2022.7.2

主 題:「主にある喜び と おそれ」

聖 書:使徒 4・32~5・11

 

(はじめに) 

 

ペンテコステの出来事により 誕生した教会は復活され→生きて働かれるイエス・キリストによって:

・主イエスの…おことばと業とを受け継ぎ…

・主イエスの救いのみわざを 行ってゆく群れとして

→たてられました 

また、この初代教会は神によって選ばれ、召された人々の共同体であることも書かれています

→即ち、“キリスト信仰”とは

×心の中に信じていればよい→共同体不要…教会不要ではなく

◎主イエスを信じる人々が、“共に集い 生活を共にする群れとして生きる” ことによって守られます,と。

 

 このような主の思いの中で、ペテロたちによって初代教会が誕生しました。「心と思いを一つにした」初代教会の生き生きとした姿が描かれています、ネ

ただし、皆さんここに書かれている「共に集い 生活を共にする」初代教会の姿が→現代においても唯一の正しい姿とは言い切れないとは思います;

・人数が増えた時には…あるいは

・その国や時代によっても

 

→また変わってゆかざるを得ないことがあろうと思います

がしかし:

・教会とは何なのか

・どのようなところなのか

について原点に立ち返り、考えてゆきたいと思わされています。ご一緒に読み、学んでまいりましょう

 

1.教会とは→「心と思いを一つにした」群れ43237

32信じた者の群れは、心と思いを一つにして、だれひとりその持ち物を自分のものと言わず、全てを共有していた。

 

教会は、主イエスを頭とし「心と思いを一つに」していた 信じた者の群れです→これはキリストを信じ、愛し、そし

て信じる者同士が互いに愛し合い、支えつつ歩んでいる姿を語っているとおもいます、ネ

 

現代社会では、これは一つの家族ならばできるでしょうが、人数が増えてゆくならば人間社会の中では「心と思いを

一つにし」てということはなかなかありません、ネ

教会も少しの群れならば、いや少しの群れでもなかなかむつかしいのが実情ではないでしょうか→ですから、よく読

んで参考にしてまいりましょう。

 今日の箇所には初代教会が「心と思いを一つにし」ていたあらわれと

して2つのことが記されています;

1)       受けた大きい恵みを語り、主イエスが復活され今も生きて働いておられることを力強く証した

2)       富と財産を共有し→一人も乏しい者がなかった

 

.1大いなる恵みをもって主イエスの復活を力強く証した(32,33)

33使徒たちは、主イエスの復活を非常に力強くあかしし、大きな恵みがその全ての者の上にあった。

これは、復活の主によって救われた者の受けた→その受けた恵みを皆で大いに証していた ということでありましょう…

では、受けたその恵みとは?

 ・イエスの復活により→主イエスこそ真の救い主、真の神の子であることがわかりました

 ・イエスの十字架により→私たちの全ての人のすべての罪が赦される道が開かれました

 ・主イエスを信じる信仰により私たちは救われました、そして永遠のいのちに生きる希望のもとに歩む者とされ

 ・主が私たちを愛し→わたしたちと共にいて下さる偉大な助け主であること

 であります

 自分の目で見、声で聴き、ある者は触ってみて→確かめたゆえにその証詞はどれほど力強かったことでしょうか:

(証-1)

使徒28それなのに、私たちめいめいの国の国語で話すのを聞くとは、いったいどうしたことでしょう

 

 9 私たちは、パルテヤ人、メジヤ人、エラム人、またメソポタミヤ、ユダヤ、カパドキヤ、ポントとアジヤ、

10 フルデヤとパンフリヤ、エジプトとクレネに近いリビヤ地方などに住む者たち、また滞在中のローマ人…

 

(証―2)〔使徒238

3千人が洗礼を受けたエルサレムの城壁のところ(私の旅行写真から)

38 そこでペテロは彼らに答えた。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。

 

.2 富と財産を共有し→一人も乏しい者がなかった

32…だれひとりその持ち物を自分のものと言わず、全てを共有していた。

34彼らの中には、ひとりも乏しい者がなかった。地所や家を持っている者は、それを売り、代金を携えてきて、

35使徒たちの足元に置き、その金は必要に従っておのおのに分け与えられたからである。    

→と書かれています

それでは、当時の教会に集う人達のことを少し考えてみましょう;

    主イエスの弟子たち→使徒たちはガリラヤ出身ですから、彼らはエルサレムには家や、土地などの資産はもっていなかったことでしょう、また

    五旬節の時にエルサレムに来て、ペンテコステの出来事によって洗礼を受け→その日、3千人ほどが弟子に加えられた(241

 その中からこの教会につながった人達もいたことでしょうこの人達も、大方はエルサレムには家や、土地などの財

資産はもっていなかったことでしょう

 →このような、事情の中では、家や土地などの資産を持った者が、それを売り、使徒たちの足元に置いたことが思われます

→そして、その金で皆が共同生活をしてゆくことができたのではないでしょうか

 

ムム…→富や財産からの自由

→皆さん、これは「将来に希望、または夢を持つ者のみにできること」ではないでしょうか…言うは易し、行うは→ムリ?

現代に生きる私たちも考えてみましょう→夢や希望をもって家を飛び出した方々です。この中で、生まれた家や財産を捨てて都会に出てきた人はいないでしょうか…?

