2023.2.04

主 題:「 怒る真ん中を通り抜けるイエス」 

聖書箇所:ルカ4章14~30節

 

1.  ガリラヤでの宣教のはじまり(14~15)

14 イエスは御霊の力を帯びてガリラヤに帰られた。すると、その評判が回り一帯に、くまなく広がった。

15 イエスは、彼らの会堂で教え、みなの人にあがめられた

主イエスはバプテスマのヨハネからヨルダン川でバプテスマを受けました。そして祈っておられると鳩のような形をした聖霊が降られ、その聖霊に満たされた後にヨルダン川から帰られました。さらに、御霊に導かれ、荒野で悪魔の誘惑に会われ、それに勝利されました。

それに続くところがこの14節以降のところであります。ルカの福音書だけがこのように彼らの会堂で教えられたと書き始めます。   

  

この写真はガリラヤ湖のイエスの宣教拠点カペナウム付近にある会堂遺跡の写真です。

主イエスが宣教を始められたのはガリラヤの地方で、特にカペナウムがその中心地でありました。主イエスはまず最初に、その彼らの会堂で教えることから始められました。イエスさまの最初の宣教の地は、エルサレムではなく、ベツレヘムでもなく、この都から遠く離れた地・ガリラヤ湖の特にカペナウムを中心とした所でした。

ここで彼らの会堂で教えると、みなの人にあがめられた、と書かれています。ユダヤ教の律法学者や、パリサイ人のいない田舎のガリラヤ湖周辺ゆえに、その語られたことばを素直に受け入れられて→みなの人にあがめられました。予想通りの順調な宣教の開始でした。

.聖書のみことばが実現した(16~21)

16 それから、イエスは自分の育ったナザレに行き、いつものとおり安息日に会堂に入り、朗読しようとして立たれた。

17 すると、預言者イザヤの書が手渡されたので、その書を開いて、こう書いてある所を見つけられた。

18 「わたしの上に主の御霊がおられる。

主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、

わたしに油をそそがれたのだから。

主はわたしを遣わされた。

捕らわれ人には赦免を、

盲人には目の開かれることを告げるために。

しいたげられている人々を自由にし、

19 主の恵みの年を告げ知らせるために。

 それから、主イエスは大工ヨセフの長男として30年の間 育ち生活を共にしたナザレの村にゆき、同じように安息日に会堂に入り、みことばを語り始めました。その会堂で手渡されたのがイザヤ61章1節の箇所でした。その最後のところが19「主の恵みの年」を告げ知らせるために…とあります。この「主の恵みの年」というのは「ヨベルの年」ということです。ユダヤの律法によれば、ヨベルの年というのが50年ごとに巡ってきます。ヨベルの笛が吹きならされると:

・借金のために奴隷となっていた者は自由人になり

・囚われていた者が解放され

・見えない者の目が開かれる…など、

人には喜びの時が来る、人々の救いの時が来る、と語り伝えられています。その巻物のイザヤ書を語り終えると…

20 イエスは書を巻き、係りの者に渡して座られた。会堂にいるみなの目がイエスに注がれた。

21 イエスは人々にこう言って話し始められた。「きょう、聖書のみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました。」

 それが「きょう、聖書のみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました。」→それが今あなたがたの目の前に実現しているよ、とイエスはご自分のことをそう語られたのです。

 

3.  この人は、ヨセフの子ではないか(22~24)

22 みなイエスをほめ、その口から出て来る恵みのことばに驚いた。そしてまた、この人は、ヨセフの子ではないか」と彼らは言った。

23 イエスは言われた。「きっとあなたがたは、『医者よ。自分を直せ』というたとえを引いて、カペナウムで行われたと聞いていることを、あなたの郷里のここでもしてくれ、と言うでしょう。」

24 また、こう言われた。「まことに、あなたがたに告げます。預言者はだれでも、自分の郷里では歓迎されません。

このことばを聞いた人の反応を24預言者はだれでも、自分の郷里では歓迎されません。」と、主ご自身が語っています

→「じぶんは、自分の郷里ナザレの人々には気に入らない存在である」とはっきりと言われました。

皆さん、「気に入る」とか「気に入らない」はとてもわがままな個人的な感情です、ネ わたしたち自身も様々な判断基準を持ってると思います。その中でも重要な判断基準→「気に入る」「気に入らない」ではないでしょうか!!

