2022.2.5
聖書箇所:ルカ19章1~10節
( はじめに )
イエスの公生涯は…主イエスがまず弟子をつくりから始めました。その12名の弟子たちと共に神の国を説き、町や村々で福音宣教
の旅をつづけました。その3年半の旅も最終段階に入りました。
そして18章では神の国に入り、神の国に生きるための大切な2つのことを語って下さいました:
1)主への信仰のため→「祈りの生活」がその基本であること
2)神の国に生きるため→「永遠のいのちに至る道」を示されたこと
そして、自分の最後の時が来たことを悟り、18・31節では…
「12弟子たちを呼び、これからエルサレムに向かって行きます。
人の子について預言者たちが書いているすべてのことが実現されるのです。」
と語り、エルサレムに向かって歩み始めました。
今日の聖書箇所は、そのエリコの町で 取税人ザアカイとの出会いの物語へと入って行き、ザアカイの救いへとつながって行きます。孤独の寂しさで自棄になっていたザアカイは、主イエスとの出会いによって救われ、喜びと感謝の生涯に変えられた驚きを多くの方々に語り伝えたことでしょう。そのことのゆえにここにその名前が出てくるゆえんかなと思わされました。
1.イエスをぜひとも見たい取税人ザアカイ(1~4)
ザアカイは世界最古の町エリコ[1]の住人で「取税人のかしら」でありました。今でいう税務署長です。エリコの町はエルサレムに入る入り口にもあたり、交通の要衝となっていました。
おそらく、ザアカイはこの交通の要衝の関税所の役人の頭でありました。当時世界を支配していたローマ帝国は、取税事務を希望者に請け負わせていました。
取税人:
当時パレスチナを支配していたローマ帝国のために、税金の徴収を請け負った者たちです。そこのユダヤ人はローマ人たちを「異邦人」とよび、できるだけ接触を避けました。 こともあろうに、取税人はその異邦のローマ帝国の手先となって税を取り立てるのですから、ユダヤ人からは大変に嫌われました。
その取税人たちは、同胞のユダヤ人からは差別され、軽蔑されていたことを良く知っていました。それだけに、彼らはしばしば立
場を利用して私服を肥やしましたから、ますます許しがたい存在でした。「金持ちのザアカイ」はそのような取税人の頭だったの
です…
→しかし、ザアカイはイエスが、取税人仲間のレビを自分の12人の弟子のひとり(マタイ)にしたというニュースもいち早く知
っていました。
もうひとつ、このザアカイが「背が低かった」と、わざわざ書かれていることです。ですから、相当に低かった…背が低かったこ
とにより軽蔑されたり、いじめられたりしたことでしょう。ザアカイはそのことで、どれほど劣等感というか、悩みを持っていた
ことでしょう。逆に、「よし、それなら、権力に近いところに立ち、取税人となって見返してやろう」…と言う思いが、このザア
カイの人生の、決定的な条件になっているのではないか…と考えられます、ネ
いずれにせよ、このザアカイの心の中にあるもの、それは…およそ、ザアカイ:「正しい人」という名には程遠いものであったことでしょう。ザアカイ自身はといえば;
・お金だけは面白いように入ったことでしょう、が
・かえって人々からさげすまれ、非難され
・心の中は孤独であり、寂しい孤独な生活をしていました…
→しかし、自分ではどうすることもできなかったのです
さあそのザアカイに、“イエスが来たー” のニュースが突然に入ったのです
→「あのイエスが来た!そら一大事だ、何としても見て見なくては…」
→あのイエスが…取税人仲間のレビを弟子したイエスが来た、とー
ザアカイは是非にもイエスを見たい! 会いたい! と思い、仕事を放り出して飛び出しました。
しかし、沿道は既に黒山の人だかり。背が低いザアカイは見ることもできません:
・例えば、高齢の腰の曲がった人が来て、「私も主イエスを見たい」から「前に出させてください」と頼めば、人々はサアどうぞ
と親切にしてくれたことでしょう。
・けれども、嫌われ者のザアカイのこと、妨害されこそすれ、中に入れてくれる人なぞいません
だが、会って見たいザアカイは、あきらめません…
4それで、イエスを見るために、前方に走り出て、いちじく桑の木に登った。ちょうど主がそこを通り過ぎようとしていたからである。
何とかしてあのイエスを見てみたい、会ってみたい…というその熱心のゆえに…先回りして道に張り出したいちじく桑の木に登り、
イエスの来るのを待つことにしました。
やがて大勢の人に囲まれながらイエスがやって来ました。
ザアカイはドキドキしながら、いちじく桑の木から身を乗り出して、イエスの姿を探しました
→「アッ、あの人や!」と、思ったその瞬間、イエスと目と目が合いました。そして驚くべき“ことば”が彼の耳に届いたのです。
『ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。』、と…
→それはなんとも“愛に満ちたことば”であり、“まなざし”でした。
自分が受け入れられていることが分る温かさがありました;
・自分のことを知っていてくれた
・自分にことばをかけてくれた、そればかりか
・自分の家に来て、その上泊まってくれる…とは!
