。」
ピラトは言った:
『あなたがたが訴えているような罪は別に何も見つかりません。
・・・だから私は、
懲らしめたうえで、釈放します』
三というのは完全数ですから、ここでピラトは、断固として、否定しようがないあり方で、完全に宣言したということです。
けれども、ピラトはそこに立ち続けることが出来ませんでした:
・群衆は、主イエスを十字架につけろと叫び続けたからです
・その叫びはどんどん大きくなります
・このまま放っておけば暴動になるかもしれない
ピラトが恐れたのは何よりも暴動でした。ローマの総督としてユダヤに赴任しているピラトにとって、暴動こそ一番恐れていたことでした。
そんなことが起これば、統治者としての自分の能力を疑われ、自分の将来がどうなるか分かりません→彼は自分を守るために、主イエスを十字架につける決定を下してしまったのです、あーなんということを…!
しかし皆さん
このピラトに対して、私たちは偉そうに、何と弱い奴だと言うことは出来でしょうか?:
・正しいことはこうすることだと分かっていながら、ついその決定をした後での…周りの反発を恐れて事を曲げてしまう
・そういう弱さが私たちにもあるのではないでしょうか
4.十字架につけた人は誰れ?
さあ皆さん、これまでの主イエスとのかかわりから見て、主イエスを十字架刑につけたのはだれでしたでしょうか?
つぎの3者が考えられます:
・ねたみに狂うユダヤの指導者
・扇動された民衆
・暴動を恐れたピラト
ここには3者3様の言い分と理由があると思います:
1)ユダヤの指導者
イエスは「わたしだ!」(エゴー、エイミ!)“わたしはあってあるものである”と言われました→“まことの神宣言”でありました→律法学者達には、決して受け入れられる言葉ではありませんでした!
2)扇動された人々
民衆は主イエスを「十字架につけろ」と叫びました。多分、ユダヤの指導者に扇動されたのでしょう。時は過越の祭りです。民族的高揚が最高に達していた時です。この時の人々の叫びには、熱狂した民衆の恐ろしさを覚えますネ
私たちは、政治家とか、或いは会社、所属団体などのリーダーたちの指導、または扇動にはつい「太いものには巻かれろ!」や、周りの人たちの行動になびく習性がありますね→戦争はその典型です
3)暴動を恐れたピラト
ピラトは『いったい、どんな悪事を働いたと言うのか。この男には死刑に当たる犯罪は何も見つからなかった。』と2度言った→しかし、自分の立場を守るために民衆の叫びの前に自分の判断を曲げてしまった
しかし皆さん、
正しいことはこうすることだと分かっていながら、ついその決定をした後での…周りの反発を恐れて事を曲げてしまう、そういう弱さが私たちにもあるのではないでしょうか→何かを決定しなければならない立場に立った者なら、これは誰でも身に覚えがあることではないでしょうか
ねたみに狂うユダヤの指導者、扇動された民衆、暴動を恐れるピラト、それらが組み合わされ、主イエスは十字架にかけられることになりました。三者三様の動機があったにせよ、人間の奥底にあるドロドロした罪がここで表にあらわれたのです→そして、それによって主イエスは十字架につけられたと言えます.
最後ですが、皆さん
私たちはここで、主イエスを十字架につけるために働いた人々だけを責めることは出来るでしょうか・・・?
ここには、私たちの罪と私たちの弱さが示されていると言えるのではないでしょうか→主イエスの十字架刑へと追いやった中に、私は、私たちは入っていると:
・「十字架につけろ」と叫んだ人々の中に、わたしも入っていました
・自分の立場や常識を守るために、主イエスを殺そうとしたユダヤの指導者たち→自分にもそのようなところあるナー
・自分を守るために、民衆の叫び声の前に自分の判断を曲げたピラトと→自分にもそのようなところあるナー
その私の前に、何も語らずに、黙って十字架への道を歩まれる主イエスがおられる。この主イエスを十字架刑へと追いやった人々の中に自分を見出し、その私の前に十字架への歩みをなされている主イエスが居られることを発見したとき、私たちはこの方の前にひざまずかざるを得ません!
