2022.11.5
主 題:パウロ 第2次伝道旅行のはじまり
聖書箇所:使徒16・6~39 (朗読:使徒16・6~15)
1.第2次伝道旅行のはじまり
15章36節
「先に主のことばを伝えたすべての町々の兄弟たちのところに、
また訪ねて行って、どうしているかを見てこようではありませんか。」
第1次伝道旅行のパウロとバルナバは、伝道旅行の最後の地デルべから帰る時も、近道でアンテオケに帰るのではなく、通って来た道を引き返し 訪問したその町々を再訪して、長老たちを立て信徒たちを励まして帰りました。
→主イエスを信じるようになった人々、その人々の群れである教会が、きちんと信仰に立って歩んでいくこと…それが伝道者パウロたちの何よりの願いでありました。そこで上記の15・36のことばを出したのでありましょう。
「一度主イエスを信じたら、ここはそれで終わり…」→伝道とはそういうものではありません。主イエスを信じた人々が、天に召されるその日まで…信仰の歩みを全うするようにと祈り、励まし、慰め、守り、支えていかなければなりません、ネ。
特に、エルサレム会議において重大な取り決めがなされたのですから、このことをきちんと伝えるということも、第2次伝道旅行の一つの目的であったと思います…
→16章4節「彼らは方々の町を巡回して、エルサレムの使徒と長老たちが決めた規定を守るようにと、人々に伝えた。」、
とあるとおりです。
第1次の旅行で一緒であった→バルナバとの話し合いはつかず→結局、パウロはシラスを連れて再び伝道旅行を始めました→パウロの第2次伝道旅行のはじまりです。
2.伝道の行方を決めるお方
第一次伝道旅行は海路を通りましたが、パウロ達は第2次の今回は陸路を行きました。 第一次伝道旅行で行った町々、
デルベ、リストラ、イコニオムを訪ねて、エルサレム会議で決まったことを伝えました。一行に、予定外の何らかのアク
シデントが起きたようです。
6~7節を見ますと:
6彼らは、アジヤでみことばを語ることを聖霊によって禁じられたので、フルギヤ・ガラテヤの地方を通った。
7こうしてムシヤに面した所に来たとき、ビテニヤのほうに行こうとしたが、イエスの御霊がそれをお許しにならなかった。
とあります:
・彼らは、イコニオムからそのまま西に向かって伝道していこうとしたのでしょう。が、それを聖霊から禁じられたのです。
・それで今度は、北に向かって伝道していこうとしたのですが、それも主イエスの霊によって許されなかったのです
彼らは、自分たちがみ心にかなっているに違いないと思った道を→聖霊によって禁じられ、断念させられてしまいました!
結局、彼らは自分たちが考えてもいなかった→トロアスという町に行き着いてしまいました。そこは、エーゲ海をはさんでギリシャに対している所です。前は海、後ろは聖霊によって禁じられた所→前にも行けず、後ろにも退けない
→この時、パウロたち一行は途方に暮れたと思います
・出エジプトのモーセの心境かなー
・これから一体どう進んでいけば良いのか、もうアンテオケに帰ろうか
そんな考えも浮かんだかもしれませんネー
皆さん、
この出来事は、私たちに→御心というものを考えさせますネー:
・「なぜ神は、その全能の力をもって支え導いてくださらないのか。」そう嘆きたくなることがあります
・伝道は、御心にかなっているに違いないのです。だから私たちは、それをするために計画を立てる
→しかし、思うように事が進まない
でも皆さん、こう思うこともできるのではないでしょうか;
・確かに、小アジアの人々にもビテニアの人にも福音は伝えられなければなりません
・しかし、それは今ではない、それはパウロたちによってではない
ということではないでしょうか。
神には、この時にこの人によって、というご計画があると思います。そして、今あなたには別のなすべきことがある、
ということなのではなでしょうか!:
・パウロ達の頭の中には、小アジアの町々への伝道しかなかったでしょう
・しかし、神は、海を渡ってギリシャに、つまりヨーロッパに向かっての伝道を、パウロたちに用意されて
いたのです
この時パウロは、二度までも道を閉ざされたのです:
・南も北もダメ、どこにも行けない…これは聖霊にとどめられたのです
・そして新たなマケドニヤへの道が開かれたのです、これも聖霊の示された道です、すなわち
→聖霊が伝道の道を示されます!