ザアカイにはお金はありましたが、友は誰一人いませんでした;
・誰も心を開いてくれません、受け入れてくれませんでした
・だから、自分も心を開きませんでした
そんな孤独な中にある彼への…主イエスのことば
『ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから』
イエスの呼びかけに→冷え切ったザアカイの心は“とかされ”ました。彼の心に不思議な喜びが湧き上がってきました;
・背が小さいばかりに、劣等感を抱いてきた自分→自分で自分を見失っていたのです
・そこでお金で「自分を高く見せよう」として取税人になり
・不正をして私腹を肥やしてきた自分の姿
・なのに…いくら貪っても
→もてば持つほどもっと欲しくなる…平安→本当の幸せはありません
→お金では本当の幸せは得られない…身に染みていました
・かえって、その故に神から失われ、隣人からも失われた自分となってしまっていました…
しかし、イエス様から呼びかけられて…今自分で気が付いたのです! そしてイエス様を喜んで自宅に招きましたネー…
……
さて、彼の家でイエスが何を語ったのかは分りません…
しかし、明らかなことは;
“ザアカイがイエス様に接したことで、すっかり変わってしまったことです“
その証拠に、昨日までのザアカイならばとうてい考えられなかったことばが、彼の口から出てきました;(8節)
「主よ、ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだましとった物は、
四倍にして返します」、と
なんと、彼は自分の財産の殆ど全てを放棄する決心をしていました。命令されたからですか…→いいえ、ただ、イエスとの
交わりを通して、その愛ときよさに触れて…→彼の心はすっかり変えられたのです;
・せっせと蓄財に励んでいた守銭奴の彼が
・貧しい人々のことを心にかけ
・同時に自分がしてきた不正の償いをしなければ、気がすまなくなっていたのです、ネー
神から離れ、霊的に死んでいた彼が、新しいいのちを得、そのいのちがあふれて「愛と義の実」を結んだのです。確かに、救われて→「永遠のいのち」を得た人の姿がそこにありました。
3. きょう、救いがこの家に来ました」(8~10節)
8ところがザアカイは立って、主に言った。「主よご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。
また、だれからでも、わたしがだまし取った物は、4倍にして返します。」
まず、ザアカイは何よりも→イエスに対し、主よと語っているのです。ここでは、ザアカイは自分がしてきた罪のかずかずを悔い
改めています。また、当時の裁判の罰規定以上の4倍にして返しますと言っているのです。
9イエスは、彼に言われた「きょう、救いが “この家に”来ました。この人もアブラハムの子なのですから。」
ここ9節でイエスは、次の二つのことを言われています:
①トウ・オイコス(この家)に来たと言っているのです
ザアカイの家、家族がどうであったかはわかりません。しかし、皆さん…
→主イエスは「きょう、救いがこの人に来ました」と 言われたのではありません;
・救いはこの家に来ました→あなたの家に神の祝福が始まりましたョ
・救いはこの家だけで終わりはしません→救いはこの家よりはじまるのですよ…
と、このように語られたのだと思いますネー
このことばを読むときに皆さんも思い返されることでしょう;(使徒16:31)
「二人は答えて言われた『主イエスを信じなさい。そうすればあなたもあなたの家族も救われます』と」
神の期待はあなただけではないのです、ね。あなたの家族も。更にあなたの地域も→あなたの町をも…と!
さあ、この呼びかけに対して、私たちはどうすれば良いのでしょうか?
