2023.7.1

主 題 平和を伝える者は

聖書箇所: ルカ10: 1~12

 

1.       世界に福音を伝える者は (1~2)

私たちはルカによる福音書を読んできています。今日から10章に入りました。さあ、主イエスのことばに聞いてまいりましょう:

1「…主は、別に70人を定め、すべての町や村にふたりずつ先にお遣わしになった。」とあります 

皆さん、私たちは9章1節以下のところで、主イエスに特別に選ばれた使徒が12人であったことを知っています。ところがここで、主イエスは十二使徒とは別に70人を定めてお遣わしになった、と。

70人とは ずいぶん多いのではないでしょうか:

・70は、完全数ですから、つまり全ての人々に向かって遣わされるに十分な数の人々が選ばれたということになります

・これは、やがて全世界を対象としているとも考えられますネ 

ここにきて主イエスは、 全世界を視野に福音を伝えるために必要な弟子達をここで選び、遣わされたと言えるでしょう

その彼らは二人ずつ組になって遣わされました:

・この主イエスの教えは 初代教会においても受け継がれていきます

・使徒の働きでは→例えば、「バルナバとサウロ」、「パウロとシラス」と、伝道者達は二人一組になって遣わされたのです 

どうして二人一組にして主イエスは遣わされたの?

いろいろなことが考えられます:

1)一つは 当時の旅は徒歩で行く訳で、ケガや病気になった時には一人ではどうしようもないでしょう。また治安上でも→追いはぎ・盗賊の類も多かった。だから実際上、一人より二人の方が安全だったと思いますョ

2)大切なことは、この二人一組の彼らが告げていくのは 「神の国の福音」、「神の愛」です:

・愛は交わりの中にありますネ。 神の愛を伝える者は、その愛に生きている、生かされている→その姿が求められます 

・ひとりでは、その証にはなりませんネ 

さて、主イエスは二人ずつ組にして弟子達を遣わすにあたって、いくつかのことを語られましたが、特にその初めの言葉に注目したいと思います:2

「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」 

と言われました。注目すべきは、

1)「収穫は多い」 という主イエスのことばです.

 これは“主イエスの約束”と言って良いでしょう:

収穫は多いのです…この主の約束があるから、私たちは安心して種蒔きに精を出すことが出来る、と思うのです

・ですから、私たちに求められているのは、まずこの主イエスの約束を信じるということでしょう 

2)次に、主イエスは 「働き手が少ない」 と言われました。

収穫は多いのだけれど、それを収穫する人手が少ない、人手が足りないと言われたのです。これは、いつの時代でも同じと思います。収穫には人手がいるのです。種を蒔くことを考えたら、その何倍も、何十倍もの人手が必要なのですネー 

 皆さん、収穫は多い、しかし人手が少ないから、その人手の分しか収穫することが出来ない→そこで主イエスは言われます:

「収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」

収穫の主に願いなさい→それは、主に祈りなさいということでしょう。

皆さん、私たちは心を一つにして、この「働き人を送って下さい」と祈りを合わせたいと思うのです。働き人さえ与えられれば、収穫は多いのですから、その分だけ刈り入れることが出来るのですネー

しかし、神の福音を伝え、神の愛を伝えるという神のみわざにお仕えするということは:

・どこまでも神に主導権があるのであって

・私たちの能力や計画の中に、神を押し込めるようなことがあってはならないと思います 

自分の力や能力という限界をも超えて、神の与える自由の中で、種を蒔き、働き人を与えて下さるように願い、祈り求めなさい…主はそう語られているのですネー 

2.       平安を伝える者として (3~9)

さて、主イエスは弟子達を遣わされるに際して、

「…狼の中に小羊を送り出すようなものです。」と言われました。

主イエスに遣わされて、神の国を伝えに出て行こうとする者に対して、何とも不安を与えるようなおことばであります:

・「大丈夫、安心して行きなさい。」と言うのではないのです

  どうして、主イエスはこのような言い方をされたのでしょうか?

