2023.6.3
題 名:「 神の救いの道 」
聖書箇所:ルカ9:18~27
(はじめに)
皆さん、日本列島に雨が降ると水は高い山から低い海に向かって分かれて流れてゆきます。 兵庫県でいうと生野峠を境に、南は加古川が瀬戸内海ヘ 北は円山川が日本海に流れてゆきます。この場合生野峠が水の流れを決めるところ“分水嶺”と呼ばれます。
さて、ルカの9章今日の聖書箇所の「ペテロの信仰告白」と次回の「イエスの山上で姿変わり」が、“福音書の分水嶺”と言われているところなのです:
・ルカの福音書は9章にきて初めて 主イエスがそこから先 どこに向かって真っすぐに坂道を下り進んで行かれるか、「その神
の救いの道」が見えた、ということであり
・「イエスとはだれか→“真の救い主” がはっきりする」ということです
このルカの福音書でも、突然このような話を始めたのではなく、これまでも人々は絶えず、この方は一体誰だろうと尋ね続けてきました。 例えば「5つのパンと2匹の魚」で5千人の食事を与えた方は、“一体この方はだれだろう”の問いが人々の中でも広まっていましたネ
さあ、今日の聖書箇所は その「福音書の分水嶺」と言われる、「ペテロの信仰告白」のところです。ご一緒に読んでまいりましょう。
1.弟子ペテロの告白(18~21)
18さて、イエスが一人で祈っておられたとき、弟子たちがいっしょにいた。
「群衆はわたしのことをだれだと言っていますか。」
この場面…主イエスはひとりで祈っていたいつもの場所→人里離れた、静かな、ただ父なる神と主イエスだけがおられる場所ですが、今日は弟子たちも共にいることをゆるされていました。
そこで主イエスは「群衆はわたしのことをだれだと言っていますか。」と尋ねます:
・皆さん、今の教会の姿ではないでしょうか。教会堂に私たちが集まり、今のように礼拝をしている、私たちが主と共にいることをゆるされているとき
・イエスさまは私たちに「この地域の皆さんは、わたしのことをだれだと言っていますか。」と尋ねられている→ みなさん、私たちなら何と答
えますか?
彼らは答えて言いました:
・“バプテスマのヨハネだ”と言っています
・ある者は “エリヤだ”と言っています
・人々は、“昔の預言者のひとりが生きかえったのだ”とも言っています、と
20節で
Q イエスは彼らに言われた。「では、あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」
ぺテロが答えて言った。「神のキリストです。」、と:
・人々はナザレ人と呼んでいる男性であり
・大工ヨセフの子と呼んでいた人です
ペテロはそのひとりの人間を、“あなたこそキリストです”といったのです。
キリスト…“香油そそがれた者”という意味です:
・当時は“神の救いのわざを実現される救い主” を意味しました
・このルカは「神のキリスト」と呼びました.
神からのキリスト、神に従うキリスト、神が生きておられることが良くわかる働きをする救い主と語りました!