そして、主よ憐れんで下さい、私の罪を、私の弱さを、私の愚かさを赦して下さい、そう祈らざるを得ないのです。
そして、二度とそのような歩みをしないように、主よ私をきよめて下さい、強めて下さい、助けてください、とそう祈る者であります。ここまでとします
2023.12.16
聖書箇所:ルカ23章26~38節
1.ドロローサの道をたどるイエス(26~31)
判決を受けた主イエスは 十字架への歩みを始められました。総督ピラトの元からエルサレム郊外の処刑場→ギリシャ語で“ゴルゴタの丘”、ラテン語で“カルバリの丘”、日本語で“どくろ”と呼ばれる所への歩みです。
この石畳の曲がりくねった坂の道、あの大きな十字架を背負ってこの石畳の坂の道を主イエスは、歩み出さなければならなかったのです。
私はイスラエル旅行に行ってその道を歩いてきましたが、上り下りする石畳の道、曲がりくねった道を歩む姿を想像するだけで、なんという苦難の道…悲しみの道か、と思わされました→事実、いばらの冠をかぶらされ、自分の十字架を背負って歩む“悲しみの道”(ヴィア・ドロローサ)でした。
そして、曲がり角のところどころに、上の写真のようにその十字架に倒れうずくまり苦しむ主イエスの姿が刻まれています。
みなさん、
これが私たちすべての人から十字架につけろと叫びののしられ、ムチ打たれ、棘の冠りをかぶせられ、嘲笑され、息も絶え絶え、自分がつけられるその十字架を背負って、あの石畳の上り下りする階段にあえぎながら、いざりながら背負って歩むイエスの姿なのですよー
2.クレネ人シモンの働き(26)
26 彼らは、イエスを引いて行く途中、いなかから出て来たシモンというクレネ人をつかまえ、この人に十字架を負わせてイエスの後ろから運ばせた。
主イエスが担い切れなかった十字架はキレネ人シモンに背負わされました→ここには、““主イエスの弟子である者の姿”が指し示されていると思わされます、ネ。しかし→実際は、この時主イエスの弟子たちは皆逃げてしまっていました。
主イエスは言われていました:
「自分の十字架を負って私について来ない者は、わたしの弟子になることはできません。」(ルカ14・27)
この主イエスのおことば通りに、主イエスが十字架への歩みをされた時に十字架を背負って歩んだのが、このキレネ人シモン
だったのです。隠れていた主イエスの弟子たちはここに自分たちの本来あるべき姿を見ていたのではないか…と思いますネ。
ここには、主イエスの弟子となるということがどういうことなのか、主イエスの弟子として生きるとはどういうことなのかが示されているのでしょう。自分から進んで、喜んでするのではなくても:
・主イエスの十字架を背負う
・自分の十字架として背負う
→ここにキリスト者としての道があるということを示していると思います。
ところで皆さん、自分の十字架とは?:
× 日本語でも使われるような、自分の苦しさ、困難、逃れることの出来ないしんどさ、それらを指しているのではありません
〇 自分の十字架とは、主イエスが背負う十字架を→自分の十字架として背負うということです
→主イエスと関わりない所で自分がつらく苦しくても、それが自分の十字架というわけではありませんョ
そこで私は、先人たちが尋ね求めた言葉を参考にして、語りたいと思います。
「自分の十字架」を背負って生きること:
私たちが神のために、主イエスのために、また隣り人のために、
・労苦をいとわず
・一銭にもならないことのために、喜んでささげている姿(生き方)
と言えるでしょう
それこそがこの世が本当に求めている塩→世の塩と言えるでしょう。この世の塩こそ、実に主イエスの愛であり、福音であり、自分の十字架を背負って生きる者の姿といえると思いますネ
3.十字架に着けられた主イエス(32~38)
3.1 主イエスは十字架につけられた(32~38)
33 「どくろ」と呼ばれている所に来ると、そこで彼らは、イエスと犯罪人とを十字架につけた。犯罪人のひとりは右に、ひとりは左に。「そこで彼らは、イエス…を十字架につけた。」→当時の人々にとって「十字架につけられた」ということは処刑されたということです:
・重罪人として殺され、この世から取り去らされることです
・パウロは、イエスは呪われて死んだ、と書きました
ルカは、
① イエスの十字架を巡って、人々が何よりも彼をあざ笑った、と:
39節では十字架にかけられた犯罪人の一人が→イエスをあざ笑った
そこにいたすべての人が→イエスをあざわらった。すべての人がイエスをあざ笑った→このように誰からも尊重されずにイエスは死んだ、と
② 彼ら(民衆や、指導者たち)はこうあざけります
あなたはキリストだ、と:
→それなのに、自分を救うことができないのか、と
→他人を救うという救い主が、自分を救うことができないのか?
