2022.3.5 

主 題:「 最後の晩餐へ 」  

聖書箇所:ルカ22章1~23節

 

( はじめに )

イエスの公生涯…その3年半の宣教の旅も最終段階に入りました。そして、「自分の果たすべきその時が来た」を覚悟し、ホサナの歓呼の中にエルサレム入城されました。

その次の日には、宮のリーダー達はじめ、民との交わりで、彼らの思いや願いが、神を求めることから遠く離れ、神による平和ではなく→力による平和であることに泣かれ、そして宮きよめをされました。主イエスはその後も毎日宮で教えておられたと共観福音書には記されています。

 

続く今日の箇所はその受難週の第5日目のところに入りますが、いよいよ神のご計画の“最後の晩餐へ”と進みゆきます。さあ、ここに至るまでの「人のたくらみの醜さ」と「神の愛のご計画」について、心して読ませていただきます。

1.    人のたくらみ(1~6)

1 さて、過ぎ越しの祭りといわれる、種なしパンの祝いが近づいていた。

2 祭司長、律法学者たちは、イエスを殺すための良い方法を捜していた。

 というのは、彼らは民衆を恐れていたからである。

 

ここに出てくる律法学者、祭司長は、当時の宮の指導者です。現代でいう教会の牧師に似た立場の人たちです。その人たちが神を恐れていたのではなく民衆→人を恐れていたと書かれています:

・彼らは人を恐れていた。が、神を恐れてはいない

・人を殺すのは、神を恐れていない者で初めてできることです、ネ

 

律法学者は律法の専門家ですが、おきての中心にあるもの→十戒です。十戒の最も大切なものの一つは→「殺してはならない」です! 彼らはどのようにして殺すことができるか、うまい方法が見つからないでいました。

 

3 さて、12弟子のひとりで、イスカリオテのユダに、サタンが入った。

4 ユダは出かけて行って、祭司長たちや宮の守衛長たちと、どのようにしてイエスを彼らに渡そうかと相談した。

5 彼らは喜んで、ユダに金をやる約束をした。

6 ユダは承知した。そして、群衆の居ない時にイエスを彼らに引き渡そうと機会を狙っていた。

 

そこへユダが→なんとー…あのイエスの弟子ユダがやって来た!  そして、自分が手引きするというのですョー

ついに念願達成…これでうまくゆくと、われわれはついにイエスに勝てるという勝利の喜びが→少なくても勝利の予感が

→これなら勝てるという確信が彼らの喜びになったのです。

 

その彼らを喜ばせたのはユダです:

・ユダがどうして裏切ったのか

・ユダの裏切りは、今日まで聖書を読む者にとっては最大の謎です

 

3節には「イスカリオテのユダに、サタンが入った。」、と書かれてあります。

サタン、悪魔、神にそむく力の支配者です

→ユダは、この悪魔の虜になったのです

→自分の師主イエスを裏切ったのです

その裏切る行為→それは愛の喪失です、愛についての絶望です→ユダはこれまで師と仰ぎ、主と慕ってきた方、その方に対する信

頼を失い、 愛を失いました。愛に絶望したのです…

 

皆さん、ここに

 ・イエスの弟子ユダの裏切りの“たくらみ”と

 ・イエスを殺そうと考えていた祭司長、律法学者たちとの“たくらみ”が→ぴたりと一致したのです

一方で、十字架上での身代わりとなるという“神の計画”が進行中ですが →この“人間のたくらみ”と、“神の計画”が一致することになるのです

 

皆さん、他人ごとではありません。私たちが信仰に迷うとき、信仰をなくすとき:

 ・友達の誘惑に乗ってしまい、礼拝を休むことになってしまいます →みことばを生きることができなくなります…

→仕事の上でトラブルが起きてしまう

    →家庭で問題が起きてしまう

 

皆さん、私たちにとって受難週入りとはどうすることでしょうか? 受難週とは→「人のたくらみ」に落ち入りやすい私たち自身

が、もう一度 このことに敏感になる時ではないでしょうか

 

2.    神のご計画(7~23)

さて、これまでのことはすべて“人のたくらみ”でありました。 では、7節以下のところは今度は“神がご計画”されたところであります。 私たちはその神の御心はどのようなものであるかを正しく、注意深く読んでいきましょう。2つに分けて読んでいきます。

 

.1 過ぎ越しの食事の用意 (7~13)