するとイエスは、このことをだれにも話さないようにと、彼らを戒めて命じられた。今度あなたがたが伝道に行くときは、わたしをキリストと言い広めなさいと命じられたのではなく、それをだれにも言ってはいけないと言われたのです。
2.自分の受難を予告する(22)
そして言われた。22「人の子は、必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、そして三日目によみがえらねばならないのです。」
さあ、その「神の子キリスト」をだれにも言ってはいけないと言われたその答えに→22「人の子」ということばが出てきます。主イエスがキリストの名を隠されたのです→そこでご自分を呼ぶ名を「人の子」と言われました。
人間が、人が主イエスにあてた呼び名が、いずれも当たっているようであたっていない。「人の子」という不思議な名を用いられました。それは「神のキリスト」このことば→どんなに多くの人間の誤解で用いられていたことでしょうか:
(ルカ23・35)民衆はそばに立ってながめていた。指導者たちもあざ笑っていった
「あれは他人を救った。もし“神のキリスト”で、選ばれた者なら、自分を救ってみろ。」
もし「神のキリスト」ならば…実際に他人を救うことが出来るなら、それなら自分を救うことなど何でもないではないか。
ところが救えないではないか!「神のキリスト」などと呼ばれ、救い主ぶってみても、しょせんこんなことであったかと、あざ笑ったのです。
そこで、このルカ23章の物語が、ここで先取りされています、即ち主イエスご自身はキリストということばを避けて、「人の子」としてのご自身について語られます:
(9:22)「人の子は、必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、そして三日目に よみがえらねばならないのです。」
あなたがたは、ここに「神の救い」が見えますか→そう問われます:
Qあなたがたはわたしをだれというか
A神のキリストです
そのキリストであるわたし、人の子はこのような者ですよ→ “このわたしに「神の救い」が見えますか”、と
分水嶺に立って見えるもの→そこに立つ主イエスが見ておられるものはこれであります:
・主イエスとどのように応対するかで →人間の真実の姿が現れます
・主イエスの正体が現れるところで→人間の正体が明らかになります
自分たちが「バプテスマのヨハネ」と呼び、エリヤと呼び、キリストとさえ呼んだ者を捨てる、ペテロも同じです→ペテロも同罪となります。
「神のキリスト」を捨てる→これをキリストと呼ぶことを恥じるようになる→このことがあなたに見えるか、と主は問われます!この関連するみことばが27節です:
27 しかし、わたしは真実をあなたがたに告げます。ここに立っている人の中には、神の国を見るまでは、決して死を味わわないものたちがいます。
このみことばの解釈はいろいろありますが、私は次の解釈が良いと考えます。
「神の国を見る」→教会で「神の支配」を見ますよ:
・教会に集う人の中にも「神の救いの道」が見える時が来ますよ
・イエスさま、あなたの苦しみ、あなたが捨てられ、殺されたことこそ、私たちのための神のキリストです→あなたにふさわしく唯一の御業です、と悟る人がここに与えられますよ、と。
すなわち、教会は、そこに「神の国」を見る、「神の救いの道」を見るところ→他では決して見ることのできないところです、と。
3.わたしの後に従いたい者は(23~26)
主イエスはペテロの「神のキリスト」告白を受けるとすぐに:
・ご自身の受難予告を告げました、さらに
・23「誰でもわたしについてきたいとおもうなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについてきなさ
い。」 という主イエスの弟子としての歩む道を告げられました
主イエスは「誰でもわたしについてきたいとおもうなら」と言われます。これは、主イエスを救い主キリストとして告白する者は、ただ口で告白するだけではなく:
・自分を愛するでなく→主イエスを愛し、
・この方に従って歩みなさい
主イエスが歩まれた道を、たどるようにして歩んで行く者となりなさいといわれました。
私たちは自分で道を造っていくのではないのです→主イエスが私たちに先立って、道を造って下さっているのです。ですから私たちは、その主イエスの後ろ姿を見ながら、そこから目を離さないようにして、主イエスが歩まれた道を歩んでいけばよいのです。
そして、この主イエスの後についていく歩みは→「自分を捨てる」という歩みとなります。この「自分を捨てる」というのは:
・「キリストを知る前の古い自分を捨てる」ということです
・自分のこの世における利益だけを追い求めるような生き方を捨てるということです
・自分がかわいい、自分の楽しみ、喜びのためだけに生きる、そういう生き方を捨てるということであります
ここでは、「自分を捨てる」ということが目的ではなく、「主イエスに従う」ということが目的です。主イエスに従うためのものです→ですから、次の「日々、自分の十字架を背負う」ということと重なるのです。
この「自分の十字架」というのは、自分の病気とか、苦しみとかということではありません。