ナザレの人々は神の救いについて→これは気に入らぬと思い始めたのです。イエスは明言された。あなたがたの心は私を拒否している→あなたがたにとって私は気に入る存在にはなっていない、と。

しかし、ナザレの人々が主イエスに対して、あなたは気に入らない…と言ったわけではありません。主イエス自身から、自分の故郷の人々の中にある、気に入らない思いをあることを見抜いていたのです

→この「気に入らない思い」は、主イエスを殺すほどの思いとつながり、ゆくゆくは、十字架につけずにはおれない思いとなるのです

どうして、このような結末になってしまったのでしょうか? 初めは「明るい救い」を告げる調子で始まっていました:

22 みなイエスをほめ、その口から出て来る恵みのことばに驚いた。

“その口から出て来る恵みのことばに驚いた。”:

(申命83)「…人はパンだけで生きるのではない。人は神の口から出るすべてのもので生きる。」

 →人を生かすのはパンだけではない、

 →人は神の口から出るすべてのもので生きる

つまり、今ここでは主の口から→主イエスご自身の口から流れ出てくる恵みのことばによる。これこそ私たちを生かす救いのことば、これ以外には救いがない。ここにいのちがあり、望みがある→このことばに驚いたのです。ところが、この主イエスの救いのことばに人々は驚いたが→気に入らなかった。そして、彼らが語ったことば「この人は、ヨセフの子ではないか」と:

 ・恵のことばはよろしい

 ・問題は語っているこの男だ

 ・この男はヨセフ→我々が良く知ってる大工ヨセフの子ではないか

 ・このイエス、われわれと同じ大工の子が…なぜ神の恵みのことばを語ることができるのか

 →それがわれわれの“気に入らぬことだ”というのです。

なぜなら、そこに自分の知らないイエスが現れてくるからであります。自分たちが良く知っていると思っていた相手が違った姿を見せ始めることは、実は私たちにとってはしばしば気に入らないと思うのです、ネー

 

4.憤りの中を通り抜けたイエス(25~30)

2527節を読む) 

さて、主イエスはさらに話をします:

1)  25節以下でⅠ列王記17章にあります「シドンのツァレファテのやもめ」の話

2)Ⅱ列王記5章にあるアラムの王の将軍ナアマンの話 

ここで「ツァレファテのやもめ」も「ナアマン将軍」もどちらも異邦人のことです。主イエスは、旧約聖書の中から、わざわざ、異邦人に神のあわれみが示されたところを引き話すのです。これは”異邦人の救い”という、主イエスによる“救いの広さ”を告げているのですが、これは、ユダヤ教の枠を超えているものでした。ユダヤ人は、自分たちは神の民で救われるが、異邦人が救われることはない、そう信じていたからです。

ですから、このナザレでの出来事は、主イエスが語られた福音の中心のことが反対に会ったということを示していると思います、ネ なぜ人々は反対し、反発したのか? それは、主イエスの語ることが、自分達の救いの理解と違っていたから、自分達の救いの理解を超えていたからでありましょう…

イエスは「ツァレファテのやもめ」の話をし、ナアマン将軍の話をして、異邦人の救いを語ります。これは、24「預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ。」を示している訳ですが、この故郷というのは、ナザレの村のことであると同時に、神の民イスラエルということも示していると思われます、ネ

28 これらのことを聞くと、会堂にいた人たちはみな、ひどく怒り、

29 立ち上がってイエスを町の外に追い出し、町が立っていた丘のがけのふちまで連れて行き、そこから投げ落とそうとした。

 ですから、これはまさに「聞き捨てならぬ」ことを主イエスが言ったということであり、人々はひどく怒り、主イエスを町の

外へ追い出し、がけのふちまで連れて行って投げ落とそうとしたのです。 

主イエスの宣教が、故郷ナザレの人々に受け入れられず、その人々によって殺されそうにまで なってしまった…

→このことは、やがて神の国を宣教する主イエスは、神の民イスラエルの人々によって殺される、十字架にかけられるということを暗示しているともいえるのでしょう、ネ 

初めに言ったとおり→ルカが、このナザレの出来事を主イエスの公の宣教の最初にもってきたのは、そういう意図があったからだと思われます。また、このナザレの出来事は、主イエスの宣教がやがて十字架へと至る、そのことを暗示していると思われます 