  かく言う私はその一人です

   農家の長男坊の私は、たまたま中学校での進路指導ですすめられて受験した高校が、進学志望高校だったのです→一浪して、大学受験に合格してしまったのでした。

  大学を卒業し企業に就職した私の希望は「幸せを求め」→お金や物(財産)を求めました→しかし

×お金や、物はいくら持ってもその欲望は膨らむばかり

◎救われた後の企業生活の中で知った主の助けと恵みの結果から主にある平安こそ幸せです、を確信しました

→“富や財産からの自由”と言えるかと思います、ネ 

  和子先生もその一人です

 洗礼を受け、神の恵みをうけて→その喜びのゆえに、この喜びを伝えんがために親の忠告を振り切り、いや勘当さ

れたごとくに→振り切り→献身しました

そのことのゆえにやがて熊本の母教会で牧師として用いられ→台湾で宣教師、牧師としての23年間の生活をおくっ

てくることができました、ョ

 

 富や財産からの自由→これは主イエスの復活を受け入れて、“信じ救われ、恵みを受けた者の特質”といえるでしょ

う。それは、望ましい姿でありますが、人にはなかなかにできないことです、ネ。その故にそれを行っている教会の

姿に、周囲の人々は驚きと共に好意を持ったのではないでしょうか。

 

.富からの自由(5・1~11)

皆さん、次の2つのどちらを選択するかには、私たちキリスト者にはいつも付きまとう心の葛藤があるのではないでしょうか;

 ・お金第一→経済第一…か 

・神様第一→信仰第一…か

(お金第一→経済第一)現代社会は日本はじめ、世界中がこれを追求し続け、コロナウィルスのパンデミックでダメージを受けている、と。

教会では、神様第一でありたいと思います、ね。私たちがキリスト者として思い煩うことなく神様第一の生き方ができるならば、即ち、どんな問題の時でも「みことばを生きること」を選び取ることができるなら→“主にある幸いな生涯”を生きることとなりましょう

 

皆さん、今日の聖書箇所にはこの富をめぐって二つの例が書かれています;

  その一人はバルナバ

  アナニヤとサッピラの夫婦

次はその二つの方の生き方を見てまいりましょう。

 

.1バルナバの生き方(4・36~37)

36キプロス生まれのレビ人で、使徒たちによってバルナバ(慰めの子)と呼ばれていたヨセフも、

37畑を持っていたので、それを売り、その代金を持って来て、使徒たちの足元に置いた 

 

 このバルナバは…後にサウロ(後のパウロ)を12使徒たちに紹介したり、そのパウロといっしょに伝道したり

→教会に大変重要な働きをするのです。その彼は自分の畑を売って→その代金を持って、その代金を使徒の足元に置

いた→つまり献金したのです。

バルナバの思いは キリストの救いに与った喜びの中、ただ感謝の思いの中で→また、エルサレムでお金を必要とされる兄弟姉妹のことを思い、捧げたのではないでしょうか→これこそ神への感謝献金です、ネ

思うに、このバルナバのしたことは おそらく、エルサレムの教会の人の評判になったのでは、と考えられます、ネ

 

 2.2 誘惑された→アナニヤとサッピラ(5・1~11

バルナバは神への献金のゆえに→エルサレムの教会の人の評判になった→その評判の誘惑が、アナニヤとサッピラの夫婦には自分たちの土地を売り、その代金の一部を捧げたのではないだろうか…?

その時に、ペテロはこういうのです;

3そこで、ペテロがこういった。「アナニヤ。どうしてあなたはサタンに心を奪われ、聖霊を欺いて、地所の代金の一部を自分のために残しておいたのか。

4それはもともとあなたの物であり、売ってからもあなたの自由になったものではないか。なぜこのようなことをたくらんだのか。あなたは人を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。」

 

このやり取りの前には アナニヤとサッピラは、持ってきた土地の代金が…これが全部だといってペテロのところに持ってきたのだろうと思います、ネ。しかし献金は

→全部捧げなければならなかったということでも全くなく…

→土地を売って捧げなければならないということでもなかった…

→捧げものはあくまで自由なものです…

なぜそのように言ったのでしょうか…?

→それは、自分たちもバルナバのように人々から称賛されたいという思いがあったからではないでしょうか

ですから、ペテロは言いました;

 4「…あなたは人を欺いたのではなく、神を欺いたのだ、」

  →そして、アナニヤは…この言葉を聞くとすぐに死にました

 →そして、入ってきた妻のサッピラも同じように、土地の売値をごまかしたために死んでしまいました。

 

皆さん、ここで聖書は何を語っているのでしょう?

→神を見上げ、神に仕え、神にささげる共同体としての教会の中で人と比べ、人の称賛を得る在り方はふさわしくない、ということであり…それは、

→神はよく見ておられ、見過ごしにはされないということです

何より、この二人は、偽りの献げものをすることで神を侮った、ということです

 →彼らは“神の御前にあるという畏れを失っていたのです” ここには真実な信仰の歩みは生まれません

 

聖書は…この出来事を通して、神は主イエスを信じる者たちの上に、日々の生活の中にも確かに望んでおられるとい

うことです 

神はこの二つの出来事を通して…私たち教会につながる者は

・神の御前にあるという畏れを持ち、

・神の恵みの中に生かされた喜びを証し、感謝を示すこと→献金

→この2つは切り離すことは出来ないものであり→神の願っていることなのであることを…よくわかりました →アーメンですか?