(私たちの証)ー略ー
3.一人を追い求める伝道
ここでパウロたちに道が開かれた次第はこうでした;
9ある夜、パウロは幻を見た。ひとりのマケドニア人が彼の前に立って、「マケドニアに渡って来て、私たちを助けてください」と懇願するのであった。
ここで「ひとりのマケドニア人が」という所に注目すべきであると思います→たった一人のマケドニア人が助けを求めた!
10パウロがこの幻を見たとき、私たちはただちにマケドニアに出かけることにした。神が私たちを招いて、彼らに福音を宣べさせるのだ、と確信したからである。
たった一人の人です! この一人の助けを求める幻に、パウロは神のみ心を見たのです。百人、千人、万人の人々が助けを求める幻ではありませんでした。たった一人です。この一人の助けを求める幻にみ心を見たのです!
これは大切な重大なことだと思います;
・私たちもこの感性を持たなければならないと思います→一人の人の助けを求める声を聞いた時、心が動くかどうかです
・この人を助けることに 御心があると確信することが出来るかどうかということです
→み心を確信するということは、その人を助けるために全力を注ぐということでありましょう…
→この人を助けるために、私たちの歩みが変わるということです
この一人の人の声をきちんと聞いた時、伝道への道が開かれるのだと、私は思います。
ピリポの伝道を見てみましょう(使徒8・26)
26ところが、主の使いがピリポに向かってこう言った。「立って南へ行き、エルサレムからガザに下る道に出なさい。」
27 そこで彼は立って出かけた。すると、そこに、エチオピヤ人の女王カンダケの高官で、女王の財産全部を管理していた宦官のエチオピア人がいた。彼は礼拝のためにエルサレムに上り…
主の使いがピリポに向かって「立って南に行きなさいと導かれました」そしてあのエチオピア皇帝の宦官一人が救われました→2千年後のエチオピアの…なんと人口の半分がクリスチャンとなっているのですョー!
4.ピリピでの伝道の実
パウロたちは、この「一人のマケドニア人の助けを求める幻」を本気で受け取り、「マケドニア人に福音を告げ知らせるために、神がわたしたちを召されているのだと、確信するに至った」のです。そして、マケドニアへ向かって出発したのです。
そしてここに、福音が小アジアからダーダネルズ海峡を渡ってヨーロッパ大陸へと伝わってゆく第一歩が刻まれたのです;
→これは歴史的な第一歩でした
→ヨーロッパはこの後キリスト教社会、キリスト教文化を形作っていくことになりました
その一歩は、この“一人のマケドニア人の助けを求める幻”を→神の御心として聞き取ったところから始まったのです。
4.1 ルデヤの救い
さて、パウロたちは船でマケドニアに渡り、ピリピの町へ行きました。この町にはほとんどユダヤ人がいなかったようです。
パウロたちは、会堂がないので→川岸にあるユダヤ人たちの祈りの場へ行ったのです。その中にルデアという婦人がいました。
彼女は異邦人でしたが、この婦人ルデヤがパウロの話を聞いて、彼女も、また後にその家族の者も洗礼を受けたのです。これがヨーロッパにおける初めてのキリスト者です…
→この婦人ルデアがヨーロッパの初穂となりました→このルデヤの後におびただしい数のキリスト者が誕生していくことになるのです。
主が心を開かせこのルデヤが信仰を与えられた時のことを、聖書はこう記しています;
(16・14「主が彼女の心を開いて、パウロの語ることに心を留めるようにされた。」
ここで聖書は、「主が彼女の心を開かれたので」と記しています→彼女は注意深く聞いたのです。そして、そのパウロの話を受け入れ、信じたのです。
皆さん、神に向かって、神のことばに向かって心を開く。これがなければ、いくら話を聞いても心には響きません。心に落ちてきませんネ!