30 しかしイエスは、彼らの真ん中を通り抜けて、行ってしまわれた。

 しかし、この時主イエスは崖の下に突き落とされることはありませんでした。主イエスはこの時、逃げませんでした。「彼らの真ん中を通り抜けて、行ってしまわれた。」と聖書は記しますが、なんとも不思議な光景しか言いようがありません→会堂にいた人たちのひどい怒りよりも、主イエスの威厳というか、力というか権威がまさっているということではないかと思われます。

さらにこのことは、主イエスの十字架が、人々からの敗北ではなくて、主イエスが自らその道を、力をもって選び取り、歩まれたということを示していることにもつながってゆくのではないかと思います。

人の姿をとられた神のことばは、人間の力によって、滅ぼされたり、無視されてしまうことなど、あり得ないのです。力ある主の御名を心から賛美します。ハレルヤー アーメン 

 


2023.2.18

主 題: 弟子つくりを始めるイエス

聖書箇所:ルカ4章38~5章11節

 

 

1.カペナウムで宣教するイエス(4・38~43)

38 イエスは立ち上がって会堂を出て、シモンの家に入られた。すると、シモンのしゅうとめが、ひどい熱で苦しんでいた。人々は彼女のためにイエスにお願いした。

39 イエスがその枕もとに来て、熱をしかりつけられると、熱がひき、彼女はすぐに立ち上がって彼らをもてなし始めた。

 

それに続くところがこの38~39節であります:

・イエスは立ち上がって会堂を出て、シモンの家に入られた、と始まります

・シモンのしゅうとめが、ひどい熱で苦しんでいるのを知って、人々は彼女のためにイエスにお願いしました

・イエスがその枕もとに来て、熱をしかりつけられると、熱がひき、彼女はすぐに立ち上がって彼らをもてなし始めた、と

 

そのうわさは、たちまち広まって行きました。またそれを知った人々は、それならば私も とすぐに病める人を連れてイエスのもとに走り寄ってきましたし、悪霊に苦しむ多くの人も、その悪霊追放を願ってイエスのもとに連れてきました。

 42 朝になって、イエスは寂しい所に出て行かれた。群衆は、イエスを捜し回って、みもとに来ると、イエスが自分たちから離れて行かないよう引き止めておこうとした.

イエスは一日の働きを終えられるとカペナウムの丘の中腹の祈るところで、日々祈っておられました。どんなことを祈っていたのでしょうか。というより、いつでも一日のことが終わると父なる神に祈り、神のみ心を求めて祈っていたのです。

 ところが、群衆はイエスを探しまわって、見つけると、自分たちから離れて行かないようにと引き留めておこうとしました…

→わかりますよね、貧しい田舎町です。誰も助けてくれる人などない田舎町ですよー

→このときのイエスは、次のように語られました:

43 しかしイエスは、彼らにこう言われた。「ほかの町々にも、どうしても神の国の福音を宣べ伝えなければなりません。わたしは、そのために遣わされたのですから。」

イエスさまは→ここで病める者を癒し悪霊を追放します、が次の日も次の日もそれだけに忙殺されてゆきます。そんな中で、父なる神からの使命を全うすることはどうすればできるのかを、尋ね求めて祈っていた、と思うのですネー

 そして、ここで父なる神への祈りの中から、弟子をつくり、その弟子たちを整えることによって、弟子たちを通して「神の国の福音を宣べ伝えること」を示されていったのであろうと思います。

実はこれは、現代の教会の宣教はどのようにすればよいのかとの疑問への解決方法でもあると思います→弟子つくりこそが宣

教の有力な方法であると思っています。 

.漁師を弟子にするイエス(5・1~11)

1 群集がイエスに押し迫るようにして神のことばを聞いたとき、イエスはゲネサレ湖の岸辺に立っておられたが、

2 岸べに小舟が二そうあるのをご覧になった。漁師たちは、その舟から降りて網を洗っていた。

3 イエスは、そのうちの一つの、シモンの持ち舟に乗り、陸から少し漕ぎ出すように頼まれた。そしてイエスはすわって、舟から群集を教えられた。

ある日、次の日でしょうか、イエスはある思いもってゲネサレ湖(ガリラヤ湖)に出かけます。主イエスが一人で居るのを見つけると、主イエスの言葉を聞こうと人々が集まってきます。

