2022.12.17

主 題:“主をほめたたえよ!”

聖書箇所:ルカ1・57~80

 

1.口が利けなかったザカリヤ (57~66)

.1ザカリヤの不信仰(1・18

18そこで、ザカリヤは御使いに言った。「私は何によってそれを知ることができましょうか。私ももう年寄りですし、妻も年をとっております」

 

祭司ザカリヤとその妻エリザベツは…ふたりとも、祭司夫妻として神の前に正しくお勤めをし、また生活も主のすべ

ての戒めを落ち度なくその都度一つずつ一つずつ行い過ごしていました。 

7節に「エリサベツは不妊の女だったので、彼らには子がなく、ふたりとももう年をとっていたと書かれていま

ので→今の日本でいえば高齢者か、さもなければ後期高齢者であったといえる年齢であったのでは→と考えられます

ネ…

 まだ若かったころの二人は子供が欲しくて→エリサベツもザカリヤもどれほど主に祈ってきたことでしょう…

→しかし、年をとるごとにその祈りの期待は…次第にあきらめとなり

→やがて年とともにあきらめて…もうそのことさえ忘れていた。 ふたりともそのような年よりの日々であったこ

 とでしょう…

 

ですから…

突然に現れた御使いの語る言葉に→さぞ驚いたことだろうなーと思われます;

  

13御使いは彼に言った。

「…こわがることはない。ザカリヤ。あなたの願いが聞かれたのです。あなたの妻エリサベツは男の子を生みます。名をヨハネとつけなさい。

 祈っても祈ってもエリザベツには…その兆しも見えず

→すっかりあきらめていた老夫妻にこのように語られても…人間的には信じられなかったことでしょう…

→そこで驚き語られたザカリヤのことばが…18節でした

18そこで、ザカリヤは御使いに言った。

「私は何によってそれを知ることができましょうか。私ももう年寄りですし、妻も年をとっております。 

→皆さん、

これはあの99歳のアブラハムと89歳のサラ夫妻にも告げられた言葉でした、そこで語られたことばは:

・「主に不可能なことがあろうか」(創世記1814)です

→そして、それは確かに100歳のアブラハムと90歳のサラに、子どもイサクが授かりました…ですねー

・ゼカリヤは祭司ですからよく知っていましたし、幾度も誰にでも民に語っていたことでしょうー 

 この点から見れば 祭司ザカリヤの18節のことばは→不信仰のことばと聞こえても仕方ありません、ネー

かし、御使いの言われた通り…その妻エリザベツは身ごもりました;

 ・またその6ヶ月後に処女マリヤが身ごもります…そして、さらに

 ・マリヤはエリザベツを訪問し三ヶ月ほどエリザベツと暮らした、と… 

57さて月が満ちて、エリサベツは男の子を生んだ…のです

 

1.2 口が利けないザカリヤ

一方ザカリヤは、エリザベツが男の子を生まれるまでの間、口が利けないという状態にされました→ザカリヤは

十か月もの間、口が利けないままにされたのです…

皆さん

ザカリヤは十か月もの間、口が利けませんでした…その間、エリサベツのお腹はどんどん大きくなっていくのにです

よー…

→ザカリヤは口が利けない中で、神が本当に生きて働かれる全能のお方であることを毎日毎日思い知らされていったに違いありません。そして、自らの不信仰の罪を知らされた、と思いますねー…

 

エリサベツとマリヤは

二人とも 神の不思議なみ業によってお腹に子を宿しました。彼女たちは、我が身に子を宿すということによって…

37神にとって不可能なことは一つもありません」を体験したとおもますヨー

 一方、ザカリヤは 口が利けなかった10ヶ月の苦しみの中で…

「神にとって不可能なことは一つもありません」を身をもって体験し確信した のではないでしょうか

 

そのように、彼ザカリヤは口が利けなくなりました。そのことによって、彼は神への不信仰の言葉を語ることが出来

なくなりました…

皆さん…私たちの口は、放っておくと愚痴、不平、不満、悪口で満ちるものでではないですか それらは不信仰の実

ですね→けれども、私たちは神をほめたたえるために造られたのですよネ

 

この神への賛美は→神のみ業、おことばに触れ、神のみ前に徹底的に低くされることがなければ、私たちの口から生まれることはないのですねー

神は何故ザカリヤの口を利けなくされたのか→それは、ザカリヤを新しく造り変えるためだったのではないでしょう

か!→アーメンですか…?

