2023.4.22
聖書箇所:ルカ7章36~50
2023.4.1
聖書箇所:ルカ7章11~17節
(はじめに)
私たちは今 教会歴でいう受難節(レント)の中にいます。そして、今年の受難節明けのイースターは4月9日(この教会では4月8日)です。この受難節期間中の私たち教会員の生活は→キリストの苦しみに連なって 私たちに奉仕、宣教ということで何ができるのかを考える日々であると言われ、また、洗礼希望する者にとっては、信仰の学びの期間と言われてきました。
しかし、その中でも「洗礼を受けたら何か変わりますか。」と言う素朴な質問の声も聞かれます。が皆さん、洗礼を受けてキリスト者になっても、もし何も変わらないとするならば、洗礼を受ける意味がありませんよねー。
私個人の経験からすると、洗礼をうける前と後のそれは大きな違い、私の人生の生き方が根本的に変わりましたよ。その変わった点は大きく分けて、2つにまとめることができます:
1.私たち人間はじめ天地万物をつくられた真の神がおられる→その神は真の愛の神であり、罪で苦しむ私たちすべての罪の身代わりとなって→十字架上で死なれ、救いの道を開いてくださり、三日後によみがえられ今も生きて働いておられ、愛して下さっている
2.その神に私たちは祈ることができるようになり、私たちの祈りにこたえ悩み、苦しみから解放して下さいます。それゆえ、
➀ 洗礼前の緊張や不安の生き方から解放され→“平安な生き方”ができる
② 死に対する考えが変わります
私たちは誰でも皆、やがて死にます。しかし、死んだらしまいではなく洗礼を受けると、永遠のいのちに与る希望の中に生きることができる
さあ、このことを念頭に置きながら、‶よみがえりの奇跡”が記されている7節だけのこの短いみことばを、しっかり読んでまいりましょう。
1.ナインの息子の死とその葬送(11~12節)
11 それから間もなく、イエスはナインという町に行かれた。弟子たちと大ぜいの群れがいっしょに行った。
12 イエスが町の門に近づかれると、やもめとなった母親のひとり息子が、死んでかつぎ出されたところであった。町の人たちが大ぜいその母親につき添っていた。
ナインの町は、地図の如くカぺナウムの南西へ30km程の所にあります
前回(7章1~10節で)では主イエスは、カぺナウムで百人隊長の僕を癒されて、それから歩いて約一日程のナインの町に来られました。その町の門に近づくと、門の中から葬式の列が出てくる所に主イエスの一行は出くわしたのです。
人が死にますと、当時の習慣に従って、大勢の人々が泣き声を上げながら、死体を乗せた「ひつぎ」をかこんで歩いて来ました。その死体は、その町に住むやもめの一人息子のものでした。夫に先立たれ、女手一つで育てた一人息子が若くして死んだ。この母のは、どんなに嘆き悲しんだことかと思わされますネー:
・愛する者の死ほど、私たちの人生の中で悲しいことはないでしょう
・しかも、子どもが親より先の死は特に無念の思いを強くさせられますネー
13 主はその母親を見てかわいそうに思い、「泣かなくてもよい」と言われた。
主イエスは、この一人息子を亡くしたやもめの母親に目をとめます。そして、心を強く動かされるのです。主イエスは、一人息子を亡くして泣き叫ぶしかない母の姿を見て、かわいそう→と心を痛め、心を動かされたのですネ
ところで皆さん、
牧師の大切な務めの一つは、葬式を行うということです。私は札幌での時代に多くの葬式を行わせていただきました。葬儀説教をするためにもご遺族の方々から、ご本人の人となりや死に至る状況やその話を聞きます:
・いつもご遺族の方々の悲しみの心に引き込まれてしまいます
・共に悲しみ、涙してしまいます
そういう中で、ただ一つの慰めである福音の言葉、神の言葉を求め、共にそれに与るのです。
あの方→主イエスは、一人息子を亡くして泣き叫ぶしかない母の姿を見て、かわいそう→と心を痛め、心を動かされたのです。
2.主イエスがその息子を死からよみがえされた(13~15節)
13 主はその母親を見てかわいそうに思い、「泣かなくてもよい」と言われた。
14 そして近寄って棺に手をかけられると、かついでいた人たちが立ち止まったので、「青年よ。あなたに言う、起きなさい」と言われた。
15 すると、その死人が起き上がって、ものを言い始めたので、イエスは彼を母親に返された。