7 さて、過越の小羊のほふられる、種なしパンの日が来た

8 イエスは、こう言ってペテロとヨハネを遣わされた。「わたしたちの過越の食事ができるように、準備をしに行きなさい。」

 

 

9 彼らはイエスに言った。「どこに準備しましょうか。」

10 イエスは言われた。「町に入ると、水がめを運んでいる男に会うから、そ の人が入る家までついて行きなさい。

11 そして、その家の主人に、『弟子たちといっしょに過越の食事をする客間はどこか、と先生があなたに言っておられる』と

  言いなさい。

12 すると主人は、席が整っている二階の大広間を見せてくれます。そこで 準備をしなさい。」

13 彼らが出かけて見ると、イエスの言われたとおりであった。それで、彼らは過越の食事の用意をした。

 

イエスは過越の食事を準備しなさいと言って、ペトロとヨハネを使いに出そうとされました。 しかし、エルサレムの町は過越の祭りを祝う為に大勢の人が集まって来ています。どこで過越の食事をするのか、その場所を確保することが容易なことではありません。

そこで二人の弟子が「どこに用意いたしましょうか。」と言うと、主イエスは不思議な答え方をします:(1012節)

「都に入ると、水がめを運んでいる男に出会う。 その人が入る家までついて行き、家の主人にはこう言いなさい。

 『先生が、「弟子たちと一緒に過越の食事をする部屋はどこか」とあなたに言っています。』」

 

水がめを運ぶのは、当時は女の人の仕事です。ですから、水がめを運ぶ男というのは:

・座って洗濯している人…とか

・胸に赤い花を挿している人というような

→待ち合わせの為の目印だったのではないでしょうか?

 

二人の弟子が行ってみると、主イエスの言われたとおり、水がめを運ぶ男の人がおり、その人について行って家の主人に:

“過越の食事をするところはどこですか” と言うと、主人は部屋に通してくれたのです

この部屋は、主イエスが既に備えて下さっていたのです。そして、弟子たちが過越の食事の用意をすると、主イエスはそれを

新しい過越の食事、聖餐の制定の時とされたのです

 

過ぎ越の食事の部屋も、聖餐の制定も、弟子達が考え出したものではなく、主イエスがあらかじめ備えてくださっていたものです:

・ですから、私たちは勝手にこれを変えることは出来ないし、そのようなことは私たちには許されておりません

・キリスト教会は、二千年の間、この聖餐を守り続ける共同体として立ち続けて来ました

皆さん、主イエスは私たちの弱さを知り、この目に見える救いの手段を与えてくださいました。私たちは、この主イエスが定めてくださった聖餐を、感謝しながら受け取ってまいります。

 

.2 最後の晩餐(14~23)

14 さて時間になって、イエスは食卓に着かれ、使徒たちもイエスといっし ょに席に着いた。

15 イエスは言われた。「わたしは、苦しみを受ける前に、あなたがたとい っしょに、この過越の食事をすることをどんなに望んで

  いたことか。

 

 

この絵画はレオナルド・ダ・ヴィンチが描いたものです。ほんとの姿はこのような横一列のかたちではなかったと言われていますが、12使徒のようすや表情がよく見せるためにこのような構図にしたようです。 これと同じもの→というか陶板にした絵が、あの淡路島の大塚美術館にあります。私も観てきて、写真を撮ってきましたが→構図はこれと同じです

→未だの方は是非見てこられたらと思います…あの最後の審判の巨大な陶板画もここの大塚美術館で見ることができ ますョ…

 

 15節にあるように、主イエスは苦しみを受け十字架上でほふられる前に、ぜひとも、この過ぎ越しの食事にあずかる機会を持たなければならないと考え準備をしてきました。 そして、この聖餐にあずかる時を末永く行い続けるべく→このように行いなさい、と示されました。

17 そしてイエスは、杯を取り、感謝をささげて後、言われた。「これを取って、互いに分けて飲みなさい。

18 あなたがたに言いますが、今から、神の国が来る時までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません。」

19 それから、パンを取り、感謝をささげてから、裂いて、弟子たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与える、わたしのからだです。わたしを覚えてこれを行いなさい。」

20 食事の後、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です。

 

171920…これが「聖餐に与る」=聖餐式の内容です、主イエスは語るだけでなく、実際にやって見せて下さったのです→なんという「神の愛のご計 画]ではないでしょうか