この「自分の十字架」とは→神のため、そして隣人のために自分が担う→愛の重荷です。それが「自分の十字架」と言われていること示されました。
主イエスは、自分のために十字架の苦しみを担われたのではない。私たちのために十字架の苦しみをお受けになったのです
→主イエスの十字架は、私たちのための“愛の労苦です”、と
ここで「日々」と主イエスは言われました。大それたことを、主イエスは私たちに求められたのではありません。毎日毎日の歩みの中で、神のために、隣り人のために、愛の重荷を担いなさいと告げられたのです。
これは、「自分の十字架」ですから、人と比べて、自分の十字架は大きいの、小さいの、重いの、軽いのと言うようなものではないのです→自分だけの、自分が神さまにそこに召されて担う重荷です、ネ
そして、それは「日々」担わねばならないものなのです。まことに、日常的な営みの中でなされていくものなのです。一世一代の大それた十字架が求められているのではないのです。
まさに、日々の歩みの中で、愛の労苦をいとわない、その歩みが主イエスに従っていくということを求められたのでありますネ。
主よ、小さく弱い私、私たちでありますが、わたしの十字架を担い、主と共に歩む者としてください、と祈ります。
ここまでとします。了
2023.6.17
題 名:「 山上の変容 」
聖書箇所:ルカ9:28~36
(はじめに)
私の前回説教の「ペテロの信仰告白」と今回の「山上の変容(姿変わり)」が、「福音書の分水嶺」と言われているところと紹介しました…
分水嶺:
・ここにきて初めて 主イエスが…どこに向かって進んで行かれるか、その「神の救いの道」が見えた…すなわち
・「イエスとはだれか→真の救い主です!」 がはっきりしたことです
そのイエスが わき目もふらずに目指す「神の救いの道」それが→“十字架への道”でした。
皆さん、“十字架への道”それはただ一つの“神の救いの道”です。それ以外に神の救いの道はありません。また、神の救いの道は永遠のいのちへつながる唯一の道でもあります。
“この永遠のいのちへの道が→十字架であること”を主イエスは告げました。しかしこれを聞いた弟子達は、それを悟ることはできませんでした。なぜなら、弟子達はまだ主イエスの復活・よみがえりを知らなかったからです。
皆さん、この主イエスの歩まれた「十字架の死と復活への道」、これは主イエスが弟子達に、そして私たちすべての人のためのアガペーの愛の道なのでした。ですから、主イエスはこの道をどうしてもあらかじめ弟子達に見せ、覚悟してもらうために是非にも必要なことであり、今日の「山上の変容」へとつながってくるのです。
1. 山上の変容 (28~31)
前回の「神の救いの道の教え」があってから8日ほどして、主イエスは、弟子の中からペトロ、ヨハネ、ヤコブの三人を選んで山に登り、共に祈る時をもちました:
・そこで神の栄光に輝く姿
・十字架の後で見ることになる姿
→栄光の復活のいのち(永遠のいのち)に輝く姿を弟子達に見せようとされたのです。
この場面を絵にしたものは沢山ありますが、フィンランドの教会にあるものを参考に想像してみましょう:
29 祈っておられと、御顔のようすが変わり、御衣は白く光り輝いた。
30 しかも、ふたりの人がイエスと話し合っているではないか。それはモーセとエリヤであって…
昔から「山上の変容」と言われるこの場面、これは天の窓が開かれ、弟子達が「天の国の栄光を見たところ」ではないかと思えるのです:
・ま白い輝く服に身を包んだ主イエス、それは主イエスが“天の国のお方”であることを示しています
・その神の子としての栄光をはっきりと弟子達に見せたのです
そして、そこには旧約を代表するモーセとエリヤが共にいました。旧約聖書は「律法と預言の書」と言われていました:
・この律法を代表する人としてのモーセ
・預言を代表する人としてのエリヤです
Q この三人が何を話していたのでしょうか?
A 31栄光のうちに現れて、イエスがエルサレムで遂げようとしておられるご最後についていっしょに話していたのである。 とあります。
これは、このルカだけが記しているものです。モーセとエリヤと主イエスが三人で、エルサレムでの十字架における死について話していたというのです。それは、主イエスの十字架が、旧約以来の「神の救いのご計画の成就である」ということを意味しているとおもわれます。
ここで、「どうしてペトロ達は二人がモーセとエリヤと判ったのか」と言いますと…
→私は「天の国とはそういうものだ」と思っているからです
→私たちはこの方がイエスさまだと判るはずなのです。そうでなければ困りますネー。天の国とは、そういう所であるはずなのです→だから、モーセとエリヤも判ったのです…私はそう思いますネー
ですから弟子達は、大変なものを見てしまったと驚き、畏れました。が、やがて喜びにあふれた→のではないでしょうか:
・聖なる体験、神体験というものを→してしまったのです!
・主イエスの神の御子としての本当のお姿を見た→天の国をかいま見てしまったのです!
モーセは千5百年も前、エリヤは八百年も前の人です。その彼らが生きている。ここで弟子達は、栄光に輝く永遠のいのちに与っている人と出会ってしまったのです!