→自分が殺されようとしているのに、自分を救えないような救い主
が真の救い主として通用するのか?と
③ ローマの兵隊が言います
あなたはユダヤ人の王だ:
・あなたがユダヤ人の王なら自分を救うがよい
・兵士にとって、自分を救えない、そのまま死んでしまう王など王の名
に値しない、と
彼らからは⇒このように、イエスの死は軽んじられました…しかし、私たちクリスチャンはこう考えます:
×キリストであるにも拘わらず→十字架につけられた
〇キリストであるからこそ→十字架につけられ、殺されたのだ、と
35「…もし、神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ってみろ。」に対し→イザヤ書42・1
「見よ、わたしのささえるわたしのしもべ。
わたしの心の喜ぶわたしが選んだ者。・・・」
神はそのような王を自由に選ぶ。選びは神の自由です:
・私たちが自分で決めるのではない
・人間が誰かを王に祭り上げるのではない
・神が選んで与えてくださる
→イエスは、神に選ばれた者です。そして、今十字架にかけられているのです!
3.2 父よ彼らをおゆるし下さい(34)
34 そのとき、イエスはこう言われた。
「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」
この「赦す・ゆるす」のことばは「解き放す」ことです:
・私たちを重荷から解き放すのです。私たちにからみつく罪からの解放が起こるのです→自由が与えられるのです
・重荷からの自由?→主イエスを十字架につけてしまう重荷からの自由です
主は、私たちが…十字架につけ処刑する→という大罪を指し示しながら、その“からみつく罪からの解放”を祈っていてくださることは明らかです。
皆さん、
私たちはこう言われて歩んできたのではないでしょうか?:
「人生は重荷を負って歩むがごとし!」
Q 何の重荷でしょうか?
A 私たちにからみつく罪です→罪の思いです=人を押しのけてもしようとする思い→欲望:すなわち
・金銭欲 や名誉欲
・地位や立場への欲
・目立ちたがる欲
・・・人は欲望という電車に乗って 突き進んでいる、とも。これらにもとずく自分中心の思いから
→人を批判する、裁く、悪口を言う→喧嘩する、ののしる、のろう
→神の思いと反対のことをしてしまう思い…私たちにからみつく罪です
最後です皆さん
何の罪もない主イエスが、裁かれ、鞭うたれ、いばらの冠をかぶせられ、
・あの重い自分の十字架を背負って
・あの石段の曲がりくねった道をたどり行き
・あの十字架にかけられたその姿をみていたときに
「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」のことばを聞きました、 私たちは心打たれました。
・「神のキリストなら、自分を救ってみろ」などとは決して言いませんと心に決めました。主の身代わりのご愛に感謝します。ここまでとします。 了
2023.12.23
主 題:「 二人の高齢者の幸い 」
書箇所:ルカ2・21~38
(はじめに)
コロナが去った今年のクリスマス、皆んなでこのようにして教会でクリスマスをお祝いできる幸いを大いに喜びし、感謝したいと思います。
「自分のいのちの死」…これは高齢者だけではなく古今東西→これはどこであっても人間共通の一大関心事でありましょう。
ここに、全くその“誰にも知られていない幼子イエス”、に出会った“二人の高齢者の幸い”のことが今日読んで頂いた福音書に記されています…シメオンとアンナという高齢の男・女の二人の喜びの物語です。
皆さん、その高齢者が“主イエスにお出合いすること”=“救い主に巡り合うことができた幸い:
・祈っていた救い主にお会いすることができた喜びにあずかり
・永遠のいのちを与えてくださる
という恵みの約束のゆえに、“もう死んでもかまわない”とまで言わせるのであります。ここには、その信仰の故の幸いのことが書き残されていますので、クリスマスの今日、主イエスのご降誕の今日、ここを選ばせていただきました。
1. 幼な児イエスと二人の高齢者
23「母の胎を開く男子の初子は、すべて、主に聖別された者、と呼ばれなければならない」…とあります
「主に聖別された者」とは;
・長男…「これは神のものだ」と言う意味です
・そこで、長男を与えられた両親は神殿で神に詣で、幼子を主に捧げます
・さらに、神がその長男を与えてくださったことを感謝し、そして神様から「頂き直した子供」として、連れて帰ります
幼児イエスも、両親に連れられて、神に捧げられるための“宮参り”でありました→日本でも、子供が生まれると「宮参り」という習慣があり、また長男が家の跡取りをすると言う制度・しきたり…がありますが、このような思想から出たものではないでしょうか。
当時のエルサレムの神殿にも、そのような子供連れが沢山来ていたと思われます。その中に、貧しい大工のヨセフと、おそらく粗末な身なりであったと思われるマリヤもそこに来ていました。そこに、「生まれたばかりの赤ちゃんの“主イエス”がおられた…」としても、周りの人々は何とも思わなかったことと思います;
・赤ちゃんが光り輝いていたわけではありません…むしろ、
・みすぼらしい、誠に庶民的な若い夫婦とその子供でしかありません