あまり複雑な意図はないと思います。まさに、遣わされていく弟子達を見ていると、そう言わざるを得なかったと思われますネー 

この世の中に遣わされていく主イエスの弟子達→彼らはこの世で通用する武器を何一つ身に付けていないのです。富も権力も名声も、何一つないのです→私たちもそうですネー 

続いて4節で「財布も旅行袋も持たず、くつもはかずに行きなさい。」と。

つまり何一つ持たず、小羊のままで行きなさいと、そう言われたのです:

・それは、弟子達が遣わされた目的と関係していると思います

・弟子達は何のために主イエスによって遣わされたのかそれは、神の国を言い広めるためです

 5 どんな家に入っても「この家に平和があるように。」と言いなさい:

 主イエスと共に神の国が来ている、だから

「悔い改めて、福音を信じましょう」→「この家に平和が来ますように」と告げましょう

70人は平和という神の祝福を告げる者として遣わされたからです。

 

このことは、とても大切なことです:

・私たちは何よりも、「この家に平和があるように」と告げ、そのことを祈る者として遣わされているのです

・平和を告げる者に、戦うためや、争うための武器は要りません、ネ 

 

〔高木の証〕です

 

・・・

 

→現在“平安を伝える者として、用いられている幸い”を感謝しています。

3.宣教の結果は (10~12)

しかし、町に入っても、人々があなたがたを受け入れないならば、大通りに出て、こう言いなさい:

11 『私たちは足についたこの町のちりも、あなたがたにぬぐい捨てて行きます。しかし、神の国が近づいたことは承知していなさい。』

 「足についたこの町のちりも、あなたがたにぬぐい捨てて行きます」というのは、「私とあなたがたとは関係ないですネ」という意思表示と思いますが伝道者、または宣教する者にとって、この言葉が何と慰めに満ちた主の言葉であろうかと思うようになりました:

・伝道者、または宣教する者にとって、伝道の成果が上がらないと、自分の能力のなさを責めたり、落胆する者です…そし

 て、自分は伝道には向いていないのではないか とさえ思い始めます

・けれども、伝道というものは→本来神のみ業です…会社の営業成績のようなものではないのですネー

しかし、

伝道しようと思う者はそれを判っていても、やっぱり自分の能力がないからとか、自分には向いていないから…と思ってしまいがちです…

→イエス様は、そのことも良くご存知だったのです。そして、こう言われたのです:

11私たちは足についたこの町のちりも、あなたがたにぬぐい捨てて行きます。』、と

すなわち、

「あなたの業もことばも受け入れられないとしても、それは受け入れない人の責任、問題なのであってあなたの責任ではない。→そう言われたのでありましょう。 

もちろん、伝道する者自身に問題があることもあるでしょう。しかし、そればかりではない。伝道は神の業→そのことを良く良く心にとめなさいということなのでしょう

そうでないと、伝道の成果が上がると→今度は、自分は大したものだ、そういう勘違いが起きてしまうことにもなりかねないの

です、ネ。 

そして、主イエスは最後に言われた→『 しかし、神の国が近づいたことは承知していなさい 』、と。

これは、何を意味しているのでしょうか?

弟子たちのことばを受け入れない人々がそこにいるのです。説得しても聞かないのです。主イエスはそこで言われるのです:

・執着するな。きっぱり別れを告げるがよい

・それならば立ち去ったらよい。キレイに分かれたがよい

・そういわれながら…「しかし…」と言われたのです…

 

「しかし、神の国は近づいた。」この神の国の現実はかわりません。

ルカははさらにこう言い換えていると思われます→「なお悔い改めの可能性は残っている。」、と。 

どんなにしぶとく神のことばを拒否する心に生きている者も、その罪、その強情に対して、神の国は近づいている→だから悔い改めの機会は残っているのですよ、と。これはルカだけが記している恵みのことばです。

 

さあ皆さん、この時の主イエスが言われた通り、それが起点となり世界宣教は進んでまいりました。

そして、全世界へと宣教が拡大され、2千年後の現在事実全世界の人口の33%25億人がクリスチャンとなっているのです

→この上岩出キリスト教会にも届いてますことを心から感謝いたします。 ハレルヤー!