②この人もアブラハムの子なのですから
ザアカイという名前は→「正しい人」という意味です…アブラハムの子ではあるが、この無能な失われた人は、神の救いに
与るのです…
→先の(ルカ18・26)「それでは、だれが救われることができるでしょう」の問いに答える主イエスのことばとなって
います。
背の低いザアカイ、その故に取税人となったザアカイ、その生き方はユダヤ人からはもちろんのこと、ザアカイは、仲間の人間
からも「相手にされませんでした」;
・ザアカイ自身が、“神と、隣人の関係などはどうでも良い”と
・その点では、自分で諦めていた…自分を捨てていました
・ザアカイは正に「やけを起こしていた」無能な“失われた人”となっていました
だが、そこでイエスは言われます;
(10節)「人の子(イエス・キリスト)は、失われた人を捜して救うために来たのです」
ザアカイは、「私はイエスを迎えるにふさわしい人間なのだ」といって…胸をはって生きてきたのではありません。
反対に;
・自分で自分をあわれな者と勝手に決めつけ
・金で自分の幸せを見せつけることが出来るだろうと
・取税人となり、税金をだまして上乗せし→お金持ちになりました
・しかし、そうすればするほど皆から疎まれ、さげすまれ→孤独に
⇒失われた人へと落ちて行ったのです
しかし、失われた人が→主の救いにあずかった時;
・その人は生まれ変わります→そして、自分が抱いていた憧れが、この新しく生まれることであったのだ…とわかります
・そのことの故に、救われた者が「神を愛し、隣人を愛することが出来る」ようになるのです
・このようにして…「その孤独から解放される」のです
ザアカイは、イエスを「主」と呼び、この主イエスに従う決意を明らかにしました;そして、
→自分が“救われました”…→そして、自分だけでなく、
→その隣人をも愛す(お金を返す)こともできるようになりましたネー
3.3 救われた者の務め
皆さん、どうしてこのザアカイの話が聖書に載っているのかと思いますか?私は、ザアカイが、この話を何度も何度もしたからだと思います。そして、このザアカイの話を聞いた人々は、「ああ、自分もそうだった。」そう思ったからではないかと思います。
そして、彼は自分が主イエスと初めて出会った時のこの話を何度も何度も話したに違いない。喜びと驚きと感謝をもって、この時の話を何度もした。
そして、それを聞いた人々も、自分もそうだった。自分が主イエスを求めていたと思った時、既に主イエスが自分の名を呼び、自分のもとに来てくれ、自分と共に歩み、自分の中に宿って下さった…
→その恵みを、共に喜び、祝ったに違いないと思います、ネー
→それは、この話を読む私たちが、このザアカイの姿に、自分自身を重ねて読むのと同じではないかと思うのです
ザアカイが、何度も自分の主イエスとの出会いの物語、救いの証しを語ったように、私たちも又自分の言葉で自分が救われた証し何度も何度もし、隣り人に主イエスの到来の喜びを伝えていきたいと思うのです。
今年は地域・家族と関わりながら、宣教する教会となるように祈ってまいりましょう!
[1] ここエリコはトランスヨルダンとエルサレムを結ぶ道にあり、エルサレムに入る入り口にもあたり交通の要衝でした。取税人の頭は莫大な財を成したであろうと思われています。
2022.2.26
聖書箇所:ルカ19章41~48節
( はじめに )
イエスの公生涯…その3年半の宣教の旅も最終段階に入りました。そして、「自分の果たすべきその時が来た」を覚悟し、エルサレムに向かって歩み始めました。
前回の19章では、いよいよシオンの都エルサレム入城に先駆けて「主がお入り用なのです。」のみことばの力のゆえに 預言のとおり「子ろばに乗って」、喜ぶ弟子たちが大声で神を賛美する中に イエスはエルサレム入城されました。このイエスのエルサレム入城こそ→受難週のはじまりの時で⇒受難週の第1日のことでした。続く今日の箇所はその2日目のところですが、その入城にあたってイエスの思いはいかなるものであったでしょうか?