 メッセージはここまでとします。アーメン

 

 


2022.7.16

主 題:「教会の執事職のはじまり」

聖 書:使徒6・1~7

 

(はじめに) 

ペンテコステの出来事により教会が誕生しました。そのペテロたちによってたてられた初代教会は、神によって選ばれ、召された人々の共同体であり、主イエスを信じる人々が、共に集い生活を共にする群れとして歩み始めます。 

さらに、聖霊に満たされた使徒たちの福音宣教で、より多くの人々が救われ、教会は多くの人が集う共同体として、拡大し続けました;

 ・男も、女も…若者も年寄りも救われました

 ・やもめたちも救われ…そこで生活しました

 ・祭司たちも救われました

 ・ギリシャ語を使うユダヤ人(ヘレニスト)がいました、またヘブル語を使うユダヤ人(ヘブライスト)がいました

 ・遠くから、近くから人が救われ…エルサレムの教会で生活が始まりました

 ・エルサレムに資産のある人たちが その必要を捧げました

 

皆さん、教会はこのように いろいろな人たちが集い→生活する共同体として拡大してゆきました

→が、そこには、新たな問題が発生しました

→これは時代を超え、どこの国においても「生活を共にする共同体」では必ず起きることです

さあ、エルサレムの初代教会で起きた

・「生活を共にする共同体」で起きた問題とは

・またそれはどうようにして解決されたのでしょうか?

 今日の聖書箇所使徒6章から学んでまいりましょう。

 

1. 弟子が増えたエルサレム教会での問題(6・1

そのころ、弟子たちがふえるにつれて、ギリシャ語をつかうユダヤ人が、ヘブル語を使うユダヤ人に対して苦情を申し立

 てた。彼らの内のやもめたちが、毎日の配給でなおざりにされていたからである。

 

ペンテコステの日以来、ペテロや使徒たちの働きによって主イエスを信じる人々が→増し加えられました、ネ;

2 : 41 ペテロの説教で→三千人が仲間に加わった

247 主は救われる人々を仲間に加えてくださり

4:4 ペテロとヨハの二人の語った言葉を信じた人は多く、男の数が五千人ほどになった

 

使徒たちの伝道によって、生まれたばかりの教会は、急速にその数が増えて行ったのです

→現代の私たち日本の教会では考えづらいものですが、日本でも戦後のキリスト教ブームの時には、どこの教会でも毎年多くの人達が救われ洗礼を受けてきた歴史があります、ね。

 

洗礼者がふえることはうれしいことです。しかし、みんなの顔と名前が一致するという小さな群れから、急に大きな群れに増えてみると、そこには問題も生じてきます。

初代教会では「皆、心を一つにして」と繰り返し語られてきましたが、数が急激に増えてゆきますと「皆、心を一つにして」とは必ずしも言えない状況が起きてきたのです。

 

ところで、エルサレム教会には二通りのユダヤ人がいました;

A:ギリシャ語を使うユダヤ人:ヘレニスト

 ギリシャやローマといった外地で生まれ生活した→所謂ディアスポラ(離散の)ユダヤ人であり、彼らはギリシャ語を使っ

 ていました。彼らは、外地からエルサレムに戻ってくるとユダヤ教の教会をたて住んでいました。

そのユダヤ人の中から、使徒の説く主イエス福音にふれ 悔い改めて、ユダヤ教からキリスト教になった人たち→ヘレニスト

  B:ヘブル語を使うユダヤ人:ヘブライスト

   純粋にパレスチナ及びエルサレムに生まれ、生活してきたユダヤ人で、ことばも先祖伝来のヘブル語(アラム語)を使っていた人たちがいました→ヘブライスト

 

また一方で、ユダヤ教には古来「やもめを養う」という制度がありました、キリスト教会はその良い習慣を取り入れていました

→財産がある教会員が教会にささげた共有のお金の中から、日々貧しいやもめに対して食事の配給が行われていました

が、このような教会内の食事の配給で、いつも軽蔑されていたギリシャ語を使うユダヤ人(ヘレニスト)から、そのやもめが

不公平に扱われているという苦情が述べられていました。

 

2. 信徒総会での提言(2~4

使徒たちは毎日毎日求めてくる方々への福音宣教に;

→おそらく食べてる暇もなく忙殺されていたように思われます

→従って、教会内における日々の実際的なことに関わる余裕はなかったと思われます

 

しかし、使徒たちはこうした問題の発生を、ほっておけない大切なことと考え

→教会の制度とそれぞれの役割を明確化することにしました

→そこで使徒たちは相談をし、信徒たちを招集して“信徒総会”持つことを考えたのです

 

.1 教会の第一とすることは→(6・2、4)

2 そこで、十二使徒と弟子たち全員を呼び集めてこう言った。

 「私たちが神のことばをあと回しにして、食卓のことに仕えるのはよくありません。

4 そして、私たちは、もっぱら祈りとみことばの奉仕に励むことにします。」

 

この問題に際して、使徒たち自身は まず第一としたもの…

→それは「祈りとみことばへの奉仕」でした:

 ・祈り…教会員の祈り、また新しいい求道者が起こされるの祈り

 ・みことば…みことばのメッセージ、み言葉の学びへの奉仕

 →「伝道と礼拝に専念する」といっても良いと思います

 

使徒たちは、ここで「教会は何を第一としなければならないか」を明確にしたのです;

“祈りとみことば”です

→それを差し置いて、ほかのことに一所懸命になっても、それは御心にかなわないことと考えたのです

教会は、この最初に起きた日常生活上の問題で、「教会は何を第一としなければならないか」そのことを明確にすることができたのです。

 →ここで使徒たちの職務が明確にされました

 →これが現在の牧師の職務につながっている、といえます

 

 足りないものですが、私たち二人もこのことを、しかと肝に銘じてつとめさせていただいております、と同時に早くこのような体制へと移行できるように、と祈っています。

 

22  執事の仕事(6・3)

3 そこで、兄弟たち。あなたがたの中から、御霊と知恵とに満ちた、評判の良い人たち七人を選びなさい。私たちはその人たちをこの仕事に当たらせることにします。

 

一方で、日々の分配、食事の世話の問題は、どうなったのでしょうか→使徒たちは、七人を選んでもらい、その仕事を任せることにしたのです→これが執事職のはじまりと考えられています…ここには執事職という名前は出てきませんが;

 1節「配給」→ディアコニア

2節「仕える」→ディアコネー

4節「奉仕」→ディアコニア

→ディアコノス「執事」と呼ばれることになります

ここに教会の制度、職制のはじまりを見ることができます。

その職制とは;

 ・教会がみことばをないがしろにされないためのもの

 ・伝道と礼拝が、しっかりと行えるためのものでありました

 →皆さん、ここが注意すべきところです、即ち教会の制度、秩序とは→それは、それを守ることに意味があるのではなく、そ 

 れを用いて、伝道と礼拝が充実するそのためにある、ということを 私たちは心にとどめたいと思います、ね。

 

さて、新しく選ばれることになった執事のことですが→その条件とはどのようなものでしょうか?

3そこで、兄弟たち。あなたがたの中から、御霊と知恵とに満ちた、評判の良い人たち7人を選びなさい。私たちはその人たちをこの仕事に当たらせることにします。

 

使徒たちは、そのために7人を選んでもらい、その仕事を任せることにしたのです→そこで使徒たちは提案した、その選んでもらう条件とは、次のようなものでした;

聖霊に満ちた人:神の事業は、神の霊に生かされる人によらなけばなりません

知恵に満ちた人:信仰的に優れているという人だけでなく、実際的な問題の解決にあたって、他のキリスト者の信仰と徳を高

         めるような配慮をするような人が望まれます

評判の良い人 :良く証する人→信仰と人格が社会的にも認められている人

 このような資格を持つ人が、教会内に発生する問題の処理にあたれば、教会の活動は良い方向に前進することでありましょう、ネー

 ちなみに、初代教会のこの執事の仕事とは

→当面教会の「救済制度」に関わることであったが、活動した領域は

→この6章以降でも語られますが→ステパノや、ピリポにみられるごとく、伝道の分野でも著しい働きをされました

ここで注目すべきは、使徒たちは自分たちで選んだのではなく、

→弟子たちに選ばせたのです

→これが現代の教会総会で 投票で選ぶということの出発点になっていると思いますネー(知恵が与えられてますネー)

 

ここにおられる皆さん、このお話はこの上岩出教会ではまだ早いですが、もうすぐそのような制度を考えなければならない時が来るのではないかと思っていますよー

 

3.執事職の誕生(6・5~7)

5この提案は全員の承認するところとなり、彼らは信仰と聖霊に満ちたステパノ、およびピリポ、プロコロ、ニカノル、テモン、バルメナ、アンテオケの改宗者ニコラオを選び

6この人たちを使徒たちの前に立たせた。そこで使徒たちは祈って、手を彼らの上に置いた

7こうして神のことばは、ますます広まって行き、エルサレムで、弟子の数が非常にふえて行った。そして、多くの祭司たちが次々に信仰に入った。

 

こうして、7人の人々が選出されました;

・使徒たちが選んだのではなく、会衆が選んだのです

・その選出された7人を→任命したのは使徒たちでした

 

使徒たちは祈って手を彼らの上に置いて→按手した:

・ここでは新しい任務が彼らに与えられることを公に示し

・その働きに必要な神からの恵みが与えられるように

→祝福を願い求めることでありました

これらの新しい執事職たちの上に手が置かれる「按手」によって「権威と力の付与」を意味しました。

 

現代の執事(役員)の役割として求められていることは;

 ・次の礼拝の計画を立て→コピー機を操作し

・古参者と新参者の不和を調停し

 ・年をとったやもめの世話をし

 ・教会の資金を忠実に運営すること

・新しい年度の企画立案…などでありましょう

→これもまた霊への大切な奉仕の側面であります

→これらのことが整ってはじめて牧師は“祈りとみことば”に打ち込むことができるのですネー

 

さて、選ばれた7名は皆ギリシャ語名でありますので→ヘレニストであったと推定されます;

 ・信仰と聖霊に満ちたステパノ:(6:8~8:1)