 

 


 2023.7.15

題 名: 「善きサマリヤ人のたとえ」

聖書箇所:ルカ10:25~37

 

(はじめに)

イエスは、神の国を説き、その福音を宣べ伝えながら町や村を次から、次に旅をしておられた。そして、私たちに神の国の姿やありようを伝えるのに理解しやすく、やさしい“たとえ”をもって話された。

 

今日の主イエスの物語「善きサマリア人のたとえ」は、ルカによる福音書の15章に記されております「放蕩息子のたとえ」と並んで、主イエスが語られた たとえ話の中で最も有名なものであります。

 

話のあらすじは、一度聞いたら忘れることが出来ない程 印象的で単純なものです。どなたでもすぐに理解できると思います。それでは神の国の生き方というかありようを、よくよく読んで聞いてみましょう

 

1.律法専門家のたずね (25~28)

25節の律法の専門家の質問

ユダヤ人の信仰生活の中核である律法について

  ・その“急所をつく戒め”は何でしょうか

  ・そのおきてに従えば、“永遠のいのち”を自分のものとして

  受け取ることが出来るでしょうか、というものでした

主イエスの答A&Q:26節律法には何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。 

ユダヤの人たちは、1日2回律法の大切な部分を唱えるという生活の習慣があります。あなたはいつも自分の心に刻む“生活のおきて”として何をしていますかと彼は問われた。主イエスに問われた人は律法学者ですから、それはキチンとしていたことでしょう→この律法学者は、27節 「神を愛すること」 「隣人を愛すること」

の二つの愛の戒めをいつも口にしていると答えました。

 それを聞いた主イエスは、

28「そのとおりです」と受け止められ、

「あなたはきちんとわきまえているではないか。それを実行しなさい。そうすれば、いのちをえますと語られた。

 

2.では私の隣人とは誰(29)

29 しかし彼は、自分の正しさを示そうとしてイエスに言った。では、私の隣人とは、だれのことですか。」

この律法学者は引き下がらずに尋ねます「では、私の隣人とは、だれのことですか。」と。この反問のおかげで、主の物語が始まるのです

皆さん,29節では「自分の正しさを示そうとして」と書かれています:

・「自分を正当化しようとして」ということになります

  自己弁護とはいつも自分を正当化するということですネ 

律法学者は:

・神のおきてを学び、それを生きようとする

・そして神のおきてを人に教える

ですからこの人は、主イエスの問いには正しく答えざるを得なかったことでしょう。

だからこそ主イエスも言われた→「あなたの答えは正しい。そのとおり行いなさい。そうすればいのちがえられる。」と。

しかし皆さん、この人のこころの中には「自分は隣人を本当に愛しているのか」と自問自答してみると…「あの××とは…」など、そこには躊躇するところがあるんですネー

だから、「そのとおりです。それを実行しなさい」のことばにうろたえたのです→そのとおりにできない自分を、どこかで取り繕わざるを得なかったのです。そのために彼は手を打とうとしました。 それは何かというと、「隣人を限定する」ということです。言い換えると、

自分の愛を無制限ではなく、ある制約の中にあるものとして制限することです…これは私たちもよくやっていることです。それによって私たちはようやく息をつくことが出来るンですネー

 

愛は、無制限に私たちから全てのものを要求するところがある と思われます。そんなこと言われたらたまったものではない、と私達は思いますネー:

〔例、私が疲れて電車にすわって乗っているとき〕

  ・次の駅で高齢のおばあちゃんが乗って来た

  ・空席はなく立っているが よろよろしてる

  ・席を譲ってあげたいが…自分も今日は歩き回りくたくただ

  ・自分の知ってるおばあちゃんなら 立って座らせる

・けれど赤の他人までは譲ることは出来ないよ→と制限する

このように愛の枠を決める→私たちの“日常の知恵”では

 

律法学者は問います:

・わたしも隣人愛に生きたいと思っていますよ-

・しかし、隣人とは誰か、それをはっきりさせていただきたい

・そうでないと、われわれ普通の人間は、生きてゆくことが出来なくなりますョー

→そう言って、自分を取り繕う、取り繕わなければ生きて行けない

そのような意味での自分の正当化はやむを得ない→これが私たちの正直な生き方ではないでしょうか。この質問に 主イエスは次のようなたとえの物語を語られます。

 

3.善きサマリヤ人のたとえ( 30~37) 

30 イエスは答えて言われた。「ある人が、エルサレムからエりコへ下る道で、強盗に襲われた。強盗どもは、その人の着物をはぎ取り、なぐりつけ、半殺しにして逃げて行った。

31 たまたま、祭司がひとり、その道を下って来たが、彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。

32 同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。

33 ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、

34 近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった。

35 次の日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋の主人に渡して言った。

『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』

36 この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。

37 彼は言った。「その人にあわれみをかけてやった人です。」するとイエスは言われた。「あなたも行って同じようにしなさい。」

 