私たちは愛する者を亡くした人の悲しみに出会いますと、言葉を失います。何と慰めてよいのか判らないのです。牧師だって
そうです。ところがここに、大胆に、驚くべき言葉を告げる方がいます。主イエスです。主イエスは、一人息子を亡くした母に
向かって、こう告げるのです:「もう泣かなくともよい。」と→「もう泣くな。」ということばです
それは、一人息子を失って嘆いている母親に向かってではなく、この母親をここまで嘆かせ、圧倒的な力をもって この母親をおしつぶしている死に向かって、主イエスは腹を立て、怒ったのだ と思います。
主イエスは、死に向かって怒り、この母をおしつぶしている死の力を はらいのけようとされる。そこで告げられた言葉が、「もう泣くな。」ということばだったのでしょう…そして主イエスは、青年の死体を乗せた棺に手をかけた。すると、担いでいる人達は立ち止まった→つまり、主イエスがここで「ひつぎ」に手を触れたというのは、正面からその棺の前に主イエスが立ちはだかり、その棺が前に進むのを阻まれたということではないかと思うのです。
それは、死の行進、墓場へと陰府へと進む行進を、主イエスがその前に立ちはだかって止めたということです。誰も引き返せない、誰も止めることの出来ない死の行進を、主イエスは止められた→全ての者がその力の前に、ただ泣き、嘆くしかない圧倒的力をふるう、死の力をはらいのけ、打ち破ろうとされた瞬間でした。
そして主イエスは、すでに死んでいた青年に向かって告げます:「青年よ、あなたに言う。起きなさい。」、と
すると、死人は起き上がってものを言い始めたのです:
・死んでいた者がよみがえったのです
・青年は復活しました→主イエスが復活させられたのです
この時、母親をおしつぶしていた死の力は、主イエスによって打ち破られたのです。
ところで皆さん、主イエスが死人をよみがえらせたという記事は、聖書の中に三つあります:
・一つはこのナインのやもめの息子(ルカ7章)
・もう一つは会堂長ヤイロの娘(マルコ5章)マルコ5章)
・そしてヨハネによる福音書にあるラザロです(ヨハネ11章)
この三人に対してなされた、この主イエスの奇跡は何を意味しているのでしょうか:
・この出来事は→主イエスには死を打ち破る力があることを示し
・この出来事は、全てのキリスト者に与えられるまことの救い、すなわち、罪の赦し・体のよみがえり・永遠の命を指し示したのです
死は罪の結果です。罪がなければ死もないし、死による悲しみもありません。主イエスは復活によって死を打ち破られましたけれど、そのためには復活の前に十字架による罪の赦しがなければなりません。
この青年の耳もとで主イエスが「若者よ、あなたに言う。起きなさい。」と告げられたように、やがて時がくれば私たちの耳もとで告げられるこの主イエスの声を聞くのです:
・「起きなさい。」
・「よみがえりなさい。」→「復活しなさい。」
その主イエスの御声と共に私たちはよみがえり、永遠の命に生きる者となるのであります。死は私たちの全ての終わりではなくなったのですよー アーメンですか→アーメン、ハレルヤーですネー
3.主の奇跡を見た私たちに語っていること(16~17)
16 人々は恐れを抱き、「大預言者が私たちのうちに現れた」とか、「神がその民を顧みてくださった」などと言って、神をあがめた。
17 イエスについてこの話がユダヤ全土と回りの地方一帯に広まった。
さて、主イエスの奇跡を目のあたりに見た人々は「大預言者が我々のうちに現れた。」と言いました。それは、エリシャも、エリシャの師匠に当たるエリヤも→死人を生き返らせたことがあったからです。ただ、エリヤもエリシャも、このよみがえりの命を全ての者に与える救いをもたらした訳ではありませんでした→主イエスによって与えられる救いの出来事を指し示したのです。預言者とは、言葉と業と、そして何よりその存在をもって、まことの神であられる主イエス・キリストを指し示す者だからです。
人々は、主イエスの奇跡を見て、「神はその民を顧みて下さった。」と言ったと記されています。しかし、これは「神がその民の所に来てくれた。」と言う意味です。神が来たのです。神の訪れを受けたのです。そう言って、彼らは神をほめたたえたのです。
みなさん、私たちの所にも、主イエスは来られた。だから、私たちは洗礼を受けたのです、ネ そして、私たちは「キリストのもの」とされたのです:
・キリストは、全ての罪と死とを打ち滅ぼす方として来られました
・だから、もう私たちは泣かなくてもよいのです→光のない、出口のない暗闇の中で泣き続けなくて良いのです…
しかし、愛する隣人が死んだなら→キリストの御手の中で安心して泣いたら良い。悲しいものは悲しいのですから。しかし、その悲しみは:
・最早、私たちを永遠に支配するものではなくなっているのです
・私達を永遠に支配される方、それは死ではなく、主イエス・キリストです
皆さん。私たちは、死んだらしまいではないのです→死がもはや永遠でないことを知っているのです。時が来れば、自分も、自分が愛した一人一人も、皆、主イエスの御声と共によみがえるのです。
→それが、私たちに与えられている救いなのです。私たちは、神のもの、キリストのものなのです。
イエスさま、感謝します→大感謝です! まだの方をも、み救いに入れてください! アーメン、ハレルヤー!
2023.4.8
聖書箇所:ルカ24・1~53 朗読箇所:ルカ24・1~12
(はじめに)
今朝、私たちは主イエス・キリストの復活の出来事を喜び祝う、イースターの礼拝を守っております:
・主イエス・キリストは金曜日に十字架にかかられて死に
・三日目の日曜日に復活されました
この出来事を覚えて、キリストの教会は、日曜日に礼拝をささげる群として誕生しました。
“キリストの教会”という新しい「神の家族の誕生」、それは このキリストの復活によってできて来たものです。そのキリスト教会は、日曜日に礼拝を守り続けて、この二千年の間、毎週毎週キリストの復活の出来事を心に刻んで生きてまいりました…
→皆さん、この二千年という時の流れ・歴史は、決して短いものではありませんネー
例えば、二千年前から続いている国家など、一つもありませんョー:
・二千年の間に多くの巨大な世界帝国が生まれ、そして滅んでいきました
・多くの思想が生まれ、忘れ去られていきました
そんな中で、キリストの教会はその間、休むことなく、主イエスがよみがえられた日の礼拝、日曜日の礼拝を守り続けてきたのです→これは驚くべきことではないでしょうか。このことを知る時に、“主イエス・キリストの復活”がもたらす絶大な力が示されていると言えると思いますネー
それでは→“そのなぞ解き”に入ってまいりましょう!
1. 復活の次第(1~53)
主イエス・キリストが十字架にかけられてから三日後に復活された次第がルカ24章に書かれてありますので、今回はそれを絵で見るようにしました。
以下はルカ24章を絵で示したものですので、ここに掲載することを略させていただきます
主イエス・キリストの復活の次第をルカ24章を通してみてまいりました。それでは、2千年の間も忘れられずに、確かに
礼拝が続けられてきた、特にキリストの復活を祝い続ける「そのわけ」に入ってまいりましょう:
・キリストのよみがえりは、私の出来事となるから
先ず言えることは、キリストの復活の出来事が単なる過去の出来事ではないことです。
→死んだ者がよみがえるということは、このこと自体、大変な驚くべきことであります。しかし、もしそれだけのことであるならば、二千年もの間、人々がそれを覚え続け、喜び祝い続けるということはなかったと思います。
事実、“死人のよみがえり”ということは、聖書の中にも主イエス以外では3人のことが記されています:
➀ ルカ7章ナインのやもめの一人息子が
② ルカ8章には、会堂長ヤイロの12才ぐらいのひとり娘が
③ ヨハネ11章には、ラザロが、主イエスによってよみがえらされた
しかし、この3人の“よみがえり”の出来事と、主イエスの復活の出来事とは全く同じではないのです。それは、この3人は“よみがえり”しましたけれど、やはり時が来て、死んだのです。この3人がずっと生き続けたということはないのです。
一方、主イエス・キリストは、二千年前に復活して、今も生きて働いておられるのです。キリスト者は皆、この今も生きて働いておられる主イエス・キリストと出会い、生かされてきた。だから、私たちは日曜日の礼拝を守り続けることが出来たのですネ
イースターの朝、墓に行った婦人たちは途方にくれた。主イエスの遺体はありませんでした。すると二人の天使は途方にくれている婦人達に向かって、こう告げました:
「あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。ここにはおられません。よみがえられたのです」(5~6節)よみがえりの主は、今も生きておられますよ。そして、私たちに聖霊を送り、聖霊なる神として、私たちの中に、私たちと共に、いて下さるのですと。→「この生けるキリストとの交わり」こそ、キリストの教会に集う私たちを生かしている信仰の現実なのですネー
確かに私たちには聖書がある。しかし、聖書をいくら読んだり、分析しても、それだけでは何も判らないのです
→聖書は教会において読まれてはじめて、その真価を示すのです
生けるキリストが、今も私たちに生きて働き、キリストの体なる教会を形造り続けておられる:
・この教会での交わりの中に、キリストはおられるのです
・ここで、私たちは生けるキリストと出会い続け、生かされ続けるのです
キリストの教会の二千年の歴史は、この生けるキリストとの交わりの歴史、この生けるキリストによって生かされた者達の証言の歴史なのです。
生けるキリストを知らない者は、主イエスを聖人に仕立て上げ、単なる手本、模範にしてしまう→それは生けるキリストを、死者の中に捜すことです
皆さん しかし、キリストは生きておられます。私たち一人一人と共に、生きておられ、私たちの祈りに応えて助け、導き、祝福してくださいます、よ!
第二の理由→それは、キリストのよみがえりの出来事が、私の出来事となるからです。
皆さん、
1)世の人は言います「人間、死んだらしまいだ!」、と。
そのようにつぶやく人に向かって、主イエスは次のように言われます
2)ヨハネ11章
25「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。
26また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことはありません。このことを信じますか」
→私たちは死んで終わりではないのです。死んでも生きるのです。
これは、まことに不思議なことです:
・しかし、このことこそ、信仰によって私たちに与えられた“救いの姿”なのです
・私たちに与えられている救いは、単なる心の問題ではないのです
信仰によって与えられる救いとは、そのような心の問題にとどまるもの。主イエスによって与えられている救いとは、命そのものなのです。私たちにやがておとずれる、この肉体の死という出来事さえも、私たちをキリストの復活の命から引き離すことは出来ないのです
2千年の間も忘れられずに、確かに礼拝が続けられてきた、特にキリストの復活を祝い続けるそのわけ→もう一度:
1.主はいまも生きておられ、信じる私たちに働いてくださる
2.キリストのよみがえりの如く、私もよみがえり、永遠のいのちに生きるものとなるから
ここまでとします。アーメン ハレルヤー !
1.食事の交わり(36)
皆さん、教会に集う方たちは神の家族とも言われますネ。ところで、その家族にとって一番大切というか、最も大切で欠かせないものはと言えば→食事を共にすることではないでしょうか。その共に食事をすることが家族関係を楽しい、居心地よい平和な家族 のもといとなっていると言えると思います。ですから、共に食事をするということは→その人を受け入れ、親しい関係を持っていることのしるしといえるでしょう。
ルカの福音書の今まで読んできたところでも、主イエスはシモン・ペトロの家で食事をされ、また取税人レビの家で食事をされたことが記されています。主イエスはともに食事をされ 彼らを受け入れ、親しい交わりへと招かれました。このようにして、主イエスは罪人を招かれてきました。
一方で、パリサイ人とは批判的な関係にあったと私たちは考えがちですが、しかし主イエスは、求められればパリサイ人とも食事を共にされたのです。ここからも、主イエスは、どのような人をも受け入れ、どのような人をもご自分との交わりの中に生きるように、と招かれた方だと言っても良いと考えられます、ネ
今日の箇所では、そのパリサイ人が主イエスを招きました。しかし、先に述べたようにこの食事の席で招いているのは主イエスであり、この家の主人であるパリサイ人は、主イエスとの交わりへ、神との新しい交わりへと招かれていると言っても良いと思います。