この時、主イエスはその日の漁を終えて帰ってきて網を洗っていたシモンを見つけると、その船に乗り少し岸から離れるように→シモンに頼みます。

突然の主イエスの申し出ですが、シモンは断りませんでした。シモンはすでに、カぺナウムの会堂で主イエスの説教を聞いており、悪霊を追い出すのを、また大勢の病人達がいやされるのを見ております。その上自分の家でしゅうとめの熱がいやされるところも観ております。そんな訳で自分のしうとめを癒して頂いたという恩義も感じていたかもしれませんネー

そして、主イエスは小舟の上から岸にいる人々に話をされました。そこで、主イエスはシモンの舟に乗り、自分の話を聞きに来た人々全部に聞こえるように、お語りになったのでしょう。

この時の話が、どのくらい続いたのかは判りません。しかし、その間中、シモンは主イエスが話される同じ舟の上で、主イエスの言葉に耳を傾け、主イエスの語る姿を見ていたのです。

ここが、シモンの舟に乗って話したところを記念する写真です。

4. 話が終わると、シモンに、

「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい」と言われた。
5
するとシモンが答えて言った。

「先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。 でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。」

説教が終わり、イエスの口から出た言葉は、まったく意外なものでした。「深みに漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい。」と言われたのです:

 ・この日、シモンは夜通し漁をしたのですが、何もとれなかった。

 シモンはプロです。その私が夜通し漁をしたけれども、何もとれなかった。それなのに、こんなに日が高くなって漁をして  

 も、魚がとれるはずがない。それがプロの漁師としてのシモンの思いであったであろうと思います…それがシモンの言葉の

 中に表れています→5節「先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。」これは、主イエスの言葉に

 対してのプロの漁師としてのシモンの批判の意味が込められていると思います

 ・ところが、この時シモンは、主イエスが言われた通りに、ただ「お言葉ですから、網を降ろしてみましょう。」と言って、

 網を降ろしたのです

結果は、網が破れそうになる程の大漁でした。ペトロは驚きました。驚いたというよりも、畏れたと言った方が良いと思いますネ:

・今まで何度か聞いた主イエスの説教、

・そして悪霊を追い出し、病人をいやされた主イエスのみ業、

・そして今、目の前に起きている船が沈みそうになる程の→あり得ない大漁…

7 そこで別の舟にいた仲間の者たちに合図をして、助けに来てくれるように頼んだ。彼らがやって来て、そして魚を両方の舟いっぱいに上げたところ、ニそうとも沈みそうになった。

8 これを見たシモン・ペテロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから」と言った。

 

シモンの頭の中には、“この方はただの人ではない。権威ある聖なる方”…そんな思いがわき上がってきたに違いありません。そして、シモンは、主イエスの足もとにひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです。」そう言うのです→これは、シモン・ペトロの“悔い改めの言葉”と言えるでしょう

シモン・ペトロは「主イエスのことばと出来事(業)よって、主イエスが聖なる方であることを思い知ったのです。そしてその時、口に出たのがこの言葉でした。悔い改めとはこの聖なる方との出会いの中で起きてしまいます

これは、今も同じでしょう。私たちはみことばだけでは、なかなか聖なる方(神)との出会いという所にまで至りません。しかし、みことばが出来事となる時、みことばの真実を思い知らされ、聖なる方のとの出会いとなり、自らの罪を悔い改めが起きるのです:

・それが、洗礼を受けるきっかけとなる人もいるでしょうし

・洗礼後の信仰の歩みの中で大切な節目となることもあるでしょう 

いずれにせよ、神は生きて働かれる全能の神でありますから、実際に私たちの人生の中に出来事を起こすというあり方で、私たちと出会っていかれるのでます。みことばと出来事の結合です。どちらか一方ではないのです。

 

 この時、シモンは聖なる神の前にいる自分を見ました。そして、自らの罪を示されます。この時、シモンは何の自信も誇りもありません。「ああ、もうダメだ。」そんな思いでなかったかと思います。