4.2 占いの霊につかれた若い女奴隷、看守とその家族の救い
16私たちが祈り場に行く途中、占いの霊につかれた若い女奴隷に出会った。この女は占いをして、主人たちに多くの利益を
得させている者であった。
彼女はパウロ達のあとについてきてうるさかったので、困り果てたパウロはその霊に「イエス・キリストのみ名によって命じる。この女よリ出て行け!」と命じると、即座に霊は出て行きました→この女はヨーロッパ・ピリピでの救いの第2番目となり
ました。
ところが、その故に商売ができなくなった主人はじめその者たちの逆恨みで捕らえられ、役人の訴えで長官たちにムチ打たれ、ふたりは牢に入れられてしまいました。
25真夜中ごろ、パウロとシラスが神に祈りつつ賛美の歌を歌っていると、ほかの囚人たちも聞き入っていた。
26ところが突然、大地震が起こって…
→その夜大地震が起きました。そして牢の戸がみな開き、囚人たちの鎖もみな外れてしまいました。これは、神がパウロたち
を憐れんで起こしてくださったものなのだと思いますが、驚いたのは牢の看守、番人です…
→囚人たちが逃げてしまえば、その責任を負わされて自分の命はありません。彼は、牢の戸が開いてしまったのですから囚人
た ちはみな逃げてしまったと思い絶望し、その場で死のうとしたのです。
その時、パウロが大声で叫びました。「自害してはいけない。わたしたちは皆ここにいる。」→看守は驚きました。明かりを
持って来させると、確かにパウロもシラスもいます。彼は絶望の淵から助け出されたのです。
そして、パウロたちに申し出ます。「先生方、救われるためにはどうすべきでしょうか。」答えは実に単純でした;
「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」
看守はパウロたちを家に連れて行き、鞭で打たれた傷の手当てをし、家族と一緒に洗礼を受けたのです→ピリピでの第3番目の救いでした。
皆さん…
「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」
この御言葉にどれほど多くの人が慰められ、励まされてきたことでしょうか。そして、実際どれほど多くの家族が救われてきたことでしょう!
この約束は真実です。しかしこの約束は、一人のクリスチャンが生まれれば、その家族がみんな自動的に救われるということではありませんネ:
・一人の人が主イエスを本当に信じれば、その信仰は愛する家族に伝わっていくものです
・家族のために祈るでしょうし、何としても家族に福音を伝えようとするでしょう。そして家族も救われていくということだと思います
しかしながら、家族伝道は難しいと言われます。確かに、その信仰者を一番近くで見ているのは家族ですから、「言っていることとやっていることが違うじゃないか!」という批判も受けやすいのです。
けれども、家族の中にキリスト者が一人いれば、家族が主イエスの福音に触れるチャンスが非常に大きいということは間違いないでしょう…
→伝道にマニュアルがないように、家族伝道にもマニュアルはありません。
ただはっきりしていることは、ここでパウロたちは「主イエスを信じなさい。」と告げたことです;
➀主イエスに依り頼み、主イエスに自分の全生活、全存在を任せなさいと言われたのです
つまり、主イエスを信じるということは、自分の生き方、考え方の一つとしてキリスト教があるというようなことではないのですネ⇒そんなことでは家族に福音は伝わりません
②私の全生活、私の全存在、私の人生の全てを、主イエスというお方に委ねる。この方と共に生きる ということなのです、ですから、出来れば自分の子にも信仰が伝わればいいな、というようなものではないのです
③この子に信仰を伝えないで、何を伝えるのか。何としても主イエスの救いに与って欲しい。それがキリスト者である親の生涯を貫く祈りです
→この祈りは必ず聞かれます…
この「何としても」というのが大切なことではないでしょうか!
夜が明けると、ローマ人であるパウロの申し出で→長官たちに詫びを言わせ→牢を出た二人は、ルデヤの家に行きましたとあり16章はしまいです。
皆さん今日は→ここまでとします。みことばに感謝します ハレルヤー!