これは、まさに「主イエスの復活」に出会う前の、さきがけのようなものではなかったかと思います。このような“栄光のいのち”(永遠のいのち)があることを、弟子達はこの時、初めて知ったのでした!→皆さん私たちも初めて知りましたです、ネー
私たちも神の救いに与ると→神と共に住まう“永遠のいのち”に与ることが約束されているのですよー ハレルヤー!
2. 栄光のいのちへの道(32~35)
32 ペテロと仲間たちは、眠くてたまらなかったが、はっきり目が覚めると、イエスの栄光と、イエスといっしょに立っている二人の人を見た。皆さん、ここに来ますとイエスさまの2つの姿を思わされますネー:
1)この「山上の変容」のときの栄光のお姿
2)ゲツセマネの園における主イエスの祈りのお姿
マタイ・マルコの福音書ですが、この時も主イエスと共にいたのは、ペトロ、ヨハネ、ヤコブ、の三人でした。
そして、主イエスはその時、次の日の「ご自分の十字架」を思い、血のしたたりのような汗を流し、切に祈りました:
「父よ、みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにして下さい。」、と
ゲッセマネの祈りでは→まことの「人の子としての苦しみ」のお姿です。→まことの神の子としての栄光の姿と、人の子としての苦しみのお姿です。この二つのお姿がセットになって、「まことの神にして まことの人」という、救い主イエス・キリストの姿になるのだと思うのですネー。
33ペテロがイエスに言った。「先生。ここにいることは素晴らしいことです。私たちが3つの幕屋を造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」と言いました。
全く驚いてしまったペテロは 何を言うべきかを知らずに→「こんなすごいことはありません。これを記念して、ほこらを三つ建てましょう。」…そんなことを言ったのではではないかと思います。
しかし、神が主イエスの栄光に輝く姿を弟子達に見せたのは、そんなことのためではありませんでした→後にペトロは、この時のことを思い起こして、ペトロの手紙第Ⅱに語っています:
1・16 私たちは、あなたがたに、私たちの主イエス・キリストの力と来臨を知らせましたが、それはうまく考え出した作り話に従
ったのではありません。この私たちは、キリストの威光の目撃者なのです。
17 キリストが父なる神から誉と栄光をお受けになったとき、おごそかな、栄光の神から、こういう御声がかかりました。
『これはわたしの愛する子。わたしの喜ぶ者である。』
18 私たちは聖なる山で主イエスと共にいたので、天からかかったこの御声を、自分自身で聞いたのです。
と記しました。後になって、ペトロにとってこの山上の変容の出来事は、“永遠の神の国を確信させ、福音を力強く宣べ伝えていく根拠となっていたのです”
実に、神さまが 弟子達に 主イエスの栄光のお姿を見せられた理由も そこにあったと思います…即ち、この栄光の姿、永遠のいのちを見て知った者として、弟子達に十字架の道を歩ませるため…だったのです。ですから、神はモーセとエリヤの姿を雲の中に包むと、雲の中から、
35「これはわたしの愛する子、わたしが選んだ者である。彼の言うことを聞きなさい」と言われたのです。
「彼の言うことを聞きなさい」とは、「このわたしの子であるイエスに聞きなさい」ということです。そして、この主イエスが弟子たちに告げられたことこそ…
23「だれでも私についてきたいと思うなら、自分を捨て、日々、自分の十字架を負い、そしてわたしについてきなさい。」ということだったのであります…
念のために、「自分の十字架」とは→神のため、主イエスのため、そして隣人のために自分が担う重荷→愛の重荷です
それが「自分の十字架」と言われていることですネー つまり、ここで神さまは弟子達に対して:
「この私の愛する子であるイエスが歩む十字架への道は→復活のいのちへと続きます。
そしてあなた方も、この主イエスに聞き、従い、十字架を背負って行くならば、まことに栄光に輝く、永遠のいのちへと至りますよ。」そう、神は弟子達に告げられたのであります。
そして、今日神は私たちに対しも同じ言葉を語って下さいました:
「あなたが主イエスの道を信じ救われ、そして自分の十字架を背負って従って行くならば→まことに栄光に輝く、永遠のいのちへと至りますよ。」、と
アーメン!イエスさま信じ、従います。永遠のいのちに向かわせてください、ハレルヤー!