  7章にあるステファノの説教は…素晴らしく、堂々としたものでした

 ・サマリヤ伝道に励むピリポ:8章でエチオピアの高官にイザヤ書を解き明かしし、洗礼を授けています

 →彼らは、使徒たちが解き明かすみことばを聞いて、それに生かされ、自らも福音を語る者して生きていたのです

 

初代教会において、伝道は使徒たちだけではなかったのです:

・このように伝道は牧師や教職の専権事項ではなく

・牧師も、執事も信徒たちも一つになって仕えてゆくものなのですネ

 

皆さん、その使徒6章の執事制度は、上岩出教会にはまだ要りません。

しかし、

 ・教会は何を一番としなければ→みことばと宣教です

  それは牧師だけの専権事項ではなく、教会に集う人皆が一つ心となっておこなうものであり

 ・次第に人が増えてきたときには→いろいろな問題が起きますよ

  その時はどうすべきかを…示してくださいました

 

このように牧師も、執事も信徒も皆神のことばを聞き、学び→聖霊に満たされて一つになって進んで行くことが大切であること

を学ばせていただきました。

 

感謝して、主のみ名により祈ります、アーメン

 


2022.7.23

主 題 : 「 ステパノ の信仰 」 イスラエルの民の強情

聖 書:使徒6・8~7・53 

 

(はじめに) 

ペンテコステの出来事により→ 教会が誕生しました。そのペテロたちによって立てられた初代教会は、神によって選ばれ、召された人々の共同体であり、主イエスを信じる人々が、共に集い生活を共にする群れとして→歩み始めます。さらに、より多くの人々が救われ、教会は多くの人が集う共同体として→拡大し続けました。

 

教会はこのように、いろいろな人たちが集い→生活する共同体として拡大してゆきました。が、そこに新たな問題が発生しました。その問題を重視した使徒たちは信徒総会を開き7人の執事を選んでもらい→執事制度をつくり、教会全体で一つ心になって「伝道と礼拝に専念する」ことができるようになりました。

 ところが、これまでの章では、民衆は無知ではありますが、まだ受け入れる可能性を持った者として描かれています。が、ここにきて、前に驚き怪しんだ民衆は、教会を迫害する指導者の下に結集し、悪意を持った暴徒(6・11)と化してゆきます。

 

その非難の対象がステパノであり、そのステパノ物語が始まろうとするのです。しかし、この事件を機にエルサレムの教会に対する激しい迫害が起こり、使徒たち以外は皆、ユダヤとサマリヤの諸地方に散らされてゆくことになるのです

→(使徒1:8)がスタートする時となるのです;

「聖霊があなたがたがの上に臨まれるときに、あなたがたは力を受けます。そして、

エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てに至るまで、私の証人となります」

 

1.イスラエルの民の強情(6・8~15

 11そこで、彼らはある人々をそそのかし、「私たちは彼がモーセと神とをけがすことばを語るのを聞いた」といわせた。

 12 また、民衆と長老たちと律法学者たちを扇動し、彼を襲って捕らえ、議会に引っ張っていった。

 13そして、偽りの証人たちを立てて、こう言わせた.

           「この人は、この聖なる所と律法とに逆らうことば を語るのをやめません。

 

ステパノは 最初の信徒総会で選ばれた七人の中のでも中心的な人であったと考えられます;

5節「信仰と聖霊に満ちた人」

8節「恵みと力とに満ちた人」

10節「知恵とみ霊によって語る人」→と書かれています、

→ステパノの日常のありさま、やること語ることが、ぶれない信仰者であったということが見られます

→私たちも日々「みことばを生きることができる」ならば→ぶれない信仰者であることができます、ネ

 

そのステパノですが、ヘレニストへの伝道のためにその会堂にゆき、いつものキリストの福音を語ります。がそこで議論になったと思われます。そこでステパノが語ったキリストの福音は、訴えられた理由からして次のようなことではと推察されます;

 ・当時のユダヤ教は神殿礼拝が中心であり

・日々の生活は律法をまもることによって救われると考えていました

→従って、救われるのはユダヤ人だけ、となります

 

しかし、ステパノが語ったのは;

 ・神殿はいずれ崩れるものです

・また律法をまもることによって救われるのではなく→主イエスを信じる信仰によって救われます

→したがって、救われるのはユダヤ人のみではない、と

 

ステパノ告発の論点は次の二つでした;

  聖なる所へ逆らうことば

神殿はいずれ崩れるもの→全能の神はそのような人が造った小さなところにお住みになる方ではありません

  律法に逆らうことば

×律法をまもることにより救われる

◎主イエスを信じる信仰によって救われる

 正にこれらは既にソロモンに、またモーセのことばにより語り伝えられているものですが、“イスラエルの民の強情”がそれに

 反発させるのです

 

2.ステパノの説教(7・2~53)

このときに、ステパノを裁こうとしていた人々の思いは;

・「自分たちはアブラハムの子孫である→神様に選ばれた民である。自分たちこそ聖なる民であり、汚れた異邦人とは違うも

    のだ

 ・その証拠に、自分達にはこのように立派な神殿があり、律法がある。旧約の歴史には神の民の罪が記されている。しかし、

それは過去のはなしであり…自分たちのことではない」、と

  このように

→彼らは自分たちの罪を認めることは出来なかったのです

→主イエスを十字架につけ、ステパノを裁こうとしていた人たちは,主イエス・キリストが誰であるか、何のために来られたのかを理解できなかったのです

 