しかし、そのようなシモンに→主イエスは

10「こわがらなくてよい。これから後、あなたは人間をとるようになるのです。」

という“召命”を与えるのです。

この主イエスの召命によって、シモンは全く新しい人生を歩む者となりました。生まれ変わったのであります。シモンはこの主イエスの言葉によって、主イエスの召命によって、全てを捨てて、主イエスに従う者となったのです。
10
シモンの仲間であったゼベダイの子ヤコブやヨハネも同じであった。イエスはシモンにこう言われた。「こわがらなくてよ 

い。これから後、あなたは人間をとるようになるのです。」
11 彼らは、舟を陸に着けると、何もかも捨てて、イエスに従った 
 

皆さん、シモンの屋敷跡は今でも観光バスから見ることができます。現代でも見えるところはその屋敷跡の石積みだけですが→かなり大きな屋敷跡です。ここから考えると、おそらく漁師仲間の網元ではなかったかとおもわれます。

このヤコブやヨハネは棟梁シモンの家とつながる→仲間であったと思われ、いつもシモンと行動を共にしていたことが想定されます。その故に、シモンが経験していたことはすべてにヤコブ、ヨハネも経験し通じていたことと思われます。このようにしてシモンに習って、悔い改め、そして「こわがらなくてよい。これから後、あなたは人間をとるようになるのです。」

の召命を受けました。すると、

11 彼らは、舟を陸に着けると、何もかも捨てて、イエスに従った→ここに主イエスの3人の弟子が誕生したのです。主イエス

の弟子つくりのはじまりです。しかし、3人の弟子だけではなく、さらに弟子を求めて、各所を巡る旅が続けられてゆきま

今日のところはここまでとします。主の御名を賛美します、アーメン

 

 


 2023.2.25

主 題: 中風の人と四人の仲間 

聖書箇所:ルカ5章17~26節

 

1.  中風の人と運び込んだ四人の仲間

「中風」という聞きなれない言葉が出てまいりました。これは、「身体の一部分が麻痺」の病気ことで、たとえば脳卒中の場合の半身麻痺のことです。新約聖書では“長期間床についたままの病人”として記されています。

 さて、主イエスは会堂で教えるかたわら、病める人を癒し、悪霊を追放していました。ですから、病の中にあった人々は、特に不治といわれる病の中で苦しんでいた人々は→機会があれば、どうにかしてイエス様に会い、この病を癒していただこうと…いつもイエスを捜し尋ね求めていました。そこに一つの事件…いや一つの奇跡が起きました。このことはとても重大な出来事でしたので、マタイ、マルコのすべての共観福音書に書かれています。

ここにでてくる中風の男もそのような一人でありました。心からその病を癒していただきたい、とそのような強い願い、願望がありました。そして、このことを知っていた四人の仲間は、この中風の男を床に載せて運んできて、家の中に入れてイエスの前に置こうとしていた、とこのルカによる福音書では詳しく書かれています。

思うに、家族の方でしょうか、親類縁者の方でしょうか、いや近所の方でしょうか。また、その方たちは;

・今イエスの居られるカぺナウムの人たちなのか

・または、ガリラヤやユダヤの村からか

・または、はるか遠く離れたエルサレムなどからきたのでしょうか

この人たちはイエスの力を信じイエス様に会いさえすれば、癒していただけると信じている人たちです。

しかし、19節には「大ぜい人がいて、どうにも病人を運び込む方法が見つからないので…」、と書かれています。その群集に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができません…

ところが、次にとったこの四人の行動が驚くものだったのです。19節を見てください「屋根をはがして、穴をあけ、中風の人を寝かせたまま床をつり降ろした」というのです。

当時のパレスチナの家は、ただ一つの部屋しかないのが普通であり、その上にある屋根は、材木の梁と、木の枝を編んだものと、粘土の覆いから成っていました。ですから雨季に入る前に毎年秋になると、修理しなければならないものです。一つの階段が家の外を通って上に通じていることが多かったと書物にはでています、そのような家の構造では…と思います。

ここで、「彼らのとった行動はどんなものだったのでしょうか。」→何と彼らは屋根の上にのぼり、屋根をはがして、その人を主イエスの前につり降ろすという行動に出たのです。非常識と言えばそうかもしれません。しかし、この発想の自由・大胆さには実に目をみはるものがあります:

・私たちならどうでしょうか。せっかくここまで運んで来たのに、主イエ スのもとまでは、とても行けそうもない。そこで

 あきらめてしまうのではないでしょうか

・或いは、人が居なくなるまで外で待つという選択をするかもしれません

しかし、この時彼らはあきらめなかった。そして、屋根の上からつり降ろすということを思いついたのです。思いつくだけなら私たちにもあるかもしれません。しかし、彼らはそれを実行したのです。

どうして、この人達はここまでしたのでしょうか?