 

2.その名はヨハネ(58~66)

月が満ちて、エリサベツは男の子を産み、近所の人や親類は喜び合いました。子が生まれるというのは、いつの時代、どの国においても、喜ばしいことであります。

 

そして、八日目になって、律法に従って割礼を施すことになりました。この日に名前を付けるのが当時のユダヤの習わしでした。

  

多分、一族の中の主だった人が名前を付けることになっていた→これも当時の習わしに従ってでありましょう:

・この男の子はザカリヤと名付けられる運びになりました。ザカリヤ・ジュニアといった所です

・しかし、その時です。母エリサベツが「いいえ、名はヨハネとしなければなりません。」と言ったのです…多分その当時、母親に自分の子名を付ける権利というようなものはなかったのではないかと思いますが

・ザカリヤもエリサベツも祭司の家の者ですから、祭司の家の慣習、格式といったものもあったのだと思います→おそらく 名付け親というべき人が立てられる習慣でした

・ですから、このエリサベツの言葉に周りの者は相当驚いたはずです「エリサベツ、何を言い出すのだ。」そんな空気が流れたことでしょう。一族の中にそんな名の者はいない…

・そこで、人々は父ザカリヤに、「この子に何と名を付けたいか。」と手振りで尋ねました。

板に書かれた答えは、「この子の名はヨハネ」でありました…

 

エリサベツもザカリヤも、この子が神によって与えられたことを知っていました。御使いは、「その子をヨハネと名付けなさい。」と最初にザカリヤに告げておりました(13節)。

多分ザカリヤは、何故自分が口を利けなくなったのか、その理由を妻エリサベツに筆談で伝えていたのでしょう…

→二人は、「この子を神のみ業によって与えられた子」として受け入れたのです…その「しるし」が、ヨハネ(神の

 あわれみ)という名付けだったのです…

→すると、ザカリヤの口が開き、舌がほどけ、神を賛美し始めたのです。話せるようになったザカリヤの口から出た

 言葉は、主をほめたたえる言葉でした…

→彼は、十か月の間に心の底から変えられたのです。神が臨んでくださり、神の御前に自らの不信仰を悔い改め、神をほめたたえる者に変えられたのです…

→不信仰な者が神をほめたたえる者に造り変えられる…→このことこそ神のみ業でありましょう…このことのために、神の奇跡はあるのではないでしょうか

 

3.  ザカリヤの賛歌(67~79)

68節から始まるザカリヤの歌は、ラテン語の訳の最初の言葉を取って…

「ベネディクトゥス」“ほめたたえよ”と呼ばれ、長いキリストの教会の歴史の中で大変重んじられてきました。

このザカリヤの歌は;

67さて父ザカリヤは、聖霊に満たされて、預言して言った。

→となっているように、単に子が生まれて嬉しいということを歌っているのではありません

神の救いの業に触れられた者が、主を褒め称えているのです、次の2つにまとめることができます:

1) 6875節→「神の救いのみ業をほめたたえます」

6875節においてザカリヤが主をほめたたえているのは、アブラハムとの契約(創17章)を覚えて、預言者によって語られてきたとおり、ダビデの家から救い主を起こされた、ということです

69節の「救いの角」というのは、「角」は力の象徴ですから、力に満ちた救い主→「イエス・キリスト」を指しています。

ここでザカリヤは、アブラハム以来の神の救いの歴史を思い起こして、神をほめたたえているのです

 

祭司ザカリヤにとって、それらはすべて前から知っていることでした。しかし、知っているということと、それを本当に分かり、本当に信じているということは違います、ネ→皆さん…