2023.6.24
題 名:「 だれが一ばん偉いか 」
聖書箇所:ルカ9:43~48
(はじめに)
主イエスは ただひたすら、わき目もふらずに目指す道、それが十字架への道です:
・主イエスの十字架への道→罪深い私たち人間へのただ一つの神の救いの道だからです
・それは、父なる神とみ子イエス・キリストによる、私たちに対する
究極の奉仕(サービス)と言えるものです
ところで皆さん 、教会の礼拝はサービスと言います。この礼拝に集う人は全て、神にお仕えする、奉仕(サービス)するのであります。実に、私たちは神のサービスに応えて、サービスする者として礼拝に召されている者なのです。
では皆さん、私たちキリスト者にとりまして ”神にお仕えする”とは具体的にはどうすることでしょうか:
神にならう、キリストにならう、みことばを生きることです→そのために、私たちはこの礼拝で神の恵みにあずかるのです
恵みにあずかる→聖霊に満たしていただきこの世の、神にお仕えする旅路を歩むことができるのです。
こうして私たちは十字架の愛のゆえに 仕える者として召され、仕える者として生きることを通して→神の国へと一日、一日歩んでいくのです。
1.再びご受難を予告する (43~45)
主イエスは…ここで、弟子達に二度目の受難の予告をしました:
44「このことばを、しっかりと耳に入れておきなさい。人の子は人々の手に渡されようとしている。」、と
しかし弟子達は、この言葉の意味が判りませんでした。そして、その意味を主イエスに尋ねることもしませんでした。
聖書は、それは弟子達が恐れたからだと告げています。弟子達は、何を恐れたのでしょうか?
それは、その次の46節以下を見ると、判るかと思います:
弟子達の心にあったのは、46“自分達弟子の中で、一番偉いのは誰かということであった”というのです。
どうして、弟子達はそんなことを議論していたのでしょうか、想像してみましょう:
「・自分達はイエス様の弟子だ
・イエス様は救い主としてローマをやっつけ、神の国をお建てになる
・その時にはイエスさまの弟子である自分達が、その世界を支配することになる
・その時には、誰が一番偉くて、誰が二番目なのか。そのことをちゃんと決めておかなければならない。」
→そんな風に考えていたからなのではないでしょうか!
ところが、イエスさまは「人の子はいまに人々の手に渡されます」と言う。どうも、自分達が考えていることと違う→まるで違う!しかも、主イエスは少し前に:
23 「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、わたしについてきなさい。」
と言われている→十字架、 十字架と言われる。
十字架は罪人が殺される処刑の道具です。ということは、主イエスが言われたことは、主イエスも殺され、自分達も殺されると
いうことなのか→だから、弟子達は怖くて主イエスに尋ねることも出来なかったのでしょうか?
皆さん、こうも言えると思います:
主イエスが建てられる神の国は、この地上の国とはその根本から違っているのに→弟子達は神の国も又この地上の国と同じ様なものとしてしか考えることが出来なかったということではなかったと。
この地上の国においては、仕える者と仕えられる者がおり、仕えられる者が偉いのです。弟子達は偉くなりたかった。仕えられ
る者になりたかったのですネー。しかし、主イエスによって建てられる神の国の秩序は、それとは全く逆のものだったのでし
た。
2.だれが一番偉いか(46~48)
さて、これまで述べたように弟子たちの間に、自分たちの中で、だれが一番偉いかという議論が持ち上がっていました。
47 しかしイエスは、彼らの心の中の考えを知っておられて、ひとりの子どもの手を取り、自分のそばに立たせ、
48 彼らに言われた。「だれでも、このような子どもを、わたしの名のゆえに受け入れる者は、わたしを受け入れる者です。
また、わたしを受け入れる者は、わたしを遣わされた方を受け入れる者です。あなたがたすべての中で一番小さいものが一番偉いのです。」
弟子達の議論は、まことに直接的であり、幼稚でさえあります:
・しかし、この時の弟子達の議論を、子供じみていると言って笑うことは、私たちには出来ないと思います
・口にこそ出しませんが、「誰が一番偉いのか」という思いは、私たちの中にもあるからですネー
「誰が一番偉いのか」という思いは、もっとはっきり言えば:
・自分はだれよりも一番知っている