律法学者は、主の物語を聞きました。おそらくよく分ったと思います。そこで主イエスが問われました:

「この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」

なぜこのようなことを問われたのでしょうか。子供でもわかることです。

学者は答えました:

 「その人にあわれみをかけてやった人です。」と→サマリヤ人の名を口にすることを はばかりながら答えました

 

しかし、答え方は別にして、この律法学者は事がらをよく理解したと思います。登場するサマリヤ人の姿に感動しながら、あゝそれこそ「あわれみ深い行い」と思ったことでしょう。この答えは主を喜ばせたと思います→もともと主はこのような答えを期待されて話したと思いますネ

 

しかし、そこでなお私たちは、愛の制限をしてほしくなるのです→そのような無制限の愛になど生きることが出来ない、と

・この主の物語は、子どもにもわかると思いながらも、いつもそれに条件を付けるのです

・言い訳を…主のことばの通り生きるなら、何もかも失ってしまう

・主よこのぐらいで勘弁して下さい、と言い続けるのです

私たちは、そおいう愛の生き方しかしなくなっている…のではないでしょうか。

4.愛に望みを捨てないで生きる

この主の物語は、私たちの愛の実態を→私たちの罪の正体を明らかにすることばではないでしょうか:

 ・あの人は教会では立派な指導者のようにみえるけど本物かしら?

 ・理屈ばかり言っているが、主のおしえを生きている?…など

 これもまた自己正当化であり、結局は自分は傷つかないところに立

っている→そのことを気づかせてくださるのではないでしょうか。

 

さらに、この主の物語が私たちになにを問うているのでしょうか。即ち、「あなたも行って同じようにしなさい」のみことばをどのように聞いているでしょうか?:

・いつも とりつくろい、いいわけをし、自分を正当化して、やっと踏

みとどまっているような愛は真実の愛であるのかなー

  →そのようなことを思わせられますネ

 

一方、33節ところが、“あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い”→このサマリヤ人がなぜ傷ついた旅人を助けたのか、その理由についてはこれだけしか書いておりません。他の何の理由もなかった。「彼を見て、かわいそうに思った」だけです

 

皆さん、もう最後になりますが…

律法学者は「私の隣人はだれですか」と問いました。しかし、物語を終えてから主は問い直されました:

36「この三人の中でだれが、

強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」

 

愛の限定を求める心は、自分の隣人愛を受けるに値する隣人は誰かを限定したいと考えます。しかし主は、その心を断ち切るために、考え方の転換を求めました:

 ・相手が隣人かそうでないかの問いが 愛の行為を定めるのではなく

 ・危機の中に、困窮の中にあって、その隣人がいまこそ必要な人のそばに行き、自分がその隣人になってあげることこそ急所ですよ…

と言われたのです

 

私たちが隣人になるということは:

×無理を強いられることではありません

なすべきことを、私たちができる範囲でするだけです

私たちができることで良いのです

主の愛に突き動かされて生きる私たちが…ああ、ここで主が呼んでおられる。私が今隣人となるように召されている:

・ここでなすべきことをすればよい。たった2デナリです

・それをおいてくることが出来るようになるのです…

 

→そのとき私たちははじめてこの「憐れみ深い、善きサマリヤ人」の物語が、私たちを縛り付ける愛の物語から解放してくれる たとえ話であることに気が付くのではないでしょうか。

この物語を礼拝に出て正しく聞き取り、恵まれ→聖霊に満たされ 愛の一週間の旅路を歩む者とさせてください、と主の御名によって祈ります。

 

 


 2023.7.22

  題:「主イエスの足元にすわる」

聖書箇所:ルカ10・38~42

(はじめに)

このマリヤとマルタの物語がどんなものであるか、読んだだけでその筋書きは良くわかる、まことに単純な物語です。このマリヤとマルタの物語はたとえば子供に語り聞かせても、分るところがあると思います。それほど単純でありながら、しかもまた、言葉で言いつくすことのできない深さをも持っている物語であると思います。

この物語が前回の「善いサマリヤ人」で問われたこと:

隣人を愛することは→どうすることなのか

・お互いに面倒を見合い、思いやりながらこの社会を生きていくこと→どうすることなのか

をもう一度、キリストの光の中で、良く考え直さなければならないのではないか とも思わされます。

私たち とくに主を知る者にとっては 毎日の生活の中で、この物語は味わい続け・問い続けていくことが求められている、と思わされますネ。 

1.旅人をもてなすこと

主イエスは12弟子たちもお供をして町や村に福音を宣べ伝える旅をしておられました。この一行の旅には婦人達も一緒にいて、主イエスや弟子たちの身の回りの世話をしていました。当時、人が旅行する、まして集団で旅をするということは、わたし達の想像を超える困難なことだろうと考えられます。それだけに、この旅人たちをもてなすことはとても大切なことでした。 

 この時代、ホテルやレストランがあるわけではありません。埃にまみれ、お腹は空き、疲れ果ててしまう旅人に、一夜の宿を与え、暖かな食事の用意をすること、その着ているものを洗濯してあげることは、それこそ、「思いやり」のある者であったならば、誰でもすべきこことされていました。

38B「・・・イエスがある村に入られると、マルタという女が喜んで家にお迎えした。」とありますから、マルタとマリヤは 以前から主イエスを知っていたようです。姉マルタがこの家の「あるじ」でした。「あるじ」ですから、自分の客を一生懸命に「もてなそう」としました。敬愛するイエスさまご一行の到来ですから、勢一杯のサーヴィスをしようとしたのです、ネ…

   

ところが、主イエスはその宿に入ると、上記絵のように 主を求めてついてきた人や弟子たちを前に、いつものようにみことばを語り始めたようであります。妹のマリヤは39「主の足もとに座って、みことばに聞き入っていた。」とあるように、「主」の足もとに座って、マリヤは「みことば」に聞き入っていたのです。しかし、すぐにそこから話が続きます…

40マルタは、いろいろともてなしのために気が落ち着かず、みもとに来て言った:

『主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、妹に

  おっしゃってください。』、と 

主よ、妹が私だけに 主であるあなたの奉仕をさせているのを、なぜ放置しておかれるのですか、と言いました: 

・私がしているのは主であるあなたのための仕事です

・ですから私は夢中になって働いています

・しかし、なぜそれを「私だけ」にさせるのですか

おそらく、この時のマルタの心の中には、みことばに集中する妹を非難するだけでなく、それを赦している「主イエスを非難する心」でした。 

2.マルタかマリヤか

41 主は答えて言われた。「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。 

マルタにとって、はっきりしていたことは:

・ここでは宿の主として、何よりも主とその一行に、しっかりと仕えねばならない

・それには当然のこととして、姉妹が力を合わせてやるべきことでした

それなのに、妹にその思いが無視されているのです。それが評価されていないのです。腹立だしいことでした。

マルタはとても世話好きな女性で、献身的に家のために尽くす人であったと思います。「身を粉にして家族のために働いている」と自他共に許している女性であったと思います。しかし、その女性が、このように文句を言い始めるのです:

・自分の奉仕が思う通りに行かない、そのことに誰も気付いていない

・妹だけではない。主イエスまで気付かない

わたしのこころを「思いやってくれない」→腹を立てているのです、そして主イエスまでも非難するのです。 

このマリヤとマルタの物語について、現代では、世の中には次のように2つのタイプがあると考えるのです;

  マルタはいわゆる宿の主です。主のことは、知ってはいますが、自分自身は主をあくまでも客として しか見ていない

  マリヤは主イエスのことはよく知っていて、主が語られるならば他に最優先し集中するような人でした

さて教会員も、そのようなタイプがあるかも知れません、例えば;

➀教会堂に入ると、すぐに食事のことが気になり、隣の人のことが気になり、すぐ世話をする人→礼拝するより、奉仕最優先

  の人

②賛美し、主イエスの語られることを最優先する人→礼拝優先の人 

そのような見方で、この物語を読む時、おかしなことに共通の姿勢が生まれるようです→つまり、マルタのような女がいなければ、世の中が成り立たないではないか。教会生活が、礼拝が続けられないではないか、と

即ち、マルタかマリヤか→この考え…あなたはどう思いますか?