今まで知っていたことですが…自分がその神の救いのご計画の中に立たされることによって→神が祭司ザカリヤに臨み触れて下さり、本当に分かったのです…

だから、「ベネディクトゥス」“ほめたたえよ”となったのです

 

2)7679節→「生まれる子(ヨハネ)がどういう人生を歩むかが語られています」

76幼子よ。あなたもまた、いと高き方の預言者と呼ばれよう。主の御前に先立って行き、その道を備え、

77神の民に、罪の赦しによる 救いの知識を与えるためである。

78これはわれらの神の深いあわれみによる。そのあわれみにより、日の出がいと高き所からわれらを訪れ、

79暗黒と死の陰に座る者たちを照らし、我らの足を平和の道に導く。

7679節においては、この男の子がどういう者として歩むかが記されています…

→これは、ヨハネが主の御前に先立って行き、その道を備え、神の民に、罪の赦しによる 救いの知識を与えるためで

 ある

ということが言われています。そして、そのことによって何が起きるのか…

→「われらの神の深いあわれみによって、日の出が高い所からあけぼのの光がわれらを訪れ、

暗黒と死の陰に座る者たちを照らし、我らの足を平和の道に導く。」…ということが起きるのです

 

ザカリヤは、神によって御子イエス・キリストによってもたらされる神の救いを見て、主をほめたたえて、こう歌っ

たのです

私たちは、このザカリヤの預言は正しく、私の上に→私たちの上に確かに起きたことを知っています…

→私たち一人一人が朝日に照らされるように、主イエス・キリストの光に照らし出され

→死の闇、罪の闇から救い出されて、神の平和の中を歩む者とされたからです

皆さん…だから、クリスマスは嬉しいのです。喜ばしいのです。主をほめたたえずにはいられないのです。

 

次の週には私たちはクリスマスの時を持ちます:

 23日(金)15~16時 クリスマス・イブ

 24日(土)10~12時 クリスマス礼拝 

その日までの一日一日を、主をほめたたえる者として一つ一備えをして歩んで参りましょう。   

ハレルヤ―…アーメン

 

 

 2022.12.24 クリスマス礼拝

  題:「 救い主の誕生 」

聖書箇所:ルカ2・8~20

 

1. 羊飼いに告げられた大きな喜び(8~9)

8 さて、この土地に、羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。

9 すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が周りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。

 

1)イエスさまの誕生を最初に知らされたのは、羊飼いでした。

彼らが野宿をしながら夜通し羊の群れの番をしていた時、天使が現れて、彼らに神の御子、救い主、メシアの誕生を伝えたのです:

 ・神の御子の誕生は、王様や貴族に告げられたのではありません

・また、律法主義者や、パリサイ人などでもありません

 当時のユダヤでは卑しいとされていた羊飼いたちに知らされたのです→これはとても大切なことであり、神の御心がここに現れています:

イエスさまの誕生によって与えられる光は、この世で満ち足りた生活をしている人たちだけに与えられるもの

 ではなく、

・“すべての人に与えられる光だ”ということを表していますネー

 

2)「イエスさまの誕生は、その闇に光をともすものです。」、と

皆さん、人はだれでも心に闇(不安→恐れ)を持っていますよ、ネ:

・自分はいつ就職できるのか、自分はいつ結婚できるのか

・高齢者は自分の病との戦いに不安を持ち、やがて来る死への不安と恐怖に恐れます

・ここ3年 私たちはコロナを恐れて生きてきました→このコロナはパンデミックとなり全世界は死の恐怖に

 恐れおののきましたですネー

 ・さらに、今年始まったロシアのウクライナへの無差別攻撃による死の恐怖におののき、また核戦争の勃発による

  死の恐怖におののいています

 

このように日本中いや世界中 誰でも心に“闇”(どうにもならない不安)を持っています。明日への不安であったり、自分の能力や力に対しての自信の無さであったり、大人は大人なりに、年老いた者は年老いた者なりの→不安や不満や嘆きを持っているのではないでしょうか。