1. エルサレムに泣くイエス(41~44)
41エルサレムに近くなったころ、都を見られたイエスは、その都のために泣いて、
42 言われた。「おまえも、もし、この日のうちに、平和のことを知っていたのなら。しかし今は、そのことがお前の目から隠されている。」
43 やがてお前の敵が、お前に対して塁を築き、回りを取り巻き、四方から攻め寄せ、
44 そしてお前とその中の子たちを地にたたきつけ、お前の中で、一つの石も他の石の上に積まれたままでは残されない日が、やって来る。それは、お前が神の訪れの時を知らなかったからだ。
前日エルサレムに入城されたイエスとその一行ですが、その後はどうされたのでしょうか?…
→マルコの記事(11・11)にも少し詳しく書かれていますのでそれを見てみます…
→イエスご一行は…宮にはいられ、すべてを見て回った後、時間も遅くなったので、12弟子たちとともにベタニヤに出て行かれた、
と記されています…
さて、そのエルサレム入城の2日目のこと(受難週の2日目のことです)…
→エルサレムに近くなったころ、都を見られたイエスは、“その都のために泣いて、 言われた。”と書きはじめられています。
(“イエスが泣かれた”…これはルカの福音書ではここだけのことです)
このイエスの涙は、万感の思いからの涙であったことでしょう!
その理由を推し量ってみましょう:
1)主イエスは、御自身の十字架での死を前にして、エルサレムの滅びを見通し、嘆かれ泣かれたのです:
42「おまえも、もし、この日のうちに、平和のことを知っていたのなら。しかし今は、そのことがお前の目から隠されている。」
この日とは→主イエスを囲んだ弟子たちが歌を歌ったことを読んできま
した:
「祝福あれ。 主の御名によって来られる王に。
天には平和。 栄光は、いと高きところに。」
弟子たちの賛美を聞かれたイエスの嘆き…
→この平和の歌を、なぜ神の都エルサレムの人々は歌ってくれないのか
→この町から平和の歌声が聞こえなくなってしまっているナ~!
42「もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら…」
→しかし今は、それがお前には見えてない。皆が力をもって戦い、力をもって相手をねじ伏せ、平和を得ようとする。
イスラエルは、神の民でありながら世の人々と同じように、その様な力の王を求めている。
がしかし、そこに生まれるのは平和ではなく、戦いであり、その戦いは自らが滅びるまで終わることがない→エルサレムは滅びるー、と。
2)同じこの日のことを44節の終わりにこう語られています
「それは、お前が神の訪れの時を知らなかったからだ。」
・主はこう言われる:
あなたを尋ねて神が来られてるではないか→私がここにきているではないか:
→なぜそれに耳を傾けないのか
→なぜそれに目を開かないのか
…そこで心を閉ざすと恐ろしいことになる
・平和のことばとおとずれのことばの間にあるのはエルサレムの滅びを告げる言葉です
これら2つの理由だけではなかったと思いますが、力に頼り、イエスを神と認めないエルサレムの滅びを告げる言葉です…
→この主イエスのエルサレム崩壊の預言の43~44節に記された言葉はそのまま歴史の現実となりました:
「おまえも、もし、この日のうちに、平和のことを知っていたのなら。
しかし今は、それがお前には見えない。
やがて時が来て…
→敵が周りに堡塁を築き、お前を取り巻いて四方から攻め寄せ
→お前とそこにいるお前の子らを地にたたきつけ
→お前の中の石を残らず崩してしまうだろう
それは、おまえが、神の訪れの時を知らなかったからである。」
事実、ユダヤの歴史はどうなったでしょうか→ユダヤ人の歴史家でローマの宮廷につかえていたヨセフスの「ユダヤ人の歴史」によると
→AD66年から始まったユダヤ戦争において、ローマ帝国によってユダヤはAⅮ70年のエルサレム陥落により滅びるのです。 主イエスが十字架におかかりになってから、40年ほど後のことです。
この2点から主イエスの願いとは…
・平和の歌を歌う民となること…でありました。
・神の訪れを受け止め受け入れること
・皆が真の平和の歌を歌うこと…
このことに反する民にも宮にも泣かれたイエスは、宮にはいられると…→なされたことは…つぎの45~46節のことであります
45 宮に入られたイエスは、商売人たちを追い出し始め、
46 こう言われた。「『わたしの家は、祈りの家でなければならない』と書いてある。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にした。」
主イエスが「まことの王」として2日目エルサレムに入られて 最初になされたことは…宮に入って商売をしていた人々を追い出すことでした。いわゆる「宮きよめ」と言われていることです…
当時の宮には、たくさんの商人がいました。これは日本で見られるような、大きなお寺の前にはたくさんの「おみやげ屋」さんがあるのとは、少し違います
さあどのように…?