2022.11.19
主 題:テサロニケ~アテネでの伝道
聖書箇所:使徒17・01~34
1.テサロニケとべレアでの騒動(1~15)
パウロの第2回伝道旅行の足跡
1.1テサロニケでの伝道
ピリピを後にしたパウロたちはテサロニケへ行き、この町々でもユダヤ会
堂で主イエスの福音を語りました。
5ところが、ねたみにかられたユダヤ人は、町のならず者をかり集め、暴動を起こして町を騒がせ、
またヤソンの家を襲い、ふたりを人々の前に引き出そうとして捜した…とあります
大変なことになってしまいました。ユダヤ人たちのねたみを買いました:
・ユダヤ人は律法をまもることによってユダヤ人のみが救われる
・パウロは、主イエスを信じる信仰により、だれでも救われます、と
ユダヤ人のねたみにより、パウロたちは暴動の濡れ衣を着せられ、捕らえられそうになったのです。パウロたちはすんでのところでその町から逃げ出して、ベレアへ行きました。
1.2ベレヤでの伝道(10~15)
パウロたちは、ベレアでも同じようにユダヤ人の会堂に行き聖書を説き明かしました。
11ここのユダヤ人は、テサロニケにいる者たちよりも良い人たちで、非常に熱心にみことばを聞き、果たしてそのとおりかと毎日聖書を調べた。
ここではテサロニケとは少し違った反応がありました→ここベレアのユダヤ人たちは「良い人」(新共同訳では「素直」)であったと記されています。「素直」ということは、信仰においてとても大切なことですネ。その彼らは、 「パウロが語ることが本当かどうか、毎日聖書を調べた」と!
皆さん、聖書を自分で読んで、語られた福音が本当かどうか調べる。この「聖書を自分で読む」がなされるならば、必ず信仰が与えられると私は思います…→事実、12彼らのうちの多くの者が信仰に入った、と。
ところが、テサロニケのユダヤ人たちは、パウロがベレヤで神のことばを伝えていることを知り→そこにやって
て、群衆を扇動して騒ぎをおこした、そこで→パウロを案内した人たちは、彼をアテネまで連れて行きました。
2.アテネでの伝道(16~34)
さあ、いよいよアテネ入りです! そのアテネ…私たちも知っている古代ギリシャ文明の中心地ですネ…
→ソクラテス、プラトン、アリストテレスといった哲学者たちが活躍(BC5~4世紀)した町です。がパウロの時代…その栄光はもうありませんでした。
それでも、「学問をするならアテネ」というのは当時のローマ帝国の中での常識でした。この学問の町アテネで、パウロは伝道しました。
ここでの伝道は、今までのパウロの伝道の仕方と少し違います:
・このアテネの街の人々は→聖書を全く知らない
・がしかし、既に立派な哲学を持ち、世界とは、人生とはということに見識を持っている
→いわば、当時のギリシャ文化の中枢に向かって伝道したのですネー
それ故、
聖書を知らない人にどうやって主イエスの福音を伝えていくかです…
→これは、私たち日本のキリスト者にとって大変参考になりますネ
→少なくとも、パウロが、この課題にどのようにアプローチしたのか
それがここには示されている…そのような思いでここを読んでまいりましょう。
3.1パウロの憤り(16~20)
16さて、アテネでふたりを待っていたパウロは、町が偶像でいっぱいなのを見て、心に憤りを感じた。
この町の至るところに偶像があるのを見て腹を立てたというのです。当時のアテネの街には、そこに住む人より
多くの神々の像があったと言われています。
ギリシャの宗教は→ギリシャ神話をベースにした多神教です;
・太陽、月、星も神と結びついていますし、風や雨や嵐といったものも神と結びついています
・当然、病気を治してくれる神もいます→月の神、火星の神、水の神、風
の神、お酒の神といった具合に、すべてに神が付いているわけです
→その神が石に刻まれ、町のあちこちにありました
この偶像礼拝の根本は→「神を自分の欲望や願いの実現のために利用する」というものですネー
皆さん
この神に対しての姿勢こそ、最も聖書の信仰と対立するところなのですョー
私が大変興味を持ったのは、パウロはそれを見て憤慨した、腹を立てたということなのです:
・私たち日本にはそれこそ大変な偶像がそこここに見られます
○○大仏、お寺の中の仏像…ありとあらゆる仏像
神社の中の…△△神様、 道路わきの石仏のかずかず…
→それを見て、私は憤慨したとか…ということがあるだろうか、と
→愛する者が偶像を拝む姿に対して、私は本当に心を痛め、嘆き、怒り、憤慨しているだろうかと思わされました。 皆さんは如何ですか…?