しかし、イエスさまの誕生は、貧富や貴賤、老若、男女やあらゆる差別や偏見に関係なく 神が私たち一人一人のことを覚えていてくださっており、愛してくださっており、大切にしてくださっていることの確かな「しるし」だからですネ

 

2.恐れるな(10)

10 御使いは彼らに言った。

 「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。

皆さん、

 どうでしょうか→クリスマスの喜びを知らなかった時、私たちは目に見えるこの世界がすべてでした:

この世界で多くの物を手に入れれば勝ち組→幸せだー

・それを手に入れることが出来なければ負け組→不幸な人生だー

そんな風にしか、自分の人生を受け止めることが出来なかった、のではないでしょうか?

この日、羊飼いたちはひょっとすると負け組の愚痴を互いに言い合いながら、野宿をして羊の番をしていたのかもしれません、ネ

しかしこの夜、天使が彼らに現れて告げた言葉は「恐れるな」でした。

その天使の言葉を、クリスマスを迎える私たちも今日聞くのです:

1)あなたがたのために救い主がお生まれになっただから、恐れるな!

2)神はあなたのことを愛しておられるし、心に留め、あなたのために救いの道を備えてくださっている

  →だから、恐れるな! 

・お金のことを心配して→恐れるな

・自分の健康ばかり気にして、恐れるな。病気も死も、この方によって解決される→だから恐れるな

あなたは救われれば神の子とされ、“永遠のいのち”に生きることになるだから、恐れるな

 

この「恐れるな」との天使の言葉は、クリスマスのこの時、神から私たちに与えられるメッセージです。この神を信じて受け入れる者は

・どんな時でも生きる力と勇気を必ず与えられます

・イエス様が、その聖霊様を私たちの中に送り宿ってくださるからです

 

私たちは弱く、愚かです。私たちは自分が一番正しいと思う→自己中心で身勝手なものです。

しかし、神は強く永遠に生き給うお方です、その神は賢く、その神は愛に満ちておられます。

この神が私たちに心を注ぎ、全能の力で私たちを守り、支え、導いてくださる。そのためにイエス様はこの地上に来られました。だから、大丈夫なのです。そのことをしっかり理解し受け入れて、恐れる生き方にサヨナラして、共々に神をほめたたえる生き方になりたいと思います、ネ アーメンですか

 

3.神に栄光、地には平和

.1 天使は「民全体に与えられる大きな喜び」を告げた(10~12)

10 御使いは彼らに言った。

 「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。」

11 きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。

12 あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられる みどりごを見つけます。

  これが、あなたがたのためのしるしです。

 

 

ここで天使は、「民全体に与えられる大きな喜びを告げる。」と言います。民全体です。民の一部に与えられたのではありません。民全体です。この喜びからはじかれている人は一人もいません。みんながこの喜びに与れるのです。

 この時天使が告げた喜びは「大きな喜び」です。それは、どんな悲しいこと、苦しいこと、嫌なこと、不安や不満によっても失われることのない喜びということです。

そして、この「大きな喜び」を与える出来事こそ、救い主であるイエス様がお生まれになったということなのです。

 

どうして、イエス様の誕生がすべての人の大きな喜びとなるのでしょうか?…

それは:私たちは誰でも、遅かれ早かれ必ず神によって裁きを受けます。しかし、

・このイエス様が私たちのために、私たちに代わって十字架にお架かりなったからです

・私たちすべての人持つ、すべての罪の裁きを→私たちの身代わりとなって、お受けになったからです

ですから、

私たちが、「主イエスが十字架上で私の罪の裁きの身代わりとなって下さったと告白する信仰によって洗礼を受けることができます」

→このことによって私たちは神の子とされ、永遠のいのちに与ることになったからです

→神が、愛する独り子であるイエスさまを与えるほどに私たちを愛しておられることが明らかになったからです

 

3.2 天上の喜び(13~14)

13 すると、たちまち、その御使いといっしょに、多くの天の軍勢が現れて、神を賛美して言った。

14 「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」

 