 この上岩出教会も、これに従って聖餐式を行っています。このことの中に、私たちが神から受ける救いの恵みの全てがあるからです:

・自分が救われていること→神の子とされていること

・キリストが私と共におられる→聖霊を満たしてくださること

・私には永遠の命が備えられていること

 

皆さん、聖霊の内住と、聖霊の満たし→いかなる困難な岩であろうと、 いかなる妨害であろうと、いかなる妨げであろうとデュナミス(ダイナマイト)の力で問題・課題を打ち破って解決する力を与えて下さるのです。

 

皆さん、私たち人間は罪のDNAをもって生まれてきた罪人です。クリス チャンと言えども→その苦難の生活の中から十字架のイ

エスを信じる信仰により救われた「罪赦された罪人」です。ですから、残された苦き根により誘惑に陥りやすい者でもあります。

 

イエスさまはそのことを十二分にご承知のゆえに、15節にあるようにあのむごい十字架刑の前に…是非ともこの聖餐にあずかる時

を持たねばと言って、この最後の晩餐も「神がご計画」されたことが分かりました。

キリストの愛の御業に心から感謝したい思いで一杯です! ハレルヤー

 

私たちはイエス・キリストのみ救いに与らせて下さい

そして、

→救われた私たちは聖餐式にあずからせてください

→恵まれて、ダイナマイトの力で誘惑を払いのけ

→みことばを生きることができるよう助けてください

と心から思わされ、求めます…ハレルヤー アーメン! 

 


  2022.3.19 

 主 題:「 ゲッセマネでの祈り 」 

 聖書箇所:ルカ22章39~46節

( はじめに )

私の前回礼拝説教は「最後の晩餐」でした。イエスは「わたしが苦しみを受ける前に、あなたがたとともに、この過ぎ越しの食事を

とることをどんなに望んでいたことか」と、聖餐式をやって、見せてくださいました。 今日の箇所ではユダの導きで捕らえられる

その最後の時にも、ゲッセマネでの「主への祈り」を弟子たちにやって見せてくれます。

[主への祈り」こそ信仰の基であることを示そうとされたイエス最後のさいごの愛のわざでありました。

    

そのゲッセマネ…わたしは2008年5月にそこに行ってきました。その園はエルサレムの市街地の東側、オリーブ山の山裾に

あます.

その園には、説明によりますとイエスの時代からと言われる太い太いオリーブの木が沢山植えられています:

・「主イエスが、このオリーブの木のもとで、苦しみ悶えながら、父なる神に祈られたところ…」と思うとき

   →感動と感謝の思いがこみ上げて来ます

・この「ゲッセマネで祈る」箇所は四福音書に、また新約の中には沢山のところで取り上げられています

・さらに、この「ゲッセマネでの祈り」から私たちが礼拝ごとに祈る「主の祈り」ができています

 

このように私たちにとっても とても大切な聖書箇所です。主イエスは十字架前の最後の最後の時に、信仰が無くならないように主

イエスの祈りの姿を見せるために…弟子たちを連れて行きました→私たちもご一緒にその祈りの場に行って見ましょう。

 

1.     誘惑に陥らない祈り(39~40)

39 それからイエスは出て、いつものようにオリーブ山に行かれ、弟子たちも従った。

40 いつもの場所に着いた時、イエスは彼らに、「誘惑に陥らないように祈っていなさい」と言われた。

 

エルサレム入城以来毎日宮で教えられていたイエスは、毎夜このオリーブ山のいつもの場所に行き、切に祈っておられました

(ルカ2137)。

その主イエスは、信仰を保つための「主への祈り」を弟子達に→“やって、見せるために”、オリーブ山のいつもの場所 ゲツセマネへと、弟子たちを連れて行き、彼らに最後の「主への祈りを、その祈りの姿を見せる場」を持ったのです。

 

そして、主イエスはこの時、弟子達にこう言われたのです:

40「誘惑に陥らないように祈っていなさい。」

 このおことばこそ、これから迎える厳しい状況の中で、弟子たちが信仰の備えをするために、どうしても必要なこととして、主イエスが教えて下さったことなのです。

 

「誘惑に陥らないように祈っていなさい。」と主イエスは,様々な誘惑に陥りやすい私たちにも今日語ってくださいます:

・厳しい状況になればなる程、本当はいよいよ祈らなければならないはずなのに、祈らなくなる。いや、祈れなくなる。そういう

  ことが私たちに起きるのです→誘惑に陥ってしまうのです

・「祈ったところで何になる。この状況は少しも変わらないではないか。祈ってもしょうがない。」→そんな誘惑が私たちを襲う

  のです

その弟子たちは、主イエスが祈っている間に眠り込んでしまいました。すると、主イエスは再び:

46「なぜ、眠っているのか。起きて、誘惑に陥らぬように祈っていなさい。」

と弟子達に告げられたのです。

 

ここでは「起きて、誘惑に陥らぬよう…」、と言われたのです。

この「起きて」の原文の意味は「立ち上がる」という意味です…

 →当時の人はしばしば立って祈った、と言われます

 →「祈りの時に立つ」ということは、キリスト教会でずっと続いた伝統ともなってきていました

今でも伝統を守るカトリック教会では、礼拝堂に座るための椅子がありません。キリスト教会の中にも「立って、目を開いて、天を仰いで、声を出して自分の祈りを述べる」という祈りを教えている教会もあるそうです…

→祈りとは、そのように誘惑に引きずり込まれないように、しっかりと足を踏ん張って立って、神に向かって願いを述べ、神の栄

  光をほめたたえるのです,と言われてもいます

  →私たちもこのゲッセマネの祈りから、弟子たちによって受け継がれ、つくられた「主の祈り」を祈る時は立って祈ります、ネ

 

 主イエスの弟子たちは、この主イエスの十字架を前にしての祈りの姿を、そして主イエスによって告げられた“おことば”を生涯忘れませんでした→彼らはこの「祈っていなさい」という、主イエスの教えに生きる者とされたのです。

そして、この教えがどんなに力あるものであるかを、その後の厳しい伝道の生涯の中で思い知らされていったに違いないのですネー

そしてこの主イエスのおことば、弟子達から更にその次の世代へと伝えられ、キリストの教会が保持する大切な教えとなっていったのです。

 

使徒パウロは、Ⅰテサロニケの信徒への手紙で:(51618節)

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさいすべてのことに感謝しなさい。」

と教え伝えています…

この様に、主イエスの「誘惑に陥らないように祈っていなさい。」のおことばが パウロの言葉として受け継がれ、伝えられ、キリストの教会に生きる代々の聖徒達を生かし、導いてきたのですネー

 

2. 主イエスの祈りの姿(41~43)

この時の主イエスの祈りの姿は、ひざまずいての祈り”でした。当時、祈る時の姿は両手を天に上げ、立ったままの祈りと言われています→私は、弟子たちはこの主イエスの“ひざまずいての祈り”の姿を見て驚いたのではないかと思いますネー

 

そして、もっと驚いたのはその祈りのことば、祈りの内容でした:

42「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。

      しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」

 

「この杯」というのは、明らかに十字架の死を示しています。主イエスはここで、死の恐れに苦しみ、もだえています。この主イエスの苦しみを、肉体の死を前にした人間としての恐れというところから理解しては間違いだと私は思います。

主イエスはここで、永遠に神の子であった方が父なる神に捨てられるという苦しみを味わっておられるのです。それは、父なる神と一つであったことのない私たちには、決して分かりようがない苦しみなのだと思います。

 

そして、主イエスがこの苦しみを味わわれたが故に、私たちの死は「神に捨てられる死」ではなく、「神のみ許に召される死」へと変えられたのですネ

→この時、主イエスを苦しめていたのは、私たちの罪です。ひざまずいて祈る主イエスの上に、私たちの全ての罪が覆いかぶさり、押しつぶそうとしていたのです。

主イエスは、その罪の重さを受けとめつつ、こう祈られました:

「…しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」

 

祈りは→ただ自分の願いを神にぶつけるだけのものだけではないことを、主イエスは示されたのです。しかし、一方では

祈りは→詩編にあるように、自分の思いを神にぶつける祈りもあります

しかし、こちらの祈りでは→祈りに祈っていく中で、私たちはやがて…

→この主イエスの祈り:「わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」 

へと導かれていくようになってくると思います

  →そして、祈りに祈っていく中で:

・神は先を見られた深い思いやりのあるお方だ―が分かり

・自分が求めた祈りは→自分中心の祈りであったことが分かりるよ

うになります

 

3.主イエスの祈り(44~46)

 神を徹底的に信頼すること=諦めないということ⇒神にすべてを明け渡す心の叫びをすること=「祈るということ」です

→それが「ゲッセマネでの祈り」であったのです、ねー

ゲッセマネの祈り…この祈りを弟子たちにやって、見せたいために、主イエスは3人の愛弟子たちを伴われたのです。

 

では、イエスが見せた祈りとはどのような祈りであったでしょうか?