3.主イエスの願い

42 しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マりヤはそのよい方を選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。

しかし、「どうしても必要なことは…一つだけです。しかも「マリアは良い方を選んだ」と続きますから、この必要なただ一つのこととは、主イエスのことばに聞き入ること ということになります、ネ…

主イエスの心の声〕を聴いてみましょう:

・わたしの伝道旅行の途上、今この宿にお世話になろうとしています

・しかし、わたしについてきた人がいる限り、わたしはその求める人には みことばを…その話をしています

 ・わたしのことばに聞き入り、神の国を求めること、それが必要なただ一つのことなのですョ→ここにいのちがあるからです

 そして 主イエスは言われたのです:

マルタよ、

・自分の正しさに生きることでもなく、人の評価を気にすることでもない。そんなことで思い悩まなくていいんだよ

・今、わたしたちがここにお世話になろうとしているではないか

・それなのに、どうして心を乱しているのですか。必要なことはただ一つ→みことばに聞き入ることですよ、と 

マルタは、主が求めていることを見失っていたのです。そこに、マルタの問題があったのです。マリアは良い方を選んだのであり、マリアからそれを取り上げてはならないのです。

何故なら、ここに主イエスのいのちがあるからです

・主イエスのことばに聞き入り、主イエスとの交わりの中に自分の全てを注ぎ込む。ここにいのちがあるのです

・だから、マリアから、私たちから取り上げてはならないのです

 → これは、マルタにもマリヤのように、ここに座って欲しいと招いておられることばでもあるのですネ 

主イエスが言われたのは、ただひとつのことだけです:

・「あれもこれも」ではなく「あれかこれか」です

・働くことも、人の世話をすることも大切だけれども、今しばらくはこちらも大切だと言うことを…ぼんやり言っているのではありません 

これはマリヤより取り去ってはならないこと、マリヤのいのちにかかわることであるのです。主はそう言われる、まことに厳しいことばです。マルタの中にある罪を指摘することばでもあるのですネ。 

ルカ10章・1節を振り返って見ましょう:

・主イエスが12名の使徒とは別に70人を定めて、ご自分が行くつもりのすべての町や村へ、ふたりずつ先にお遣わしになった、と書かれてあります

・ですから、主イエスご自身で旅を続けている間は 先ず福音を宣べ伝えることが、何よりの願いでありました→だから、求める人があれば、語ることを最優先していた、と思われますネ 

もしかして、マリヤや弟子たちにも「サマリヤ人のたとえ」を話されていたかもしれません。マリヤはそのみことばをイエスの足もとにすわり、聞き入っていたのです。飢え渇きを覚えていたマリヤは主イエスのみことばに聞き入っていたと思われます。 

一方マルタは、旅をする主イエスの「その疲れや飢えについて」心を遣うことはできましたが、主イエスのみことばに心を注ぐことはできませんでした。そのみことばが自分にとって、どれだけの意味を持つものであったかはわきまえることができませんでした。 

実は、わたし達はここにおいて、主の足もとに座って聞くことにより、はじめて真実に:

・「隣人を愛すること」がどおすることか

・また「神を愛すること」がどおすることかが分かるようになってくるのでありますョー

わたしたちは主に教えていただかなくても、分っているつもりでいます。しかし、わたし達は「自分流のやり方」では、すぐ疲れてしまいます。

そして、すぐに裁くのです。そのようにして他人を傷つけ、自分が傷つく。お互いに傷だらけとなり、社会もまたそのようにして傷だらけの社会となって行くのです。 

わたし達が傷つきながら、人生を生きてゆこうとします。そこで、憐れみに富み、まことの「思いやり」に生きて訪ねてくださるのが主イエスです。マリヤもまた、傷つきながら生きていた女性であったのではないでしょうか。その傷を癒してくれるイエスのみことばに、聞き入っていたのです。 

この主の足もとに座り聞く経験を通してこそ、わたし達もまた、憐れみの心に生きる「善きサマリヤ人」となることができるのであります。この主の足もとで知る「思い」こそ、人は誰でもが受け入れることができる思いです。すなわち、そこでこそわたし達が「真実の思いやりに生きる」ことができるようになるのです。 

主が求めておられる「わたし達の生きる道は唯一つです」。選ぶべきは唯一つ“主の足元に座ることです”、クリスチャンであるならば、礼拝第一の生活です。

礼拝第一で受ける恵み→聖霊の力(デュナミス)この力によってはじめて私たちは罪の誘惑に打ち勝ち、神を愛し、隣人を愛することができるようになります。そして、私たちは平安な一日をおくることが出来るようになります。

世に生きる限り誘惑が多いです。がまず、“主の足元に座ることです”を何よりも優先させようではありませんか