3.2 パウロの説教 (21~34)
21アテネ人も、そこに住む外国人もみな、何か耳新しいことを話したり、聞いたりすることだけで、時を過ごしていた。
とあります。パウロの語る主イエスの福音は、アテネの人々がまだ聞いたことがない“全く新しい教え”でしたので、とにかく聞いてみようということになったのでしょう。
そして、丘の上にあったアレオパゴスの評議所に パウロを連れて行き、その教えるところを聞こうということになったのです→ここまでは、パウロのアテネでの伝道は成功だったと思いますネ
1) アレオパゴスにて→「知られざる神」
パウロはこう語り出します;
22「アテネの人たち。あらゆる点から見て、私はあなたがたが宗教心にあつい方々だとみております。
23私が道を通りながら、あなたがたが拝むものをよく見ているうちに、
『知られない神に』と刻まれた祭壇があるのを見つけました。
それで、あなたがたが知らずに拝んでいるものを、教えましょう”→と続けます
多神教の偶像崇拝に怒りを感じたパウロの言い方…
→「あなたがたが宗教心にあつい方々だとみております」
ここでパウロは、アテネの信仰を全部否定するのではなくて、それを受け入れて、それを新しくするという言い方
す、ネー
23節「あなたがたが知らずに拝んでいるものを、教えましょう。」は!
アテネは多神教の偶像礼拝ですから、神様は無数にある。人間の考え、人間の欲の数だけありますネー
しかし、どんなにたくさんあっても、それですべてとは言えない。まだ知らない神がいて→それで「知られざる神に」という祭壇があったのでしょう。パウロは→この「知られざる神」こそが「天地を造られた唯一の神である」と語り始めたのです!
パウロは;
27これは、神を求めさせるためであって、もし探り求めることであるなら、神を見いだすこともあるのです。確かに、神は、わたしたちひとりひとりから遠く離れてはおられません
と語ります。これもギリシャ人にとって驚くべきことでした。神は遠く離れているのではない→これはインマヌエルの神を語っているのでしょう。そして、その神は探し求めれば見いだすことが出来るというのです;
・主イエスが「求めなさい、そうすれば与えらます。捜しなさい、そうすれば見つかります。」(マタイ7:7)と言われましたように
・神は私たちが探し、求めるならば、見いだすことの出来る方なのです→「だから、神を求めよ。」そうパウロは語りたかったのです
次に29節です;
29そのようにわたしたちは神の子孫なのですから、神を、人間の技術や工夫で造った金や銀や石などの像と同じものと考えてはいけません。
私たちが天地を造られた神の子であるということは、何と素晴らしいことでしょう。そして、私たちが神の子であるなら、私たちの父である神がどうして命のない金や銀や石と同じでしょう。神は生きている方なのです。
2) アレオパゴスにて~悔い改めよ~
そして、ついに本題に入ります;
30神は、そのような無知な時代を、見過ごしておられましたが、今はどこででもすべての人に悔い改めを命じておられます。
パウロはここで悔い改めを求めるのです。ここでの悔い改めというのは;
・偶像を拝んでいた歩みから、まことの神を拝む者へと方向転換する
・神を利用しようとする者から、まことの神を信頼し、愛し、畏れ敬う者になるということであり
・まことの神のもとに立ち帰るということ→なのです
この悔い改めによってのみ、私たちが神の子となり、神の救いに与ることができるのですネー:
・すべての人を悔い改めへと導き、救うために、主イエス・キリストは来られました
・この主イエス・キリストの十字架と復活を語らなければ、主イエスの福音を告げることにはなりません
→パウロは一気にこれを語りました。
しかし、
アテネでは死者の復活ということを聞くと、ある人はあざ笑ったのです:
→復活ということが信じ難いのは、今に限ったことではありません
→これを聞いたとたんに、人々の反応が冷たくなったのです
ある人はあざ笑い、ある人は「それについては、いずれまた聞かせてもら
うことにしよう。」と言ったのです。
さあ、皆さん
私たちはアテネのように 古来の神々の沢山あるこの町で、このように福音を語ることができるでしょうかー!