Qこの時、主イエスが追い出した商人というのは、両替商や動物を商う人でした→どうして、宮に両替商や動物を売る人たちがいたのか…
Aそれは、宮に来る人たちは、宮にお参りに来るのですから、宮に献金をささげることになります…
・しかし、宮でささげられるお金は、当時流通していた貨幣ではダメだったのです…
→昔イスラエルが独立していた頃に用いられていた貨幣でなければな らなかったのです…
→ですから、この宮に店を出している両替商でお金を換えてもらわなければならなかったのです
・そして、動物を売る人というのは、宮で犠牲をささげる時に、動物はキズやシミのないものでなければなりませんでした…
→この宮で売られている動物は、すでにその検査がされて、この動物は大丈夫という宮のお墨付きをもらっているものでした
ですから、安心してみんなここで動物を買うことになります
しかし、両替には手数料が取られますし、動物も外で買うよりずっと高い値が付けられていたのです→それも、かなりの高値であったと言われます。
しかももっと悪いことに、その宮の商人たちは、大祭司一族にその利益を回していたのです→何か現代の汚職事件を思わせるような構図ですけれど、それが当時の宮の姿でした…
ですから主イエスは、
46「『わたしの家は、祈りの家でなければならない。』と書いてある。それなのにあなたがたは、それを強盗の巣にした。」
→と言われたのです
「祈りの家」、これはイザヤ書56章7節の引用です:
7 わたしは彼らを、わたしの聖なる山に連れて行き、わたしの祈りの家で彼らを楽しませる。彼らの全焼のいけにえやその他のいけにえは、わたしの祭壇の上で受け入れられる。
わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれるからだ。
ルカの福音書の著者ルカは、これに先立つ18章9節以下に「宮における祈りについて」→現代の「教会での祈りに」…主イエスの語
られた たとえ話を記しています:
・パリサイ人が祈ります…
→「…私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一を捧げています」と不正なものでなく、姦淫する者でないことを
誇る祈りをします
・取税人が祈ります…
→遠く離れて立ち、目を天に向けようともしないで、胸を打ちながら祈りました…「神さま、こんな罪人のわたしをあわれんでください」、と
イエスがこの祈りの家で あるべきであるものが祈りの家にないのではないかと言われたのは…
→まさにこの祈りの家に、この取税人の祈りにも似た祈りが…聞こえなくなっているということであります!
このイザヤ56・3はこう記しています:
3 主に連なる外国人は言ってはならない。
「主はきっと、私をその民から切り離される」と。
宦官も言ってはならない。「ああ、私は枯れ木だ」と。
主に連なる異邦人も、自分たちは神の民に属さないから神の救いから外れているなどともいえないョ→皆、祈れる。皆、神を拝めるョ
→それがこのエルサレムの都でおこることではないか…とそう言われているのです!
さらに、
その取税人の祈りを、あらゆる民族が、あらゆる異邦人が、心を一つにして祈るところに神の訪れがあり、平和が訪れてくるのでは
ないのか。なぜただ一度でもいい、神の前に立って「神よ、私の罪を憐れんでください」と祈ることができないのか。
なぜ、わたしが悔い改めをしなさいと促し、あなたの罪から解き放たれよ…と語り続けているのに…
悔い改めることをしない…→わたしがここで流す涙が、なぜあなたがたの涙とならないのか…
→主イエスの問われていることは…まさにそのことなのです。
皆さん、あのエルサレムで泣かれたイエスさまが…
今日この上岩出教会に来てくださり…涙して語って下さいました:
・異邦人のあなたがたが、心を一つにして祈るところに神の訪れがあり、平和が訪れてくるのではないのか
・なぜただ一度でもいい、神の前に立って「神よ、私の罪を憐れんでください」と祈ることができないのか
・わたしがここで流す涙が、なぜあなたがたの涙とならないのか…
主からのメッセージはここまでとします。アーメン!
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