私たちは、このゲッセマネでの祈りを通して 主イエスが示された祈りとは次の4点に示されると思います;

1) 祈りは“単純、素朴な心の叫び”である

“アッバ  ホ・パテール”…幼い子供が父親をよぶ言葉です

アッバ:おとうちゃん…今の日本では・パパでしょうか、幼児語です

“ホ・パテール”:“父よ”…の言葉が入っています

皆さん“アッバ”:聖書で3度のみ出てくる言葉です。

“アッバ”…と、生まれて何か月かすると、言葉にならない言葉で『アッバ、アッバ』と、子供が父を呼ぶように…主イエスはここで祈っておられるのです。

 それまでに、これほど幼い言葉で祈った人は…主イエス以外にはいません、と言われます;

 ・それは、子どもが自分の親の手に すっかりすべてを委ねるように

 ・父なる神に すべてを委ねて祈っておられる…心でありました

 ・自分の心や思いを神に打ち明ける 単純・素直な心の叫びです

 

このことを思うとき、私たちはマタイ6章の「主の祈り」のところで主イエスが言われたことを思わされます、ね 

(マタイ6・5~8)。

主イエスの見せたかったこと→祈りとは単純、素朴な心の叫びですよー

 

2) 祈りとは…神に対する祈りなのです

祈りは:私たちの悩みの只中に…神に入っていただくことに他なりません。(黙示録3:20);

 「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、

  わたしは、彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」、と語られている如くです

 

祈りとは:

・神に対する祈りなのです

・神は、天においてご自分に訴える祈りをすぐに知られるのです

・主イエスが、父なる神にもだえながら祈る姿の中に、祈りとは→神に対する祈りなのです…と私たちに示されました

 

3) 祈りとは、本質的には「無力な人にのみ備えられたもの」と言われます

祈りは、無力な人(自分ではどうやってもできない人)の最後の逃れ場・心の避けどころです

一例ダビデの祈り(詩編1421~2節)

 

私たちにとって祈りは→いちばん最後の逃れ場なのです。

私たちは色々のことを試みた後、最後に祈りの道へと逃れるのです。

 無力さのどん底にいる人は、その無力さによって父なる神の優しい心に届く「最高の祈り」を持っているのです。

 

4) ゲッセマネでの…この「主イエスの祈り」を祈りなさい

この「ゲッセマネでの祈り」が…マタイにより、またルカにより「主の祈り」として後に書かれたと言われます。

即ち、

マタイが主の祈りの中に、この「神のみこころの実現を求める祈り」を書いたとき、明らかに、このゲッセマネにおける

主の祈りを思い起こしていた…と言うことです。

 

さあ、皆さん最後です…

信仰があるから祈る→それも本当のことです。しかし、祈るから信仰が守られる→それも本当のことと言えるでしょう。

主イエスが弟子たちと一緒にいることが出来た最後の時→その一番最後の時に、主イエスは自らの祈る姿を弟子達にやって見せた

→これはとても大切な意味のあることだったのです。主イエスの弟子たちへの最後のメッセージがここにはあるのです:

「起きて、誘惑に陥らぬよう祈っていなさい。」 

ここに、私たちが本当に備えていかなければならない信仰が守られていく“ただ一つの道”があるからです。

 

この主イエスのことばを受けとめて、キリストの教会は、キリスト者は、様々な困難な歴史の中を歩み続けて来たのです。

 

私たちも、この主イエスの言葉を受けとめて、祈るのを止めようとする様々な誘惑と戦って、しっかり祈って、御国への道を

この一週も歩んでまいりたいと思うのです。  了

 

 2022.3.26 

主 題:「 十字架刑につけられるイエス 」 

聖書箇所:ルカ23章1~25節

 

( はじめに )

私の前回礼拝説教は「ゲッセマネでの主の祈り」でした。

その祈りのあと:

・イエスはまだ眠っていた弟子たちに話をしているとき、ユダが先頭に立つ群衆に捕らえられ、大祭司の家に連れて行かれてしまいました

・弟子たちは、恐れてみな逃げてしまいました。その中で ペテロが遠く離れて、ついてゆき→大祭司の門をくぐり、様子をうかがうつもりでしたが、「あなたも、イエスの仲間だ」と疑いをかけられます

・その女中など三度の疑いに対しその都度「イエスを知らないと「呪いながら」否定しました」

 →イエスの言われていた「ペテロ。あなたに言いますが、今日鶏がなく前に、あなたは三度、わたしを知らないと言います」を思い返しペテロは泣きました

 

その大祭司の家での夜が明けると、イエスの宣教の働きにねたみを持つ民の長老たち、祭司長、律法学者たちは、

イエスを殺すために イエスの口からその証言を得ようと議会(サンヘドリン)に連れて行きました。

そして彼らは「あなたは神の子ですか」と尋問のすえ→ついに「あなたがたの言うとおり、わたしはそれです」のイエスの証言を得たのです。

ここまでが22章のゲッセマネの祈りのあとのことでした→今日の聖書箇所は、そこから始めます。

 

1.   ピラトから尋問される(1~5)

1 彼らは立ち上がり、イエスをピラトのもとに連れて行った。

2 そして、イエスについて訴え始めた。彼らは言った。「この人はわが国民を惑わし、カイザルに税金を納めることを禁じ、自分は王キリストだと言っていることが分かりました。」

5 しかし、彼らはあくまで言い張って、「この人は、ガリラヤからここまで、ユダヤ全土で教えながら、この民を扇動しているのです」と言った。

 

イエスをねたむ彼らは、イエスの証言を得たので→喜び勇んでピラトのもとへと連れて行ったのです…

では、“彼らのねたみ”とはどんなことでしょうか?

イエス様が公生涯に入られてなされた福音宣教の旅,その中でのねたみを起こさせたもの3選:

  主イエスは…弟子たちが勝手知ったガリラヤ湖で、その暗闇の中で死にもの狂いの状況で苦しんでいる様子を知り、湖上を歩いて近寄り救い出し、言ったのがこのみことばなのです;

 「わたしだ!」(エゴー、エイミ!)“わたしはあってあるものである”

“まことの神宣言”でありました…→律法学者たちには、決して受け入れられる言葉ではありませんでした

 

  カイザルに税金を納めるのは律法にかなってるでしょうか?→彼らのたくらみに対して→デナリ銀貨を見て:

 ・カイザルのものはカイザルに

 ・神のものは神に返しなさい

 の見事回答をし 彼らは驚嘆し黙ってしまいました

 

  エルサレムの神殿での“宮きよめ”(マルコ11:15~17)

イエスは宮に入り、宮の中で売り買いをしている人々を追い出し始め、両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛を倒して宮きよめをした。そして、彼らに教えて言われた。「『わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる』と書いてあるではありませんか→それなのにあなたがたはそれを強盗の巣にしたのです。」

 

→これを聞いた祭司長、律法学者たちは…ねたみに火がついたのです.“どのようにしてイエスを殺そうか”と相談したのです。

 

その時代、祭司長、律法学者たちは 自分たちで人を殺す裁きはすることが許されていませんでした→当時のローマ政府のみが、人を殺す裁きをすることができたのです。しかも彼らはユダヤ人が最も恥ずべき十字架による死刑を求めようとしたのです。

 

しかし皆さん…

様子をうかがうつもりで大祭司の門をくぐって行った、ペテロが「あなたも、イエスの仲間だ!」と疑いをかけられましたですねー

→その三度の疑いに対しその都度「イエスを知らないと『呪いながら』否定した」と記されています

(マタイ、マルコ)

→呪いながらですから

→神の名をもって裁くということです

→神の名をもってペトロもまたサンヘドリンと同じように主イエスに死の判決をしたともいえます

 

この様に、イエスを裁いたのは、サンヘドリンだけではない、民衆だけではない、イエスの弟子たちでもあったのですヨー

 けれども、4節のように いろいろと尋問したピラトは「この人には何の罪も見つからない」と分かり、ヘロデのとこ

ろに送りました。

 

2.   ヘロデから尋問される(6~12)

2.1 私たち人間の罪

9ヘロデはいろいろと質問したが、イエスは何もお答えにならなかった

 10祭司長と律法学者たちは立って、イエスを激しく訴えていた。

 ピラトに次いで、ヘロデの尋問に対して、今こそイエスはことばを見つけなければならない、語らなければならない→その肝心なところで主イエスは黙っておられる…なぜイエスは黙っておられるのか…?