→主に祈りつつ、主からの知恵をいただきながら、大胆に隣人に語っていきたいと思わされますネー!
さて、その結果はどうなったでしょうか…?
34しかし、彼につき従って信仰に入った人たちもいた。それはアレヲパゴスの裁判官デオヌシオ、ダマリスという
女、その他の人々であった。
神は、いかなる環境の中からも救われる者を起こされるご慈愛深いお方ですネー
私たちもまた、あざ笑いを受けようと、主に祈りつつ、大胆に自分の隣人に語っていきたいと思わされます。アーメンですか?アーメンです、ネ
ここまでとします。 了
2022.11.26
主 題:「神にとって不可能なことは一つもありません」
聖書箇所:ルカ1・1~38(朗読1・26~38)
1.祭司ザカリヤに現れた御使い(1~23)
ことのはじまりは、祭司ザカリアがエルサレムに上って神殿で香をたく奉仕をしていた時のことです。
当時の祭司は24の組に分かれており、彼はアビヤ組に属していました。この一つの組には多くの祭司が所属していたと言われていますので、神殿に入って香をたくという奉仕は、祭司ザカリアにとっては一生に一度当たるかどうかという晴れ舞台でありました。
この時、御使ガブリエルがザカリアの前に現れたのです。
12「ザカリアはそれを見て不安になり、恐怖の念に襲われた。」
この恐れは、聖なる方との出会いによってもたらされる畏れであったと思いますネー さあ、そのザカリアに…
13 御使いは彼に言った。「こわがることはない。ザカリヤ。あなたの願いが聞かれたのです。あなたの妻エリサベツは男の子を産みます。名をヨハネとつけなさい。
14その子はあなたにとって喜びとなり楽しみとなり、多くの人もその誕生を喜びます。
と告げました。そして、
・ここで御使いが“その子はあなたにとって喜びとなり、楽しみとなる”
・“多くの人もその誕生を喜ぶ”
と告げたことから、ヨハネの誕生は単にザカリア・エリサベト夫妻に子が生まれるという以上のこととなります、と言っているのです、ネ
これはヨハネが誕生すると、
15彼は主の御前に偉大な人になり、ぶどう酒や強い酒を飲まず、既に母の胎にいるときから聖霊に満たされていて
16イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせる
→と驚くことを語られるのです。
さて、洗礼者ヨハネの父となるザカリアですが、彼は祭司でした。母エリサベトも「アロン家の娘」とありますから、祭司の娘でした。二人は「神の前に正しい人」でした。しかし、二人には子どもがおりませんでした。
→当時、子どもがいないことは「恥」とされていました。
ザカリアとエリサベトは、「二人とも既に年をとっていた」と→50代か60代と考えて良いのではないかと思います。
子どもがなかなか与えられない女性の無念さは、アブラハムの妻サラなどにも見られるものです。しかし、神は彼女たちをかえりみてくださって、子を与え、その子を大いなる者として用いてくださいました、ですネ
エリサベトも「子がいない」という無念さと共に生きていたかもしれませんけれど、神はその思いを受け止めてくださっていたのです。二人は既に年をとっておりましたので、しかし、もうそのような祈りをしたことさえ、忘れてしまっていたかもしれません→けれども、神は忘れませんネー
2.神にとって不可能はない(26~38)
2.1神のおめでとう と
マリヤの思い(26~34)
1) 神のおめでとう(26~34)
26…御使いガブリエルが、神から遣わされてガリラヤのナザレという町のひとりの処女のところに来た。
27この処女は、ダビデの家系のヨセフという人のいいなずけで、名をマリヤと言った。
28御使いは、入ってくると、マリヤに言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」
御使いガブリエルはマリヤに告げます…
→28節「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」、と
突然天使が現れ、このように告げられても、一体何が「めでたい」のか、何が「恵まれている」というのか、マリヤは少しも 見当つきません
→マリヤはこの言葉に戸惑い、考え込んだと聖書は告げます
御使いは続けてこう言います;
29しかし、マリヤはこのことばに、ひどくとまどって、これは一体何のあいさつかと考え込んだ。
30すると御使いは言った。「こわがることはない。マリヤ。あなたは神から恵みを受けたのです。
31あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。」
天使が「おめでとう」と言ったのは、マリヤが身ごもって男の子を産む