その主イエスによる招きの物語が、この食事の席に突然入ってきた一人の女性とのやりとりの中で告げられるのであります。
2.罪深い女の行動とパリサイ人の思い(37~40)
37「その町にひとりの罪深い女がいて、…」とあります。一体、この女性はどんな罪を犯していた人なのでしょうか。これまでにも様々な推測をされてきましたが→代表的なのは、売春婦ではなかったかというものです。いずれにせよ、この女性はその町では誰もが知っている“罪深い女”であったということです。
この女性が、皆で食事をしている席に突然入ってきて、主イエスに後ろから近づいて、泣きながら主イエスの足を涙でぬらし、髪の毛でぬぐいぬぐいして、さらにあろうことか足に接吻して、香油を塗ったというのです。イスラエルでは、食事はイスに座ってするような形ではなく、低いテーブルのまわりに、足を投げ出して、ヒジをついて横になる。そんな形で主イエスも食事をされていたようです。
その足もとに、その女性が近づきたくさんの涙を流し、その涙でぬらした自分の髪の毛で主イエスの足をぬぐったのです。 これは、驚くような、異様な光景だったことでしょう→今までなされていた会話も止み、その場にいた人々の目は、この女性の動作に見入るばかりであった違いありません:
・その女性は、さらに主イエスの足に接吻し、
・香油を塗り始めたのです
→香油の香りが、その部屋いっぱいに広がりました
その主イエスはと言えば、この女性のするがままにされていました。この女性の行いを止めることもされませんでした…
→主イエスは、この女性が、どうしてこのようなことをするのか、しないではいられなかったのか、その心をよく判ったのです。そして、その心を受け留めておられたのでした。
多分、この女性は主イエスとお会いするのは今回が初めてということではなかったのだと思います。主イエスが多くの人々をいやし、福音を告げていく中で、この女性との出会いもあったと思われます。
あるいは、主イエスの告げる福音を聞き、自分も又、神に愛されている者であるということを知らされ:
・私も生きていて良いのだ
・私もこれで生きていけるんだ
そんな思いを抱いたのかもしれません
いずれにせよ、主イエスがこの町に来られ、今日はパリサイ人の家で食事をされていると聞いて、この女性はどうしても主イエスに会いたい。そう思って、ここに来たのでしょう…
→人々から罪深い女と見られているこの女性にとって、パリサイ人の家に行くことは、自分に向けられる冷たい視線も覚悟の上だったことでしょう。それでも、主イエスにお会いしたい。そう思ったのです:
・そして、主イエスのお姿を見たら、自然に涙があふれてきてしまった
・彼女には、主イエスにそうしないではいられない 何かがあったのだと思います
主イエスは、その思いを受け止められました。だから、この女性の異様と思える行いも、止めることはなかったのです。
しかし、これを見ていたパリサイ人の心は穏やかではありませんでした。この女が、この町でも有名な罪深い女だったからです。彼にしてみれば、こんな女が自分の家の中に入ってきたこと自体、とんでもないことだったでしょう。そして、心の中で思いました:
39「この方がもし預言者なら、自分にさわっている女がだれで、どんな女か知っておられるはずだ。この女は罪深い女なのだから。」
パリサイ人とは、律法を守ることに熱心で、まさしくこの神の裁きを期待し、その裁きを先取りするように世を裁き、自分たちはその世から隔たれたものとして生きたのです。
彼らの立場からすれば、神の預言者とは、自分達以上に罪や汚れに敏感で、そういう人を決して赦さないはずだ、とそう考えていたのです。ですから、主イエスがもし、本当に神から遣わされた方ならば、この罪深い女を退け、その罪を糾弾するはずだと考えたのです。
3.主イエスのたとえ話(40~50)
彼シモンは、その思いを口にすることはありませんでしたけれど、主イエスはその心の動きを読み取ります。そして、このパリサイ人シモンに向かって、一つのたとえ話をするのです:
41 「ある金貸しから、ふたりの者が金を借りていた。ひとりは五百デナリ、ほかのひとりは五十デナリ借りていた。
42 彼らは返すことができなかったので、金貸しはふたりとも赦してやった。では、ふたりのうちどちらがよけいに金貸しを愛するようになるでしょうか。」