・その場にいた人々、すれ違う人々が、誰もがその幼な子が、後に
世界を救う「救い主」になる…などとは気が付いていません。
ところが、その「幼な子の正体を見抜いた人」がいたのです。それは年老いた二人の高齢者でした。
「シメオン」であり、「アンナ」でありました:
・シメオンの年齢は分りません。しかし、シメオンは主イエスにお会いしたら→「安らかに去らせてくださいます」、と→で
すから、相当の高齢者であったと思います
・アンナの方は84歳と書かれています。この時代84歳とは相当な年齢と考えられます
いわば、二人とももう死が近い、高齢者達でありました。その高齢の二人が、幼な子の主イエスにお会いして;
・その幼子がどのようなお方であるか…を見抜くことができたのですネー
・その主イエスが…生まれたことを心から喜び、お祝いすることが出来た
・そして“安らかに去らせてくださいます”とまで言わせるのです
お二人にとってはまさに人生の充実感を味わった;
・ああ、わしは耐えて、祈ってここまできたけど…よかった!
・ああ、わたしの人生は満たされました、幸せよ!
→至福の時だったのではないでしょうか…
2. 二人の高齢者の信仰生活
シメオンもアンナも年をとっていました。もうシメオンも仕事をしていなかったようです。二人とも「生きがい」を失っていたのでしょうか? そうではないと思います…ならば二人にとって、「生きがいとは何であった」のでしょうか?
・近づいている自分の死を忘れようと
・誤魔化した生き方をしていたのではありません
シメオンは幼子イエスを抱いて、
29節「主よ、今こそあなたは、あなたのしもべを、みことばどおり、安らかに去らせてくださいます」
と言っているのです。すなわち、
・ 神様、もう死んでも良いのです ・神様、もう死なせて下さい
・ 私の人生は満ち足りています→私はもう満足です、もう充分です
そう言ったのであります!
シメオンは、幼子イエスを抱いた時に、自分の人生がもう充分に充実していたこと…を感じていたに違いありません…
自分の死を見つめながら、自分の長い人生の経験をへて、いま自分の死を目前にしながら“救われる”と言うことは、どおいうことか!→“救いのめぐみ”を 実体験することができたのです:
30~32節;
「私の目があなたの御救いを見たからです。
御救いはあなたが 万民の前に備えらえたもので、
異邦人を照らす掲示の光、御民イスラエルの光栄です。」
シメオンは神を待ち望んでいました。26節「お前は救い主に会う、それまでは死なない」、と告げられていたのでした。神の約束に支えられて生きていました。しかし、その約束は;
・自分の救いだけのものではなく
・神の選民ユダヤ人の救いのため、さらにその上に
・「異邦人を照らす啓示の光」を見たい…全世界が救われなければならない、全世界の人々が救われなければならない→と言う約束であったのです
年老いるまで様々な人生を積み重ねてきた、それだけに世の悲しみを深く知っていた。それだけになお深く神の救いを、ひたすらに待ち望む、祈りの生活をしてきたのでありましょう;
→だから、誰も気が付かなかった、赤子の主イエスを抱いた時に…ここに神の救いが実現したことに、直ぐに気がついたのでありましょう、ね…
→私たちもこのことをシッカリと心に留めておきたいものです
これはアンナの場合も同じでした。アンナの一生については詳しくは書かれていません;
36~37節「処女の時代のあと七年間夫と共に住み、その後やもめになり、84歳になっていた…」
と書いてあります。
若いとき嫁いで、とありますから10歳代であったことでしょう、夫と共に暮らしたのは僅か7年間;
・20歳そこそこで夫に死なれ…
・その後84歳になるまで
従って約60年もの長い間、独り身の生活をしていました。皆さん想像して考えてみてください→その苦労はいかばかりであったか…
しかし、彼女は宮を離れませんでした。そのような祈りの生活を続けていたのです、ねー
37節「夜も昼も、断食と祈りをもって神に仕えていた」とあります
アンナにとって、「自分の不幸は忘れることのできないものであった」ことでしょう。
しかし、アンナは;
・「どうして私だけが…」と不幸を嘆き続けていたのではなく
・自分の悲しみは深く味わいながら、しかし神に仕え祈っていたのです
悲しみの人であったからこそ、神に仕えた…とも言えましょう。しかも、預言者でありました。つまり;
・自分だけのことではない
・自分を含めたこの世の悲しみを、この世の苦しみを
・神様はどのようにして救ってくださるか
…ということを、一生懸命に問い続け、御心を尋ね続け祈っていた のであったことでしょう。
外見は“静”であったかも知れません、いや“変人”と思われていたかもしれません…しかし、実際は:
・誠に激しい生活を生き抜いていたと思います
・その祈りは激しいものであっことでしょう…
その激しい信仰生活の故に、その信仰生活の末に…彼女は幼子イエスを見ることが、いや「見分けること」ができたのです
38「そして、エルサレムの贖いを待ち望んでいるすべての人々に、この幼子のことを語った。」
その大きな喜びの故にエルサレム中に、救い主の出現をお知らせすることができたのです。何と言う「充実した人生」ではないでしょうか!