からだったのです。もしマリヤがすでに結婚していたのならば、男の子を身ごもるということは、確かに嬉しいこと、喜ばしいことであり、「おめでとう」と言われるにふさわしいことであったでしょう。
しかし、マリヤはこの時まだ結婚していないのです。大工のヨセフと婚約はしていますが、まだ結婚していない。まだ生活を共にしていないので
す→結婚前に子供が出来るということは、社会的に許されることではなかったのです:
・マリヤは身に覚えがないことですし、自分が身ごもるはずがない
・もしそんなことになったら大変です→いいなずけのヨセフとの関係はどうなるのか…
実際、この後のことをマタイによる福音書は、マリヤのいいなずけのヨセフは、マリヤが身ごもっていることが分かると婚約を解消しようとしたと記しています。結婚前に、しかも一番楽しい婚約という期間に、婚約者のマリヤのお腹に子供が宿ったということは、ヨセフにしてみれば身に覚えがないわけですから“マリヤに裏切られた”→としか考えようがないわけですネー
彼が婚約を解消しようとして当然だったと思います。ですから、この時マリヤが身ごもるということは、少しも「めでたい」ことではなかったのです。それどころか、あってはならないことだったのです。マリヤにしてみれば、とても歓迎など出来るはずのないことでした。しかし、御使いは「おめでとう」と言う。
2.2 マリヤの思い (32~34)
32その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また、神である主は 彼にその父ダビデの王位をお与えになります。
33彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることはありません。
マリヤが「おめでとう」と言われた本当の理由は、ここにマリヤが身ごもる男の子について、御使いはこのように言うのです→いと高き方、とは 神のことですから、“マリヤが産む子は神の子である”というのです。
しかし、マリヤはその意味がよく分かっていなかったと思います;
・この御使いの言葉は、マリヤが産む子が旧約預言されていた、神の民が待ち望んでいた救い主→メシア・キリストを示していたのです
・救い主が生まれる。あなたはその母となる…と
→だから「おめでとう」で、だからマリヤは「恵まれた方」なのです
→神の永遠の救いのご計画がここに成就する。あなたは、そのみ業のために役割を与えられることになった。だから「おめでとう」なのです…世界中が喜ぶべきめでたいことなのです
しかしこの時、マリヤは「あなたは身ごもって男の子を産む」というところを聞いただけで気が動転してしまって、その子がどういう子であるかまで注意深く聞けなかったのかもしれません…
34そこで、マリヤは御使いに言った。「どうして、そのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに。」
と答えたのです。この時マリヤは、「わたしがどうして救い主の母になどなれるでしょうか。」とは言っていないのです。男の人を知らない自分が子供を産む。そんなことはあり得ない。心がそこにしか向いていなかったのです。
2.3 神にとって不可能はない(35~37)
35御使いは答えて言った。
「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。
36御覧なさい。あなたの親類のエリザベツも、あの年になって男の子を宿 しています。不妊の女と言われていた人
なのに、今はもう六か月です。
37 「神にとって不可能なことは一つもありません。」
御使いはエリサベツの話を出し、そして37節「神にとって不可能なことは一つもありません」と告げたのです。
1) サラへの祝福 (創世記18:1~15)
このことば「神にとって不可能なことはありません。」は、創世記18章にも出て来ます;
・アブラハムが99歳、サラが89歳の時、
「来年の今ごろ、サラに男の子が生まれる。」と主が告げたのですが、二人ともそれを信じることが出来ません
・サラは、そんなことがあるものかとひそかに笑ってしまうのです。その時に天使がアブラハムに言ったことば…
14 「主に不可能なことがあろうか。」わたしは来年の今ごろ、定めたときに、あなたのところに戻って来る。そのとき、サラには男の子ができている。
→100歳のアブラハムと90歳のサラにイサクが生まれた。と同じ言葉が、ここでマリヤに告げられたのです。そして、アブラハムの祝福が受け継がれた。神は約束を守り、その御業を遂行するためには
“神にとって不可能なことは一つもありません”→そう語られていますネー!