このイエスが沈黙しておられた場面は、とてもうるさく皆が騒ぎたたえているところ→です:

・(2270)彼等はみなで言った…

・(231)そこで、彼らは全員が立ち上がり…

このように “みながそう言っています”からと伝える→皆のかげに自分を隠します…卑怯ともいえる言葉使いです

→皆を相手には戦いにくく、私たちの内心ひるみます

 →この皆とは群衆のことです。私たちもまたその群衆の一人ひとりです、ネ

 

11 ヘロデは、自分の兵士たちといっしょにイエスを侮辱したりしたあげく、

  はでな衣を着せて、ピラトに送り返した。 

イエスがついにその沈黙を守り通したときに、ヘロデはそれに報いたものは→イエスを侮辱することでした。

ローマの権力のもとで初めて成り立つ、その権力に酔っていたのです。

 

けれども皆さん

私たち現代に生きる人びとも→ヘロデと似たことをしているところがないでしょうか?

現代の人間は、自分の力に頼って、神あるいは永遠なる方のまえに謙遜になることを忘れている→不幸になってしまっている

→現代の人間が招いている不幸は、自分の力・権力に酔っている。そして、神との関わりを忘れていることにあると言

 えるのではないでしょうか

→神との関係を忘れているということは、神の沈黙をいいことにして、傲慢になっているということでしょう

→主イエスが黙っておられることを本当には嘆いてはいない…むしろ好都合なのですネー

 

.2 神の沈黙の愛

(イザヤ53章)苦難のしもべ→の7節です:

7 彼は痛めつけられた。

彼は苦しんだが、口を開かない。

ほふり場に引かれていく羊のように、

毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、

彼は口を開かない。

 

ここに示される、この黙ったまま裁かれる人こそ真実神のしもべであって、神に徹底的に仕え、従ったものであったと証言しています。そのしもべは:

 ・他者のために裁かれている

 ・他者のために苦しんでいる

 ・他者のために死んでゆく

→そのように言ってます

→沈黙すべきは、ほんとうは裁くほうの人々です。

裁かれているこの人には本当にいくらでも言い分はあった。それを黙っているのです。なぜなら、それを言い出したら今裁いている方が裁かれてしまうからです。

 

3.十字架刑の判決を受ける(13~25)

ヘロデからもう一度送り届けられたピラトの裁判です。ピラトはここで、主イエスは死刑に当たるようなことは何もし

ていないと明言しています。しかも、三度繰り返しています:

14 こう言った。「あなたがたは、この人を、民衆を惑わす者として、私のところに連れて来たけれども、私があなたがたの前で取り調べたところ、あなたがたが訴えているような罪は別に何も見つかりません。

15 ヘロデとても同じです…見なさい。この人は、死罪に当たることは、何一つしていません。

22 しかしピラトは三度目に彼らにこう言った。「あの人がどんな悪いことをしたというのか。あの人には、死に当たる罪は、何も見つかりません。だから私は、懲らしめたうえで、釈放します。」

 

ピラトは三度目に言った:

『いったい、どんな悪事を働いたと言うのか。この男には死刑に当たる犯罪は何も見つからなかった。だから、鞭で懲らしめて釈放しよう。』

 

三というのは完全数ですから、ここでピラトは、主イエスには罪はないと、断固として、否定しようがないあり方で、

完全に宣言したということです。

けれども、ピラトはそこに立ち続けることが出来ませんでした:

・群衆は、主イエスを十字架につけろと叫び続けたからです

・その叫びはどんどん大きくなります

・このまま放っておけば暴動になるかもしれない

 

ピラトが恐れたのは何よりも暴動でした。ローマの総督としてユダヤに赴任しているピラトにとって、暴動こそ一番恐れていたことでした。そんなことが起これば、統治者としての自分の能力を疑われ、自分の将来がどうなるか分かりません。彼は自分を守る為に、主イエスを十字架につける決定を下してしまったのです…あーなんということを…

しかし皆さん

このピラトに対して、私たちは偉そうに、何と弱い奴だと言うことは出来でしょうか?:

・正しいことはこうすることだと分かっていながら、ついその決定をした後での…周りの反発を恐れて事を曲げてしまう

・そういう弱さが私たちにもあるのではないでしょうか

何かを決定しなければならない立場に立った者なら、これは誰でも身に覚えがあることではないでしょうか?