3. 主イエスに出会った人の幸せ
現在の日本には高齢化社会を迎えて、いろいろな形の問題、課題があります;
・ 本当の生き方を見つけていないままに、高齢者となってしまった
→真の神のことを知らない、受け入れていない人
→死んだら終い、と思っている人…つまり→死を恐れている人
・ 周りの人々が高齢者をしっかりと生かしてあげていない
→別な言い方で、安らかに死なせてあげる世界が作られていない
・キリスト教:
・死んだらしまいではないよ
・永遠のいのちをいただき、神の国にてなんの思い煩いなく生き続ける世界がある
が知らされていない→弾圧され、禁じられてきた
“お金でものの軽重をはかろうとする社会”では、高齢者や、弱者と言われる人々、貧しいい人たちは、もう生きている価値が無いのであります、ね。
ある高齢者が言いました;
「わたしたちが生きていると
・沢山のもの、色々な物を食べ ・着物を着 ・そしてゴミを出す→老人が生きることは、長く生きるだけこの社会に迷惑が
かかる。ああ、どうしたら良いのだろう…と。」
皆さん 何とも、せつない、悲しい思い…ではありませんか!
では、聖書で神様は→高齢者をどう言っているのでしょうか
(イザヤ書43:4)
「わたしの目にあなたは価高く、尊くわたしはあなたを愛しています」、と。即ち、主はあなたを大事にし(価高く)、主の民として尊い立場を奪わずに…わたしはそのようなあなたを愛しているのですよ、と
そして、(イザヤ書46:3~4);
「あなたは胎内にいたときから担われ、
生まれる前からあなたに委ねられてきました。
同じように、
わたしはあなたたちは年をとっても 白髪になっても、背負うよ。
わたしはあなたたちを造った。わたしが背負い、救い出すよ。」
→皆さん 神様はこのように言ってくださったいますネー
日本社会の現実はこれとは、あまりにもかけ離れています、ネ…高齢者になる前に、自分で、自らの命を絶つ人がなんと毎年3万人もいるのです。生きることがつらい、苦しい社会となっているのです。
しかし、このシメオンや、アンナの時代に、すでに主イエスが救い主として、この世に現れてくださいました。そして、十字架における死をもって、わたしたち全ての人の、全ての罪の身代わりとなって下さいました。そして、私たち一人ひとりに呼びかけて下さっているのです;
「疲れた者、重荷を負う者はだれでもわたしのもとに来なさい。
休ませてあげよう。
わたしは柔和で謙遜な者だから、
わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。
そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。
わたしの軛は負いやすく、わたしに荷は軽いからである。」
(マタイ11:28~30節)
そして、私たちはきょうの聖書箇所を通してシメオンとアンナという高齢の二人の幸いを学ばせていただきました;
その二人が“主イエスにお出合いする”ことによる幸い→私たちに罪の赦しを与え;
→神のいのちに生きる喜び、いのちに生きる平安を楽しむことができ
→永遠のいのちを与えてくださる
…この恵みの約束のゆえに“もう死んでもかまわない”とまで言わせるのであります
最後になりました、
メリー・クリスマスのこの日ここに集われた皆さん、とりわけご高齢の皆さん、今日は私たちの救い主のお誕生日と見分ける目と耳をもって受け取り信じ、幸いな生涯を歩まれますようにと、主イエスキリストのみ名によってお祈りします! アーメン
了
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