このような訴えに対し、一度はキリストを十字架につけた大祭司は、まだ、そのことを理解できずに

1大祭司は「そのとおりか」と尋ねました…

 そこでステパノは立ち上がり、知恵とみ霊によって語りだしました。そして語ったところが「2節~53節」で→ステパノの説教です! ステパノがここで語っているのは、アブラハムであり、ヨセフであり、モーセ、ダビデ、ソロモン…とこれだけの字数でイスラエルの歴史を延々と語つたのですネー→いやー全く驚きです

しかし、ここではその中での基本的なイスラエル人の罪二点について読んでいくことにします。

 

.1 モーセ予言を受け入れないイスラエル(7・36~37)

36この人(モーセ)が、彼らを導き出しエジプトの地で、紅海で、また40年間荒野で、不思議なわざとしるしを行いました。

37このモーセが、イスラエルの人々に、神はあなたがたのために,わたしのようなひとりの預言者を、あなたがたの兄弟たち

  の中からお立てになる』といったのです。

 モーセはイスラエル人から受け入れられずに、ミディアンの地に逃れていました。そのモーセが、神からの召命を受け、出エジ

プトの指導者として遣わされ、紅海の奇跡、40年の荒野の旅…を導いたのです。

そのモーセが37節のように語るのです;

神はあなたがたのために、わたしのようなひとりの預言者を、あなたがたの兄弟たちの中からお立てになる』と

 

これは申命記18:15にある言葉で「…彼に聞き従わなければならない。」と付け加えられ書かれています:

→後にモーセのような預言者が与えられる、とモーセは語ったのです

皆さん、その預言者こそ主イエス・キリストであったのですネ

 それなのに、あなたがたはその主イエスを十字架で殺してしまったステパノはそう言っているのです。

 

2.2 神殿を頼る罪(7.44~50)

44節以下…

モーセの時以来、神は幕屋において、御心を示し、出エジプトの民を導いてきました→ダビデの時代もそうしてきました。

ダビデは、神の住まいを欲しいといっていましたが叶えられず、それを建てたのはソロモンでした。

そのソロモンが神殿を奉献するときにささげた祈りが次のことばでした

48しかし、いと高き方は、手で造った家にはお住みになりません。

 

神殿完成に際し→(Ⅰ列王記827)にはこうあります;

「それにしても、神ははたして地の上に住まわれるでしょうか。

実に、天も、天の天もあなたをお入れすることは出来ません。

まして、私の立てたこの宮など、なおさらのことです。

 

ソロモンはこう祈って、神殿を奉献したのです。

人間の手で造った神殿、それは人の目から見てどんなに立派で壮大であっても、神がその中に住むなどということはありえないことです。何故なら

 →神はこの天地万物を造られたお方ですから、

人間の造ったそのようなところには住めるはずもありません→これは旧約時代からの常識です

 

それとは別に

 →礼拝する場所としての神殿は大切です。しかし、神殿に神が住むとか、神殿があるから大丈夫→全くナンセンス

 エレミヤのことばを見てみましょう;(Ⅱ歴代誌36:11~13)

11ゼデキヤは21歳で王となり、エルサレムで11年間、王であった。

12彼はその神、主の前に悪を行い、主のことばを告げた預言者エレミヤのことばの前にへりくだらなかった。

13彼はまた、ネブカデネザルが、彼に神にかけて誓わせたにもかかわらず、この王に反逆した。このように、彼はうなじのこわい者となり、心を閉ざして、イスラエルの神、主に立ち返らなかった。

 

 これは、イスラエルの民が、バビロン捕囚という神の懲らしめを受けた時、イスラエルの民に悔い改めを求めた預言者がエレミヤでした。この時エレミヤに対抗したニセ預言者たちが言った言葉が;

  「私たちには神殿がある、だから大丈夫だ。バビロンなどに滅ばされることはない」と豪語したのです

 →しかし、神は主なる神に仕えようとしないイスラエルの民を、バビロンを用いて滅ぼし、神殿も瓦礫の山としてしまわれたのです見なさい、神殿があるから大丈夫、神殿こそ神が住まわれるところ。神殿がやがて崩れる時が来るなど と言う者は

→神をけがす者であり、許せないなどと語っている

それこそあなたがたは 神のことばを聞こうとしない民ではないか

→ステパノはそう言っているのであります

 

.3 神に逆らう罪(51~53)

ステパノの説教の結論は51節以下に語られています。

51かたくなで、心と耳とに割礼を受けていない人たち、あなたがたは、父祖たちと同様に、いつも聖霊に逆らっているのです。

52あなたがたが迫害しなかった預言者がだれかあったでしょうか。彼らは、正しい方が来られることを前もって述べた人たちを殺したが、今はあなたがたが、この正しい方を裏切る者、殺すものとなりました。

 

あなたがたは、からだに割礼を受け、神の民のしるしを受けている。しかし、心も耳も割礼を受けていない

→神のことばを聞き、神のみ心を思い→悔い改めようとしない!

→そして何より、主イエス・キリストを受け入れようとしない!