シモンは答えます。「帳消しにしてもらった額の多い方だと思います。」これは、ほとんど説明がいらない程に明らかな、当
たり前の話でしょう。主イエスも、43「あなたの判断は当たっています」と言われた。
私は思います→ここで借金にたとえられているのは、罪と考えても良いでしょう。そして主イエスは、このたとえ話をしながら、パリサイ人シモンを招いておられているのではないかと思いますネ:
・そのシモン自分は罪があっても、せいぜい50デナリで まだましだと思い、罪のために涙流すなど全く考えもしない、と思
っている
・主はそのシモンに、そのあなたの罪はもっと深いのだ、と語っておられ、シモンが自分の罪のために流す涙を求めておられた
もう一度それを言い換えて言うと:シモンよ…
・あなたの罪のための悲しみが全く見えていない、その罪のために人の悲しみも見えなくなっているョ
・また、女の愛の涙をよろこんで受けてる→主イエスの愛が分からなくなっているョ、と
その罪は5百デナリの罪にもまさると言わなければならぬものではないか、とそれをたとえてシモンに語られています。
一方、主イエスは「この女の信仰」については何も語ってはおられず、「この女の愛」について語っておられます…
→皆さん、主イエスを信じる信仰により、その罪を赦され→その喜びのゆえにイエスを愛することができるのですネー
ですから、最後に主イエスはこの女に言われました:
50「あなたの信仰が、あなたを救ったのです。安心して行きなさい。」
思うに、この罪深い女は、それまでに主イエスと出会い、自分がその存在の根底から赦され自分はこれで生きていける”と感じたし、また“新しいいのち”を受け取ったと思うのです→だから、周囲の目も気にせず、主イエスに精一杯の愛をささげたのではないでしょうか。
そして、主イエスがパリサイ人に対して問いかけておられることは→パリサイ人の罪がどこにあるかをはっきりと指摘なさったことばで
“あなたはわたしをこの女ほど愛していないということです”:
44 そしてその女のほうを向いて、シモンに言われた。「この女を見ましたか。わたしがこの家に入って来たとき、あなたは
足を洗う水をくれなかったが、この女は、涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれました
45 あなたは、口づけをしてくれなかったが、この女は、わたしが入って来たときから足に口づけしてやめませんでした
46 あなたは、わたしの頭に油を塗ってくれなかったが、この女は、わたしの足に香油を塗ってくれました
これらのことはただ、お客に礼を欠いたということだけではなく、自分たち罪人のために愛の歩みを進める主の足に目を留め、その労に感謝することもなかったということです→人の犯す罪とは様々ですが、ここでは少なくとも「イエスを愛さない罪」としてあらわされています。 主イエスはこの女が自分を愛してくれる愛を語ることに集中していることが分かりますネー
もう一度「神を愛すること」は:
・神を信じる信仰のゆえに罪赦され
・罪赦された喜びのゆえに愛することができる
このことを、この罪深い女の「神を愛すること」をもって示してくださいました。
4.「神を愛すること」とは
主イエスは、後にマタイ22・34~40に書かれています.主イエスはここで「神愛」、「人愛」を説かれています:
1) 「心をつくし、思いをつくし、知力をつくして、 主なるあなたの『神を愛せよ』」
2) 自分を愛するように『あなたの隣人を愛せよ』」
皆さん、その中で今日の聖書箇所では『神を愛せよ』について語られています。あの罪深いといわれた女の取った行動はどうでしょうか:
・あの高価な香油は入った石膏の壺を持ってきた(大事な財産!を持ってきた)
・御足を感謝感動の涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい
・御足に口づけをした
・そして、香油をぬったのです
この女性は「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、 主なるあなたの『神を愛せよ』」、を実行したと言えるのではないでしょうか。
おそらく、この女性のその後はイエスさまといっしょに旅をつづけ奉仕の生涯をされたのではないか→喜びと希望の生涯を歩む者となった、そのように思われます!