それは、・何としてもこの中風の人に元気になってもらいたい

・イエスさまならそれができると思ったからでしょうネー

この人達が、中風の人とどういう関係であったのかは判りません。家族であったのか、友人であったのか。いずれにしても、何としても、この中風の人に元気になってもらいたいという思いで一杯だったことは確かです。そして、何としても主イエスに会わせたい。主イエスに合わせさえすれば、主イエスならきっと癒して下さるに違いない。そんな主イエスに賭ける思いがあったのでしょう。

家の中には押し合うばかりに人が一杯いるのに、その家の屋根をはがし、穴をあけ、そこから床ごと吊りおろすことを発想すること…は、常識的には考えにくいことですね、皆さん。その常識では考えることができない行動が、起きてしまったのです→何とかしてイエス様に会うのだ…という熱意・願望が良く表れています、ね。

いずれにしろ、この5人の主イエスを信じる信仰が並外れていて、なんとしてもイエスに会い、また会わせ、癒していただきたい…という願いの一途さは、この聖書を読む私たちにも伝わってきます、ネー

2.「友よ、あなたの罪は赦されました」

中風の男は、そして仲間の四人はイエス様に会うことが出来たら癒していただける、と必死で願ったのです。イエス様もその様子を見て驚いたことでしょう。しかし、

20節を見ますと「彼らの信仰を見て」と書かれています;

・イエス様は彼らの行動や姿、その求めをジーッと見ておられたのです

・屋根を外してさえも、イエスを求めるその心、渇望のさまを

やがて、中風の者に向かってイエス様の口から出た言葉は;

・20節の「友よ。あなたの罪は赦されました。」でした

 ・私たちの苦しむ→その基は罪のゆえだ…を看破されたおことばです 

一方、その言葉のゆえに、そこにいた律法学者は驚いてしまいました→「この男、すなわちイエスは神を冒涜している」と思ったのです

律法学者:

モーセの十戒、預言者や祭司などを通して与えられた指示や教え、神の言葉が律法です。その律法を筆写し、注釈した人々を律法学者といいました。この人たちは、書き記された聖書、律法には大変よく勉強し、字句の1字1語まで知っていました。 が、目の前に現れたイエスをその律法に記された救い主であると認めることができませんでした。

この律法学者たちは、イエスは待ち望んでいた救い主、すなわち王なる神であるとは認めませんでしたので、「神でもない者が罪を赦すとは…」と考えたのでした。

さて、イエス様が「あなたの病は癒されました」と言わずに、「あなたの罪は赦されました」と言われました→そこには二つの意味があると思われます;

①どちらが易しいか

普通なら、口先だけの「罪が赦された」というほうが易しいと思われるかもしれません。反対の「あなたの病が癒された」と言うことは、内容が具体的で、病が治って、病人が立ち上がらなければなりませんから。

→しかし、よく考えるなら、「罪を赦す」ことのほうがはるかに難しいことです。人には誰もできる者ではありません。 

②人々は、からだの病気ばかり癒してもらいたいと思って、心の内に深い罪を持っていることを忘れています

 ここでは、この病気になったのは、彼の不摂生とか、その病気になる原因としての罪があったから、「あなたの罪は赦された」と言われたのではなく、

 24人の子が地上で罪を赦す権威をもっていることを、あなたがたに悟らせるために。」であります

イエスはその罪の赦しの権威を持っていることを示すために、病の癒しを行なわれた、と言われました。

 

私達の中には次のような二つの誤った考えがあるのではないでしょうか。

よく考えて見ましょう;