2) マリヤへの祝福
自分が男の子を産むということを受け入れようとしないマリヤに対して、御使いガブリエルは受け入れられないマリヤに、目に見えることを見せて説得するのです;
36御覧なさい。あなたの親類のエリザベツも、あの年になって男の子を宿しています。不妊の女と言われていた人なのに、今はもう六か月です。
マリヤの親類であったエリサベト。彼女はもう高齢になっていましたが、
子を宿し、すでに六か月になっていたのです。高齢というのですから…
どうでしょう60歳以上→いや75歳以上? だったのではと思います…
→この話はマリヤも知っていたし、不思議なこともあるものだと思っていたと思います、ネ
神は、マリヤが御使いの告げたことを信じ受け入れるための根拠を→目に見える証拠を用意されていたのです…
→それが、高齢になったエリサベトの懐妊でした。洗礼者ヨハネは、主イ
エスの前に「道を備える人」として遣わされますが、その母エリサベトもまた、主イエスの母マリヤのために「道を備える人」の役割を与えられていたということになります、ネ
御使いはエリサベトの話を出し、そして37節「神にとって不可能なことは一つもありません」と告げたのです。
「神にとって不可能なことは一つもありません。」→これは、クリスマスを迎えようとしているこの時、私たちに与えられた神のことばです…
→私たちは自分の力や能力を思うと、あれも出来ない、これも出来ないと考えてしまいがちですネ
→しかし、神がなさることに用いられるのならば、私たちは何でも出来る
のですョー
皆さん、神のみ心の成就!→「神の救いのみ業の前進」は、私たちの力や能力以外にあるのです→それは神がなさることだからですからネー
それを自分の小さな器に合わせて、出来るとか、出来ないとか言うべきことではない、私はそう思います→それは神がなされることなのですから…私たちは ただそのみ業の道具、器とされるだけなのではないでしょうか!
→皆さん、このことを、今日はもう一度「神にとって不可能なことは一つもありません。」の信仰をもって歩ませていただきましょう!
3.マリヤの信仰(38)
マリヤは、この神のみことばに対して、つぎのようにと答えました:
38わたしは主のはしためです。おことばどおり、この身に成りますように。
マリヤはついに説得されたのです。全能の神がことをなされる。マリヤは自分のことを「主のはしため」と言います→このことを受け入れたのです。
この時、天地を造られた神の御前に立ったマリヤは、自分がどんなに小さな、取るに足らない者であるかということを知り、また自分の力や能力や常識を超えて「神がことを起こされる」という信仰に立つことが出来たのです→聖書の神・主への信仰ですネー!
この神に対しての信頼・信仰は、自分が、自分が…と言っている限り→与えられません。自分の人生は自分の努力と力で造り上げていくものだとしか考えられない人には、受け入れることが出来ないものではないでしょうか!…クリスマスを迎えるこの時期、私たちが改めて心に刻むべきこと→それはこのことと思います;
・私は小さい。しかし神は大きい
・私は何も出来ない。しかし神に出来ないことは何一つない
・天地を造られた全能の神が、主イエス・キリストをまだ知らない一人一人に自らを現し、救いへと招き、導き、事を起こしてくださるのです
→私たちは、このことを信じます!
マリヤはこの時、「お言葉どおり、この身に成りますように。」と天使に答えました;
・ここで大切なのは、マリヤが「この身に成りますように」と答えたことです→「この身に」です
・神の救いの業は、この私を用いてなされていくのです
私たちは、神のみ救いのみ業の傍観者として立っているわけにはまいりません…
→「神にとって不可能なことは一つもありません」を信じ、「おことばどおり、この身になりますように」と祈りつつ歩んでまいります。主の御名によって祈ります、アーメン
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