ここまでといたします。ハレルヤー アーメン
2023.4.29
題 名:「 嵐をしずめられる主イエス 」
聖書箇所:ルカ8:22~25
1. 湖の向こう岸へ渡ろう(22)
22 そのころのある日のこと、イエスは弟子たちといっしょに舟に乗り、「さあ、湖の向こう岸へ渡ろう」と言われた。それで弟子たちは舟を出した。
ルカ8章で主イエスは「種まき人のたとえ」を用いて、神のことばを聞き実を結ばせる心構えを語られた。がその後でも、イエスさまのところにはいつも人が訪ね求め来て 忙しく過ごされていました。イエスさま寸暇を惜しんでことを行われますが、その訳は…
→イエスさまの使命は(ルカ4:43):
「ほかの町々にも、どうしても神の国の福音を宣べ伝え
なければなりません。わたしはそのために遣わされたのですから。」
このように寸暇を惜しんで弟子たちと共に神の国を説き、その福音を宣べ伝えながら町や村を次から次に旅をしておられた中のことでした。そんなある日のことイエスは弟子たちといっしょに舟に乗り、「さあ、湖の向こう岸へ渡ろう。」と言われた。
図-① ガリラヤ湖とその周囲の山
その向かう先はガリラヤ湖の東岸エンゲディの地と思われますが、イエスさまは弟子たちと共に出かけようと呼びかけした。
一方、「さあ、湖の向こう岸へ渡ろう」を聞いた 漁師出の弟子たちは 喜んで舟の用意しイエスさまを乗せて漕ぎ出してゆきました。
2.舟の中で眠るイエス(23~24)
23 舟で渡っている間にイエスはぐっすり眠ってしまわれた。
小さな舟であったと思われますが、漁師でもある弟子たちは得意になって舟をこいでいました…そんな中でこの弟子の舟に乗られたイエスさまはぐっすりと眠ってしまわれた。
23ところが突風が湖に吹き下ろしてきたので、弟子たちは水をかぶって危険になった。
イエスさまが眠っておられるだけならまだよかったのですが、イエスさまが眠っている間に 突風が吹き下ろしてきました
→これはこのガリラヤ湖では地形上よくあることのようです。
突然、山の上から激しい風が吹き下ろしてきて:
・小舟をほんろうします
・弟子たちは水をかき出ししますが、水はどんどん入ってきて追いつきません
・そうしてる間に、水をかぶって危なくなってきました→弟子たちはますます不安になりました
・が、イエスさまは 眠っておられる…
→皆さん、この弟子たちの動揺は…自分に置き換えてみるとよくわかります、ネ…
その、漁師である弟子のペトロたちが「これは危険だ!」と思ったのですから、本当に危なかったのです:
・波は高くなり、舟の中にもどんどん水が入ってくる
・風でとても舟を操ることが出来ない
ただ、波と風にもみくちゃにされ、木の葉のように揺れる。そんな状況だったのでしょう。
図―② 舟でぐっすり眠るイエスさま
そんな中での主イエスです、主イエスはどうされていたかというと…
→眠っておられたのです!:
・舟は揺れに揺れ、風と波の音が激しくなり
・弟子達は舟に入った水をかき出し、一生懸命に舟をこいでいる
・そんな状況の中で→ 主イエスは眠っておられる
→こんな状態で眠っているなどということ自体、とても信じられないことですけれど、周りの騒がしさに対して、実に主イエスだけは静まっておられる→平安と言っても良い…嵐さえも破ることの出来ない静かな平安が、この時も主イエスのところにはあったのです。
3.突風を収める主イエス(24~25)
3.1突風を収めるイエスは(24)
24 そこで、彼らは近寄って行ってイエスを起こし、「先生、先生。私たちはおぼれて死にそうです」と言った。
イエスは起き上がって、風と荒波とをしかりつけられた。
すると風も波も収まり、なぎになった。
一方、弟子達はおぼれるのではないかと恐ろしくなり、主イエスを起こして言うのです→「先生、おぼれそうです!!」と。
弟子達は、主イエスに何とかして下さいと願ったのです→皆さん、私たちだってそうするに違いありませんネー
弟子達に起こされた主イエスは…
→起き上がって、風と波とを叱りました…
すると→なんと…風も波も 静まったのです!