⒜ご利益宗教の考え方

「罪の赦し」なぞどうでもよく、ただ「病の癒し」の方を追い求め、それがあるとびっくりしイエスを信じます、しかし他の神様を拝んだりする 

「病の癒し」と「罪の赦し」を完全に二つ別々に分けてしまい、

・「病の癒し」は、ひたすら病院に、医者に、医学に頼み

・「罪の赦し」はイエス・キリストにお願する→という考えです 

主イエスはこの二つを分けないで、ご自身が罪の赦しの権威をもっていることの証拠に、「病の癒し」を行ないました。この二つがイエス・キリストにおいては、しっかりと結びついています。

心の解放なしに、からだの癒しを行うだけで良いのでしょうか。「医術」になったり、「医学」という学問になったりで、そこに生きた人間のいることを忘れているのは、現代医学のある種の欠陥と言えないでしょうか…

→イエス・キリストがここで、「罪の赦し」の権威を示すために、癒しを行ったことは、そのような深い意味があったのでした。

この事についての証;

  (台東キリスト教病院の手術台のこと)

 

3.救いの順序と救われた者の働き

床の上に寝かされ、一言も話していないあの中風の男に、「子よ、あなたの罪は赦されました。」と言われたイエスの言葉に、わたし達は一瞬首を傾げてしまいがちです。私たちも「罪人の救い、罪から救われること」についてのとまどい・思い違い→がないでしょうか?

罪人が、罪から救われるためには、

・罪のことがよく分かって、

・その罪の深さに泣いて悔い改め

・イエス様を救い主と信じますと告白した時に、はじめて、

→主なるイエスが「あなたの罪は赦される」と告げてくださる。そして癒され、立ち直る…と考えてしまいがちです…

→そうではないとここで語っておられるのです。

ここのところでは、

・主イエスが私たちに会ってくださるところで、

・主イエスが語る罪の赦しのみ言葉を聴きながら、

・自分の罪深さに気がつくのです…ネ

 そこで、心からの悔い改めができるのです。

 

主イエスはお会いするところで、先ず主の御業を信じ求めているあなたに対し:

・「お前は罪人、そのことをよく考えなさい」と言われるのではなく

・「あなたの罪は赦される」と宣言してくださる

→そこでわたし達はその直後から赦しの中に生きるのです

・それゆえに、それに続く主の言葉に従って、立つことができるのです

・そして、その主イエスの力の中でこそ、はじめて罪から自由になって立ち上がることができるのです

 

主イエスが「起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい。」と言われた時に、その人は起き上がり、家に帰っていったのです。このように主イエスによる救いの順序は

・主イエスにお会いするところで、罪の赦しの宣言がなされる

・そこで私たちは、自分の罪深さに気がつき、心からの悔い改めを行う

・赦しのみことばの中起き上がる→みことばを生きることができる

→このようであるのです

 

皆さん、じつは、ここに「床に載せ運んでくる仲間」が必要となり、そのような働きが求められます。いやその働きがとても重要であることが示されます、ネー

それは「私たち先に救いの恵みに預かっている者の務めである」とここで言っていると思うのです。

聖書に戻ります。19節「しかし、大ぜい人がいて…」と記されています。それは「どうにも病人を運び込む方法が見つからないので…」の状況…

→それは、救いに導こうとする時、また救いを祈る時に必ず出会う“サタンの業”…と言えるでしょう。

私たちがそのお方をイエス様のところに連れて行くときには、必ず妨げるものがあります、ね;

 ・家の宗教は仏教だから(習慣であるだけなのに)

・キリスト教だと、村八分にされるから、と…友からの白い眼であったり

 ・そんな西洋の神様を信じることなんて…

 ・神様を信じ、天国に行くにはいろいろ道はあるよね…

  …等など、妨げるものがあります、ね。

とそう言うものが絶えず、邪魔をすることが示されますねー

「神は、全ての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。」1テモテ2・4)

と語られています。そのための使者として、私たちは今それぞれのところに遣わされています。

私たちは、この救いの喜び、そばにいていつも見守り愛していてくださる→この神様の恵みは、まことに感謝ですね。自分だけのものとして満足することなく、この愛をお知らせし、この平安をお伝えしたいです、ネ。

この主イエスのたとえのように、床板に載せて、屋根を突き破ってでも、お運びすることに仕えさせてくださる その信仰を、またその熱意と知恵を与えてください…と心からお祈りします。