これこそ神に逆らい、聖霊に逆らう罪なのだ。

 

あなたたちは、先祖たちが予言者たちを迫害したように、神が遣わされた主イエス・キリストを十字架の上で殺したのだ

→ステパノはそう語るのです

 

3.    救いに与った者として

ステパノが語る言葉は大変に厳しいものです。神に逆らい続ける罪人の姿に、ステパノは厳しく指摘します。

しかし、これは当時の大祭司たちだけに向けられた言葉である、というわけにはまいりませんネー

→同じような心が私に、私たちの心の中にもあるからです

・自分は洗礼を受けたからそんなことはない→自分は正しい

・私たちには目に見える教会がある→自分は良い人間だ

→そんな思いがないとはいえないでしょう

 

自分は正しい…と自分を誇り、目に見えるものを誇り、神により頼もうとしない私の思い→それは紛れもなく罪の姿です。

私の、また私たちの中に、この罪がないとはだれも言えないのではないでしょうか

 私たちは礼拝のたびごとに、この私の罪を神様の前に告白し、主イエス・キリストによる罪の赦しを受け→明るい希望ある明日

に生きるのです;

・私はあなたに逆らい、自分こそ正しいと→自分の欲するままに生きてきたものです…主よ憐れんでください

・あなたはそのような私たちをあわれみ…御子の十字架のゆえに赦し、教会に、その礼拝にと導いてくださいました

・これから歩む一週間の中にも、行く手にはいろいろな問題があるでしょう、また甘い誘惑もあることでありましょう

 

→しかし、そのような中に出会った時でも、主に祈りつつ、みことばを生きる道を選び取ることができるように助けてくださ

い、とお祈りするものであります。  了 

 

 


 2022.7.30

主 題 : 「 ステパノの殉教 教会への迫害 」

聖 書:使徒7・54~8・3 

 

(はじめに)

ペンテコステの出来事により 教会が誕生しました。さらに、より多くの人々が救われ、教会は多くの人が集う共同体として拡大し続けました。教会はこのように、いろいろな人たちが集い 生活する共同体として拡大してゆきました。が、そこに新たな問題が発生しました。

 その問題を重視した使徒たちは信徒総会を開き7人の執事を選んでもらい→執事制度をつくり、教会全体で一つ心になって「伝道と礼拝に専念する」ことができるようになりました。

 ところが、これまでの章では、民衆は無知ではありますが、まだ受け入れる可能性を持った者として描かれています。が、ここにきて、前に驚き怪しんだ民衆は、教会を迫害する指導者の下に結集し、悪意を持った暴徒(6・11)と化してゆきます。

 その非難の対象が執事ステパノであり、そのステパノに対する迫害が始まるのです。執事ステパノは捕らえられ、あの大祭司の裁きの座に連れって行かれたのです。

その大祭司の問いに対して答えたのが、あの「ステパノの説教」でした。ステパノの説教は真実“ユダヤ人の強情”を指摘するものであり、激怒した暴徒により狂暴が起きます。それ以降が今日の聖書箇所に入ります、さあその結末はどうなるのでしょうか?

 結論からいえば、この事件を機にエルサレムの教会に対する激しい迫害が起こり、使徒たち以外は皆、ユダヤとサマリヤの諸地方に散らされてゆくことになるのです。

 さあ、それでは、今日の箇所に入って行きましょう。

 

1.迫害の中に主イエスを見る信仰(7・54~60)

54 人々はこれを聞いて、はらわたが煮え返る思いで、ステパノに向かって歯ぎしりした。

55 しかし、聖霊に満たされていたステパノは、天を見つめ、神の栄光と、神の右に立っておられるイエスとを見て、

56 こう言った。「見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます。」

 

 生まれたばかりの初代教会で、7人の執事が選ばれ任命されました。その中の一人ステパノが人々の間で、真実に不思議なわざとしるしを行っていました。彼はねたまれ捕らえられてしまい、最高法院に引き出されてしまいます。

大祭司に「そのとおりか」との問いに、ステパノはあの大説教をし→“ユダヤ人の強情を二点に絞り”指摘した:

・ユダヤ人が頼りにしていた神殿や律法によって救われるのではなく

・あなたがたが十字架によって殺したイエスこそ神様が送られた救い主であり、この方によってのみ救われることを告げました

これを聞いたユダヤ人たちは、もはや冷静でいることが出来ませんでした→54彼らは歯ぎしりをし、激しく怒りました。そして、ついにステパノの口から決定的な一言が告げられました

56天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える、と

 

この一言が、ユダヤ人たちの最後の忍耐の鍵を壊してしまったのです。彼らはこの言葉を聞くと怒りに身を任せ、いっせいにステパノに襲いかかり、エルサレムの外にまで引きずり出し、「石打の刑」すなわち石を投げて殺してしまったのです。 

 どうしてこの一言がそれ程までにユダヤ人たちの心を逆撫でしたのでしょうか。それは、この一言が説明することも要らないほどに明確な、「人の子イエス・キリストがまことの神の子であることの宣言」だったからです…

→(使徒信条)「…三日目に死人のうちより、天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。 」にうたわれ

  る通りです。

 

また「天におられる主イエス・キリストを仰ぎ見る」

→それは、まさにこの礼拝のたびごとに私たちがしていることではないでしょうか

→ここで天の主イエスを仰ぎ見ることが出来なければ、私たちは一体

どこで主イエスを仰ぎ見ることが出来るでしょうか?