 

4.十字架につけた人は誰れ

このようにして主イエスは、使徒信条にあるように:

 「…ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ・・・」

十字架刑を裁定してしまいました…

 

さあ皆さん、これまでの主イエスとのかかわりから見て、主イエスを十字架刑につけたのはだれでしたでしょうか?

つぎの3者が考えられます:

1.ねたみに狂うユダヤの指導者

2.扇動された民衆

3.暴動を恐れたピラト

 

ここには3者3様の言い分と理由があると思います:

1)ユダヤの指導者

・イエスは「わたしだ!」(エゴー、エイミ!)“わたしはあってあるものである”と言われました→“まことの神宣言”でありました…

→律法学者達には、決して受け入れられる言葉ではありませんでした

また、

・エルサレムの神殿での“宮きよめ”(マルコ11:15~17)

をし、「『わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる』と書いてあるではありませんか→それなのにあなたがたはそれを強盗の巣にしたのです。」と語られ、ねたみに火が付き

→ピラトへと訴えた。

→また民を扇動した。

 

2)扇動された人々

民衆は主イエスを「十字架につけろ」と叫びました。多分、ユダヤの指導者に扇動されたのでしょう。時は過越の祭りです。民族的高揚が最高に達していた時です。この時の人々の叫びには、熱狂した民衆の恐ろしさを覚えますネ

私たちは、政治家とか、或いは会社、所属団体などのリーダーたちの指導、または扇動にはつい「太いものには巻かれろ!」であったり、周りの人たちの行動になびく習性がありますね→戦争はその典型です

 

3)暴動を恐れたピラト

ピラトは『いったい、どんな悪事を働いたと言うのか。この男には死刑に当たる犯罪は何も見つからなかった。』と三度目に言った…

→しかし自分の立場を守るために民衆の叫びの前に自分の判断を曲げてしまった。しかし皆さん、

・正しいことはこうすることだと分かっていながら、ついその決定をした後での…周りの反発を恐れて事を曲げ

 てしまう

・そういう弱さが私たちにもあるのではないでしょうか

  →何かを決定しなければならない立場に立った者なら、これは誰でも身に覚えがあることではないでしょうか

 

ねたみに狂うユダヤの指導者、扇動された民衆、暴動を恐れるピラト、それらが組み合わされ、主イエスは十字架にかけられることになりました。三者三様の動機があったにせよ、人間の奥底にあるドロドロした罪がここで表にあらわれたのです→そして、それによって主イエスは十字架につけられたと言えます

 

最後ですが、皆さん

主イエスの十字架は、全ての人間の罪の裁きを、神の御子イエスが私たちに代わって自らの上に担うという出来事でした:

→その為に、主イエスの十字架は人間の罪の結果として引き起こされたものでなければならなかったのであります

→人間の罪によって引き起こされた出来事であるが故に、その罪の全ての裁きを引き受けることになったのですねー

私たちはここで、主イエスを十字架につける為に働いた人々を責めることは出来るでしょうか→ここには、私たちの罪と私たちの弱さが示されているのではないでしょうか

 

この一連の主イエスの十字架への歩みを、遠い昔に起きた自分には関係のない出来事として外から見ているだけでは、ほんとの理解はできません。主イエスの十字架への歩みの中に、私は、私たちは入っていきます:

・「十字架につけろ」と叫んだ人々の中に、わたしも入っているのです

・自分の立場や常識を守る為に主イエスを殺そうとしたユダヤの指導者たちと自分を重ねます

・自分を守る為に民衆の叫び声の前に自分の判断を曲げたピラトと、自分を重ねます

 

その私の前に、何も語らずに、黙って十字架への道を歩まれる主イエスがおられる。この主イエスを十字架へと追いやった人々の中に自分を見出し、その私の前に十字架への歩みを為されている主イエスが居られることを発見したとき、私たちはこの方の前にひざまずかざるを得なくなります。

 

そして、主よ憐れんで下さい、私の罪を、私の弱さを、私の愚かさを赦して下さい、そう祈らざるを得ないのです。

そして、二度とそのような歩みをしないように、主よ私をきよめて下さい、強めて下さい、助けてください、とそう祈る者であります。アーメン