・だから、自分が一番偉い。自分は人より上に立ちたい
という思いであります。私たちは小さい時から、このような思いの中で育ち 生きているのではないでしょうか:
・幼稚園や小学校で「かけっこ」で一番になるという所から始まって
・高校はどこに行くのか、大学はどこか
・会社に入っても同期の中で誰が最初に課長になるのか
この、人と比べるという思いは、本当に根が深いと思います:
・これは兄弟同士においてさえ起きるのです、また
・有名校へ入れたい、入りたい…受験競争は苛烈です→出世競争…当たり前です
主イエスは、議論している弟子たちの 心の内を見抜かれ、一人の子供の手を取り、御自分のそばに立たせ、そしてこう言われ
たのです:
48 彼らに言われた。
「だれでも、このような子どもを、わたしの名のゆえに受け入れる者は、わたしを受け入れる者です。」
「わたしの名のゆえに」という意味は:
・これはイエスさまのために、イエス様がおっしゃっているから、イエスさまの御心にかなうために、ということです
ここで、主イエスが「子供」を受け入れると言われていますが、この時代の「子供」→は、何も出来ない、小さな者の代表という意味なのです。「子どもの人権」という発想は、この時代にはありませんので、イエスさまの「子どもを受け入れる」という意味は→「その子の存在を喜び、これに仕える」ということであります。
すなわち48節の意味は:
「何もできない者を大切にし、これに仕える者は わたしを受け入れること、わたしに仕えることと同じです。
それは、神を受け入れ、神に仕えることと 同じことですょ」
と主イエスは言われたのです。
私たちは、ここに毎週集まって、神に礼拝し神に仕える、という生き方をしています。この神に仕えるということは→何も出来ない、世の中では軽んじられている小さな者を受け入れ、これに仕えるということとつながっていることなので―す、と。
皆さん、「神に仕えること」と「隣人に仕える、小さな者に仕える」ということは切り離すことが出来ないことなのです:
・これは教会としては、まことに当たり前のことなのであります
・この教会の目標にも掲げられていますね
しかし皆さん、この世においては当たり前ではないでしょう。ここに、世の光としての教会の意味があるのだろうと思っています、ネ―
主イエスは更に言われました:
「あなたがたすべての中で一番小さいものが、一番偉いのです。」
ここに、偉いということに対しての、逆転があります:
・この世の秩序において偉いということが、神の国の秩序においても偉いということにはならないのです
・神の国においては、仕える者が偉くて、仕えられる者が小さい者と言い換えても良い→といえると思います
クリスチャンと言われる私たちは、この地上に生きながら、しかし神の国の光の中を歩み始めた者です。そして、神の国からの光に照らし出されているところが、この教会というところなのです。
仕えるためには、私たちは小さくならなければなりません。謙遜にならなければできないことです→しかし、それは難しいのです。自分の中の小さなプライド、小さな優越感が邪魔をするからです。
しかし、
「イエス様が言われるのだから、やってみよう。世の中で軽んじられている人よりも 小さくなって仕えてみよう。」
そう思って一歩を踏み出してみみましょう:
・そうすると、私たちは初めて判るのです→人と自分を比べるという思いから自由にされるということを
・私たちは、この小さな者を受け入れ、これに仕える中で、自分の小さなプライド、小さな優越感から解放されるのです
そしてそれは、主イエスと共に自分が歩んでいるということの→確かな喜びさえ伴ってまいりますよ
〔ささやかな私の証〕
上岩出市小での朝の「学童補導の奉仕」のあとの喜び…元気をもらう!
終わりにもう一度です。皆さん、私たちは仕える者として召されています:
・それは、私が低く、小さくなっていく道です
・しかし、その道は主イエス・キリストが歩まれた道であり、私たちを神の国へと導く道なのです
→神の国、天国は、私たちが高く昇っていく所にあるのではなく、私たちが低く下っていく先にあるのですネー
さあ皆さん、改めて仕える者として召されていることを心に刻みつつ、この一週も又、キリストと共に、皆さまとご一緒に神の国に向かっての歩みをしてまいりたいと願うのであります 。アーメン
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