その意味で、私たちはこの主の日の礼拝のたびごとに、自らの死への備えをしている…そう言って良いのだと思います、ネ

 

2.死を超えた二つの祈り(7・58~60)

     画家レンブラントの絵

ステパノは石を投げられて殺される時、二つの祈りを主に叫びました:

A:「主イエスよ、わたしの霊をお受けください。」と

B:「主よ、この罪を彼らに負わせないでください。」…の二つです

彼はこの二つの祈りを大声で叫んで、息を引き取ったのです。この二つの祈りの言葉は、まさに主イエスが十字架の上で息を引き取る前に語られた言葉と同じです。

A↔第七のことば「父よ、わたしの霊をあなたの手に任せます

 B↔第一のことば「父よ、彼らを赦してください。彼らは何をしているのか分からないからです。

ステパノは、この時主イエス・キリストの霊である聖霊を受けていたと書かれています。聖霊の御支配の元で死を迎えた時、この祈りが口から出て来たということではないかと思うのです。

 

ステパノについて、聖書は「聖霊に満たされ」という言葉を何度も使ってきました。聖霊に満たされるということは、聖霊のご支配のもとで主イエスに似た者に変えられるということでありましょう。

さて、 

「主イエスよ、わたしの霊をお受けください。」の祈り:

この肉体の死を超えた命を指し示しています。この祈りは、ステパノがまさに肉体の死を迎えようとしているその時に、彼は肉体の死を超えた「いのち」を見ていたということを示していると思います

 そしてもう一つの祈り:

「主よ、この罪を彼らに負わせないでください。」

ここには、圧倒的な赦し、聖なる赦しと呼んでも良い驚くべき赦しを示しています。ステパノはこの時、十字架につけられた時の主イエスと同じように、自分に石を投げて殺している人々を少しも恨むことなく、彼らの罪の赦しを祈っているのです。何と驚くべきことでしょうかネー

 

・怒り、憎しみに支配されて、ステパノに石を投げつける人々…

・その人たちの罪の赦しを祈るステパノ…

永遠の命を信じ、それを仰ぐステパノ→ステパノはここで死にました。

 

しかし、ここでは赦しが、永遠のいのちが勝利しています。ここに示されている強さ、美しさは、永遠のいのちの勝利であり、赦しの美しさであると思います。

そして、この力と勝利と美しさは、主イエスの十字架の力と勝利と美しさだと思いますネー。

 

 ここを読んだときに、私は神戸ルーテル神学校の卒業旅行で行って見た長崎、また五島列島の教会の前にある記念のモニュメント

を思い出します:

1)長崎の26聖人の記念碑

 

彼らは、豊臣秀吉の命令によって長崎で磔の刑に処された26人のカトリック信者→苛烈な追求とさばきに、恐れもなく、

神を見上げて、刑死していったのでした

2)五島列島の教会の前にある激しいモニュメントの数々

マニラから帰国し、捕らえられた聖ヨハネ五島→おらしょ

彼らは、おそらくステパノと同じような、主なる神を見上げての姿ではなかったかと思い至りました。

 

3.激しい迫害で、ユダヤとサマリヤに散らされた(1~3)

1 サウロは、ステパノを殺すことに賛成していた。その日、エルサレムの教会に対する激しい迫害が起こり、

 使徒たち以外の者はみな、ユダヤとサマリヤの諸地方に散らされた。

2 敬虔な人たちはステパノを葬り、彼のために非常に悲しんだ。

3 サウロは教会を荒らし、家々に入って、男も女も引きずり出し、次々に牢に入れた。

 

石打の刑を執行され、絶命したステパノの死を、サウロは肯定したとしても、サンヘドリンの態度とその判決を容認しなかっ

た人々→ユダヤ人キリスト者(ヘレニスト)もいました→この人たちは死刑囚の死体を、深い悲しみに満たされながらも必死

の覚悟で埋葬しました。

 

さらにこの日、ステパノの死をきっかけにして、エルサレムの教会に対して激しい迫害が起きました。

その迫害の様子は、3節のサウロの描写からもうかがうことができますねー

→迫害は、地上に生まれ出たキリスト教会に対する、ユダヤ人社会からの全面的な挑戦であり、

 それはまずエルサレムから始められました。

 

しかし、使徒たちはこの迫害の最中にあってもエルサレムにとどまっていました。これは、迫害の原因がステパノの反ユダヤ

的神学にあり、迫害が主としてヘレニストのキリスト者に向けられていたことによると考えられています。

 

迫害は確かにキリスト者にとっては大きな試練でした。しかし、それは同時に福音宣教の歴史に思いもよらない前進と拡大の

道を開くことになったのです

→この迫害により、キリスト者はエルサレムから離れ

→ユダヤとサマリヤの諸地方に散らされたからであります

そして、離散した地で、キリスト者たちは福音を証し、宣教に励んだのです

→使徒たちではなく、世界宣教はキリスト者たちによってなされていったのです

→こうして

あの(使徒1:8)の予言がスタートする時となったのです;

聖霊があなたがたがの上に臨まれるとき、

あなたがたは力を受けます。

そして、

エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリヤの全土、

および地の果てに至るまで、私の証人となります」 

 ハレルヤー!!

 皆さん

 私たちもまた、同じように近き隣人に福音を証し、宣教してまいりましょう! アーメン