3.2 信仰を疑われる弟子たち(25)
25 イエスは彼らに「あなたがたの信仰はどこにあるのです」と言われた。
弟子たちは驚き恐れて互いに言った。「風も水も、お命じになれば従う
とは、いったいこの人はどおいう人なのだろう。」
風も水も引いた後でイエスさまは弟子達に言われました…
「あなたがたの信仰はどこにあるのです」と:
・しかし、これは弟子たちへの叱責のことばではありません
・「あなた方は、わたしがここに居る→わたしが共にいるということを忘れてはいませんか?」→そう言われたのだと思いま
す
確かに主イエスは 弟子達に、「あなたがたの信仰はどこにあるのです」と言われました。しかし、それは主イエスがその神の子としての力をもって、すでに風と波とを静められた後のことです…
→弟子達の助けを求める叫びを聞き、願いを聞き、嵐を静めて…弟子達を安全なところに移して…
→それから「あなたがたの信仰はどこにあるのです」と言われたのです
やさしく“あなたの信仰はどこにあるのです”と…そして、そのような経験を何度も重ねていく中で、私たちはインマヌエル「主が我らと共におられる」ということがどんなに→平和をもたらす力あるものであるかを、知っていくのではないでしょうか。
何度も何度も、「あなたの信仰はどこにあるのです」と言われながら、まことの信仰の力、信仰の平安へと導かれていく→それが私たちの歩みなのではないでしょうか。
皆さん、主イエスと共にいても、嵐にあうことはあるのです→しかし、大丈夫なのです!
3.3 私たちの信仰は
皆さん、私たちは…水の中を通らねばならない時があります。火のそばを歩まねばならない時があります:
・しかし、主により頼む私たちは水で押し流されないし、炎は燃えつかないのです→主が私たちと共におられ、私たちは主のものとされているからですネー
・そのような時こそ、私たちは主により頼んで行きます→そうすれば必ず、インマヌエルの恵み(神がともにいる恵み)を、本当に味わうことになると信じています
さて皆さん、教会の長い歴史の中で“この舟は、教会を指している”と考えられてきました:
・教会のシンボルは今は十字架になっていますけれど
・この舟もまた、長く教会のシンボルとして使われてきたのです→主イエスが乗り込まれた“沈まぬ舟”です、と
ですから、
私たちは礼拝に集うたびに、この沈まぬ舟に乗り込み、向こう岸に向かって旅をしているとも言えると思いますネ
→この船が沈まぬ舟なのです。この沈まぬ舟に乗っている私たちも又、決して沈むことも、おぼれることもないのです。
私たちは困難な目に遭いますと、神さまが、イエスさまが奇跡を起こして助けてくれることを願い求めるものであります。しかし、そのような信仰の有り様を主イエスは、「あなた方の信仰はどこにあるのです」と問いただされたことでありましょう。
皆さん、たとえですよ、主イエスがただ眠っているだけだとしても…
→つまり嵐を静めることもなく
→波を静められることがなかったとしても
私たちの船は決して沈まないのです
そのことを信じ、安心して、向こう岸に向かって舟をこぎ続けること→それが、主イエスが私どもに求めておられる信仰の有り様ではないでしょうか…勿論、イエス様がこの舟に乗り込んでいるから大丈夫だと言って、嵐が来ても何もしないで、お祈りさえしていれば良いというのではないでしょう…
→私たちは、「向こう岸へ渡ろう。」という、主イエスの命を受けているのですから、嵐の中も必死に舟をこぐのです:
・水が入ってくれば、必死で水をかき出すのです
・そうして 向こう岸に向かって舟を進ませていかねばならないのであります、ネー
「向こう岸へ渡ろう。」という主イエスのおことばは、まことに象徴的であります。今この上岩出キリスト教会にとっての「向こう岸」とは→「この町にはわたしの民がたくさんいるから」(使徒18・10)の教会目標をさしていると言ってよいでしょう。
コロナが収まってきている中にあって私たちは、向こう岸を望みつつ、新しいこの年の目標:
「この町にはわたしの民がたくさんいるから。」 を目指し、主イエスが乗り込んで下さったこの舟に乗って、精一杯舟をこいで福音宣教していきたいと思うのです:
・まずは家族へ ・また近き隣人へ
と伝説的な「一人が一人へ」の運動を進めてまいりましょう。ここまでとします。ハレルヤー アーメン!
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