イエス様がお生まれになった時、この神の御子の誕生がすべての人に生きる力と勇気を与える、「まことの光の到来である」ことを知る人はいませんでした。

ですから、この世界で最初のクリスマスの日、イエス様の誕生を喜び祝ったのは、イエス様の父であるヨセフと母であるマリア、それと何名かの羊飼いだけ→10名にも満たなかった。

しかし今は、全世界でクリスマスが祝われています。全世界で80億の人々のなか、その3分の1がクリスチャン国→今日は何十億という人たちがクリスマスを喜び祝っています。

 

この夜、天には神様を賛美する天使たちの歌声が響きました:

「いと高きところに、栄光が、神にあるように。

地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」

 

天使たちは、「まず栄光が神にあるようにと歌い、次に地の上に平和」と歌いました。

この順番は大切であり、逆ではないのです…

何故、この地の上に平和が来ないのか。

 それは、神の栄光を求めず、自らの栄光ばかりを人が求めるからです

  →自らの栄光を求める者は、自らを誇ります。自らの力を頼り、その力で人の上に立とうとするのですネ

  →争いが起こり、戦争が起こります

 そこに平和はありません

 

しかし、神に栄光を求める者は:

 →自らの力を頼らず、神の導きを信じ、神の御子が小さな者として低きに下り仕える者となられたように、

  自ら もまた、人に仕える者として生きようとする

 →信仰と希望と愛をもって、人に仕える者として生きる

 そこに神の御業としての平和が来るのであります。

 

 栄光が神にあるように、地の上には平和。これがクリスマスのこの時、私たちに与えられている神の御心であり、私たちの祈りであります。

 

天から地に下り給うた御子イエス・キリスト。この低きに下る神によってもたらされた新しい世界、神の国の新しい秩序を私たちは知らされました。

私たちは大きくならなくて良いのです。神は小さな者と共にいてくださり、その小さな者を愛してくださり、神の国へと招いてくださるのです。

この新しい神の国の秩序を知らされた者として、互いに仕え合い、神によって与えられた信仰と希望と愛をもって歩んでまいりましょう。来年のクリスマスは世界に主の平和が満ちることを望み、信じ、祈りつつ歩んでまいりましょう。

世界で最初のクリスマスの時、地上においてはそれは本当に小さな出来事でした。しかし、天上では天の大軍が神を賛美して歌ったと聖書は記します。その歌が

14いと高きところに、栄光が、神にあるように。

地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」

  短く言えば→神に栄光 地の上に平和 」

 クリスマスの日、天の大軍による賛美がなされました。すべての天使たちが神を賛美して歌った。天の大軍と言うのですから:

・この時の天使たちは天を埋め尽くす程だったのではないかと思います

・この時、天上では喜びの賛美の歌に沸き返っていたのです

 クリスマスの喜びとは、この天上の喜びに与ることです。

 私たちが天使たちと共に神を賛美する。それがクリスマスです。

 

4.この出来事を見てこよう(15)

15御使いたちが彼らを離れて天に帰ったとき、羊飼いたちは互いに話し合った。

「さあ、ベツレヘムに行って、

主がわたしたちに知らせて下さったこの出来事をみてこよう。」

 

御使いたちが彼らを離れて天に帰ったあと、彼らは茫然としていただろうと思いますネー…どれくらい時間がたったことでしょうか。この羊飼いたちはこの夢のような、幻のような超自然現象に圧倒されたことを互いに話し合ったことでしょう→皆さんならどうしたでしょうか…

 

→羊飼いたちは互いに話し合った。

「さあ、ベツレヘムに行って、主がわたしたちに知らせて下さったこの出来事をみてこよう。」

と出かけてゆきました。そして光として来られた主イエスにお出会いする恵みにあずかりました。

 

今日私たちはこの教会でのクリスマスのお祝いに、参加することができ、クリスマスの本当の喜びのわけはわかり感謝します。

これからは、まことの主イエスにお会いし、まことの救いに与り、まことの喜びを味わうことができるようになりたいと思わされました。

そして、

 

主イエスの恵みと祝福にあづかることができました。主の御名を心から賛美します。ハレルヤー、アーメン